M氏 日本人 40代 男性
C瞑想センター大食堂
「食事の時間に食堂に行くのが恐ろしいんですよ。食堂に入ると大勢の人がいて、みんなが俺に危害を加えようとしているように見えるんです」
私が初めてM氏に会ったのは2003年の3月。ヤンゴンにあるマハーシ式のC瞑想センターでの事だ。この頃のM氏はまだ20代後半の青年だった。
M氏は50年前に週刊少年チャンピオンに連載されていた、藤子不二雄Aの人気漫画「魔太郎がくる」の主人公、浦見魔太郎そっくりの人だ。
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それは容姿もさる事ながら、その不気味な性格がとにかく魔太郎を彷彿とさせてしまうのだ。
そもそも最初にM氏と一緒に出席した瞑想の面接指導で、彼が自身の心理状態について報告したものが、そのような危険な内容だった。
「なんちゅー人だ!この人は!危ねー」
この時M氏は、最初マハーシ式の総本山のM瞑想センターに行き、ひと月ほど滞在する予定だったのだが、危険な被害妄想が出てきてしまい、突如予定を変更してC瞑想センターに移って来ていた。常時数百人もの修行者で溢れ返っているMセンターと違い、少人数で小ぢんまりとやっているCセンターならば、妄想が出なくなるのではないかと思ったらしい。
M瞑想センター正門
「そんな時は恐れている恐れているとラベリングするんだ」
だが、M氏の被害妄想はCセンターに移ってからも止まる事はなく、たまりかねてその事を瞑想指導の長老に相談すると、そのようなアドバイスが返ってきたという訳だ。
「いえ、ラベリングしてもどうにもならないから困っているのです。俺には人々が本当に俺に危害を加えようとしているとしか思えません。なぜなら最近は坐る瞑想をすると、人の声まで聞こえてくるのですから。やはり誰かが俺を陥れようとして、人々に俺の悪口を言いふらし、俺を攻撃させているとしか思えないのです。見ていると本当に俺を殺す計画を立てている人までいるのですよ」
「いや、恐怖心が消えるまでラベリングを続けなければならない。そして人の声が聞こえた時も聞こえてる聞こえてるとラベリングするんだ」
その時私は、そんな二人のやり取りを聞いていてM氏の事がすっかり危険人物のように思えて恐ろしくなってしまった。そして彼の扱い方を間違えないようにしなければならないと、思わず身構てしまった。
「瞑想すると人の声まで聞こえてくるって・・・・・・・」
五蓋を客観視できないM氏
「最近はもうずっとこんな調子で全然瞑想できないんですよ。以前はゴエンカ式の10日間リトリートに出ても、妄想せずにみっちりと集中して充実した修行ができていましたし、マハーシ式でやってもMセンターの独居房修行に参加して、期間中ずっと一挙手一投足に気づいていられました。一体どうしてこんな事になってしまったのでしょう?」
そしてM氏は面接指導の後で、そのように言いながら頭を抱えてしまった。
M氏は旅行好きで、特に東南アジアや中南米が好きで、ミャンマーを何度も訪れているうちに瞑想センターを見つけ、それから瞑想に興味を持つようになったという。ミャンマーまで来て修行するのも今回が3回目だ。彼がそうやって毎年のようにリトリートに来る事ができるのは、彼が自営業者だからでもある。札幌で両親と一緒に不動産屋をやっているらしい。
「過去に何か誹謗中傷された経験でもあるのですか?トラウマになってるとか?それだと瞑想よりカウンセリングの方がいいですよ」
何気に医師の診断を勧めてみる私。だがM氏の方は、
「いや、別にそういう事はないですよ。ただこの年になって結婚もしないで、暇さえあれば旅行ばかりしていると、周囲がうるさいんですよ。白い目で見る奴もいるし。その事でみんな責めてくるような気がするんです」
「何だ、そんな事か・・・・・」
M氏は親に家業を任せて好きな事ばかりしているように見えても、実際にはそれに罪悪感を感じているらしい。また、周囲からの非難を恐れてもいるようだ。
そういう心のトラブルであれば、M氏のみならず、瞑想修行者なら誰にでもある。誰でも一度は通る道であり、私も通ったが他の人々も通った通過点だ。言わば瞑想修行者の洗礼だ。しかしM氏のようにここまで悩んだ人というのは見た事がない。
そもそもヴィパッサナー瞑想の修行では、通常は慣れてくると、五蓋(貪欲、瞋恚、昏沈・睡眠、掉挙・悪作、疑)という、心の五つの障害が噴き出してくる。心が鎮まったお陰で、今まで気づかなかった微かな欲望や感情、心の陰の部分などが見えてきたり、心に引っ掛かっている事柄が大袈裟に思えてきたりするものなのだ。
M氏の場合は、日頃は隠れていた罪悪感や恐怖心が表面化して、それから来る様々な感情や思いに振り回されている状態だ。罪悪感があれば自己嫌悪は避けられないし、恐怖心があれば被害妄想は避けられない。
それらも気にせず気づいていれば直ぐに抜け出せるのだが、どうもM氏は事を重大に捉え過ぎて、事態を悪化させているように見える。
「それならやはり長老のアドバイスに従った方がいいでしょうね」
だから私はM氏に相談を持ちかけられたものの、そのように言うしかなかった。それはつまりM氏は自分で恐ろしい妄想をして、自分で苦しんでいる事に気づかなければならないからだ。まず恐れているとラベリングする事で「恐ろしいものがあるのではなく自分に恐怖心がある」という、自作自演の実態に気づかなければならない。
「自作自演なんですか?本当に自分でやってるんでしょうかね?信じられない」
人というのは外ばかり見て、自分の心理は見ていないものだ。だから自作自演と言われてもピンとこない。そのためこういう場合は通常、まず自作自演のカラクリに気づいて、次にそのカラクリについて探求するのが手順となっている。
カラクリとはつまり、自分の心に恐怖心があると、その反作用として周囲のものが恐ろしく見えてしまうという、作用と反作用、原因と結果の法則の事だ。
これは何も恐怖心に限った事ではない。自分が空腹だと何を食べても美味しいし、また美味しそうに見えるが、食欲がないと何を食べても不味いというのも、心の作用と反作用の法則から来ている。こういうのは誰にでも覚えがあるはずだ。
自分が苛立っていると、周囲の人々がトロ臭い苛立たしいように見えるし、自分が悲しいと、何を見ても哀愁が漂っているように見える。また、自分が憎めば憎むほど、相手も憎たらしく見えてくるし、好きになればなるほど美しく見えてくる。
求めれば求めるほど貴重で高価なものに見えるが、興味がなければ全然価値がないように見える。追えば追うほど離れて行くが、避ければ避けるほど寄ってくるように見える。見られたくない時は注目されているように思え、脚光を浴びたい時は無視されているように思える。
また、雑念や妄想についても同様、見る心の方に怒りがあれば、その反作用として怒りを誘発する雑念ばかり浮かんでくるし、欲しいものがあれば、それが美しいようなカッコイイような雑念ばかり浮かんでくる。
こういうのはみんな作用と反作用との関係、原因と結果の法則を示している訳だ。人間の心というのはこのように、鏡のような構造になっている。
だからM氏は、本来ならばとっとと手順通りに自作自演のカラクリに気づいて、そのような作用と反作用の探求に入らなければならないはずなのだが、妄想に圧倒されてしまって修行がすっかり停滞し、どんどん泥沼にハマっていくばかりなのであった。
M氏の疑念
「やっぱり親の面倒をちゃんとみて、世間から認められるようにならなければならないのではないでしょうか?自分を観察するよりも人間としてやらなければならないのはそういう事だと思うのですが。それをやらないから世間が怖く思えるような気がするのです」
それから数日すると、M氏は今度はそんな事を言い出した。疑念だ。これも五蓋の一つになる。
「いや、Mさん、判りますよ、気持ちは。しかし瞑想中はそういう事は考えない方がいい。ただ考えている事だけ確認して、思考には巻き込まれない方がいいです。親孝行なら修行が終わってからみっちりやりましょう」
「みんなそう言いますね、Mセンターにいる人たちもそう言ってました。でもそれってブッダが言った事なんですか?」
M氏は瞑想修行中なのに、そんな事ばかり考えて全然修行が進まない。そんな事だから簡単に越えられる五蓋の壁も、全然越えられずにいる。
「ブッダは考えたら考えた事に気づけ、怒ったら怒った事に気づけと言ってます。そして思考や感情に巻き込まれるなと戒めていますよ」
「そうですか・・・でも俺、変な事言ってますかね?おかしいのは瞑想指導の方だと思うのですが・・・・親孝行を否定するなんて」
もう全然ラベリングなどしていない。思考に巻き込まれているどころか、考え過ぎて悩んでいる。ここまで来るとM氏は、もう瞑想どころではなくなっているはずだ。
「気持ちは痛いほど判るが、親の世話は帰ってからにして、とにかく今はただ思考に気づいて感情に気づいて、それらの相関関係に気づかないと。たとえ親を思い出そうと、子を思い出そうと、考えに耽っちゃいけないんだって、ラベリングしないと・・・・・」
そう説明したにもかかわらず、やっぱりM氏は疑念に引っ掛かり、瞑想が信じられなくなってしまった。そして数日後にはとうとうC瞑想センターから去ってしまったのであった。
「何やってんだか、あの人は」
だが、この時はまだ私はM氏が瞑想修行に対してどのような印象を抱いてしまったのか、知る由もなかった。
M氏の復讐
それから4年たった2007年の3月、私はその時もちょうどC瞑想センターで修行していた。既にM氏の事など忘れ去り、思い出す事もなくなった頃、突然瞑想センターまで私を訪ねて来た人物がいたのだ。
「インドでサイババの所に行ってきました。彼から家族の大切さやボランティア活動の大切さを学んだのです。日本に帰ったら介護の仕事に転職しようかと思っています」
それは4年ぶりに再会するM氏だった。
サティア・サイババ
どうやらM氏はその後も五蓋の壁を越えられず、瞑想修行は諦めて信仰の道に走ったようだ。サイババに会いに南インドのプッタパルティにあるサイババ・アシュラムに行ってきたという。その帰りにミャンマーに寄って、瞑想修行をしている日本人たちがいたら、挨拶をしていこうと思ったとの事だ。
だが、それはいいとしても、家族を大切にしようと言うのであれば、転職などせずに家業を続けるべきだと思うのだが、どうも言っている事が矛盾している。
「ヒロさんは日本には帰らないのですか?家族を大切にした方がいいですよ。後で絶対後悔しますから」
すると何やら私のプライベートにも口を出してくる。まったく大きなお世話だ。一体どうしたというのだ?しかも何やら眼つきまでおかしい。まるでカルトにでもハマっているかのようだ。これでは魔太郎そのままではないか。私がそうやって彼の言う事を呆れたような顔で聞いていると、
「ここでやってる修行なんて自己満足だって判ってますよね?いつまでもこんな事してないで人の役に立つような事をした方がいいんじゃないですか?いくらこんな修行ができても、世の中のためにはなりませんよ」
などと修行に対してケチをつけてくるではないか。修行中に呼び出されてわざわざ来てみればこれだ。私が「ハア?オメーは何しに来たんだ」みたいな嫌な顔をすると、
「こんな事止めて早く家に帰るべきですよ!
俺は出家なんてブッダじゃなくて違う人が言ったと思ってますから!」
などと今度は帰るよう説得し始めた。どうやらM氏はサイババの所で仏教批判の話を聞かされてきたようだぞ。私はサイババの教えは知らないが、そういう事を教えているのか?
「こんな事できてもどうにもならないと言うのが判らないのですか?こんな事上手くできたところで、所詮は誰の役にも立たない自己満足ではありませんか!」
さてはコイツ、瞑想に挫折した自分を正当化するために、我々をコキ下ろして否定しに来やがったな。
「アンタらのやってる事は間違いだって判らないのですか?世の中の役に立たない修行なんかよりも家族の方が大事なんですよ!」
更に4年前に言われた事をしっかり憶えていて反論もしている。だから私も言い返した。
「Mさん!いいですか!仏教は別に親孝行を否定している訳ではないんですよ!ただ、瞑想中は考え事に耽るなと言ってるだけです!何を勘違いしてるんですかあなたは!いい加減にして下さい!」
「ここでやってる事なんかサイババの所の人たちは自己満だって言ってたぞ!!とっとと帰ってボランティアでもやれっ!!」
判った!コイツ復讐しに来たんだ!コイツは被害妄想があるから4年前にMセンターやCセンターで散々アレコレ言われた事が頭にこびりついて、ずっと悩まされていたんだ!これはまさに復讐だ!瞑想に挫折した男の復讐劇だ!本当に危ない奴だ!まさに魔太郎だ!魔太郎が来たんだ!
「こ・の・う・ら・み・は・ら・さ・で・お・く・べ・き・か」
また、後で判った事だが、M氏はこの日、私に会う前にもM瞑想センターに行って、そこに滞在していた日本人たち相手に同じ話をしていたらしい。だが、やはり誰からも相手にされなかったという。
これがミャンマーで修行している日本人たちの間で伝説となっている、いわゆるM氏サイババ事件の顚末なのであった。
まだまだ何度でもやってくるM氏
M瞑想センターの正門内側
M氏と3度目に会ったのはそれから7年後の2014年の初めの事だった。その時私はM瞑想センターにいたのだが、そこにまたひょっこりと現れたのだ。
「あっ、ヒロさんじゃないですか!お久しぶりです🙏」
「あれっ!Mさん!何しに来たんですか?」
「何しにって、嫌だなあ、ハハ・・・またミャンマーまで来たもので、通訳さんに挨拶しに寄っただけです・・・・」
マハーシ式ヴィパッサナー瞑想の総本山、M瞑想センターには、日本語通訳のミャンマー人女性がいる。この人はお父さんが外交官のため、生まれはバングラデシュで、生後間もなく東京に移り、10歳まで目黒区洗足で過ごしたというバリバリの日本語ネイティブスピーカーだ。M氏はこの通訳さんと仲がいいので、会いに来たらしい。しかし彼は転職したんじゃなかったのか?自営業じゃないのによく仕事休んで来れたな?
「ヒロさん、せっかく会えたんだから、少し話しませんか?」
そう言われても私は7年前の事件があるから、
「い、いや、また今度にして下さい・・・」
と断り、とっとと瞑想しに逃げた。また絡まれたらたまったものではない。本当に何しに来るんだかこの人は。しかしあれだけ言っておきながら、またミャンマーの瞑想センターまで来るなんて信じられない。まったく面の皮が厚いと言うか。
だがこの時M氏は、私が逃げた事で追いかけたい気持ちになったようで、以後人づてに何度か私にコンタクトを試みてきた。
「こ・の・う・ら・み・は・ら・さ・で・お・く・べ・き・か」
うわーっ!M氏がくる!だが、私は恐怖でそれをひたすら逃げ回ったのであった。
M氏がくる
「やはり高原は涼しくていいですね。雨季なのに雨も少ないし。ヒロさんいい所見つけたじゃないですか」
更にそれから2年半が経ち、2016年の秋、私はまたM氏と会う事になった。場所はヤンゴンから高速バスで8時間、ミャンマー中央部にある海抜1500メートルのシャン高原の入口の町、カローのM瞑想センターの支部。
普通は海外から瞑想修行に来る人は、こんな田舎の瞑想センターを訪れる事はない。M氏はミャンマー滞在者から私の居場所を聞き出し、とうとうこんな辺境まで追いかけて来たのだ。
「・・・・・・・」
だが私はM氏が何を言っても黙っていた。どうせまた私に絡みに来たのだろうと思っていたからだ。あれから9年半経つのに、私はあの事件が忘れられずにいた。
しかしM氏の態度を見ると以前とは全然違っていた。あれだけ瞑想を否定していたのに真面目に修行している。また、五蓋に引っ掛かってばかりいたのに、妄想の事は何も言わないで黙々と座っている。これは一体どういう訳だ?
「ヒロさんと一緒に修行したのは13年前ですよね。あの時散々指導者に言われた事は今でも憶えています。でも当時は全然その通りに出来ませんでしたが」
するとM氏は、以前とは打って変わってソフトな態度で話かけてきた。
「俺、あの後サイババの所に行って仏教と違う話を聞いて頭が混乱したんですよ。我を見失って血迷ったんです。それであちこちでおかしな言動をして回ったんです。ヒロさん憶えてますか?」
あれ?
「それで家に帰ってから我に返って恥ずかしくなったんです。それでもう自分が信用できなくなりましたね。自分が考える事は信用できないって痛感しました。そしたら瞑想センターで言われた事が『パッ』と理解できて、それでまた瞑想に戻ったんです」
なるほど!!
つまりM氏は怒りがある時は怒りの想念が、恐怖がある時は恐怖の想念がという、作用と反作用の法則が理解できたという事か?
「そうです。心って本当に合わせ鏡みたいになってるんですね。だから想念の方ばかり見ていたら自分の心に騙されると思いました。それで、それからというもの、何か考えても『今怒ってるからこんな事考えるんだ』とか『不安だからこんな事考えてる』と思うようになったんですよ。そしたら瞑想も言われた通りに出来るようになったんです。全然妄想に引っ掛からなくなりました。それでこのヴィパッサナーは凄いと再認識したんです」
おおっ!!何と!M氏はすっかり変わって別人のようになっているではないか!
「俺はどうも頭に浮かんだ事を本気にし過ぎるタチなんで、アチコチで恥かいてます」
考えてみたらあれから13年か。あの頃20代だったM氏も40代になってる。変わってない方がおかしい。
「ヒロさん、メシでも喰いに行きませんか?御馳走しますよ。ここに来る途中でネパール料理店見つけたんで、カレーでも喰いましょう」
M氏もしっかり当時の事を憶えていて、私に詫びたい気持ちもあるようだ。それでわざわざ追いかけて来たのか?すると、もしかしたら2年半前に会った時もそういう話をしたかったのだろうか?それなら逃げたりして悪い事をしたな。こんな所まで来させてしまって。
「9年半ぶりの和解だ。そうだったのか」
絡みに来たと思ったら、今度はその事を詫びに来たM氏。毎日瞑想してると、指導内容と共に、その当時の状況も思い出すから、一緒に修行した人の事はいつまでも憶えているものだ。M氏はきっと、瞑想するたび私の事を思い出していたに違いない。
そんな事とも知らず、必死で彼から逃げ回っていた私は何なのだろう?しかも恐ろしい妄想までして。これでは被害妄想があると言われてもしかたない。そうだ、被害妄想のある修行者とは、M氏の事ではなく、実は私自身の事なのであった。