SUTがいつもしつこく言うのは「大切なのは体験ではなく、それに気づいている事だ」という事です。
心地よく座れようが、瞑想中苛立ってばかりいようが、そんな事は重要ではなく、それに気づいているかどうか?
食事が美味しくて喜んでいようが、空腹で苛立っていようが、そんな事はどうでもよくて、肝心なのはそれに気づいているかどうか?
何をしていても、とにかくそれに気づいている事こそが大切なのだと言います。
しかし修行者たちはどうしても、気づく事より心地よい体験の方を求めて、気づきを忘れてしまいます。本当に価値のある貴重なものより、手っ取り早い快楽の方に心が向いがちになるわけです。
しかしまた同時に、そのような習性にもしっかりと気づいているならば、それは素晴らしい行いをする事になるとも言います。
修行者
ストレスの多い生活をしているので、仕事の後は家事でも座る瞑想でもよく気づけません
長老
そんな時は、洗濯や料理の時に心を落ち着かせようとしても上手くいかないし、座っていると興奮に直面する。だから何が起こっているか気づくだけにして、感情は抑えないようにする
修行者
瞑想中の思考の扱い方を教えて下さい。
長老
思考に耽っていて、その事に気づいたら、それを確認する。気づいた事を認識するのだ。それが終わったら、また心身に起こっている事に気づき続ける。この思考に耽り、気づき、戻るプロセスを何度も繰り返す。
それに気づいて確認し、また気づきに戻る修行を根気強く繰り返すうちに「私が考えている」という物語から醒め「心が考えている」という事実が見えてくる。
そうなると「心が働いているだけだ」と思うようになり、もう思考に耽る気がなくなる。
現在の理解を超えて理解されるようになるものだ。
考えたらそれに気づき、それによって生じた感情を認識する。思考と感情に繰り返し気づけば心は安定し、ある程度情報が集まれば、智慧はその情報から得られたひとつの法則性をあなたに教える。
私たちは新しい瞬間ごとに新しい気づきを適用していかなければならない。
気づきの勢いが自然に蓄積されると、自ずと結果が生じてくる。
それは因果関係のプロセスだ。
しかし自らに気づきを意図的に強いてしまうと「私がいる」という感覚が強まり、逆に気に触る事が増えてしまう。
修行者
ここの風景はとても美しくて感動しますが、これは私の貪欲さと見るべきですか?
長老
美しいと思うと直ぐ貪欲さになるわけではない。まだ貪欲さと見るのは早い。景色を見て美しいと思った事だけを認識すればいい。貪欲さだと明確にわかった時にだけ、そう認識する。
その後にどのような反応が続いてくるか、その反応を感じてみる。
美しいものはどうしたいか?追いたいか?避けたいか?満足したか?もの足りないか?体験を決めつけるよりも、実際に起こっている事に目を向ける
その気づきはそれまでの意図的な気づきとは異なる性質を持つ。
その自然の気づきをもたらすものは気づきの勢いだ。
意図的に1時間気づいているだけで、一日中気づいていられるようになるのだ。
例えば、誰かに伝えたい事があっても、その場所と時間が伝えるのに有益か有害かを考慮し、話したい欲求を手放したとする。
それだけでも十分爽快になれるのだ。
修行者
私の仕事は不測の事態が多く発生するのでストレスが溜まります。
長老
心が安定していれば解決出来ない問題はなく、理解出来ない事態もない。心を向けるのを事態の方ではなく、自らの心の中の疑い、心配、不安の方にすれば心は安定する。仕事に戻るのはそれをやってからだ。
修行者
外を歩いていて好きなものを見た時は欲が出なかったのに、嫌いなものを見たら直ぐ怒りや嫌悪が出ました。
長老
欲が出なかったのではなく、怒りや嫌悪は荒々しくて認識しやすいが、貪欲さは甘美で認識しにくいだけだ。その場合は緊張感の変化を観れば認識できるようになる
修行者
心身に強烈な痛みを感じた時は、それを観るのに更に強烈なパワーが必要になります。
長老
正しい見方が出来れば何を観る事も厭わなくなる。強烈なパワーのためには困難な感情に対する慈しみを持つ事だ。それによって痛みへの嫌悪感が減り、積極的に観察に近づける。
受け入れをもたらすのは興味でも慈しみでも、どちらでも構わない。
心が受け入れて観察する正しい見方さえ出来ればいい。
気づきは智慧でも慈しみでも、どちらでも安定させる事が出来るのだ。
心が対象を鮮明に見なければならない事はない。
私たちの目的は気づきを発達させる事だ。
その瞬間にその事に気づいているのなら構わない。心が不鮮明でもそれに気づいているのなら十分だ。
指は方向を示すもので、月ではない。同様に、概念によって現実を示す事ができる。
概念は現実を示すもので、現実ではない。
しかし通常私たちは、指や概念の方ばかり見て、現実は見ていない。
概念を見ている事を認めれば心は現実に向かう。
何かの思いや感情に囚われていても、気づけばそれを手放す事になるからだ。
しかもそれは自力で行うのではなく、智慧が行う。
気づきというのは智慧なのだから。
気分を一新するのは大変な事だが、気づくのは直ぐできるわけだ。
今の瞬間に気づいている時は、見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わう、思う事について認識しているだけだが、心が重い時は思考や感情に囚われて気づきに戻れなくなっている。
しかし気づきが弱いまま思考に迷い込んでいる場合は「今は正式な瞑想の時ではないから」と、気づかずにいる事を自らに許してしまっているかもしれない。
そのような時はその態度を顧みる必要がある。
「ブオーン」と音がすればそのブオーンではなく「車」という概念の方に注意を向けてしまっているのだ。
ブオーンの方だけ聞くようにすれば心は軽く自由に感じられる。
修行者
嫌悪感の観察は必要ですか?
長老
身体の痛みや不快感は、心の嫌悪感の観察で和らげる事ができる。嫌悪感を持てば苦痛も増す。その心身の相関関係を学ぶ必要がある。ただし、足が痛かったら立ち上がったりしながら、じっくりと時間をかけて観察する事だ。
痛みの本質を知っておけば、大事な局面でも落ち着いていられる。
嫌悪感の観察に熟練すれば、肉体的・精神的な苦痛を和らげる事ができる。
苦痛を乗り越える方法を学べば、平和な生活を獲得する。
それは気づきも雑念も感情も、瞬間的に生滅するものである事をわかっていないからだ。
心に浮かんでくるものは全て瞬間的に生滅すると心得ておけば、雑念や感情に簡単には巻き込まれない。
感情は感情に固執させようと物語を創る。
それが心の性質であり、自我に固執したい気持ちでもある。
それを取り去ろうとせずに、ただ認識するだけでいい。
それが怒りの性質だ。
同様に悲しい時は、何度もその事を思い出しては悲しみに浸ろうとする。
私たちのする事は感情を抑える事ではなく、その感情の性質を確認する事だ。
幸せな時も同様に、どういう性質があるかを確認する。
修行者
感情をコントロールしないとはどういう意味ですか?
長老
何かに罪悪感を抱いたり、怒りや恐怖や嫉妬心などが出てきても「そうするべきではない」と何とかしようとせず、心で起こっている事をそのまま知る。怒りや恐怖がどのように生じるのか、そのプロセスを観るのだ。
修行者
悲しみや怒りを「私のもの」として受け取らない事は、それらの感情を抑圧しているように思えるのですが?
長老
「私のもの」として受け取らないだけで、怒りや悲しみはあって構わない。あなたが自分で感情を抑圧しているのだ。子供が泣くのを見守るように感情を見守る事だ
しかしそれを抑圧してもいけない。
感情は「私」から切り離して客観的に観察し、心に思考や身体との相関関係を学ばせる。
感情と一体化したり、抑圧したりすると、その機会が失われる。
修行者
心が不満を持っていても、それに対して何もしなくていいのですか?
長老
不満を持ったままでいいというのではなく、なくす必要はないという意味だ。心に不満があればそれに気づくだけでいい。不満の原因を知れば「これは結果だ、苦だ」と理解し、原因を作る事を控える。
もはや今にいない。
するとそれに怒りや貪欲さが続く。
しかし、何かと何かを比較し、判断・解釈する事を止め、ただ、今起こっている事に気づくだけにすれば、心は落ち着く。
修行者
私は考える事を望んでいるので瞑想中に気づきを忘れてのめり込んでしまいます
長老
思考は心の性質なので問題はない。それを悪い事と思うのが問題だ。考えるたびに何度も気づけばのめり込む事はないし、思考によって身体に緊張が生じるので、それをほぐしながらやるといい
修行者
「自分」とは妄想なのですか?
長老
「自分」とは心が抱く思考、盲信だ。智慧がつけば自分はなく、この心身は遺伝的要素や生育環境などの条件づけによってこのような容姿や考え方になっている事を理解する。条件次第でどうにでもなるものだ。自分があると思う事が無痴だ。
しかし私たちは「自分がある・私がいる」という盲信がとても強いので、多くの修行をしなければならない。
ただ修行が修行を行っている。
つまり修行を行うのは自分ではなくなり、認識するのも自分ではなくなる。
ただ五蘊がそれ自体で働いているだけである事を知る。
つまり智慧がないと「私が自然を見ている」と思うが、智慧があれば目の前に自然だけがあって見る者はいなくなる。
気づきの継続は見る者がいない事を知るのに役立つ
修行者
私はいつも緊張しているのですが?
長老
呼吸を忘れると呼吸が浅くなって緊張する。吸う息で緊張が高まり、吐く息でリラックスが起こるので、気づきながら深く呼吸する事だ。緊張を感じてからリラックスするように吐く。これを繰り返す。
だが、それに気づけば少しずつ改善する気になる。
貪欲さや怒りを取り除く事はできなくても、それに振り回されたくはなくなるからだ。
不善心は常に生じるので、それに気づくのは難しくない