【ウ・テジャニヤ長老の名言 第4集】人生が豊かになる珠玉のことば集

2021年7月17日土曜日

名言集

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 マインドフルネス瞑想は継続する事によって効果が数倍にも増してきます。SUT(Sayadow U Tejaniya)は気づきを一日中継続させるために、定期的に「今気づいているか?」と自問自答したり、心身の変化に敏感でいるために、いつも身体の緊張感に気づいている事を勧めています。


肝心なのは一日が始まる最初の10分で、ここで上手く気づき続けられると、1時間継続できるようになり、1時間続けば気づきは勢いに乗り、努力しなくても勢いで気づいていられるようになります。そうなればしめたもので、気づいているのが楽しくて止められなくなり、一日中ずっと気づいている事ができます。


そうなると自分の一挙手一投足が、まるで他人の動きを見ているかのように感じられ、細かい心身の相関関係のプロセスまで手に取るように判るようになり、ついには気づいている事に気づくといった、信じられないような体験までしてしまうかもしれません。


気づいている事に気づけた時には、ミャンマーならば祝福の盛大なセレモニーが待っていますが、日本ではどうでしょう?私に言って頂ければギフトカードぐらいは送ります😆








修行者

どうして瞑想する必要があるのですか?


長老

瞑想していない時はいつでも妄想や貪欲さ、怒りや嫌悪感、不安などが生じている。そして気づけなければそれらの煩悩に対処できない。だから常に気づいて煩悩に備えておく必要がある。





更に気づいている時は、情報収集もしている。また、状況によって心の反応の仕方が違う事もわかる。

例えば一人でいる時と、他人と一緒にいる時とでは反応パターンが異る。

そしてそのようなに気づきを磨く事で、困難な状況に置かれても智慧によって心を守る事ができる。




私が師に「見える」と「見る」との違いを報告した時、師は「多くの人がそれを探求する事を忘れている」と言った。

なぜならほとんどの人が瞑想する時に目を閉じているからだ。私が他の人々と違っていたのはその点だけだ。

もしくは目を開いている時に探求を忘れないようにする事だ。




修行者

心は考えるのが好きなので考え続けさせています。


長老

それなら思考ではなく、好き嫌いの方に気づく必要がある。好きが原因で思考が結果。好き嫌いや貪欲さ、考えようとする意志を観察するといい。自らの意志がなければ考える事がないからだ。





考えようとする意志が強いと思考が増え、意志しなくなると思考もなくなる。

原因と結果を観察する時は、原因である意志に気づく事。

意志は心の重要な機能で常に働いている。

見る、食べる、行く、全て意志によって行われる。そして意志は煩悩に動機づけられている。




目を開けたまま坐り、対象が「見える」状態になっている事を知る。

それから対象に注意を向けると、心は目に行き、何を見ているのか考え始める。

これを試して新しい習慣にする。目を開けて呼吸に気づいていると、心が注意を向けている事に気づく。

すると「見る」事がより自然になる







思考や概念は古いものでも、現実のプロセスは常に新しい。

人生は常に新しく、古いものはない。今知っている事は全て今まで知らなかった事だ。

しかし錯覚で同じ事が何度も起こっていると思っている。

次々に新しい心が生じていても、固定観念で同じ心がずっとあると思っている。




修行者

自分でちゃんと瞑想のやり方をわかっているかどうか確認する方法はありますか?


長老

お金を稼ぐ方法を知っていれば財布には幾らか入っているし、知らなければない。それと同様に、心が軽く、平安で落ち着いていれば知っているし、疲れたり緊張したりしていれば知らない。




何かを体験した時は、それを「私の」と思わないようにする。

自然現象のひとつと思えば探求心が出るが「私の」と思えば良い体験は欲しがり、悪い体験は避けようとしてしまう。

「私の」ものにしなければ観察も簡単になる。だから正見が大切なのだ。




心が沈んでいたり、苛立っていたりすると、何か問題でもあるかのように思いがちだが、これは普通の事であって問題ではない。

「問題だ」と思って気にした時だけ問題になる。また、経験には耐えられる事も耐えられない事もあるが、それも関係ない。観るのは自らの心の方なのだから。




怒りや嫌悪感でいっぱいの時は、無理に痛みを観察する必要はない。

心は既に痛みを知っている。するべき事は気づいているかどうかチェックする事だ。

痛みではなく、痛みに対する反応の方、不快さや、それをを嫌がっている事に気づいているかどうかだ。








また、ある修行者は、今まで体験した事のない平安さや静けさを味わってからというもの、その体験に囚われてしまい、そればかり追いかけるようになってしまった。

だが、貪欲さに気づかないまま、いくらそのような努力を続けても無駄だった。

だから貪欲さは罠だと心得た方がいい。




修行者

感じる事と、感じる事を知る事との違いを観ようとしますが、上手くいきません。


長老

起こっている事をどれだけ知れるかは気づきの強さ次第だ。細部まで知ろうとするのなら、気づきを継続させる事。気づきが強くなれば自ずと細部まで観えてくる。





「私が細部まで観ようとする」という考えがあるうちは細部が観えない。

気づきを継続させ、心がそれ自体で観察した時、物事の原因と結果とが明らかになる。

自力で意図的に観ようとすると、逆に観えなくなるのだ。

気づきを継続させれば心がそれ自体で働くのがわかる。





心が純粋な時は、物事を見る視点が妄想によるものから、智慧によるものに変わる。それが正見だ。

突然見方がありのままに見る見方に変わる。

同じ対象でも全く異なる理解に変わるのだ。

洞察は非常に衝撃的に訪れる。




修行者

坐る瞑想をする時にストレスを感じてしまいます。


長老

そんな時は椅子に腰掛けてもいいし、快適な姿勢をとる事には何の問題もないので、ベッドで横になってもいい。必要なのは気づく事だけ。長い時間坐る必要もない。







他人が自分について何か言う時は勝手な決めつけだと思っても、自分が他人について言う時はそう思わない。

お互いが事実ではない事を言い合っても、お互いにそれに気がつかない。

それはお互いに想像に過ぎない事を事実だと信じているからだ。

人々は心で思う事を信じ過ぎているのだ。




心の言う事を頭ごなしに信じると問題になる。だから心の言う事は信じない方がいい。

思考は単なる思考であって、事実とは異なるのだから。

気づきを維持すれば気づきのエネルギーは蓄積されるが、心が言う否定的な事を信じれば気づきのエネルギーは低下する。




かつては知覚を「私が感じる」と思っていたが、知覚に気づいているうちに「知覚は自然の働きだ」と気づくようになる。

そうなったら見解を正しいものに変更できる。

第二に心理状態や身体の状態に気づいている時は、心は善心になり、心の性質も良好になる。




修行者

2日間瞑想しましたが、退屈して上手くいきませんでした。


長老

退屈さに気づいていれば瞑想になっている。いい瞑想とは、気持ちいい瞑想という意味ではない。しかし我々が興味を持てるのは心が落ち着くような体験ばかりだ。そういう体験をさせてくれる方法を好きになる。




歩く時は常に歩く事に気づく。

そうすればそれが癖になり、日常生活の中で歩くたびに気づきが戻るようになる。

そのように、徐々に他の動作にも気づくようにしていけば、またそれが習慣化していく。

だからまず最初に、歩くたびに気づくようにする。





指導された教えの意味は、体験と共に理解がやってくる。

例えば私は師から「何事も掴んだり抵抗したりするな」と言われた事がある。

それは最初は全く意味がわからなかったが、修行を重ねるうちに、体験を貪ったり嫌ったりするなという意味だと理解した。










心を胸に置けば、心理状態がわかりやすい。

喜びも、悲しみも、怒りも胸の上で起こる。あまりリラックスしていない時は、いつでも胸が緊張して張っている。

しかもこの部分に心を置けば、あまり労力をかけずに感情が自然に観察出来る。




高齢者の心の質を見ると無痴が強い人が多い。

混乱し現実を見失っている。だが心は年をとらない。老化するのは体だけだ。

心は瞬間ごとに生滅を繰り返すのみ。

実際には心が衰えるとは、善心が弱くなり、不善心が強くなる事を意味する。

だから今のうちに修行しなければ同じ道を行く。




高齢者の多くは無痴に惑わされ、現在、過去、未来が混ざり合い、現実が見えず、混乱した心で生きている。

貪欲さや怒りは存分に働くものの、気づきや集中、智慧は働かなくなっている。

だから修行は短期間だけでなく、常に行い続ける必要がある。




瞑想中に思考から覚めた瞬間は、気づけた事を認識する時だ。

どうして考えている事に気づけたのか?不思議に思ってほしい。

そしてまた歩く方に注意を向ける。足の感覚を感じ、そしてまた考える。考えて構わない。

そして思考から覚める時になぜ気づけたのかを確認する。




修行者

歩く瞑想をしている時、心は現在に留まらず、過去や未来に行きます。


長老

今の瞬間に留まるよりも、思い出や計画から覚めた時に、それに気づいて注意を歩く事に戻す方がずっと大切だ。今に留まるのは目的ではない。歩行に気づき、思考に気づくのが目的だ。









全ての修行者は心と対象の分離を経験している。

意識が存在すれば対象は既に知られているので、意識に注意を向ける事はない。

気づきを繰り返せばその気づきは深まる。

それが結実したのが11番目の洞察智の行捨智だ。

だから気づきを大切にし、もっと気づきと対象との分離に気づく。




日常生活の中で、歩く事、考える事、話す事など、何かが起こっている瞬間に気づくようにしていると、やろうと意図しなければ心身は動かない事が判ってくる。

それが意志だ。日常生活は概念的だが、意志する心は純粋でありのままだ。




心の働きは自然だが、心の創作物は自然ではなくなる。例えば「私は怒っている」という思考は自然ではない。

しかしこれを「私は」(無痴)と「怒っている」(怒り)とに分解すると自然のことになる。

そうなるとそれらは生じては滅するだけになる。




私たちは生活の中で富、知識、栄光などの結果を得ようとして苦しみを味わう。それは貪欲さから来ているからだ。

そしてその世俗のやり方を修行に持ち込んで結果を求めると苦しむ事になる。

修行の世界では、結果を求めず、気づきを諦めずに繰り返す事で貪欲さから解放されるのだ。




仏教では人生は瞬間から瞬間への存在で、過去も未来もない。

過去も未来も思考の産物で、瞬間瞬間の存在では個というものもなければ満足もあり得ないと説く。

だが世界は私たちに満足のいく、個人的で永続的な人生を求めさせる。

本質を見失わないためには、気づいているしかない。








心随観の理解が完全になると、原因と結果の法則を理解する法随観が自然に起こってくる。

最初は心を理解しても自分があると思っているが「私」「私の」が無明の投影だと気づくと、無明が原因で自分という感覚が結果だという事がわかる。

その後は法随観になる。




貪瞋痴に気づいている時は、不貪、不瞋、不痴の正しい考えが生じる。

気づきがあれば、既に不痴はある。

心に正しい考えがある時は、気づきが鋭くなって煩悩に反応し難くなる。

煩悩をいじる必要はない。ただ正しい考え方で物事を知る必要があるだけだ。




不安や恐怖を観察する事は有益な事だ。

心地よい時は不注意になるが、悪い時は苦しまないよう必死で気づこうとする。

呼吸などの中性の感覚に留まって、不安や恐怖をやり過ごしても構わない。

不快な対象は修行を深めてくれるものなのだ。



修行者

考えている事にはどうやって気づくのですか?


長老

考えようとする意志と、気づこうとする意志と、2つの意志がある時は気づくのが難しい。これは気づきを繰り返し、物事の性質を理解していなければできない。だから繰り返しの気づきが必要なのだ。




怒りや嫌悪、不安や恐怖、貪欲さといった不善な感情に圧倒されそうな時は、一旦心を呼吸のような中性の感覚の上の置き、感情をやり過ごす。

そして心が安定したら、感情の変化と肩の力の入り方、呼吸の深さや速さ、心臓の調子、胃の調子、体温などの身体の変化との相関関係を観る。



修行者

気の合わない人と付き合うにはどうしたらいいですか?


長老

困難な人間関係の中では、対話する時の反応を観るといい。特定の人間関係の中で陥る心のパターンを見抜く事ができれば、感情への対応が上手くなっていく。




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  最終更新日 2023.12.31

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