【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#53】違和感を覚えた修行者

2023年2月10日金曜日

修行者列伝

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I氏 日本人 30代 男性


          C瞑想センター


I氏がマハーシ式のC瞑想センターにやって来たのが2002年の暮れ。I氏は香港在住で、アメリカと行き来しながら投資関連の仕事をしている人だが、数年前まではバックパッカーとして世界120か国を回った経験を持つ旅の強者だ。更にその前は英語習得のためにアメリカに渡り、学校に通っただけではなく、寿司屋で働いた経験もあるという、多彩な経歴を持つ人でもある。


「俺が回った中で一番いいと思ったのはバルト三国ですね。西側とは人間が全然違いますよ。あとはジョージアとかアルメニアとかアゼルバイジャンの人々も全然スレてないですね。マケドニアは確かにマザー・テレサのような人が出ますね。住みたいのはパキスタンです。保守的イスラム教徒のエリアでは人々が『旅人には親切にしろ』というコーランの教えに忠実なので凄く親切にされます」


瞑想センターにはよく、バックパッカーたちがタダで泊まれる宿と勘違いしてデカい荷物を担いでやって来る。バックパック以外にもテントを抱えたり、ダイビング用の足ヒレをぶら下げたり、全く修行者には見えない。よくそんな格好で滞在が許されたものだと不思議に思うぐらいなのだが、私はそんな彼らから旅の話を聞くのが好きだった。



「インドに行くと瞑想センターがゲストハウスを兼ねているんです。バグワン・シュリ・ラジニーシのアシュラムなんか高級ホテルみたいで凄いですよ。オゾン浴場まであるんですから。そこで信者たちの『パーティー』が繰り広げられるわけです。それでいつもヨガ・アシュラムを利用しているうちに、いつしか瞑想に参加するようになったというところですね」


バグワン・シュリ・ラジニーシのアシュラム


なるほど、それでバックパッカーたちはミャンマーでも瞑想センターを見かけると必ず立ち寄るのか。しかし、こちらはインドと違って無料だが、一度入ったら帰るまで出られないから、ゲストハウス代わりにはならない。


「俺の場合はたまたまネパールでゴエンカの10日間リトリートに出て、最初から最後までずっと話もせずに過ごしたら、凄く充実した気分になれたというのがあります。それで瞑想は充実感をもたらすものだと実感しました。そしたら瞑想が病みつきになって。そこは食事にありつけないような人たちも入れてましたね。金儲け主義じゃないって判りました。それ以来旅行中にゴエンカのセンターを見つけると、必ずリトリートに参加するようになりました」


それでI氏は、旅を終えてからもゴエンカ氏のリトリートには頻繁に参加するようになって仏教の勉強もするようになったという。言わば外側の世界の旅から、自己内部の旅へと興味が移ったというところか。


しかし瞑想も慣れてくるにつれ、10日間ではもの足りなくなり、もっと長くやってみたくなったという事で、今回はマハーシ式のC瞑想センターを選んだらしい。選んだと言うよりも、ロンリープラネットという旅のガイドブックの英語版に、C瞑想センターの事が紹介されているのだという。



だが残念な事に、瞑想に専念しなくてはならない私は、せっかく世界の色んな国の話を聞かせて貰えるチャンスにもかかわらず、集中を切らさないため、I氏と言葉を交わす時はいつでも時計を見ながら5分までと自制しなくてはならなかった。これも修行者の掟なのだからしかたない。


話にならない修行者 



「いやぁ、これやると鼻がスッキリ通って気持ちいいんですよね。気持ちまでシャキッとしてきますから。瞑想の前にやっておくと凄い集中力が出てきます」


そのI氏の一日は、いつも鼻うがいから始まった。最初に水で鼻の中を洗っておいて、仕上げは鼻から紐を通して口から出す。鼻の中を全面開通させるためのヨガの行法の一つらしい。


「Iさん、シヴァナンダに行った事があるんですか?」


実は私はその行法の事を知っていた。I氏が来る2か月ほど前には、カナダ人青年が私の同室者だったのだが、彼がやはりI氏が使っているのと同じ道具を使って、毎朝鼻うがいをしているのを見ていたからだ。そのカナダ人は、数年前にインドのシヴァナンダ・アシュラムに行ってその方法をおぼえたと言っていたから、I氏もそうなのかと思った。


リシケシュのシヴァナンダ・アシュラム


「えっ、シヴァナンダ知ってるんですか?」


そのカナダ人は瞑想ホールではマハーシ式のヴィパッサナーをやっていたが、部屋ではいつもヨガをやっていた。相当な修行好きらしく、ヴィパッサナーもヨガもみっちりハマり込んで一日中やっていた。そしたらひと月ぐらいしてから彼の身体に変化が現れた。



彼の額にくっきりと第三の目と言われる、アジュナ・チャクラが浮かび上がったのだ。チャクラは50円玉ぐらいの大きさで赤く凹んでいた。本人は集中力が強くなり、ラベリングも楽に一日中継続してやっていられるようになったと言っていた。


「それで彼は今年もまたシヴァナンダでヨガをやると言って、ここを飛び出して行ったんですよ。額を赤くして意気揚々として」


「へえー」


私がそう言うとI氏は感心したような顔をした。だが、それはカナダ人のチャクラにではなく、何と!I氏は私の態度に感心したのだ。なぜI氏はそんな事に感心したのか?


「ヒロさん意外にもヨガを認めるんですね。ここで修行してる人たちって、みんなテーラワーダ仏教一辺倒のガチガチの人ばかりだと思ってましたよ」


何だ、そんな事か。実はI氏がそう思ったのには理由があった。この時のC瞑想センターには日本人が四人いて、私とI氏の他に30代ぐらいの女性が二人いたのだが、一人は真面目に誰とも話さずに黙々と修行する人で何の問題もなかったものの、もう一人の方が結構扱いの難しい人であり、I氏とちょっとしたトラブルがあったのだ。


「俺なんか初対面で自己紹介して『ゴエンカの10日間リトリートに何度も出てました』って言ったら、いきなり『ゴエンカのは本当のヴィパッサナーじゃありません。本当のヴィパッサナーは日常生活でも何でも気づいているものです。座っている時だけ気づくというのは違います』って否定されましたからね。『何だこの頭の固い女は?』って思っちゃいましたよ」


「何だ、Iさんも否定されたんですか?私もやられましたよ、ひと月ぐらい前に」


Hさんという、瞑想センターに来てひと月ぐらい経つその女性は、そんな感じでかなり偏狭な人で話にならず、私もI氏と同じような目に遭っていた。


というのは彼女が来たばかりの頃、私に「法話を聴きたいのですがミャンマー語が判らないので本か何か持ってませんか?」と言ってきたので、本を貸した事があるからだ。


その時私が持っていた本らしきものは、アメリカの瞑想指導者ラリー・ローゼンバーグ著/井上ウィマラ訳の呼吸による癒しと、元清水寺貫主の大西良慶著夜船閑話講話の中から一部を抜粋してコピーしたものしかなかった。私がミャンマーに修行に行くのに日本から持って行った本は、それぐらいしかなかったのだ。



なぜなら悲しい事に20年以上前は、まだ日本ではヴィパッサナー瞑想の事はほとんど知られておらず、出版物はスマナサーラ長老の本が数冊出ているぐらいで、仏教や瞑想を勉強するにも、テーラワーダ仏教やヴィパッサナー瞑想以外のところから情報を持って来なければ、十分にできる状態ではなかったからだ。


そのため呼吸による癒しはマハーシ式ヴィパッサナー瞑想とは違うアーナーパーナーサティーの本であり、大西良慶和上の本は大乗仏教の唯識思想の本であったが、マハーシ式とも共通する部分があると思って使うしかなかった。



ちなみにこの大西良慶和上の本は、近くの図書館で見つけたものだ。1970年代前半に出版された古い本だったが、そこには瞑想修行の進歩の過程が判りやすく説かれていたので大発見と思ってその部分だけ20ページぐらいコピーしておいた。


修行の旅の地図であれば、今ならウ・ジョティカ長老の名著の自由への旅があるのだが、20年以上前には本当にそうするしかなかった。私がスマナサーラ長老の七覚支瞑想法を読ませて貰ったのは、ミャンマーに来て2〜3年経った頃だった。


「何ですかこの本は!アーナーパーナーサティーの本じゃないですか!アーナーパーナーサティ・スッタは偽経ですよ!知らないんですか!あとこのコピーは清水寺の住職のじゃないですか!清水寺って観光寺ですよ!瞑想とは関係ないじゃないですか!何考えてるんですか!」


しかし、私が持っていたものをHさんに貸したその5分後、彼女は烈火の如く怒ってそれらを返却しに来たのだ。


「何だこの人?」


まあ、ミャンマーの瞑想センターでタイのアーナーパーナーサティーの本や、大乗仏教の唯識思想の本を読んでいる私も私だが、たとえ偽経であっても、それを読んで修行して至高の境地に至った人の教えは本物だ。また、清水寺は観光寺には違いないが、大西良慶和上の境地は間違いなく本物だ。どちらも本を読めば人智を超えた智慧の持ち主によって書かれたものである事ぐらいは直ぐ判るはずではないか。何でこの人は読みもせずに、うわべだけで判断するのだろう?


「あなたはここに何しに来たんですか!?」


「何しにって、修行のための本持って修行しに来たんだが、何言ってんだこの人は?」


Hさんにそう言って詰め寄られた時、私はそう思うしかなかった。


「何言っても無駄だぞ、この人は」


そして私はそういう結論に達した。


西洋仏教の精神


「もしかしたら、あのもう一人の女性もHさんにやられたんじゃないですか?それで誰とも話さなくなったとか?」


「あり得ますね」


それで我々はすっかり偏狭な精神の人に嫌気が差し、そんな事を話していた。


「俺、サンフランシスコの寿司屋と日本料理店で働いていたんですけど、そこは日本人の板前たちが何人かいたんですよ。でも板前って人によって魚のさばき方も違えば使う包丁も違うんです。それでどっちのやり方が正しいかって喧嘩するんですよね。彼ら興奮すると包丁振り回すから止める方も命がけです。それ見ててつくづく偏狭なのって嫌だと思いましたね。そもそも自分だけが正しいって思ってるから喧嘩になるんですから」


それは私も判る。例えばプロレスファンは自分の好きな団体だけが良くて、あとは駄目だと思っていたりする。それで他の団体のファンと喧嘩になったりするからだ。それを見ていると、一つに偏らずに色んな団体の試合を観て回れば、楽しみも倍増するのにと、勿体なく思わざるを得なくなる。


「まったく、何で人ってのは偏狭な精神になってしまうんでしょうね?」


「俺なんかは西洋仏教から入ったじゃないですか、西洋では仏教の大乗も小乗もチベットも、ヨガもタオもみんなごちゃまぜですからね。方法は違っても目指す境地は一緒と捉えてますから、ああいう風にはなりませんよ。セクト主義みたいなのは東洋人の悪い癖です」


そうだ、私もそう思う。瞑想には色んな方法があるが、それらはみんな目指す境地は一緒で修行方法が違うだけだ。サマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想も、どちらも禅定で対象と一体化する体験をし、エゴを落として宇宙の法則を体得するための方法ではないか。集中力を磨いて心を安定させて対象と一体化するのと、気づきの智慧を深めて心を安定させて対象と一体化するのとの違いにすぎない。


そのサマタ瞑想には鼻先に集中するものから、丹田に集中するもの、イメージに集中するものから、マントラに集中するもの、身体感覚に集中するものなど、数え切れないほどの種類があるが、やろうとしている事はみんな同じだ。


あるいはヨガや気功にしても同様、やろうとしている事は同じだ。私が見たり聞いたりした話では、禅定に入って自分を感じなくなり、周囲の環境と自分との境界がなくなると、まるで身体が半透明というか、霧のようになったように感じるという。その時は身体の中をスースー風が通っているようで、凄く気持ちいいらしい。更に禅定が深まれば、その身体内の気の流れ方も判ってくるという。


だからヨガや気功は瞑想ではなく、身体的技法で禅定に入った状態を作り出そうとしている訳だ。禅定の事を仏教ではパーリ語でジャーナと言うが、ヨガではサンスクリット語でデャーナと言う。どちらも同じ事だ。別に西洋仏教はおかしな事は言っていない。


「でもインドに行くと超能力系のヨガってのがあるんですよ。それはちょっと目的が違うんじゃないですか?」


それはちゃんと見分けなければならないし、あとはリラックス用の瞑想というのもあるので、そういうのは必ずしも目的が同じという事にはならないが、違うからと言って別に目くじらを立てるほどの事でもない。


「美容体操としてのヨガもありますしね、ヨガにはそういう用途もあるという事でいいんじゃないですかね、それはそれで。違いを認め合ってお互いに尊重し合う精神が大切だと思いますね」


そんな感じで私とI氏とは、その時はとりあえずは意見の一致を見ていたのであった。


突然手のひらを返したI氏


        マハーシ式の歩く瞑想


「でも何で呼吸を観るのに腹を使うんでしょうね?鼻の方が集中できるじゃないですか、頭に近いんだから」


だが、I氏が突然手のひらを返したのは、そんな風に意気投合してからほんの2、3日後の事だった。C瞑想センターに来てから初めての面接指導で、散々瞑想のやり方について注意されたのだという。


「ゴエンカ・ジーも言ってますが、気づくって事は別にラベリングをするという意味ではないでしょう。それにわざとゆっくり動けなんてブッダは一言も言ってませんよ」


I氏はC瞑想センターに来てから2、3日経つのだが、その間はマハーシ式のやり方を良く知らないまま、ずっとゴエンカ式でやっていたらしい。知っていたのはただ、マハーシ式では歩く瞑想というのがあり、座る瞑想と交互にやるというぐらいの事で、食事の時から洗面、シャワー、トイレに至るまで、全ての行動をゆっくりとラベリングしながらやる大変な方法だなどとは、夢にも思っていなかったのだ。

「まさかゴエンカ・ジーが本の中で批判していたのがこのマハーシ式の事だったなんて。こんなのヴィパッサナーじゃないですよ。ヒロさんはこれしか知らないから、これが当然だと思ってるかもしれないですが、本物はこんなんじゃないですから。研ぎ澄まされたような集中力で身体感覚を見ていくと、普段は判らない色んなものが見えてくるんです。これじゃダメだ、気持ちが分散して全然集中できないし、ラベリングで頭が痛くなる」


    食事中も一挙手一投足にラベリングする


どうでもいいが、なぜI氏は今頃そんな事を言い出したのか?そもそもマハーシ式のやり方については、最初の入寮時に指導者に教わっているはずなのだが?なぜ何も知らないままやっていたのだろう?


「最初ここに来て、坊さんから八つの戒律を授けられたんですけど、その時に『瞑想のやり方知ってるか?』と聞かれて、ゴエンカの方でマハーシ式には歩く瞑想というのがあって、座る瞑想と交互にやるという噂を耳にしていたので『ハイ』と返事したら『じゃあ教えなくても大丈夫だな』と言われて何も教わらなかったんです」


出た!!C瞑想センター名物のぞんざいな指導!!私もこれで何度痛い目に遭わされた事か!!


しかし知らなかったとはいえ、凄い否定のしかただ。これではまるでマハーシ式が偽物のような言い方ではないか。まったく、お互いに尊重し合う西洋仏教の精神はどこに行ったんだ?こんなんじゃあのHさんと話したら大変な事になる。宗教戦争勃発だ。


「Iさん、西洋仏教の精神はどうしたんですか?」


だから私はI氏にそう尋ねずにはいられなかった。


「いや、これは俺の信念ですから曲げられませんよ!間違っているものは間違ってます!こんな方法だと判ってたら、俺は最初からやりませんでした。ダメだ、もう出ます。ロンリープラネットにもう一つモゴ・ヴィパッサナーセンターってのが載ってたんでそっちに移ります。そっちは鼻で呼吸を観るんですよね?」


当時は今のように情報網が発達していなかったため、こんな風に瞑想センターを選ぶにも旅行ガイドブックや口コミに頼るしかなかった。そのため、I氏のように勘違いでやって来る人も少なくなかったのだ。それにしてもこんな方法という言い方は酷い。それならそんなでたらめのマハーシ式でずっと修行している俺は一体何なんだっつーの!と言いたくなる。


I氏はそれから直ぐ、寺務所に行って瞑想センターから出る旨を告げてきた。C瞑想センターには3週間以上滞在する人しか受け入れないという方針があって、I氏は最初1か月ぐらい居るという約束で入寮させて貰ったため、職員から約束が違うと言われたらしいがその分お布施するからいいじゃんと誤魔化してきたという。


「まあ、2、3日で出るのも悪いから、1週間は居るって言ったんですけどね。色んな瞑想法を試してみたくなったと言ったら気を悪くしてましたよ、あの寺務所のねーちゃん。まったく偏狭なんだから」


「偏狭なのは自分だって同じじゃないか・・本当に人間ってのは他人のアラはよく見えるものの、自分のアラは見えないものだな」


私はもう、そんな風に思うしかなかった。


違和感に苦しむ修行者たち


C瞑想センターでは毎日午後2時から読経の時間になる。I氏はこれを唄の時間と思っていた


「ヒロさん、あのもう一人の日本人女性と話しましたよ。Nさんって言うんですけどね、凄くいい人でしたよ」


だが、そのI氏がまた西洋仏教の精神に戻ってきたのは、それからまた2、3日後の事であり、次の面接指導の後の事だった。


「Nさんもやっぱり日本でゴエンカ式やってた人らしいですけど、案の定Hさんにガミガミ言われて『ここにいる人々はみんなガチガチのマハーシ至上主義者だ』と思って、我々の事を日本人だと判ってたけど、挨拶も何もしないで黙ってたんだそうです」


I氏は面接指導の後で、そのNさんと少し話したのだという。


「でもNさんはSF好きで、よく本読んだり映画観たりするらしいんですけど、自分が好きな作家のファンとは直ぐ意気投合するものの、自分が嫌いな作家の作品を観て喜んでいる人がいると、ついついHさんみたいになってしまうんだそうです。嫉妬にも似た感情って言ってました。それでHさんの気持ちも判るから、彼女には何も言わなかったとの事です。とにかく好きなもの以外は絶対に認めたくない心理が判るそうです」


ホウ!それは凄い人だ。Hさんの気持ちを良く理解している。それではNさんはまるでHさんの事を手のひらの上で転がしてるみたいではないか。まるっきり大人と子供だ。それで紛争の火種のHさんがいても、宗教戦争にならずに済んでいた訳だ。


「Nさんは本読んだり映画観たりする時、作家の世界と自分の世界とを比べて、共感を覚えれば好きになるけど、違和感があると好きになれないって言ってました。そうです、違和感ですよ、俺がここに来てからずっと感じていたものは。俺はずっとゴエンカ式でやってたんで、ここの方法が違和感だらけでスンナリと受け入れられなかったんです」


なるほど。偏狭さの原因は違和感という事か?言われてみればそうかもしれない。確かに違和感があるものは認めたくない。認めたら最後、自分が否定されるような気分になってしまう。きっとこれは自我が自らを守ろうとする企てだろう。偏狭さとはそういう事なのかもしれない。つまり自我への執着心だ。


「Nさんはもう1か月ぐらいやっていくそうです。正月前には帰るそうですが。おせちが大好きなんだそうです」


すると彼女の方はゴエンカ式からうまい事マハーシ式に適応できたのか?それは大したものだ。話した事はないが、I氏から聞いた限りでは、だいぶ柔軟な人のようだ。


しかしこれで判るのは、修行者たちというのは自分がやっている方法と違う方法に出会うと、違和感を覚えて苦しむという事だ。そしてある人は偏狭になってしまい、ある人はその違和感に気づいて乗り越える。


「誰もが自分がやっている方法は絶対に正しいと信じているのだから、それ以外の方法はおかしく思えるのも当然だ」


人それぞれ適した方法が違うのだから、それに合わせて色んな修行法が生み出されてくるのが瞑想の世界というもの。行く先々で出逢う修行者たちは、みんな自分とは違う方法で修行している。だからこの世界は、相当融通が利かなければ渡り歩けない。


やはり偏狭な修行者は、この世界では生きていけないんだ!!


「いいな、Nさん。大人の女って感じ。もうちょっと話したいな。やっぱり俺も、ここで1か月やろうかな?」


私がそんな事を思っていたら、突然I氏がそう言い出した。


「いい事考えた」


そしてそう言いながらどこかへ行ってしまったのだった。


違和感を漂わせるI氏


    奥に見えるのがC瞑想センターの寺務所


「今、寺務所に行ってきたんですが、やっぱりモゴ・ヴィパッサナー・センターには行かない事にしました。あのねーちゃんに、ここでずっとやると言ったら怒ってましたよ。何で怒りますかね?」


何?また予定変更したのか?そりゃ怒るだろう、向こうも部屋が一人分空くと思って、次の人を入れる準備をしていたんだろうから。


「いや、違和感が気持ち悪くてマハーシ式に上手く適応できなかったから他に移ろうとしていたんですが、違和感を自覚したら楽になったんで、この方法で修行してもいいかなって思えるようになったんです」


あれ!?


「気づきってこういう事だったんですね!こっちにはこっちのゴエンカとはまた違った世界がある!俺、ゴエンカ・ジーの言う事を鵜呑みにしてたな。自分で確かめもせず批判したりして。マハーシ式も中々いいじゃないですか。本当に気づきのパワーって凄いですよね。頭の中が一発でチェンジしましたよ」


気づきって?


「よし、これでNさんが帰るまで一緒に修行できるぞ、フーンフーンフーン♪♫♬」


だが私はその時、I氏の言う気づきという言葉に違和感を覚えた。それはI氏の気持ちが変わったのは、気づきが原因ではない事は、誰の目から見ても明らかだったからだ。


「違和感って気づきで簡単に超えられますよね。やっぱり偏狭ってのはダメですよ」


うーん、何言ってんだか。そうやって言えば言うほど、違和感を覚えずにはいられなくなるではないか。


「ゴエンカよりこっちの方がいいかな」


ゴエンカよりいいって・・・・・


「ヒロさん!俺って結構柔軟でしょう?どうですか?修行者として?」


じゅ、柔軟って・・・こんな風にコロコロ考えが変わる事を柔軟って言うのか?これも凄い違和感を感じる・・・よし、そこまで違和感のある事を言われたらこちらも黙っていられない。


「ゴルア!!そんなのは柔軟と言うんじゃない!!節操がないって言うんだ!!信念はどうした!!」


そして私はI氏の言葉のあまりの違和感に、ついついそんな風に言わずにはいられなくなってしまったのであった。



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  最終更新日 2023.12.31

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