【ウ・テジャニヤ長老の名言 第7集】マインドフルネスが自然に身に付く珠玉のことば集

2022年1月1日土曜日

名言集

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 のミャンマーはこの国独自の暦を使っていたので、正月は4月の半ばという事になっていました。その伝統は今でも残っていて、ミャンマーでは4月の半ばになると、ティンジャン(水かけ祭り)という、国を挙げての一大イベントでミャンマーだけの正月を祝います。ですから1月1日はそれほど盛大に祝う事はありません。


このウ・テジャニヤ長老の誕生日は何と、ブッダと1日違いの4月7日です。だから長老は毎年誕生日を1日ずらして4月8日の灌仏会の日に、ブッダと一緒にお祝いします。そしてその日はちょうどミャンマーの正月休みの時期でもあります。


この長老の誕生日を祝いたい修行者メンバーたちは、長老を日本食レストランへ連れて行き、天ぷらをご馳走します。なぜならこの長老の大好物は海老天だからです。誕生日もおめでたい日なら、お祝いするのにピッタリのものが大好物だなんて、何ておめでたい事づくしの長老なのでしょう。


このようにおめでたいづくしの長老のお話ですから、もしかしたら正月気分には一番しっくり来るかもしれません。一杯やる時にもマインドフルでいられたら、それは素晴らしいものです。






食事の時は好き嫌いが明白になっている。

好きな物を食べる時は「食べたい」という渇望感に目を向けてみるといい。

その熱意や貪欲さが強いと、気づきが失われてしまうからだ。

渇望がおさまると気づきも戻る。

そしたらまた咀嚼や視覚、臭覚、味覚などと好き嫌いとの関連性を観てみる。






修行者

座って瞑想していると、心が雑念やら音やら、あちこちに飛び回ります。



長老

心は飛び回らない。自分であちこちに注意を向けている。注意を向けるのも、気づくべき心の活動のひとつになる。そして同じ心が飛び回るのではなく、次々と違う心が生じては滅しているのだ。






気づきが向上してくると、目の前の光景と音とか、呼吸と身体の痛みとか、自然な形で複数の対象に同時に気づけるようになる。

それは意図的にやらなくても自然と起こってくる体験だ。

だから今するべき事は気づきの維持だけだ。

今はとにかくひとつの対象に絞って気づきを磨くだけだ。






瞑想中に磨くのは、気づき(サティ)と心の安定(サマディ)と智慧(パンニャ)。

智慧は気づきがあって心が安定している時にのみ生じる。

心は気づかれて客観化され、体験から切り離された時にのみ安定する。

マインドフルネスのサマディとは深い集中ではなく、体験からの分離を言う。






修行者

いつでも気づいていれば正しい決断ができるのですか?



長老

正しい決断とは、あなただけに有益な結果をもたらすものではない。本当に智慧ある決断ならば、必ず周囲の人々にも有益な影響をもたらす。そのような決断を下すためには、いつも気づいているだけでは不十分だ。






正しい決断を下すためには、気づきの智慧と共に、経験から学ぶ必要もある。

下した決断とその結果から幾度となく学び、決断を変え、条件を変え、考え方を変えてみたりしながら、どのような決断がどのような結果をもたらすかを理解できるようになるまで、じっくりと学んでいく事だ。






修行者

他人が苦しんでいる時はそっとしておくのが思いやりですよね?



長老

私たちが思いやりと思っているものは、通常は嫌悪感が混ざっている。実際には他人を自分のいいように動かしたいものだ。だが純粋な思いやりがあれば善心で気分が良くなるから、そこで確かめればいい






修行者

苦しんでいる人を見ると、思いやりがないといけないような気がして自分が苦しみます



長老

「私」という思いが強いと不善心で自分が苦しむ。しかし思いやりや慈悲心がある時は「私」という思いはない。だから本当に他者への思いやりがあれば、苦しみの感覚はなくなるわけだ







修行者

家に帰ると病気の父と介護している母とが悲観的になっているので、影響されてしまいます。



長老

心を耐火性にする必要がある。不善心は火のように燃え移るので、うっかりするとこちらの心にまで飛び火してくる。安全地帯に留まるには、しっかりと気づいているしかない。






苦しみ、悲しんでいる他者と対話しながら心の安定を維持するには、気づきの継続が必要だ。

他者の方ばかり見ていると自身への注意を失うので、対面している時でも常に自身の行いに目を向け、自身の心の反応の仕方に気づくしかない。

それが不善心への耐火性をつける智慧ある方法だ。






心が嫌悪感を覚えると、身体は不快感を覚える。では嫌悪感が消えた時、その感覚はどうなるか?

あなたは面白いものを観る事になる。

だが瞑想は不快感をなくすためのものではない。

瞑想は心身の相関関係を観る事で、心身は単なる条件の組み合わせに過ぎない事を理解するためのものだ。






修行者

混乱している時はそれに気づけません。どうしたらいいですか?




長老

いや混乱に気づけない事はない。気づけないと思っているだけだ。混乱している時は「何をすべきか?」「どうすべきか?」とするべき事を見失っているだけで、混乱の状態には気づいている。






混乱している時は「何をすべきか?」「どうすべきか?」と焦って早くその状態から抜け出そうとしている。

だが、そんな時は答えを探すのではなく、ただ混乱の状態に目を向けた方がいい。

答えを探すと益々混乱する。

落ち着くまでのその間、その混乱の状態を良く観ておく事だ。






心を内側に向ける時は、心を保護している事になる。

心を外に向けたり、気づかず考えていたりする時、心は惑わされる。

心が惑わされると貪欲さ怒り、嫌悪感、不安、恐怖などに襲われる。

だから自身の心身の行いに気づいている事は、自身の心を守っている事になる。






修行者

空腹時に瞑想していて、お腹がグーグー鳴って周囲の人々に恥ずかしかったのですが「胃がその仕事をしているだけ」と思ったら恥ずかしくなくなりました



長老

羞恥心は「私の」お腹がおかしいという誤った考えからきた。この「私」抜きの方法は他の多くの場面でも適用できる







智慧を積み上げる事は、人生の問題に立ち向かうための準備となる。

深刻な問題が発生する前に「経験する事は全て単なる知られるものに過ぎない」事を理解しておけば、何事にも冷静に対応できる。

実際には問題が深刻なのではなく、自分が深刻だと思っているだけだと理解しておくのだ。






心は全ての対象に反応する。そして心地よいものを好きになり、不快なものを嫌いになる。

私たちは一生これを続ける。

だが、対象に心地よさや不快さが付いているのではない。

対象は単なる対象であって、良くも悪くもない。

良し悪しを決めているのは自らの心だ。






瞑想を始めると、対象を心地よく感じたり、不快に感じたりするたびに自身が対象を判断し、解釈していると思うようになる。

対象は単なる知られるもの。

良くも悪くもない自然のものだ。

これを理解すると気づきがいっそう簡単になる。

智慧を持って物事を見るとは、こういう事だ。






貪欲さや怒りは抑圧によって止まるのではない。

怒りを抑圧しようとする思いも怒りだ。

煩悩は継続的に気づいて、心の機能を理解する事によって治まる。

貪欲さや怒りがまだ微妙なうちに気づくのが効果的だ。

そのためには「私」抜きの正しい思考をし、気づきを継続させる事が大切だ。






瞑想中は貪欲さや怒り、嫌悪感が出てきても抑圧すべきではない。

それらは「私のもの」ではなく自然のものなのだから。

良い性質の心も悪い性質の心も誰のものでもない。

自然のものを「私の」と思うからいじろうとしてしまう。

考え方を正して、何事も自然現象として観た方がいい。






修行者

どうして気づいていなければならないのですか?



長老

今は心を観察する気になれなくても、修行の価値を理解すれば、徐々に気づきに興味が出てくる。だからまずは苦しみは取り除くものではなく理解するものであり、理解する事によって苦から解放されるという事を知るべきだ






常に心の状態に気づくようにしていると、心理プロセスに興味が出てくる。

また、気づいている時といない時との心の状態の違いを観ておくと、気づきの重要性がわかってくる。

それによって気づきの恩恵を受けると、修行への信が深まり、遂には気づきが習慣化されるようになる。







日々の生活を落ち着いて過ごすためには、普段から貪欲さや怒り、恐怖や心配、不安などの感情を監視しておく必要がある。

だがそれを止めるのではなく、感情の性質を理解する事が大切だ。

瞑想の目的は心身が体験するものを止めたり変えたりするのではなく、そこから学ぶ事なのだから。






たとえ他人に知られたくないような思いが出てきても、自分でも恐ろしくなるような感情が出てきても、それを止めたり分析したりせずにただ見つめる事、それが瞑想だ。

思考や感情がある事を認識すればそれで十分、終了だ。

体験する事を変えようとしない心がけが大切だ。






修行者

正しい考え方をするには「私」を入れて考えなければいいのですか?



長老

「私」と考える事を抑圧してもいけない。抑圧するのもまた誤った考え方だ。「私」「私の」と考えたら、そう考えた事に気づく。そうすればもう「私」について考える事はなくなる。それが正思惟だ。






古い習慣を変えるには、感情が生じるたびに気づく事。

そうすればそれ以上古いパターンを育てる事なく、新しい習慣に移行する。

心は正しい習慣を知ると、二度と古い習慣には戻りたくはなくなる。

すると気づきが良くなり、智慧が生まれ、理解が深まり、考え方が変わる。






修行者

座っている間は眠くてしかたありません。



長老

精進と智慧が不足すると眠くなるので、その場合は心を活性化する必要がある。心を忙しくさせ、何かに興味を持たせるために「今何をしているか?」「いくつの対象を知っているか?」などと自問自答してみるのもひとつ方法だ。






修行者

心について知るにはどうしたらいいのですか?



長老

繰り返し心を観る事で、心の観察方法がわかってくる。つまり瞑想は自分で智慧を開発して、自分で方法を学ぶ事になる。様々な心の性質がある事を知ると、その発生プロセスに興味が出てくるわけだ。






心は現実を知る事ができる。

例えば食事中は様々な味を味わっている。

その味自体は現実だが「甘い」「辛い」「酸っぱい」などという思いは概念になる。






心は現実より概念が好きなので、何かを見たり聞いたりする時は、現実を見ているのか、概念を見ているのか、よく確認する事だ。







修行者

身体感覚を観るのはいいのですが、人が来ると心が緊張してしまいます。



長老

何かの対象が心に触れ反応が生じた時は、そのようにまず感情を観る事だ。心が緊張したのはあなたがその人に対して何らかの思いを抱いていたからだが、そのように理由は後でわかってくる。






私たちは視覚、聴覚、味覚、触覚など、それぞれの器官に対象が接触すると、心がどう反応するかを学んでいる。

だからまず「誰かが来たら緊張した」だけでいい。

それが気づきの出発点だ。

その理由について考える必要はない。

考えなくても気づきを継続すればわかってくる事だ。






今の瞬間に気づいていると「私」を妄想している事がわかる。

何かを見たり聞いたりするたび「私が見て聞いている」と妄想する事が。

不平を言う必要はない。

「私」を妄想している事がわかればそれを知るだけでいい。

それが最初の段階で、良くない事と判断するのは良くない事だ。






「私が」という誤った見方をするのは自然な事だ。

自身の心身を観たいのなら善悪の判断をしない正しい見方が必要だ。

妄想も自然の事だからそれに気づけばリラックスするが、価値判断をすれば心は抵抗し、別の煩悩が生じる。

煩悩を誤った見方をする事で二重の煩悩に苦しむ事になる。






貪欲さや怒りがある時は、自身の思考を信じてはいけない。

貪欲さはそれがいかに素晴らしいか、怒りはそれがいかに邪悪で醜いか、そして無痴は「私が」いかに素晴らしいかを訴えてくる。

つまり煩悩は思考を通して自らの性質を表現しようとするのだ。

惑わされてはいけない。






修行者

貪欲さが自身の心を苦しめている事に気づきました。



長老

何かが欲しいと渇望し、しくじらないようにと緊張し、得られなければ怒り、悲しむ。それは苦しい事だ。しかしあなたはそれを知っていて、それでも苦しんだ。それはまだ本当に貪欲さの本質を理解していないからだ。






貪欲さで苦しんでいる事を理解しても、貪欲さはまだ強力に心に根付いている。

あなたが今なお多くの欲望を持っている事は、全然貪欲さがなくなっていない事を意味する。

それはまだ貪欲さについて十分に理解していないからだ。

本当に苦しみだと知るまでは、心はもっと学ぶ必要がある。






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  最終更新日 2023.12.31

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