【ウ・テジャニヤ長老の名言第13集】明けましておめでとうの名言集

2022年12月30日金曜日

名言集

t f B! P L






やっと明けました!!


12月の半ば、3年ぶりにミャンマー最大の都市ヤンゴンを訪れました。地方の小さな町在住の私は、これまでは年に一度、瞑想修行のためにヤンゴンにあるシュエウーミン瞑想センターを訪れるのが習慣になっていました。しかしこの3年間はご存知の通り、瞑想センターが閉鎖されていたため、ヤンゴンまで来る機会がありませんでした。



ヤンゴンに着いて直ぐ、市の中心部にあるブッダの遺髪が収められている仏塔、シュエダゴン・パゴダに参拝に行くと、平日の夕方にもかかわらず、参拝客でごった返していました。参道にも屋台が立ち並び、どこも人で賑わい、まるで日本の初詣の光景のようです。あまりの混雑ぶりに、うっかりすると一緒に行った人々とはぐれてしまいそうになりました。


「いやあ、めでたい、めでたい」


しかし一足早い明けましておめでとうではありませんが、私の心にはそのような人混みの中でもみくちゃにされながらも、思わずおめでたい気分が込み上げていたのです。なぜならそこにいた人々は誰もマスクを付けていなかったからです。マスクを付けなくていい喜びと言うか、そこにはある種の解放感がありました。


地方からヤンゴンに向かう長距離バスに乗る時も、数か月前まではコロナワクチンの接種証明書の提示が必要だったのですが、それも要らなくなっていました。もちろんバスの中でマスクを付けている人は誰もいません。コロナのために人々を縛り付けていた制限は、すっかり解除されていたのです。


「明けた明けた、コロナが明けた」


そしていつしか私は、コロナ騒動もすっかり終わってしまったような安心感をおぼえていました。そんな感じでヤンゴンでは、どこに行っても平常通りに戻っています。


シュエダゴン・パゴダの近くにある日本大使館の裏には、ゴエンカ氏の瞑想センター「ダンマ・ジョーティー」があります。私は再開しているかどうか覗きに、ちょっと立ち寄ってみました。すると門は開けられ、中に人々がいるのが見えました。修行者か職員かはわかりませんが、閉鎖はされていない事が確認できました。


更にそこから10分ほど歩いた所にある「マハーシ瞑想センター」に行ってみると、こちらの方は門が閉められ、誰もいませんでした。また、そこから車で5分の所にある「チャミ瞑想センター」の前を通った時は、門が開けられ、中に人がたくさんいて、再開されている様子が確認できました。どうやら数百人も集まって瞑想するような大きな瞑想センターは、まだ再開が許されていないものの、少人数で小ぢんまりやっている所は既に再開しているようです。


それでもタイでは瞑想センターはどこも再開されたという事で、これまで年末年始の休暇を利用してミャンマーを訪れて修行していた外人修行者たちの多くは、今年はタイに行く事になるでしょう。


大きな瞑想センターの部類に入るシュエウーミン瞑想センターは、まだ閉鎖されていますが、これでやっと再開のめどが立ってきたというところでしょうか?あとは政情が安定してくれれば、以前のように世界中からシュエウーミン目指して修行者が集まって来る事になると思います。


しかしこの3年間は、ミャンマーを目指す修行者たちにとっては、本当に長い3年間でした。だからこそおめでたい気持ちになる事ができたのです。やっと明けた!やっと明けた!何ておめでたいんだ!そういう訳で、ミャンマーから明けましておめでとうございます🙏


托鉢をするウ・テジャニヤ長老




修行者

自宅の瞑想では落ち着きがなく、呼吸を見る事ができません。


長老

落ち着きがなければ呼吸ではなく、動揺する心や不快感を見る事だ。私たちがしているのは特定の対象に集中する瞑想ではなく、今心身に何が起こっているのか気づく瞑想だ。落ち着きのあるなしは関係ない。


瞑想していて呼吸を追う時、私たちはよく呼吸がスムーズで心が落ち着いている状態を望んでいる。しかしマインドフルネス瞑想ではそれは関係ない。心身の状態がどうであれ、重要なのは気づく事だ。たとえ呼吸が全く見えなくても、心身の状態にずっと気づいていれば立派な瞑想だ。



修行者

現実と概念とを分けて見るとは、例えば鳥のさえずりが聞こえたら「ただの音」と「鳥の概念」とを分けて見るという事ですか?


長老

音と鳥とを切り離す必要はない。現実を理解するとは物事を別々に知る事ではなく、それぞれの異なる性質を理解する事だ。


音と概念とは一緒に起こってくる。何かを聞く時には音とそれを伝える空気、耳、聞こうとして注意を向けるという条件が揃わければならない。それによって鳥のさえずりという概念が生じ、その音を認識する。聴覚とはこの全プロセスだ。音と概念の役割の違いを知るのだ。



修行者

瞑想中の足の痛みを観る時は、痛みから怒りや嫌悪感を切り離して観るのですか?


長老

痛みと怒りや嫌悪感とを切り離す必要はない。痛みを観ている時にそれがある事がわかればそれでいい。そして痛みと怒りや嫌悪感とを交互に観れば、それらの相関関係がわかってくる。



雑念が絶え間なく生じても、最初はただ気づく事しかできない。だが心が雑念についてのデータを集めると、一つ一つの雑念は違う話であっても、実はみんな同じテーマである事がわかる。最初は気づきだけで智慧がないが、十分な情報を得る事で智慧が働き、雑念の本質を見抜くのだ。



修行者

雑念や身体感覚が現れては消えるのを一日中見ていたら夕方になって疲れ、嫌悪感が出てきました。


長老

疲れたというのは、現れては消えるのを見る事にのめり込み、一日中そればかり探していた事を示している。そんな事をしたらエネルギーを使い過ぎてバテるのも当然だ。


面白いからといって一つの事ばかりに集中するとエネルギーを使い過ぎる。そして緊張し、気づきが継続できなくなる。たとえ瞑想がうまくいっているようでも、心身の緊張感は頻繁に確認した方がいい。常にリラックスして瞑想していれば、ずっと気づきを継続させていても疲れない。



修行者

物事を正しく考えれば洞察が生じ、無常・苦・無我を理解するのですか?


長老

いや、洞察は思考から生まれるのではない。「私」「私の」と考えれば貪欲さや怒りが続き、気づきが妨げられるが、正しい思考を持てば気づきが継続される。この気づきの継続によって洞察が生じる。


この心身には主体となる堅固なものは入っておらず、瞬間ごとに生滅する条件の組み合わせの原因と結果があるだけだという洞察は、思考ではなく、気づきの継続によって生じてくる。心身の現象に繰り返し気づき、法則性を理解した時にのみ閃くものだ。だから瞑想中は考えない事だ。



修行者

瞑想で探究するとは、分析するという事ですか?


長老

心の探究とは考えて行うという意味ではない。例えば「なぜ恐怖心が出たか?」探究するとしたら、その疑問はさて置き、恐怖心がある時は心身に何が起こっているか観るだけにする。映画を観るようにただ観るだけでいい。


質疑応答はこんな感じで行われる


呼吸などの中性の感覚をしたものは、じっくり感じにいくから認識している事を自覚するのは簡単だ。だが不快感はそこにあって、既に感じているため、認識している事を自覚するのが難しい。だから不快感があると知った時こそが気づいた時だと前もって理解しておく必要がある。



修行者

心は概念にどう影響されているのですか?


長老

例えば何かに腹を立てている時「私が」「私の」という思いと、怒りの感情との関係を見る。「私」という概念があるのとないのとでは感情の生じ方がどう違うか?「私」という概念が心にどう影響しているかがわかる。


私たちはこれまでの人生ずっと「私」に依存してきたが、実際には「私」は存在しない。「私」が消えた時は何に依存していたか?「私」を生かし続けるのは思考だ。なくなるのは「私」という思考だけだ。「私」という感覚は常に感じているが、「私」がなくなるのは簡単ではない。



修行者

純粋な心とはどういう状態の心ですか?また、心はどうやって純粋にするのですか?


長老

心は2つの方法で純粋である事ができる。心に妄想や怒り・嫌悪感、貪欲さなどがない場合は純粋だし、心がそれらの煩悩を対象として認識している場合も純粋だ。


妄想も怒り・嫌悪感も貪欲さもない純粋な心は結果だ。ヴィパカと言う。結果はどうする事もできない。しかし、それらの煩悩に気づく事で生じる純粋な心は新しい行為、つまり原因だ。カンマと言う。だから常に気づいている事は、煩悩に悩まされない良い原因を形成している事になる。



修行者

悟りを求めたり、いい体験を求めたりして瞑想するのがいけないのなら、何のために修行するのですか?


長老

結果を出すのに必要な条件を満たそうとするのと、ただ結果だけを求めるのとでは全然違う。前者は智慧の行いだが、後者は貪欲さだ。戒めているのは後者の方だ。



観察しながら心の質を見るとは、例えば呼吸を見ている時に緊張してきたら緊張を見る事に切り替え、緊張がおさまったらまた呼吸を見るという具合に、落ち着いている時に対象を観察し、心の質が変わったらその質を見る事。日常生活で食べたり、話したり、考えたりする時もそうする。



日常生活の中で何度も生じてくる怒りや心配、不安、落ち着きのなさ、欲しくてたまらない衝動などの不善心は、気づくだけでそれから解放される。気づかなければ不善心から生じる思考によって行動し、事態を悪化させるが、気づけば不善心は消え、心は気づきの善心に置き換えられる。



日常生活の中で気づきを失って不安になった時は、簡単なチェックが役に立つ。それは考えているより気づいている方が多ければ、問題は減少し、気づいているより考えている時間が長いと、思考に巻き込まれやすくなり、心は苦しみが多くなるという真実を、たびたび確認する事だ。




修行者

私はほとんど記憶できない高齢者の世話をしていますが、心に嫌悪感や退屈さが浮かんだ時は「不謹慎」と思うと緊張し、ありのままに「嫌がってる」と思うとリラックスする事がわかりました。


長老

それは物事を正しい態度で扱うとリラックスする事を知るいい機会だった。


日々そのような体験をしていると、心は物事を正しい態度で扱うとリラックスし、誤った態度で扱うと緊張すると理解する。そしていつもリラックスしようとして、正しい態度が身についてくる。だから心身が緊張した時はいつも、自身の物事の扱い方をチェックするといい。



瞑想中に現われる音、感覚、雑念などの対象には重要性の序列というのはない。しかしそれは智慧がある時にだけそう思える。智慧がなければ、どれが重要でどれが重要でないか序列をつけてしまう。つまり全ての対象の価値が同じと見るのは洞察であり、正しい見方であるという事だ。



修行者

自宅に帰ると中々気づいていられません。


長老

気づきはより平和的でバランスのとれた生活を促進する。日常の出来事で嫌な事があっても、欲しくてたまらない物があっても、それらに夢中にならず、冷静に判断していられる事を理解すると、気づきなしではいられなくなる。



知る事は洞察が生じるのに必要な条件の一つだ。気づきが足りなくても、ズレてるように感じても、継続されていなかったとしても、気づきは決して無駄にはならない。私たちは自分で自分の気づきを悪いように判断するが、実際には大丈夫だ。どんな気づきでも価値がある。



修行者

私には高齢の両親がいて、母は病気で施設に入っています。父はそれに面会が許されずに苦しんでいて、その面倒を見ているため、自宅での修行が困難です。


長老

日常生活の気づきはただでさえ難しいのに、更に困難が重なっている。自分なりの修行方法を考案する必要がある。


日常生活で気づき続けるのが難しいのは、起こってくる事に、決まった解決策がないからだ。あなたは創造的に物事への対処の仕方を考える必要がある。気づきだけでなく、対処の仕方で、何が効果的で、何が効果的でないかを事後分析しながら、最善策を見つけるしかない。



修行者

何も欲しくない事は、何かを欲しがっている事だと気づきました。


長老

貪欲さは卑劣だ。そしてそれはどこにでもある。「何も欲しがらなければいい」という思いは、実はそうでありたいという欲求だ。そんな風に貪欲さは、何をするにもあらゆる点で、私たちを欺こうとする。


あるいは「私は焼き魚さえあればチキンもポークも要らない」とか「家庭さえあれば地位も名誉も要らない」などという思いも、一見無欲さに見える。だが、それもまた貪欲さなのだ。このような体験を通して私たちは、貪欲さが実際にどのように機能しているのかを学ぶ。



修行者

気づきの恩恵についてはブッダも説いているのですか?


長老

ダンマパダ151にある、善人の徳は衰える事がないという教えがそうだ。身体は年をとって衰えるが、自然の法則に従い、日々気づきを実践すれば、心は日ごとに強くなり、明るくなっていくという教えだ。


質問者はこういう人々


修行者

空腹時には食べ物が美味しそうに見えますが、空腹でない時はそうでもありません。また、喉が乾いている時は水が美味しいのですが、乾いていない時は全然美味しくありません。


長老

その通り。それは原因と結果だ。気づきが原因と結果の理解をもたらしたのだ。


何かが欲しい時、私たちはどう考えるか?欲求が高まるほど思考はどう変わるか?眠い時は対象が不明瞭だが、心が機微な時は鮮明に見る事ができる。これらの例は全て心が対象にどう影響するのか、そして気づきだけがその認識を知る事ができるという事を理解するためのヒントになる。



「自分は何か?」と考えた場合、そこにはただ身体、感受、認識、行い、意識の五つの集合体があるだけだ。そしてそれらは常に変化していて決して止まる事がない。また何の意味も持たない。にもかかわらず私たちは、永遠に変わらない「私」なる主体があるという妄想を持っている。



身体が疲れ、それに心が不満を持ち、誤った見方や考え方をすればストレスがかかる。だがそれを受け入れ、嫌悪感に対処し、正しい見方で正しく考えれば、たとえ身体が疲れていても心は楽になる。今はネガティブに考えてしまっても、訓練次第でポジティブにする事ができる。



修行者

日常生活では合宿以上に気づいていますが、沢山考える必要があり、穏やかではありません。


長老

日常の気づきは技術的なものだけでなく、ライフスタイルも関係してくる。無駄話や噂話などの必要ない事を止めると心は落ち着き、気づきは勢いを増す。合宿より効果的だ。


私が出家したばかりの頃は、僧院での修行は家での修行よりずっと楽に感じられた。必死にやらなくなったため、家でやっていた時より進歩が遅れたほどだ。私の智慧や心の安定は、ほとんど家での修行で得られたものだ。師匠はそんな私に、全てを格安で手に入れたと言った。



私たちは気づきがない時は「私」が快適に生きるための概念的世界に住んでいるが、気づきのある時は、何の概念もない、何の意味も持たない現実世界に住んでいる。だから気づきを育てる事は、心の現実世界に住むために概念的世界の放棄(ネッカンマ)を育てている事になる。



修行者

瞑想中に昔の事を思い出すと恥ずかしくてたまりません。


長老

それはセルフイメージから来ている。私たちは常に懸命にセルフイメージを築こうとしているが、直ぐ崩れてしまう。そしてその崩れた部分を他人に見られる事を恐れている。それがひどい気分を生じさせる。


私たちは他人に自分自身をよく見せようとする。よく見られない事は恐ろしい事だ。他人に自分の自然な姿を見られないよう取り繕い、絶えず他人からの評価を気にする。そして自分でも自身のよくない姿を見るのが怖い。みんなセルフイメージという妄想が崩れるのが怖いからだ。



気づかないまま物事を考えると何事も「私」が行い「私のもの」があるように考える。みんなそう思っているからそれが当然で常識だと思う。しかし気づきがあれば見るもの聞くもの体験するものに「私」はおらず「私のもの」はなく、心身の様々な機能が働いているだけと理解する。



瞑想中は現実世界と概念的世界との違いが見えてくる。現実は非二元的で実体がない。生じては滅し、無常・苦・無我の3種の特性を示し、因果法則に従うだけだ。概念的世界は「自分・他人」「善悪」「優劣」などの思考や感情により、相対的、二元的な価値や意味が生じ、惑わされる。


外人の直弟子たち



「私はあの人が好き」「私はあの人が嫌い」という見方は概念的な見方で客観性がないが、「自身の心に貪欲さがある」「自身の心に嫌悪感がある」という見方は客観的な見方であり、現実だ。そして自身の心に気づいていると、同時に様々な心の機能が働いているのを見るようになる。



瞑想中は何らかの対象を探したりせず、心に対象を選ばせて、心の行った先々のものにひたすら気づき、その気づきを継続させる事だ。対象よりも大切なのは気づきそのもの。そうする事で物事の全体像が見えるようになり、そこから学ぶのが瞑想修行であるとおぼえておくといい。



修行者

ヴィパッサナー瞑想は先生によって言う事が違うので混乱します


長老

確かに指導者によって対象物を観察する方法が異なる。修行者はその間で迷うしかない。しかしどのような方法であれ、心身をリラックスさせて対象を見て、それに対する心の反応を観察する事に変わりはない



修行者

不快な感覚を観るのが苦手なので、観る利点を教えて下さい。


長老

辛い経験をすると自我がむき出しになる。快いもので自我は簡単に隠される。つまり痛みを伴う経験は自我をさらけ出し、それによって叡智が、嫌悪感と自我の両方が自然に生じるのを観る事ができる。




修行者

不快な感覚を観ると智慧が育つのですか?


長老

気づいている時はいつでも布施、持戒、忍耐、誓願、真理、智慧、平静、慈悲、離欲、精進といった解脱のための十波羅蜜を育てている。例えば痛みを観る時は、「私の痛み」と思わずに観る事で、これらが行使される。




他人に対する純粋な思いやりは善心だ。純粋な思いやりがあれば他人の苦しみをよく理解しつつも、心はそれと一緒に苦しまない。そのようになりたくないという気持ちは持っていない。思いやりだけあって嫌悪感がない時、心には苦しみの感覚がない。それで純粋な思いやりとわかる。



外は賑やかでも、自分の心身に気づいていれば、心の静けさを維持できる。外で何が起こっているか知らなかったわけではない。外の人々が急いでいるのを知りながらも、心は落ち着き、外も内も注意深く見ていられた。人混みの中にいても、気づきと智慧とは十分生じてきたのだ。



修行者

マインドフルネスの実践は世の中に関わる事からの逃避ではないでしょうか?


長老

いや、これは逃避ではなく積極的に関わるための方法だ。何をするにも気づきながら行う事で、仕事でも日常生活でも人間関係でも、落ち着いて効率よくできるようになり、信頼を得る事もできる


私たちが生活していく中で、心は繰り返し気づくように働いている。心は気づきながら生活するようにできていると言ってもいい。だから気づきながら生活すれば、何の作業をしても、人間関係においても、上手くいき、充実できる。そして心身は健康になり、平和な日々が訪れる。



修行者

マインドフルネスの修行は人生を変えるというのは、何が人生を変えるのですか?


長老

気づきの心が変える。気づきの心そのものが智慧を生み、あなたの心を変えるのだ。そして身体的にも健康になり、生き方までもが変わる。



私たちは常に何かを得たいと思っている。そこに何かがあれば、誰かがいれば、それを自分の都合いいように変えてしまいたい。それを利用して自分がいい思いをしたいのだ。そしてそれが思った通りにならないと苛立ち、苦しむ。しかしそれをありのままに受け入れれば、喜びが生じる。



貪欲さは条件が揃った時に発生する。常に気づいていれば貪欲さが発生した瞬間にわかる。そのため気づきを細かく、可能な限り継続させて勢いづけておく事だ。体験している事は何であっても関係ない。とにかく気づく。そうすれば貪欲さが発生した瞬間を見逃さない。



私たちが、何か欲しくてたまらない衝動を「私の」と思うと、ほとんどのものを欲しがらなければならない事になる。貪欲さはそれだけ至る所にあるのだ。貪欲さは「私の」ものではない。かと言ってネガティブなものでもない。貪欲さはあくまでも自然のものだ。五蓋もまた同様。



下のボタンをクリックしていただけますと励みになります。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ


XのPOSTは毎週金・土

ウ・テジャニヤ長老の著作物(無料日本語訳)

「DON'T LOOK DOWN ON DIFILEMENTS - 侮れない煩悩」入門編


「DHAMMA EVERYWHERE - ダンマはどこにでも」実践マインドフルネス


「AWARENESS ALONE IS NOT ENOUGH - 気づくだけでは不十分」マインドフルネスQ&A

当ブログからのお知らせ

《お知らせ》シュエウーミン瞑想センターの再開について

  最終更新日 2023.12.31

新着記事

このブログを検索

瞑想ブログランキングに参加中です

QooQ