苦しみ多い人ほど突き抜ける力は大きい!
テジャニヤ長老も以前は、違法薬物の摂取や鬱など業の多い人生を歩まれてたと聞きます。
同じ経験をしてきた者として、死なず壊れずに実践を積んで生きる事に力を貰えます。
苦しみ多い人ほど突き抜ける力は大きいと言われますしね。
長老の言葉を仏道実践の杖にしてみて下さい。
(福岡/大喜多賢治さん)
SUTことウ・テジャニヤ長老は、在家者であった頃は常に鬱や不安、恐怖などの精神的な苦しみを抱え、「ヤーバー」と呼ばれるミャンマー特産の違法薬物を愛用しては依存症になり、一層苦しみを増すばかりの悪循環に陥っていたと言います。
しかし、いつでも死と隣合わせのまさに「人間失格」のその状態を救ったのは、他でもないこのマインドフルネス瞑想でした。
SUTの指導の核心となるキーワードは「リラックス」であり、決して気合いとか根性などではありません。これはSUTの指導を仰ぎに来る人々の多くが、SUTと同じ苦悩を抱えている人々である事を表しています。
そんな人生を送ってきたSUTのアドバイスには、同じような気質の人々が、できるだけ苦しみが少なく生きられるようにとの願いが込められているような気がします。
そしてSUTの通ってきた道は「ただ気づくだけ」の、決して苦しい思いをする事なく、リラックスして楽しみながらでも修行は完成できるという、従来の修行の常識を打ち破る道でした。
そんなわけでこの道を体現したSUT自体もまた、マインドフルネス瞑想を実践する人々の方向性の正しさを証明してくれる、有り難い存在となっているわけです。
修行者
ヴィパッサナー瞑想で言う受け入れるとはどういう意味ですか?
長老
ヴィパッサナー瞑想で正しい態度で起こっている事を受け入れるというのは、対象をそのままにしておく事を意味する。今その事が起こっているという事実を受け入れ気づきと智慧とで次にすべき事を理解する
気づきを継続させるとエネルギー消費量を抑えるだけでなく、気づきが勢いづけばエネルギーが増加さえしてくる。
私が在家で働いていた頃は、仕事で忙しい時ほど気づくようにしていた。
気づけば気づくほど心はエネルギッシュになり、疲れなくなるからだ。
私が在家で働いていた頃は、仕事で忙しい時ほど気づくようにしていた。
気づけば気づくほど心はエネルギッシュになり、疲れなくなるからだ。
修行者
怒りや苛立ちがある事に気づいても、それが続いてしまいます。
長老
まだ怒りへの理解が十分でないうちは継続してしまう。最初のうちは知識を適用するだけだからだ。それが、体験的に対象の事を解釈する事が原因で怒る事を知ると、おさまる。
心身に生じてくる現象は、全て宇宙の必然として起こってくる。
そのように理解すればたとえ痛みであろうと興味を持つ事ができる。
さもないと心は常に痛みに自動的に反応するだけだ。
そして私はあなたに興味を持たせる事はできない。
あなたがあなた自身で興味を持つしかない。
そのように理解すればたとえ痛みであろうと興味を持つ事ができる。
さもないと心は常に痛みに自動的に反応するだけだ。
そして私はあなたに興味を持たせる事はできない。
あなたがあなた自身で興味を持つしかない。
私たちは2つの世界に生きている。
ひとつは「私・あなた、善悪、優劣」などの概念的世界。
もうひとつはリアリティだけの心の世界。
概念的世界では「人生は無意味」と思うと落ち込んでしまうが、心の世界では「人生は無意味」と理解する事で、貪欲さや怒りから解放される。
ひとつは「私・あなた、善悪、優劣」などの概念的世界。
もうひとつはリアリティだけの心の世界。
概念的世界では「人生は無意味」と思うと落ち込んでしまうが、心の世界では「人生は無意味」と理解する事で、貪欲さや怒りから解放される。
修行者
痛みに興味を持つにはどうしたらいいですか?
長老
智慧があれば心は痛みにも興味を持つ事ができる。それは怒りも宇宙の法則に従って生じてくる自然のものであると理解する事で起こってくる。つまり自らの心身に生じてくるものの意味を知るという事だ。
修行者
私は昨日「時々気づきたくなくなります」と報告したところ、長老は「気づきたくないのは無痴であり、それは無痴と智慧とが主導権争いをしている状態」とおっしゃいました。それによって私は、突然気づきたい気持ちが強くなったのです
長老
正しい考え方は気づきを誘発する
修行者
身体が不調の時は何を観たらいいでしょう?
長老
まず薬を飲む。身体のケアが第一で、次に心のケアをする。病気の時は不快さに抵抗し、怒りや嫌悪感、憂鬱、不安などが生じてくるので、それを観る。それがなくなってから不快さや痛みを観るといい。
瞑想は何かの店の店員さんのようにする。
店員さんは客を探して追いかけたりしない。
ただ店内にいて、客の来店を待っている。
そして客が来て商品を求めた時にだけ売る。
瞑想も同様、対象を探したりせず、ただ今起こっている事に気づき、対象が生じた時にそれに気づく。
店員さんは客を探して追いかけたりしない。
ただ店内にいて、客の来店を待っている。
そして客が来て商品を求めた時にだけ売る。
瞑想も同様、対象を探したりせず、ただ今起こっている事に気づき、対象が生じた時にそれに気づく。
瞑想中に心身に起こってくるのは、全て自然の現象だ。
自然のものに不満を言ったり、抵抗したり、善悪を判断したりするのではなく、そのまま見る事。
リラックスして快適に座り、自然のものを私物化せず、朝起きてから夜寝るまで、ずっと気づきを継続させるのが正しい見方になる。
自然のものに不満を言ったり、抵抗したり、善悪を判断したりするのではなく、そのまま見る事。
リラックスして快適に座り、自然のものを私物化せず、朝起きてから夜寝るまで、ずっと気づきを継続させるのが正しい見方になる。
修行者
早朝、景色がとても綺麗だったので、私は狂ったように写真を撮りまくりました。しかし後でそれは貪欲さだとわかり、落ち込んでしまいました。
長老
心身に何が起こっているかを知ればそれで十分。撮影を止める必要もなければ「いけない事だ」と自分を責める必要もない。
修行者
私はお金に余裕があるので慈善活動を勧められていますが気が進みません。これは利己的ですか?
長老
自分の心を幸せにする事は、他の人に贈物をする事にもなる。心が幸せになれば周囲の人々にも幸せを与えるからだ。他人を傷つけずに幸せを選ぶ事は、利己的な選択ではない
1993年のスーダンの飢饉で、空腹で死にかけている少年と近くで待つハゲタカの写真でピューリッツァー賞を受賞したカメラマンのケビン・カーターは、その後鬱病になり4か月後に自殺した。
彼はそのような恐ろしい状況に立ち会ったにもかかわらず、心を保護する事がなかったのだ
彼はそのような恐ろしい状況に立ち会ったにもかかわらず、心を保護する事がなかったのだ
こちらの瞑想センターではラベリングは使わない。
ラベリングは思考だからだ。
基本的に気づきをもたらす思考だが、貪欲さや怒り、妄想に否定的な思考でラベリングすると否定的な感情が続いてくる。
だからこちらではラベリングの変わりに煩悩を感知し、思考や呼吸との相関関係を見る
ラベリングは思考だからだ。
基本的に気づきをもたらす思考だが、貪欲さや怒り、妄想に否定的な思考でラベリングすると否定的な感情が続いてくる。
だからこちらではラベリングの変わりに煩悩を感知し、思考や呼吸との相関関係を見る
修行者
瞑想中に怒りや憎しみ、欲望が出てきて気が狂いそうでしたが、気づきで何とか冷静さを取り戻しました。
長老
不善な心の性質に気づくと、気づきの有益な働きに感謝するようになる。気づきは不善心がいかに有害であるかを知り、心の性質を改める。それは有益なものだ。
世界の全ては条件に基づいている。
欲しくて得られるものはなく、適切な条件が整った場合に限られる。
しかし現実が見えないと条件が揃わないのを自分のせいにし、自らを責める。
実際には何も非難する必要はない。
だから何かが起こるには、条件が必要である事を理解しておくべきだ。
欲しくて得られるものはなく、適切な条件が整った場合に限られる。
しかし現実が見えないと条件が揃わないのを自分のせいにし、自らを責める。
実際には何も非難する必要はない。
だから何かが起こるには、条件が必要である事を理解しておくべきだ。
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修行者
嫌悪感に気づいた時はそれを知るだけでいいのですか?
長老
嫌悪感がある事が既にわかっているのなら、それに伴う感情も観てみる。嫌悪感の元になっている感情もあるはずだ。その場合、感情と一緒に考えないように気をつける。
修行者
嫌悪感の背後には欲望があります。
長老
その貪欲さに気づいたら、それを観る。その貪欲さが原因となって嫌悪感が生じてくるのだから。そして貪欲さがなくなった時、嫌悪感がまだあるかを観る。貪欲さが残っていると何度も嫌悪感が現れる可能性がある。
修行者
私は振動を見るのが好きなのですが、見続けてはいけませんか?
長老
自分の好みで見ないで、その好んでいる心を見る必要がある。さもないと貪欲さが拡大する。また対象に夢中になると、それを見るのが素晴らしい事のように思えてきて、正しい見方ができなくなる。
不安は出来事を概念的に受け取る事から生じる。
不安の背後には必ず出来事を否定的に受け取る不快な感情がある。
また、たとえ間違えのない、説得力のある解釈をしているように思えても、それも所詮は概念的認識に過ぎない。
ただありのままに「私」抜きで認識した出来事とは別物だ。
不安の背後には必ず出来事を否定的に受け取る不快な感情がある。
また、たとえ間違えのない、説得力のある解釈をしているように思えても、それも所詮は概念的認識に過ぎない。
ただありのままに「私」抜きで認識した出来事とは別物だ。
身体の不快さと心の怒りや嫌悪感とは連動している。
だから注意すべきは不快さと嫌な気持ちとの相関関係だ。
それがわかってくると、身体感覚が不快ではないものに変化してくる。
そこまでいくと、病気も観察対象として使えるようになる。
だからとにかく心身の状態を交互に観る事だ。
だから注意すべきは不快さと嫌な気持ちとの相関関係だ。
それがわかってくると、身体感覚が不快ではないものに変化してくる。
そこまでいくと、病気も観察対象として使えるようになる。
だからとにかく心身の状態を交互に観る事だ。
修行者
死の間際でも気づいているにはどうしたらいいですか?
長老
私の友人が国内線の飛行機に乗っていた時、トラブルが発生し、墜落の危機に見舞われた。その時死を覚悟した彼は、教え通りに良い心の質を保って死のうと思い、瞑想を始めた。だが恐怖が強すぎてできなかった。
「火が強ければ火が勝つ。水が強ければ水が勝つ」そして彼は自分の気づきが煩悩に立ち向かうのに十分でない事を知った。気づきよりも恐怖の方がはるかに強かったからだ。その飛行機は難を逃れて無事だったが、彼は以後いつ危機に見舞われてもいいよう日頃から準備するようになった。
気づいている時は感情に巻き込まれずにいるため、貪欲さや怒り、不安、失望などは、それ以上力を得る事ができない。
心は気づきに救われているのだ。
これは自分自身への思いやりだ。
気づいている時は自身への思いやりを示していると思えば、気づきを継続させる気になってくる。
心は気づきに救われているのだ。
これは自分自身への思いやりだ。
気づいている時は自身への思いやりを示していると思えば、気づきを継続させる気になってくる。
修行者
早朝の瞑想の時に緊張して不快さを感じたので、自身にリラックスするよう言い聞かせました。そしたら不快さの下に悲しみがあるのがわかり、その瞬間に緊張がとれてリラックスしたのです
長老
智慧が気づきになった。心の中で起こっている事がわかればそれは安堵につながる
日常生活においても、スポーツや趣味をする時でも、五つの心の機能のうち、自信、精進、落ち着き、智慧はすでに持っている。
だからこれに気づきを加えると、心の機能はよりいっそう大きな働きを見せるようになる。
いわば無料アップデートするというわけだ。
だからこれに気づきを加えると、心の機能はよりいっそう大きな働きを見せるようになる。
いわば無料アップデートするというわけだ。
感情と呼吸の相関関係を見る事で心を安定させる事ができる。
例えば決断を迫られている時、不安感が呼吸にどう影響するかを見る。
それによって心から不安な思考を除き、冷静に適切な対応をとる事ができる。
小さな問題から始め、慣れれば大きな問題にも対応できるようになる。
例えば決断を迫られている時、不安感が呼吸にどう影響するかを見る。
それによって心から不安な思考を除き、冷静に適切な対応をとる事ができる。
小さな問題から始め、慣れれば大きな問題にも対応できるようになる。
気づきとは心身に起こる現象を認識する事。
努力とは気づきの維持、継続。
心の安定とは正しい見方、考え方、態度から生じる落ち着いた心。
信とは修行への信念と自身への自信。
智慧とは正しい見方、考え方で「見る者のいない見方」をする事、または心身の相関関係を見る事。
努力とは気づきの維持、継続。
心の安定とは正しい見方、考え方、態度から生じる落ち着いた心。
信とは修行への信念と自身への自信。
智慧とは正しい見方、考え方で「見る者のいない見方」をする事、または心身の相関関係を見る事。
瞑想中の対象とは、視覚、聴覚、臭覚、味覚、身体感覚、心の活動の六つだけだ。
気づきとはこの六つの対象を単に認識する事。私たちが気づくたびに五根、つまり心の五つの特質である、気づきと心の安定、努力、信、智慧が働く。
マインドフルネス瞑想とはこの五根を働かせる作業だ。
気づきとはこの六つの対象を単に認識する事。私たちが気づくたびに五根、つまり心の五つの特質である、気づきと心の安定、努力、信、智慧が働く。
マインドフルネス瞑想とはこの五根を働かせる作業だ。
大切なのは気づく事そのものの方であり、気づく体験や対象の方は重要ではない。
気づきの継続が智慧をもたらすとわかっていれば、心は対象よりも気づきを大切にする。
智慧は多くの気づきが集まって、一定の条件を満たした時に発生する。
気づきが原因で、智慧は結果というわけだ。
気づきの継続が智慧をもたらすとわかっていれば、心は対象よりも気づきを大切にする。
智慧は多くの気づきが集まって、一定の条件を満たした時に発生する。
気づきが原因で、智慧は結果というわけだ。
修行者
喜びのためではなく精神的な成長のためにサイケデリックな薬物を使用する事は許されますか?
長老
私はその考えを支持しないし、その薬物を使用した事がないのでアドバイスもできない。心はそれ自体に無限の可能性を秘めているので、外部の助けがなくても強さを引き出せる
会いたくて仕方ない人や、食べたくて仕方ないものの事を考えるより、その背後にある貪欲さに気づく方が重要だ。
また顔を見るのも嫌な人や、憎くてたまらない人の事を考えるより、その背後にある怒りや嫌悪感に気づく方が重要だ。
心労を減らしたければ貪欲さや怒りを増大させない。
例えば15分〜20分呼吸を観ると、概念的なレベルでは非常に退屈だ。しかし実は退屈は思考から来ている。その瞬間に退屈な事を考え、それを嫌悪しているのだ。それに気づけば退屈さはおさまる。ずっと瞑想しているから退屈なのではなく、その瞬間に起こっている事だ。
何かを好きな時、心はそれを良いものと思う。だからその心を注意して観る。すると心は、その後他の何か良くない事を見つける。例えば瞑想中の静寂が好きでもっと欲しがっていると、誰かが音をたてた時に怒る。欲望が叶えられない時は怒るのだ。それを良く観ておく。
瞑想中にお腹の膨らみ縮みがはっきり見えないというのは、緊張して心が動けなくなっている可能性がある。ひとつの対象だけに絞ってしっかり見ようとするよりも、逆に心を自由にして、心が次々と対象を変えるのについていくようにした方が良く見えるものだ。
ウ・テジャニヤ長老の著書
侮れない煩悩 心の中の幻覚剤にあなたは幻惑されている
気づくだけでは不十分
ダンマはどこにでも
ウ・ジョティカ長老の近況
ところでかつてシュエウーミン瞑想センターで瞑想指導を担当し「自由への旅」などの著書が多数あるウ・ジョティカ長老ですが、20年ほど前に指導を後輩のウ・テジャニヤ長老に任せ、ご自身はしばらく無一物で一所不在の放浪の修行に出ておられました。そのため長らく所在不明の状態が続いていましたが、現在は何と!コロナ感染を避けるために放浪をやめ、一時的にご自身の庵(クーティー)に戻られているそうです。
ウ・ジョティカ長老の庵
ウ・ジョティカ長老
庵の裏には池が
長老のお世話を務めるのは娘さん
ミャンマーでは普通こういう時は、親戚一同がつきっきりでお坊さんのお世話をするものですが、長老はイスラム教からの改宗者なので、お世話してくれる親戚が誰もいないところが異端者っぽくていいですね。
自由への旅
スノー・イン・ザ・サマー
許すこと
ネガティブなことへの対処法