シュエウーミン瞑想センターで行われているのは、お馴染みのマインドフルネス瞑想だ。

これについてはもう説明不要だろう。「マインドフルネス瞑想」で検索すれば詳しい情報がいくらでも出て来る。それと同じだから何も言う必要はない・・・・
では済まない、やはり何か一言付け加えておくべきか・・・・
やり方についてはそんな事で、もう皆さん御存知のはずだから言う必要は無い。wikipediaの通り、アメリカではジョン・カバット・ジン博士が提唱し、ストレスの低減や心理療法として使われている方法と同じだ。ここシュエウーミンには博士の生徒たちがたくさん来る。そのやり方で修行すればいいだけだ。だが、念のため注意点だけ挙げておきたい。
姿勢について
シュエウーミンではリラックスして座る事を勧めているので、瞑想する時は足を組んで背筋をシャキっとする必要は無い。あぐらをかいても足は組まずに両膝を床に付けて座り、背筋はやや丸まっていても構わない。座具に座らずに椅子に座ってやってもいいし、座椅子みたいな補助具を持って来て、それにもたれて瞑想しても構わない。
大切な事はリラックスして快適に座る事だ。ただし、リラックスと言っても寝てしまうようではいけない。中にはリクライニング用の椅子を持って来て寝てる奴もいるが、それだとちょっとマズい。あくまでも緩め過ぎず締め過ぎずといった加減が大切だ。
座る時間について
1時間座って、1時間歩くのが普通だが、慣れないうちは30分ずつ、座るのと歩くのを交互にやっても構わない。また、慣れても1時間半以上は座らない。長く座ると疲れて後が続かなくなる。
判断・解釈
対象を観察する時は、それに善悪・優劣などの判断を加えたり、自分で勝手に解釈したりせずに、概念抜きのありのままのリアリティーだけを観るようにする。解釈している事に気づいたら、その事を確認する。それもただ確認するだけで、善悪の判断をしてはならない。自分ではしていないつもりでも、貪り・怒り(好き嫌い)の反応が出て来ると言う事は、何やらやっているという事なので、よく気をつけて観ておく。
足が痛い時は
基本的に観察するが、痛くて苛立ったりするようであれば、足を組み替えて構わない。観察の方法については少し説明が必要だ。と、いうのも、足の痛みの観察の仕方は、ミャンマーの瞑想界では、宗教戦争を勃発させるほどの大問題になっているからだ。例えばゴエンカさんの所の本を読むと、「足が痛い時は、感情と感覚との相関関係を観察する」と、ある。
しかし、それがマハーシさんの所の本を読むと、「全ての身体感覚は、生じたり滅したりしている。足の痛みの生滅を観察した時、あなたは無常を悟ったのだ」と、ある。そんな風に、瞑想の流派によって観察の仕方が異なるのだ、喧嘩になってもしかたない。この事については後で詳しく述べるが、ここでは足が痛い時は、ゴエンカさんの所と同じやり方で観察し、こらえ切れなくなったら、足を組み替えるという事だけ言っておく。
鼻先か?お腹か?
呼吸を観察するのは鼻先か?お腹か?と、いうと、それはどちらでも構わない。基本的に心の行き先はコントロールせず、心に行き先を選ばせるようにする。心の行き先を追うようにして、他人事のように観察していく。心が音に行けば、その事を観察する。
その音によって、どのような変化が心身に起こったか?心が雑念の方に行けば、その事を観察する。その雑念によって、どのような変化が心身に起こったか?あるいは、その雑念を誘発した感情は、どのようなものであったか?そんな感じで心の行く先々の事を追うように観察していく、これを「フリーフォーカス」と言う。何も起こっていない時は、心を呼吸のような中性の感覚に置いておくのだが、その場合は、鼻先でもお腹でも好きな方でいい。
雑念
消さない事。放っておけば消えていく。しかし、それを生滅=無常と結び付けて解釈するべきでもない。先程も言ったが、その背後にある感情と雑念との関わりは何か?に気づく。思考に巻き込まれても、勿論構わない。その度に気づいて観察に戻る事が大切だ。その、考えている事に気づける、という事を不思議に思って欲しい。「何で考えている事に気づけるんだ?」と。そして思考に巻き込まれては気づく事を観察して欲しい。これを「気づきに気づく」と言っている。気づきへの気づきこそが、マインドフルネス瞑想の最重要課題であると、覚えておいていただきたい。
ラベリング
これは必要ない。疲れるし、頭痛がしてくるだけで、マインドフルネス瞑想には無用の長物。対象に集中して没頭し、ジャーナ(禅定)を目指すマハーシさんの所とは、目的が全然違うのだから。
ラベリングではなく、感覚をいつもよりしっかり感じる事に注意を持って行くようにしなければならない。今の指先の感覚を、いつもよりしっかり感じてみる。あるいは目の感覚、身体感覚だけでなく、視覚についても自分で意図的に見ているのか?それとも単に見えているだけなのか?そういう事を、しっかり感じるようにする。
何かを味わう時は、いつもよりじっくり味わうように。背中が痒い時も、その痒みをじっくり感じてみる。すると、その感覚を欲しがったり避けたがったり、様々な反応を示している自らの心理状態が見えてくるだろう。気づくだけでは不十分だから、自分のやっている事を確認しながら観察する事が必要だ。その時には言葉を使って確認する事になるが、その作業と「感じている、感じている」とラベリングする事とは別物だ。
日常生活
いつもより敏感になって、自分が今やっている事を確認しながら日々の活動を続けてゆく。一日中、朝目覚めた時から、夜眠りに堕ちるまで、決して気づきを切らしてはならない。いつも気づいていれば、その気づきが勢いづき、自分で意図的に気づこうとしなくても、心が勝手にどんどん気づいているように感じられる。その時には「自分」という感覚が弱まって、凄く気分がいい。そしたらもうマインドフルネスが病みつきになって、何をやっている時でも気づき無しではいられなくなる。
その他の詳細については、ウ・テジャニヤ長老の本に書いてあるので、そちらの方を良く読んで参考にしていただきたい。
また、修行の進歩の階梯、七覚支の道について解説してある、ウ・ジョティカ長老の本「A MAP OF THE JOURNEY」も、元々はシュエウーミンで無料配布されている本だったが、魚川祐司氏によって日本語訳され、「自由への旅」というタイトルで新潮社から出版されているので、併せて読んでいただければ、更なる修行の進歩に一層役立つ事間違い無し。
ただし、ボディスキャンと、メッター・メディティション(慈悲の瞑想)に関しては、瞑想センターでは特に指導していないので、習得したい方はyoutube等を見て、自分でマスターしていただきたい。
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