【ウ・テジャニヤ長老の名言 第10集】ルースースーとタムレンレンな名言集

2022年7月1日金曜日

名言集

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 ルースースーとタムレンレン(タイ語)

否定的な思考で苦しむことで、私に、あなたに、周囲に、何かよいことがあるでしょうか?


とはいえ、否定的な思考って、出てきますよね。

出てくることは問題ないと言いますか、出てくるものだと思うのです。

でも、それに苦しむ必要はない、ということですね。

苦しむという他に何をするべきなのか?ということです。


それは、否定的な思考に気づくことでしょうし、そこから何を学ぶのか、ということかもしれません。そして、今するべきことは何か、と気づいて実行していくことなんだと思います。


私は、否定的な思考が生じた時には、ルースースー、ただただその思考を知り、タムレンレン、遊び心を持って学ぶようにする、かな。


何が起こったとしても、そこから学んでやるぞという勇気と決意😊👍🍀

これは遊び心のようなものですから、できなくてもうまくいかなくても、いいんです。

気がついた時に、やる。ていうか気づかないとできるわけがないから当たり前なんですけど


   (しぜんさんのブログ記事より抜粋)


https://note.com/shizensan/n/n0b557a71c952



  まったく不安や心配、怒り、憎しみ、自己嫌悪などの否定的な思考に耽るほど無意味な行為はありません。

どんなに深刻になってみても、所詮はただの妄想を本気にして苦しんでいるだけの自虐行為。下手をすると自分のみならず、周囲の人々にまで不快な思いをさせる迷惑行為になってしまいます。


しかし人間は誰しもが、心に自分を傷つけ、他者に危害を与える、有害な怒りのエネルギーを所有しています。心にそのエネルギーがある限り、否定的な思考が頭をよぎるのは避けられません。


一度否定的な思考がよぎったら最後、心は必ずそれに囚われ、怒りや後悔、不安や心配でいっぱいになってしまいます。頭の中はその事ばかりになり、もはや冷静な判断はできません。近くに誰かいれば当り散らし、苛立ちで夜も眠れなくなるほどです。


まるで人間はそのエネルギーに振り回され、いつでも狂うか犯罪者になるかの瀬戸際に追い込まれているかのようです。だから人間はいつでもそれを、涙ぐましいまでの努力で必死に耐えなくてはならないのです。何という苦しい存在でしょう。心を病んだり胃を切らなくてはならなくなるのも当然というもの。


人間はこのまま怒りのエネルギーの奴隷となり、ただなすがままにされるしかないのでしょうか?人間に生まれたからには一生怒りのエネルギーに苦しめられ続けなければならないのでしょうか?もし堪えきれなくなってしまったらどうしたらいいのでしょう?そこで爆発して一生を棒にふるしかないのでしょうか?


「そんな時は酒でも呑んで忘れてしまえ」


まあ、普通はそうやって解決しようとするものですが、残念ながらそれは誤魔化しているだけで根本的な解決策ではありません。胃を持っていかれてからその事に気づいても後の祭り!


「あるよ」


阿鼻叫喚地獄!それをやったら最後、気持ちよくて止められなくなり、気がついたら禁断症状と「彼奴は俺を殺す計画を立てている」という被害妄想とに取り憑かれ、人間である事を止めなければならなくなるでしょう。


では実際そんな時はどうしたらいいのでしょう?そういうわけで今回は、SUTことウ・テジャニヤ長老から、何やらいいアドバイスを授かりました。酒や薬物の話はちょっと置いておいて、しばしSUTの言葉に耳を傾けてみませんか?








修行者

瞑想中に心身に不快感があると嫌悪感が生じるので、言われた通り嫌悪感を観ました。ゲーム感覚でやったら上手くいき、なんだかゲームに勝ったような気がしました。


長老

瞑想がゲームならそれは素晴らしい事だ。それなら愉しみながら痛みの本質を理解できる。

瞑想のゲームに勝つよりも、重要なのは観察する自分の考え方を確認する事だ。痛みを嫌う事は悪い事ではない。目的は痛みの本質を理解する事だ。痛みを嫌うのは自然の事であり、自然の事として観てさえいれば、痛みと嫌悪感の相関関係が理解できる。その時がゲームに勝った時だ。





修行者

瞑想中に不安に直面すると色々心配して瞑想にならなくなってしまいます。


長老

不安な時は感情を観る。そして心に浮かぶ不安な考えを観ればその原因が見えてくる。不安の引き金は何か?不安な考えが生じた時は何について心配しているか?不安についてよく理解する事。





不安を観る目的は取り除く事ではない。

不安は「私」なのか?「私」が心配するのか?「私」という思いと不安との関連性を観る事だ。

不安は誰のものでもなく、ただの心に浮かぶもの、ただの心の性質と理解すれば「私の不安」という思いから解放され、不安はあっても心配しなくなる。



痛みの観察は、痛みではなく反応を観るのがマインドフルネス瞑想のやり方だ。

心を好き嫌いに偏らせず、中立の状態にしてのみ正しく観察し、学ぶ事ができる。

心が痛みに嫌悪感をおぼえている時、痛みの感覚はどう変わるか?

嫌悪感がない時はどう変わるか?

それに気づくのが目的だ。





修行者

体験する事よりもそれに気づく方が大切というのは、瞑想中だけでなく日常生活でもですか?


長老

日常生活でどんないい事があろうと悪い事があろうと、大切なのはそれに気づく事だ。私たちは常にいい事や悪い事の背後には、貪欲さ怒りや嫌悪感がある事を観るようにしている。




私たちの修行は非常に単純で、気づきを継続させて智慧を開発するだけだ。

気づきが原因で気づきの継続と智慧とが結果になる。これは気づきを行使する事による完璧な修行だ。

多くの人々はいい事の原因となる善い行いをせずに、いい結果ばかりを大切にし、求めている。





修行者は心を妄想や幻想で圧迫して苦しめる概念的な世界と、心を妄想・幻想から解放する現実の世界との二つの世界に住む事ができる。

気づけば気づくほど心が創った概念・幻想から離れて楽になり、修行すればするほど善業から利益を得る。

これは修行者の特権と言っていい。





気づきは継続させる事で勢いづき、強まる。

気づきが強まると意図的に気づこうとしなくても勢いで気づいていられる。

そのためには日常生活の中で定期的に気づいているかどうか確認したり、仕事の合間に10分でも座る瞑想をしたりすると気づきの心を充電できる。





修行者

長い一日の仕事で疲れると嫌悪感が出てきます。疲れにはどう対応すればいいですか?


長老

疲れる事は悪い事ではない。疲れたらただ休む事だ。身体を休ませてやる必要がある。大切なのは心の方であって、心がそれにどう反応しているか?その嫌悪感を観た方がいい。


疲れている時にそれを嫌がっていれば、その状態を観る事だ。

大切なのは体験する事よりも心の状態の方。

嫌悪感を観なければ「あの仕事はもう嫌だ」とか「家事はもうたくさん」とか、嫌悪による思考に巻き込まれてしまう。

しかし嫌悪感を観れば、心も休ませてやる事ができる。



貪・瞋・痴は現実であるため、煩悩からの解放は現実の世界において行われる。

だから、できるだけ多くの時間、心を現実の世界に向けた方がいい。

心を現実の世界に向けるとは単に気づいている事。

概念的な生活の中で自由を探す事は、宝石のなる木でも探すようなものだ。



瞑想中に心身に起こる様々な感覚や記憶、感情には価値がない。

価値があるのはそれに気づく事だ。赦して忘れるとか、手放す事ができるとか、そのような事は関係ない。

単に起こっている事に気づくだけでいい。

できないと思ったらそれを認識する事、そちらの方に意義がある。





修行者

全く予備知識なしに瞑想を始めても大丈夫ですか?


長老

マインドフルネス瞑想を始めるには正しい情報が必要だ。旅を始めるのに地図が必要なように。タイ行きの正しい地図があれば、間違って中国に行く事はない。瞑想では正しい情報は正見、正思惟につながる。



正しい情報があるのとないのとでは、同じ体験をしても見方が変わってしまう。

例えば瞑想中に足が痛くなっても、正しい情報があれば嫌悪感を観て痛みが減少するが、正しい情報がなければ痛みを取り除こうと更に嫌悪感を増し、痛みを一層悪化させる。





修行者

業(カンマ)は生における3つの特性である無常・苦・無我とどのように関連してくるのですか?


長老

業とは原因と結果であり、原因と結果の対象となるものは条件付け(無我)であり、持続するものではなく(無常)、満足のいくものでもない(苦)。



思考や感覚、動作などの心身に起こる事を単なる対象として認識する事は洞察だ。

洞察があれば何を考えても「思考は思考で単なる知られるもの」として達観していられる。

しかし洞察が不十分なうちは、どの思考が高尚でどの思考がくだらないなどと迷って判断してしまう。



修行者

炊事したり会話したりする時は、本当に気づき続けるのが難しいです。別に落胆したり怒ったりしているわけではなく、自分の気づきが管理できるほど強くない事を認識させられました


長老

大丈夫。ダンマ(宇宙の法則)を修行する事は生涯に渡る大仕事。結果を急ぐ必要はない



私たちにはこの瞬間しかない。

全ての過去と未来は妄想と関係がある。

勧めたいのは善心を強化する事。つまり気づきを多くすれば妄想は減る。

瞬間瞬間の心は誰か思い出したり考えたりする者がいるのではなく、心がそれ自体で働いている事を理解すれば修行は楽にできる。



修行者

瞑想する上で最も重要な事は何ですか?


長老

例えば毎日会う人の事を思い出してみる。上機嫌の時にその人に会うとその人の事をどう思うか?あるいは機嫌が悪い時にはどう思うか?私たちの気分は物事の見方に影響を与える。好き嫌いの感情で物事が正しく見えていないのだ。



気づきがある時は智慧がある。なぜなら気づきがある時は妄想がなく、妄想がない時は智慧があるからだ。

だから賢明とは思考を巡らす事ではなく気づいている事だ。

そして智慧とは概念を理解する事ではなく、現実を理解する事。その時に喜びと満足を得る。

一般的な意味とは少し違う。



修行者

不快な気分が出ないようにするにはどうしたらいいのですか?


長老

今この瞬間に起こっている事に気づき、過去も未来も断ち切る事で怒りや嫌悪感などのパワーを減らす事ができる。瞬間的に煩悩を切り刻むのだ。それはこの瞬間だけに起こる。




気づきは私たちを第二の世界、つまり心の世界に入らせる事を可能にする。

心の世界に入るには日常生活の一挙手一投足に気づくようにする事。

心の世界に入り、世俗の価値観である概念的世界に支配される事が少なくなると、心の世界重視になり、もう世俗の概念では苦しまなくなる。



修行者

たとえ心が信用できなくても、落ち着いている時の考えだけは役に立っているのですが?


長老

心が怒りながら考えている時や、貪欲さで考えている時は、その思考は全て信じる必要がない。しかし心が鮮明で安定している時は健全なので、その考えに基づいて行動した方がいい。



瞑想の気づきは学校で教師が生徒の出席をとるのに似ている。

教師はただ誰が出席し、誰が欠席しているかを確認するだけで、誰かを招いたり追い出したりする事はない。

それと同様、瞑想もどんな心が存在するかを確認するだけで、心をある状態から違う状態に変える事はない。



修行者

感覚がはっきりしない時はジーッとよく感じた方がいいのですか?


長老

いや、はっきりしない時は見つめたり考えたりせずに不明瞭だと認識する。そしたら呼吸の観察に戻っていい。気づきは対象によって維持されるが、対象にこだわっている間は気づき以外の事を考えている。



修行者

意志はどうすれば観察できるようになりますか?


長老

最初のうちは気づきを軽めにすると意志に気づきやすい。それからトイレに行きたい時の意志は強力なのでわかりやすい。あるいは仕事や家事を少し休みたい時なども「ああ嫌だ」と動きを止めようとする意志に気づきやすい



心を対象から切り離して中立的に見るとは、気づきを通して物事を見る事。

心身に何らかの現象が生じた時、それに気づいているのを認識する事だ。

その対象が何であるかという智慧が深まるまで、それを何度でも繰り返す。

それによって心は「ありのままに見る」事を理解する。







修行者

マインドフルネス瞑想でのうつ病への対処のしかたを教えて下さい。


長老

普通より真剣に継続的に修行しなければならない。もし気づきを忘れれば直ぐ不快な感情に巻き込まれてしまう。うつ病の人はスキのないよう、常に継続して気づいている必要がある。



修行者

長老は以前、軽いうつの状態を観る事ができなければ恐怖心を観ると言いましたが、同じものに思えますが?


長老

それらは別物だ。軽いうつとそれが増大するのではないかという恐怖心とは違う。どちらかはっきりしている方を観ればいい。軽いうつでも恐れれば悪化してしまう




うつの時はできるだけ気づきを継続させ、怒り、嫌悪感、不安、恐怖などの感情や雑念が出てきても、考えたり分析したりしないようにする。

うつの問題は考え過ぎる事なので、妄想に巻き込まれないようにするには、いつでも今の瞬間にいて、過去や未来の事を考えないようにする。



修行者

私は多くの問題を抱えていて心が落ち着きません。こんな状態でも瞑想できますか?


長老

瞑想は心を落ち着かせるのが目的ではない。心を落ち着かせたいだけなら何か一つの対象に集中すればいい。ヴィパッサナーではただ落ち着かない心の思考と感情との関係を観るだけでいい



自身の心が他人の幸福を願うどころの話ではない時、他人に慈悲心を持とうとしても心は受け入れられず、自身が望んでいる事に違和感を覚えて信じられないものだ。

それでも少しずつ慈悲を持とうとする事が大切。

他人の幸福を望めるようになると心は喜び、自信を持てるようになる。





修行者

マインドフルな生活をするとどうなるのですか?


長老

日常を気づきながら生活すると、心の質が向上する事は明らかだ。何をするにもうわの空で慌てながらやるのと、落ち着いて丁寧にやるのとでは作業の効率や結果がだいぶ違ってくる。そうなると周囲からの信用も得られる。



私の散歩コースの途中に高い木があり、その下に椅子が置いてある。

私がその前を通るたび心は椅子に座りたいと思う。

しかし私は貪欲について理解しているので心の思うままには動かない。

すると心は次は椅子に座るとどんないい事があるかを考える。

私はその思いを観るだけで従わない






修行者

日々の生活の中で心配や不安などの不快な思考に陥りがちなのですが?


長老

日常生活の立ったり座ったり、掴んだり放したりの動作を行う時「今している事」に注意を向けるならば、その心は智慧に支えられる。心配や不安に導かれた思考も、智慧に支えられた思考に変わる。




執拗な思考が止まらなくても問題ではない。問題は心が不健康な時は、自分の不健康な妄想を本気にして信じてしまう事だ。全ての思考は間違っていて、全く信じる必要がない。その事を良く理解しておく。条件次第で瞬間ごとに変わってあてにならない思考を信じるから気分が悪くなる。





日々の行いに気づきながら生活すると、考える事も貪欲さや怒り、嫌悪感などの不善な心に導かれたものに替わって、智慧に導かれたものになる。これはマハーシ・サヤドーによって提唱された、日常生活の中での簡単な修行であり、不快な思考を善心に替える効果的な方法でもある。





千の異なる否定的な思考は千人を苦しめ悩ませるが、誰にも共通する一つの気づきは千人を解放する。千の否定的な思考はいつでも千人を攻撃するが、一つの気づきはいつでも千人を護る。否定的な思考や感情に悩まされる人を助ける、それが気づきのマジックだ。




まとめ


 SUTは心が否定的な想念でいっぱいになった時は、思考を観るのではなく、その背後にある感情に目を向けるように言います。「あの野郎、クソ野郎」と考えるのではなく、その思考の元となっている怒りの方に目を向けるという事です。思考を引き起こす原因の方を観なければ、いつまでたっても思考が止まる事はないからです。


いえ、実は思考は止まらなくても問題ありません。その妄想を本気にさえしなければ、いくら心がアレコレ考えまくっても構わないのです。そうです!実は問題はその思考の内容にあるのです。


「彼奴は俺を見下した」「俺はなんてバカな奴だ」「俺は冷遇されている」「俺の人生は一体何なんだ?」「私は今、不安」「私の将来は?」「私の苦しみは誰にもわからない」


結論から言えば大概の人間の苦しみというのは「俺」「私」「吾輩」「儂」などという、実際には存在しない概念についてアレコレ考える事から発生します。人間の思考の土台には、自分なるものが存在すると信じて疑わない妄信があるわけです。人間はそんな誤った見解に立って物事を考えているわけです。ですから、どんなに深刻に物事を考えても、誤った見解に立っている以上は、誤った思考しかできません。


ですからSUTは「人間の考える事は全て間違っている」とすら言います。そして問題はその「俺」とか「私」について考える事にあると言うわけです。


しかし、そんな事を言っても何かあるたび「俺がどうの」「これは私の」と、主格や所有格をつけて物事を考える癖は、長年の習慣で簡単に変えられるものではありません。ではどうしたらいいのでしょう?


そこで出てくるのがマインドフルな生活です。SUTはいつも気づきを継続させるように言いますが、つまりそれが問題を解決する方法なわけです。気づいている時、今の瞬間にいる時は、自分を感じていません。常に気づきを継続させ、いつでも今の瞬間にいる事は、実は最大の心の防御策なのです。「私」という感覚がなければ他人から何を言われようが、どんな嫌な事を思い出そうが、心が傷つく事はありません。なぜなら傷つくのはいつでも「私」なのですから。


そんな感じで、否定的な思考が出た時の対処法、悩める人類のためのSUTからのアドバイスはいかがでしたでしょう?しかし、これを実践するにも最初から上手くできるものではありません。瞑想は簡単に見えて、意外と難しいもの。だからこれをしぜんさんのように「ルースースーとタムレンレン」で少しずつ実行に移していくしかありません。


それでも否定的思考とは裏腹に「ルースースーとタムレンレン」という言葉には、なんだか楽しそうな響きがあります。そう言いながら気づいていると、まるで気分がルンルンしてきそうではありませんか🎶否定的思考を観るなんて、結構恐ろしそうに思えますが、これなら何とかやってみようという気持ちになれるのではないでしょうか?それとも人の心というものは、そんな単純なものではありませんかね?😱



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  最終更新日 2023.12.31

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