2種類ある仏教の瞑想
仏教と一言で言っても人によって意味するものが違っている。まず、東南アジアで盛んな小乗仏教とか南方仏教などと呼ばれるテーラワーダ仏教と、中国や韓国やベトナム、日本などに伝わった大乗仏教と、チベットで盛んな、あのチベット密教と、これら全てをひっくるめて「仏教」と呼ぶ人がいる。一方で大乗経典はブッダの説いたものではないからと、ブッダ直説と言われるものばかりを集めたパーリ経典を用いるテーラワーダ仏教のみを「仏教」と呼び、あとは「大乗」と言って区別する人がいる。
更にスリランカには、パーリ経典成立以前のマガダ語によるブッダの教えが説かれた石版が残っているそうだが、そのマガダ語の教えのみを「仏教」とし、パーリ経典はブッダ没後千年してからインドのバラモン達によってヒンドゥー教風に書き直されたものとして、認めない人がいる。
そうなると素人にはどれが本当なのかサッパリ判らない。だから問題もあるかもしれないが、ここでは取り敢えず日本人の考え方に合わせて、テーラワーダも大乗もチベットも全部ひっくるめたものを「仏教」として話を進めていくので、何卒ご了承願いたい。
瞑想にも色んな種類の瞑想がある。リラックスを目的としたものから、集中力の強化を目的としたもの、チャクラを開発して様々な能力を目覚めさせる事を目的としたもの等々、数え上げればキリがない。
そんな中で仏教の瞑想と言うものがある。これにはヴィパッサナー瞑想のみならず、禅や念仏、マントラを唱えたり曼陀羅を観想したりといったものまで全てが含まれる。そしてこれらは様々な方法に分かれてはいるが、目指しているものは実は皆一緒なのだ。仏教で修行する事は方法は違えど全ての目的とするものは一緒と思っていて構わない。では、その目的とするものとは一体何か?と言えば「対象との一体化」なのである。この「対象との一体化」こそが、仏教の修行の最重要ポイントと言ってもいいだろう。
勿論ご存知の通り「仏教が目指すものは解脱・悟りだ」という事になるのだが、それは最終的な目的であって「そのためのもまずこれを達成しておかなければならない」という意味なので、何卒誤解のないようにしていただきたい。
ではその対象との一体化とはどういう事なのだろう?簡単に言うと「心身の主」のいない状態になる事を言う。今この文章を読んでいるわけだが、そこには「文章と読む者」と2つある。外から何やら人の話し声が聞こえてくれば、そこには「音と聞く者」と2つある。指を動かせば「指と動かす者」と2つある。このように人が何かやる時には必ずそこに見る者、聞く者、動かす者といった主体のようなものを感じながらやっている事になる。
私の知人のイタリア人で、往年のアニメ「マジンガーZ」の大ファンの男がいるのだが、半世紀も前の日本のアニメをよく知ってるものだと驚かされずにはいられない。若い人には判らないかもしれないが、その昔、主人公が巨大なロボットを操縦して、悪い奴らをやっつけるというアニメがあったのだ。
つまり人は皆、自分の事をそのマジンガーZのように思っていて、自分の中に操縦士の兜甲児のような主体があると思っているというわけだ。そのため自己同一性を失っておかしな事になっている。
この状態を主客転倒とか転倒夢想などと言ったりもする。そんな事だから人間というものは元気で健康で生きながらも心のどこかで「何か違う」「自分が自分ではない」「こんな事でいいのか?」「何かすべき事があるんじゃないのか?」などと思っていたりする。しかしそれが何なのか判らないまま生きている。本当はすべき事があるのだが、何をしたらいいのかサッパリ判らない。人によっては焦っている。すべき事が見つからなくて焦って何をする余裕もないのだ。
そんな事になっているため、人は皆勘違いして物事を何でも自分の思った通りにしたいと思うようになってしまっている。他人の事も自分の都合のいいように仕立て上げたいと思っている。だからいつでも人と人とはその部分がぶつかり合わずにはいられない。その「自分」というものがあると思っているから「自分のもの」が出来てしまい、「他人」のものと比べて優劣を競ったり、奪い合ったり、中々頭の中は大変な事になっている。
また「自分」なるものを人から傷つけられないように、いつも周囲からどう思われているかアレコレ妄想してみたり、あるいは実際に傷つけられて、ありもしないものの事をゴチャゴチャと妄想して心を病んでしまったりしている。これらは皆、何かを見たり、聞いたり、考えたり、動いたりした時に操縦者、主体のようなものを感じてしまう事が原因で起こって来る事だ。実際にはその主体のようなものはどこにも存在しないにもかかわらず。
だから人は皆、おかしな錯覚から抜け出すためにも「対象との一体化」なる体験をし、その勘違いに気づかなければならないのだ。だからこそ人類は二千年も三千年も前から苦しみを取り除くためにこの「対象との一体化」を目指してきたのであり、今でも東南アジアの仏教圏では人々が必死で目指している貴重な体験だ。そしてその体験によって「智慧」というものを獲得し、その智慧を磨いて今度は心の本性に達し、宇宙の法則を体現して至高の境地に至ろうと日々精進している人々こそが、瞑想修行者というものなのだ。
と、言う事でこの「対象との一体化」だが、これを達成するためには2つの方法がある。次にその事について見てみよう。
【初転法輪経】
自己についてどのような心配も無益なものだ。自我は幻のようであり、自我を苦しめるどのような苦難も過ぎ去っていく。眠れる人が目覚めれば消える悪夢のように、それらは消えるものなのだ。目覚めた人は恐れから解放されている。その人はブッダとなったのだ。ブッダは心配事の空しさ、野望の空しさ、そして痛みの空しさも知っている。よくあることだが、沐浴をしている時、濡れたロープを踏んで蛇だと思うことがある。彼は恐怖に圧倒され毒蛇に噛まれるあらゆる苦悩を予想して恐れおののく。ロープが蛇でないことを知ったとき、彼はどれだけ安堵するであろう。彼が驚愕する原因は、彼の誤り、無知、錯覚にある。ロープの本質が認知されれば、心の静けさは回復される。彼は安堵して幸せになる。
自己はないということ、あらゆる問題や気がかりや虚栄心の原因は幻であり、影であり、夢なのだということを知った人の心の状態とはそのようなものなのである。
(井上ウィマラ訳)
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