【ウ・テジャニヤ長老の名言 第11集】名言集

2022年9月9日金曜日

名言集

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信じなくても救われる


仏教には輪廻転生とか、業、因縁、解脱、悟りなど、日本の社会通念からは大きくかけ離れた概念がたくさん含まれています。


マインドフルネス瞑想はそんな常識外れの仏教の修行法の一つです。しかし仏教を信じなければできないというものではありません。それどころか瞑想修行に入る前には、そのような頭でだけおぼえた概念は捨てておいた方がいいのです。さもないと瞑想中の体験を概念に当てはめようとして、瞑想の進歩を妨げてしまう事になります。


ですから教えにあるものでも、よくわからないものは「よくわからないもの」として置いておいて構わないわけです。実際に自分で体験して理解したものと、信じているだけのものとは別物です。信じているだけのものは、後で実際のものを見た時、必ずそのギャップに驚く事になるでしょう。


マインドフルネス瞑想は仏教も何も知らなくても始められるし、仏教徒と同じ恩恵を受けられます。それどころか余計な概念がない方が引っ掛かる事が少なくて、むしろ進歩が早くなるかもしれません。心身に起こっている事を自然体で自分に正直に知っていくだけの作業ですから。そしてその目的はストレス解消のためから解脱・悟りのためまで多岐に渡りますが、やる事は皆同じです。




※写真は日本上座仏教修道会浄心庵精舎(茨城県鉾田市)の様子



修行者

私は他人の期待に応えなければならないという強迫観念に取り憑かれていて、全然自分のために生きる事ができません。


長老

心に貪欲さや怒り、嫌悪感があると執拗にその事を考え続ける。それはあなたが直面しなければならない事への嫌悪感だ。その嫌悪感が思考を養っている




修行者

嫌悪感はわかりますが、何を嫌っているのかはわかりません。


長老

何か悩みのタネがあれば、その原因を解明しなければならないが、それにはまず気づきを強くする事。そして原因は考えるのではなく、理解するまで継続的に気づく事。背後の問題がわかれば嫌悪感はなくなる。




不明瞭な感情は不明瞭な感情として認識する。

もしかしたらそれは感情ではないかもしれないし、感じているものとだけ認識して無理に言葉にする必要はない。

それをそのまま感じるだけでいい。

さもないと、対象を解釈したり、何らかの想定を加えたりして見ている事になる。




修行者

仕事に不満があると、いつも冷蔵庫に何か探しに行きます。嫌悪感が貪欲さを生み出したのですか?


長老

いや、嫌悪感から貪欲さが生じる事はない。例えばうつ病だから貪欲になる事はないように。苦しみが解決策を探す理由ではない。智慧が嫌悪感から抜け出そうとするのだ。




智慧は嫌悪感を見ると抜け出す必要を感じて解決策を探すが、多くの人々はその方法を知らない。

そして慰めの形で食事をする。

そこには気分の悪さは食事によって和らぐという妄想がある。

妄想によって欲望が煽られるのだ。しかし中には、嫌悪感に気づく事で解決する人々もいる。




身分証明書を持っていても、その身分というものは社会で共有している便宜上の概念にすぎず、実際に存在するものではない。

思考や感情も同様、概念の方ではなくその背後にある原因と状態とを見れば、実際の性質を認識できる。

そうすれば思考や感情に苦しめられる事はなくなる。




修行者

不安や怒り等の感情は自分で作り出しているのですか?


長老

思考や感情、善心も不善心もそれらを生み出すエネルギーから生じる。自分から出るのではない。貪・瞋・痴と不貪・不瞋・不痴のエネルギーが六門に働く。それらを自分のものと考えると本来の性質が見えなくなる。




修行者

思考を見るといつも自分が持つ知識や概念、感情をかき混ぜているだけだと思ってしまいます。しかも考え方次第でずいぶん変わります


長老

その通り。思考は心の性質を反映しているだけにすぎない。だから「私は」「私の思考」などと思わなければずいぶん単純なものになる




修行者

瞑想中に疑い、貪欲、嫌悪で混乱するも、直ぐこれは解放であり、貪欲や嫌悪は克服する必要はないとわかりました。


長老

「私」について理解したわけだ。最初は苦しむのも修行するのも「私」だと思っているが、実は「私」ではないと気づく。それは修行の過程で起こる事だ。




気づきに勢いがあると、修行するのも観ているのも「私」ではないと理解する。

貪欲なのも嫌うのも「私」ではない。

「私」ではなく心身の機能がそれ自体で働いている。

つまり心身は因果関係だけで機能していて、行う主体も苦しむ主体もない。

だから貪欲も嫌悪も克服する必要はない。




心は多くの方法で探求できる。

退屈な時はまず自分の態度を確認する。

そして退屈は嫌悪感なので、何を嫌っているのか調べる。

またエネルギーが低下したのなら、探求しようとするとどういう気持ちになるか?活発か?倦怠感か?その時は身体は軽いか?重いか?心身の関係を観る。



気づきを狂わせるものにはもう一つある。

物事が上手くいかない時は「私はダメだ」と自分自身を責めて、気づきを見失う。

いくら自分を責めても気づきには戻れない。

自分を責めずに失敗を受け入れ、気づきに戻れば、それを教訓として悪い経験からでも気づきを育てる事ができる。




私たちは普段無自覚に「こうしなければならない」という思い込みや概念を盲信して行動している。

しかし常に気づいていて、何をするにも必要に応じて動くべきなのだ。

困って気分が悪いのは不善心だ。

そんな時は創造的でオープンに行動できない。つまり上手く立ち回れなくなる。



私たちは輪廻する「私の人生」のための概念的世界と、ニッバーナ(涅槃)と言われる普遍的(現実的)世界との二つの世界に住んでいる。

ニッバーナは純粋な心の対象。

そして現実は無常・苦・無我を表す、貪・瞋・痴から解放された純粋な世界。

つまり気づいている事がニッバーナだ。


瞑想中は、無理に激しい感情に立ち向かおうとせず、呼吸を上手く利用して気づきと智慧とを高めた方がいい。

これは戦略のようなものだ。

心が気づきを強化するための戦略だと理解している場合は、激しい感情をやり過ごすだけでなく、智慧を持って呼吸を観る事にもなる。



修行者

嫌悪感は観察が困難なので、直ぐ呼吸に避難してもいいですか?


長老

それをやると益々嫌悪感が増大するので、まず今起こっている事を受け入れる。そして心が抵抗していればそれを知る。それができずに嫌悪感が悪化したら呼吸に逃れるしかないが、避けるのは解決策ではない



私たちは嫌な気分になりたくないので、ネガティブな感情から目をそらし、思考に目を向ける傾向がある。

だから思考を増やし、必然的に感情を増大させて苦しみを増す。

そして仕事の能率は下がり、人間関係を悪化させる。

しかしネガティブな感情に直面すれば、一気に思考は減少する。



気づきが強くなり、心が落ち着いた時は智慧がある。

そんな時は対象の性質と気づきの性質とを注意深く探求できる。

気づきが強いと感じた時は、心の平静さに満足せずに、その気づきを使って物事を詳しく理解しようとするべきだ。

その理解への意志が更なる智慧をもたらすのだから。



日常生活の中で気づきを継続させれば、心は疲れにくくなり、よりオープンになって他の人々の言う事もよく理解できるようになり、より多くの情報を得る事ができる。

緊張を和らげ、感情に流されなくなるからだ。

それを知っただけでも十分に合宿に参加した甲斐があった。



不善な性質の想念や感情が生じた時に「私がされた/やった」とか「私の怒り」などと言ってその不善心に執着すると、ますます事態は悪化する。

だが「私が」「私の」と執着している事に気づけば、直ぐに収束する。

執着心を認識すれば、不善な心への関与が少なくなるからだ。



私たちは常に他人の目を気にし「理解されたい」「なめられたくない」「嫌われたくない」と切望している。

だから他人に見られると緊張する。

しかし気づきを継続させておけばそうならない。

次は今の瞬間に気づいている時に、他人の目が気になるかどうか確認してみるといい。



プロセスは瞬間的で、思い通りになるものではなく、満足のいくものではない。

無常・苦・無我の特性を示し、業の法則に従う。

全ての現実と同様に、心もまたプロセスという事になる。

従って心は瞬間的に生滅するものであり、思い通りになるものではなく、満足のいくものではない。



否定的な思考とはできるだけ向き合った方がいい。

抑圧すれば何度でも出てくるが、向き合えばいずれ解決される。

最初は否定的思考に巻き込まれて夢中になり、感情が乱されるが、慣れれば直ぐに自分を取り戻せる。

リハーサルしながらやると理解も早くなり、解決も早くなる。



「私は」「私の」という考えは常に怒りを引き起こす。

だが怒りのエネルギーが何をするかという真実を見る時は、そこに「私」「私の」という考えはない。

現実、物事の本質を見る時は「誰が何をする」という考えはないのだ。

それはとても興味深く、いつも新鮮で、古くならない。



気づきは集中と違って、疲れていても、急いでいる時でもできる。

日常生活の行動の中でも常に継続できる。

気づきの瞑想と集中の瞑想とを混同してはならない。

心身に生じてくる感覚や思考、感情に気づくのに集中は必要ない。

心身に起こる事をリラックスして軽く知るだけでいい。



集中し過ぎる時は深刻にならないよう遊び心を持つ。

左足の親指で呼吸を感じるのだ。

いつも感覚を感じながらどこで呼吸しているか考えているのだが、実際にはその場所というのはない。

深刻に考えているのは概念にすぎない。

だが左足の親指についてなら深刻に考える気にはならない。




瞑想中は生じてくる雑念や思考、感情などを自分のいいように変えようとはしない。

見えるもの聞こえるもの感じるもの全てに、善悪や優劣の価値判断や解釈を加えずに観て、心を気づきの智慧に導く。

観る心が中立的になり、より継続的になるよう、粘り強く修行する事が必要だ。



何かを見たり、聞いたり、考えたり、怒ったり、喜んだりしている事に気づくと、心とそれらの体験との間にスペースができる。

それによって妄想や感情に囚われなくなり、心を乱されずにいられる。

だからこそ気づきが必要だ。

煩悩を失くす事はできないが、気づく事はできる。

簡単に。



私たちはロープを蛇と間違えたり、犬を狼と間違えたりして悪夢から目覚めるが、自然に属する出来事を自分と間違えて「私のもの」「私の行い」と執着する事からは目覚めようとしない。

しかしそこに目覚めた人への感謝の気持ちがあれば、気づきと智慧とを実践して目覚めようとする。



気づきがある時、私たちは自分の中のブッダの性質、つまり因果の法則、無常・苦・無我、そして業を見つける。

しかし気づきがなければ私たちのブッダの性質は失われる。

気づきは誰もが自分の中のブッダの性質を見つけ、磨く事を可能にする。



気づきを継続させるのに多くの努力は要らない。

今の瞬間に気づいているかどうか、定期的にチェックする習慣をつけるといい。

より多く気づけるようにするには、一挙手一投足の動きや見たり聞いたりする時に注意深くなる事。

雑念や思考に囚われて脱線するのは問題ではない。




修行者

気づきの実践は必ず解脱や悟りを信じて目指さなければならないのですか?


長老

気づきの実践にはストレスの解消から解脱まで様々な段階があり、用途に応じて誰もが生活を充実させるために使用できる。そして何を目的とするにも、できる限り気づきを継続させる事から始める



解脱の真理が信じられない事は問題ではない。

それは心が無常・苦・無我という物事の特性や、心の貪・瞋・痴の汚れ、あるいは因果の法則を受け入れられないというだけで、気づきだけでも満足して継続させていれば、その恩恵は十分に受けられる。


マインドフルネス瞑想は物事の本質を理解する叡智を生じさせ、自我がそれほど粘着性を感じないようにする。

マインドフルネス瞑想こそが叡智を存在させ、心を守る唯一のものだ。

だから私たちは常に気づきを継続させ、いつでも今の瞬間に気づき、自我から離れていた方がいい。






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  最終更新日 2023.12.31

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