ウ・テジャニヤ長老の言葉をツイートした中から特に人気のあったことば(評判が良かった名言)をピックアップしてみました。
なにげなく読んでいくうちに「マインドフルネス瞑想を前進させるためのアイデア(智慧)」が体にしみこんでいきます。
煩悩は「煩悩は良くない」という固定観念を持っている。
だから修行者は煩悩に抵抗しては苦しむ事になる。
自然のままの出来事で苦しんでいるのだ。
だが、実際は煩悩も煩悩でないものも、どちらも法則に従って生じてくるだけだ。
それぞれの性質があるにすぎない。
心をシンプルに軽く気づくぐらいにしておけば、修行も簡単になる。
考え過ぎたり、気づこうと肩に力を入れ過ぎたりすると厄介な事になる。
つまりそこには貪欲さや怒り、恐れや不安などが出てきてしまう事になるからだ。
煩悩が強いと修行も困難になるわけだ。
高齢者が忘れっぽいのは、無痴が大変強くなり、現在、過去、未来を混同し、妄想に囚われ、いつでも白昼夢を見ている状態にあるからだ。
若いうちに心を訓練しておかないと、我々も同じ道をたどることになる。
多くの人々は、うつとか困難な状態の時だけ修行する。
だが安心を得る事だけを目的に気づこうとするのは誤っている。
いい状態であろうとなかろうと、常に気づいている必要がある。
それをしっかり理解しておくべきだ。
しかも滅入っている時だけ修行するのはどれだけ大変か。
だが安心を得る事だけを目的に気づこうとするのは誤っている。
いい状態であろうとなかろうと、常に気づいている必要がある。
それをしっかり理解しておくべきだ。
しかも滅入っている時だけ修行するのはどれだけ大変か。
好きであれ嫌いであれ、ただ気づくだけにして、決して体験している事に対する対応の仕方は変えない。
「こうすべき」とか「ああすべき」などと思ってコントロールしようとすると、その体験に抵抗したり、もっと欲しがったりして、煩悩がますます増大してしまう。
煩悩である苛立ちや嫌悪感、憂鬱、悲しみなどは不快に感じられる。
これはこれで自然の法則なのだが、それ故に「煩悩は悪」と判断してしまう。
だから煩悩に抵抗し、心地よい体験を望む。
だが快も不快も法則通りに生じてくると思えば、問題は解決する。
苛立っている時には智慧はなく、煩悩しかない。
だからまず煩悩に気づく事だ。
そして煩悩が治まると当然智慧が生じて問題を解決する。
誰もが問題を抱えているが、解決するにはまず善心が必要なのだ。
だから問題に取り組む前に、何はともあれ、煩悩を観察しなければならないわけだ。
本当に無我を理解したら、よい結果を得るためによい原因を作ろうと必死になる。
何事も条件の組み合わせによって起こっている。
そして善因は善果を、悪因は悪果を生むと知る。
それが正しい無我の理解だ。無我の誤解は様々な問題を生じさせる。
物事を「良い、悪い」とか「優、劣」とか判断したり「これは私」とか「私の」などと所有したりしている限りは正しい態度で瞑想する事は出来ない。
自然のままオープンになって心の中で何が起こっているかを確認する。
そしてその体験から学んだ時に、正しい思考が生じてくる。
人間関係でわからない事があればまずわからない事を認識する。
他人はどうにも出来ないので、まず自分の心を観る。
そして感情や思考、感受に気づく。
心が苦しんでいる時に最初にしなければならない事は、その状態に気づく事。それは自分の責任になる。
「嫌悪感」は原因で「痛み」は結果。
嫌悪感を観察してそれがなくなると「嫌悪感がない」という原因になり「痛み」がないという結果が生じる。
もっと嫌悪感と痛みとの相関関係に目を向けてみる。
いずれ死の床で痛みに直面する時のために。
瞑想中の痛みは問題ではなく、それに嫌悪感を抱く事の方が問題だ。
痛みを悪いものと思い、不快に感じて姿勢を変えようとするが、その前に出来るだけ痛みに直面し、学んだ方がいい。
「痛み」という名称自体が嫌悪感から名付けられたものだ。
今の時代、多くの人々がスマホを持っているが、それに夢中になって何もかも忘れてしまうのは問題だ。
だが、この場合、普通の気づきでは太刀打ち出来なくなるほど貪欲さが強くなる。だからまず、スマホの事を考えたら呼吸を観察する。
そしてスマホを触ろうとしたらまた呼吸を観る。
慈悲は善心であり、善心は落ち着いている。
それは他人の幸福を願うものであり、怒りと対極にある。
慈悲は自分の心に善心を生み出し、自らのためにもなるが、怒りは他人を破壊しようとする不善心で、自らをも損なう。
気づきがあると、智慧は余分な時間を利用する。
気づきは時間を長く感じさせる。気づきがあると全ての時間は、観察と学びのための時間になる。
しかし、煩悩はそれに退屈だと不満を言う。だから決して煩悩にだまされてはならない。
心の探求は、思考や快・不快の感受を必要としないので、高齢になって記憶力が衰えたとしても、洞察や智慧には影響がない。
だから衰える前に、現実をありのままに観る事によって智慧を育てておけば、いずれ記憶力や思考力を失っても、妄想に圧倒されてしまう事はない。
気づきを維持するためには、対象となるものに気づいているだけでなく、自らに「気づいているか?」と自問自答しながらやる。
自問自答すれば必ず気づきがやって来る。心を観るにも身体を観るにも、気づきと自問自答の両方を使う。
自由とは欲に目が眩んでつぎ込みまくったり、欲望のおもむくまま貪ったり、怒りや嫌な気分で不機嫌にし放題に生きる事ではない。
智慧があって、その時その場ですべき事とすべきではない事とをしっかり決定出来る事を言う。
それが出来た時に本当の自由さを感じる事が出来る。
「見えている」事と「見ている」事との違いを知り、見ている事を認識する事は生活の中に気づきをもたらす事に役立つ。
見ている事に気づくのに労力は必要ない。
「これは私の体験ではなくて自然の中で起こっている一つの出来事」と思えば智慧がいつでも気づきと共に働く。
「もっと欲しい」「楽になりたい」といった貪の思いと「嫌だ」「避けたい」「なくしてしまいたい」という瞋の思いとは、同じ強さを持つ。
だが、修行を積む事と、それがもたらす技量ともまた一致するのだ。
だから結果を心配せずに、ただ修行を積む事に専心していい。
心はより明白な、より刺激的な対象を求めている。
心は興奮を好む習性があるのだ。
対象に意味がなければ感覚も生じない。
心はただ刺激を求めているだけだが、その刺激は対象の方ではなく、意味づけによる認識の方から来ているのだから。
気づいているかどうか?を確認する手っ取り早い方法は「気づいているか?」と自問自答すること。
もし「気づいているよ」と返答が鳴り響けば、気づきはしっかりとそこにある。
この方法は速やかに気づきに戻るのに役立つ。
目標の高い人は修行を熱心にやる。だがその人は、好ましくない雑念や心理状態に遭うと、不満だったり落胆したりしてしまう。
それは望みが高すぎるからだ。
そんな時はいい体験を期待するのではなく、対象の事を裁かずに、ありのままに気づく事を目標に据える。
それが正しい目標だ。
それは望みが高すぎるからだ。
そんな時はいい体験を期待するのではなく、対象の事を裁かずに、ありのままに気づく事を目標に据える。
それが正しい目標だ。
心理現象と物理現象とを分けて観るとはどういう事か?
例えば空腹時は何か食べたい。
だが、その空腹、食欲はどこにあるか?
明白なのは空腹は身体で、食べようとする意志は心だ。
食べる時はそうやって、何が身体で何が心かを、必ず確認するようにする。
気づいていなければ、既に何らかの衝動に囚われている。
快楽を追い求める心や怒り、嫌悪感、憂鬱さなどから来る思いに無批判で従い、後で後悔するしかない。
だが気づきさえあればそれを止める事が出来る。
気づきと智慧さえあればそこで自由を感じる事が出来る。
うつとは何事にも興味が持てなくなること。
世の中の幻想から醒めることは、うつとは似て非なる。
もし修行に興味がなくなり善心が減ったのなら問題があるが、世の中に興味がなくなり、修行への意欲と信が増加したのであれば、それはうつではなくて善心だ。
ある人は、一日の終わりにバテてしまうと言った。
それで私は彼にエネルギーの消費量を観るように言った。
それを観ればエネルギー配分に気をつけるようになるからだ。
それには緊張しているのか、リラックスしているのか、何度も確認する。リラックスで浪費を防げるのだ。
煩悩を一時的に取り除く方法はたくさんあるが、いずれは戻ってきてしまう。
それより煩悩の性質を理解しておけば、煩悩に惑わされ難くなる。
正しい理解があれば、煩悩に圧倒されなくなるのだ。
貪欲さや怒り・嫌悪感で物事をどう歪曲して見ているか?それを探求する事から始まる。
気づきとは単に自身が今体験している事を知る事だ。
体験とは六つの感覚器官、見る事、嗅ぐ事、味わう事、聞く事、感じる事、考える事、そして知る事を通してもたらされる。
体験とはそれらのいずれかになるわけだ。それが直接の体験という事になる。
色々な方法があっても、重要なのは気づく事であり、判断や解釈をせずに対象をありのままに知る事だ。
マインドフルに過ごすために使うのが一点集中や慈悲の瞑想であり、それぞれの修行がふさわしいのはどのような状態の時か、自分で見つける事だ。
気づきとは単にその瞬間に起こっている事を認識する事。
それさえわかっていれば、心は良かれ悪かれ体験している事に冷静に気づく事が出来る。
認識とは「これがそうです」と言うのと同じ事。
好きな事も嫌いな事も、何があってもただ「これがそういう事だ」と思っていればいい。
気づきへの興味は修行に役立つ。
気づきがある時は精神エネルギーを節約し、心の疲労を防いでいる。
例えば長時間の運転中に空想に耽ったり、どこかで口論に巻き込まれたり、悲しみや後悔にかられたりしている時はどれだけ疲れるか。
若いうちはいいが高齢になるほど消耗も激しくなる
他人との議論やら交通渋滞やら、外部の問題がある時は、まず最初に自分の反応を確認し、内部で起こっている問題を解決する。
それで落ち着いてから外部の問題を処理する。
問題は安定した明確な心で解決するに限る。
煩悩をあたかも怪物のように思わせているものは妄想だ。
ただ生滅しているだけの思考や感情に力を与えて増大させてしまうものは、心を永遠に継続するもののように捉えている妄想なのだ。
本当の怪物はこの妄想だ。
だが、心が無常・苦・無我を理解した時、怪物は力を失う。
私たちの目標は知る事にある。
もし体験している事が平和的でなかったり、苦しみだったりしても、何の問題もない。
私たちはただそれを知ればいい。
知る事と理解する事こそが尊いのだ。
心が何かを理解したら、その理解は生涯に渡って用いる事が出来る。
修行者
瞑想を改善したいのですが、どうすればいいのでしょう?
長老
それはただ一つ、気づきをより継続的に、途切れさせないようにすれば、必ず瞑想は改善される。
修行者
昨日は修行のため一日中携帯を切っていたので、仕事で何が起こったかわからず、心配になりました。瞑想していてもどんどん不安がつのるばかりでした。
長老
情報を得られないと不安になるのは心のトリックだ。心は知らない事は大げさにしてしまう。だから不安が悪化した。
修行者
瞑想中に身体が消えてしまったように感じた事があります。
長老
心が安定してくると、奇妙な体験をする事もあるが、それは自然な事。それは身体が消えたのではなく、自分について考えられなくなっただけだ。消えたのは身体ではなく、セルフイメージの方。
修行者
気づきと共にあると「私がやっている」「私が知っている」という思いもなくなります。
長老
その通り。気づきの効果を学び、その恩恵に感謝すると、全ての瞬間に気づきが智慧をもたらすようになる。
修行者
修行を後退させるものは、価値判断などの誤った態度である事がわかりました。
長老
判断する事を直ぐ止める事は出来ないが、判断しようとする度その事に気づいておけば、心は判断しなくなる。身につくのに時間がかかるが習慣づける。
修行者
長老は「ただ知る」事を強調されますが、それだと何も面白くありません。
長老
あなたは気づきを継続させて心を成熟させる必要がある。気づく度に智慧がついてくる。あなたには智慧が必要だ。知るという事は何もないという事ではない。
修行者
気づきがある時は、ドアを閉めるのでも何でもそっとやります。
長老
気づきがある時は、力の入れ加減をわかっている。智慧が力を入れ過ぎたり、抜き過ぎたりしないようにしているのだ。智慧は話す時も、喋り過ぎたり、足りな過ぎたりしないよう、加減している。
修行者
気づいているのが億劫に思えるのですが?
長老
確かに何も気づかずに生きている方が簡単だ。最初、気づきの力が弱いうちはそう思える。しかし、気づきが勢いづくと、修行者は心が混乱しておらず、自由である事がわかる。そうなったらもう、そんな事は思わなくなる。
修行者
私は自由が好きで、やりたい事を何でも好きなようにやりたいと思っているのですが?
長老
やりたい事をやりたいようにというのは渇望だ。それは自由ではなく、貪欲さに操られた不自由な状態だ。自由とは煩悩に操られる事のない状態を言う。
修行者
日常生活では、期待している事について直ぐに気づけるのですが、落胆したり苛立ったり、煩悩が微妙になると観察出来なくなります。
長老
観察出来ない場合はそのまま置いておいて構わない。気づきを継続する事で、鋭く探知出来るようになるのを待つ必要がある。
修行者
瞑想ホールで坐っても、外で坐っても、どこでやっても上手くいきません。
長老
物事をそんなに「良い、悪い」と判断しない。また「私が」とか「私の瞑想」などと思ってしまう事にも注意。それさえ出来れば、どこでどんな姿勢でやっても大丈夫。
修行者
心の安定を維持するのに、少しの労力しか要らない事がわかりました。
長老
その時は注意が必要。労力が減って心が安らぐと、その状態をもっと欲しがるようになるからだ。
安定している時は、とにかく気づきと気づきの質を観る。