【ウ・テジャニヤ長老の名言第14集】

2023年3月10日金曜日

名言集

t f B! P L

 





先日、久しぶりに瞑想の10日間リトリートに参加してきました。この3年間はどこの瞑想センターでも大規模なリトリートは開催する事ができませんでしたが、今回私が参加したそのリトリートは、コロナ禍の終了を告げるかのように、僧俗合わせて200人以上の修行者を集めて盛大に行われました。


場所はミャンマー第一の都市ヤンゴンから飛行機で1時間、長距離バスでは10時間もかかる田舎町。にもかかわらず参加者は、国内の至る所から駆けつけてきました。それもそのはず、しばらく自宅での孤独な修行を強いられていた熱心なミャンマー仏教徒たちに、やっと一同に集結し、法話を聴き、瞑想する機会が与えられたのですから、飛びつかないわけがありません。


もちろん私もそんな待ちこがれていた修行者の一人でした。その瞑想センターはモゴ式という、いつもシュエウーミン式で修行している私には馴染みのない方法で修行する所でしたが、リトリートを開催しているのならもう方法など選んでいられないという心境で、いても立ってもいられず参加を申し込みました。


しかし、今まで試した事がないとはいえ、モゴ式ヴィパッサナー瞑想はミャンマーでは一番人気のある方法です。やってみるととても気持ちよく、吸い込まれるようにその方法にのめり込んでいきました。


驚いたのはモゴ式ヴィパッサナーで解脱・悟りの境地に達した聖者の多さです。マハーシ式の2倍はいるでしょうか?というのもこのモゴ式は、余計な観察を省いて一気にカニカ・サマディーや究極の存在であるパラマッタを体験し、道果に達するための、最短、最速の、最も結果を出している方法と言われるものだからです。地道にコツコツ煩悩を観察するシュエウーミン式とは比べものになりません🤣


しかも修行は終始リラックスした雰囲気で行われ、法話をする長老たちも、修行者たちの緊張をほぐそうと笑い話ばかりするため、全く肩に力が入る事なく、常に今の瞬間に気づいていられました。そのため通常は1週間を過ぎると疲れが出てくるのが普通の10日間リトリートですが、逆にますます頭が冴え渡り、10日間があっという間に感じられたほどでした。


ヴィパッサナー瞑想にも色んな方法があるわけですが、自分の心を見つめて精神的な成長を目指すなら、やはりいつも取り上げているシュエウーミン式が一番です。しかし最速で解脱・悟りの境地を目指すなら、このモゴ式が優れていると思いました。このモゴ式は現在、日本でも教えている所があるようですので、興味のある方はこちらに問い合わせてみてください。


はらみつ法友会Blog
http://parami-library.cocolog-nifty.com


はらみつ法友会Twitter
https://twitter.com/paramifriend


このモゴ式は、日本にあるミャンマーの瞑想団体では、ゴエンカ式、マハーシ式、パオ式に続く第四の勢力として広まる事が予想されます。それほど素晴らしい方法だと感じました。そんな訳で他の瞑想団体の話になってしまいましたが、それでは次はまだ日本に団体のない、シュエウーミン式の瞑想の話になります。いつものSUTの名言をどうぞ 😵



     「あちゃー、そうきたか」



今の瞬間に気づいている事は、心を守る事でもある。なぜなら今の瞬間にいれば傷つきようがないからだ。私がこの事を知った時は無敵になったような気がした。そしてそれが強い動機となって気づきを継続させた。だから心を傷つけたくなければ、常に今の瞬間に気づいている事だ。




修行者

いつも他人から言われた事が頭から離れずクヨクヨ考えてばかりいます


長老

今の瞬間に気づいていないと妄想に囚われ、嫌な事を何度も思い出して何度も苦しむ。その状態から抜け出したければ、常に今の瞬間にいて怒りの感情に気づき、決して怒りの思考に入り込まない事だ。


嫌な事は考えても考えてもなくならない。そんな時は思考ではなく感情の方に目を向ける。そして常に今の瞬間に気づいている事だ。事態を悪化させるのは怒りや嫌悪感による思考だ。だが今の瞬間に気づいていれば考える事はない。考えたくなければ今の瞬間に気づいている事だ。





修行者

一人で修行していると雑念が多くなって巻き込まれやすくなります。


長老

気づきを失うたびに取り戻し、雑念よりもそれに反応する心の方を観るようにすれば、一人でいる時でも十分に修行できる。心の中で何が起こっているのか認識し、その認識している事を認識する事だ。



たとえ楽しい事が起こっても、嫌な事が起こっても、混乱しても、惹きつけられるような音や匂いがしても、それを認識し、認識している事も認識する。物事を「私」「私の」と思わず、判断や解釈を入れず、変えようとせずに気づき、その気づきを継続させる事。それが修行の本質だ。



修行者

うつ病だった長老が出家したのはどういう理由からですか?


長老

在家でうつ病を患っていた時、今の瞬間に気づいているとうつにならない事を知り、常に気づきを継続させていた。一年も継続させたら気づきがかなり勢いづき、日常生活を送りながらでも次々と洞察が生じてきた







私たちは家で何をしていようと「今ここ」にいようとさえしていれば、生活に気づきをもたらす事ができる。例えば歩く時に右足と左足の動きを自覚していれば、感覚とそれに対する気づきが発生する。だから今の瞬間にいようとする事は、日常の活動と心とを結びつける事になる。



たとえ気づきが良くなくても、修行を続けていればチャンスが生じる。努力を続ける事で、気づきの感覚が変わり始めるのを体験する。座っていると静かになって気づきが向上しているように思えるが、それは勘違いだ。座っている時より日常生活の方がずっと気づいているものだ。



修行者

長老の指導の一番大事なものは何ですか?


長老

物事をありのままに「善悪」「優劣」などの価値判断や解釈を加えず「私のもの」にせず、変えようともせずに見る事だ。この見方をすれば常に気づいていられる。そして気づきから学ぶ事ができる。これが私の最重要メッセージだ



気づきを育てるためには、対象は何でもいい。心地良いものに気づいても、良くないものに気づいても、気づきは気づき、関係ない。また、気づきが良好である必要もなく、途切れ途切れで継続していても、十分役に立っている。今何が起こっているかに気づいていればそれでいい。






修行者

私の心はいつも妬みや憎しみでいっぱいでネガティブです。


長老

それが何であれ、どんなに醜い事であれ、気づく事はポジティブな事だ。何も変える必要はない。瞑想とは何かを修正する事ではない。ただ全てを知るだけでいい。それで直ぐポジティブな心でいっぱいになる。



心が荒れて気づきが負けてしまう時は、自問自答してもいい。気づきを強化するため「①今は何を対象にしているか?」と自分に聞いてみる。貪欲さや怒りにどうしても負けてしまう時は「②呼吸などの中性の感覚に心を置いて、感情をやり過ごす事はできるか?」と聞いてみる。


心が荒れている時は、思考がそれを煽る。だから「③対象を判断したり解釈したりしていないか?」と自問自答する。また、思考に注意を向けると感情が止まらなくなるので「④思考に巻き込まれずに感情を観る事ができるか?」と聞いてみる。このような自問自答で気づきを強化できる。



瞑想中に貪欲さや怒りが生じても、気づきのパワーの方が強ければ問題は解決される。だから気づきは完全な修行と言われる。しかし理解が不十分であればパワーも弱いため、煩悩に負けてしまう。それでも見続けていれば気づきの智慧は強まるので、気づきを継続させる事だ。



修行者

気づいていても直ぐどこかに行ってしまい、苛立ちます。


長老

そんな時は気づきについて肯定的に考えた方がいい。どんなに気づきを失っても、戻ってきた事に気づければそれで十分。常に気づいているべきと考えるより、戻ってきた気づきを歓迎するようにしてはどうか。



修行者

他の人との衝突から生じる精神的苦痛にどう対処したらいいですか?


長老

最初は相手の事を非難する思考ではなく、怒りや悲しみを観る。そしてそれがおさまったら、心の中に何度も甦ってくる相手の言動の記憶を観る。感情と甦る記憶とが、どう連動しているかを観るといい。



心の痛みは早く対処するほど軽くて済む。しかし対処が遅れると、多くの事が心に根づいて落ち着くのに時間がかかる。そのため常に気づいて、心がどのような状態になっても、素早く適切な対処ができるようにしておくといい。さもないと言われた事が心から離れなくなって更に苦しむ。






修行者

瞑想に眠くなる事が多いのですが、眠気は観察できるのですか?


長老

観察のエネルギーは睡眠のエネルギーとは異なる。ある心は眠りに落ちても、別の心はそれを観察する。2つの異なるエネルギーが発生している事に気づければ、観察する心は眠気から解放される。



日常生活では落ち着いた状態や、歓びのある状態を求めたりせず、ただ自らの心身の状態に気づくだけでいい。不満があれば不満を、心配があれば心配を、妄想があれば妄想を知るだけでいい。そして気づいている事を確認する事だ。落ち着きや歓びは気づきの継続によってもたらされる。



修行者

一日中気づきを継続させる事を目標にやっていますが、中々達成できません。


長老

目標を達成する事を考えるより、今この瞬間にいる事を心がけた方がいい。私は一日中気づきを継続させる事など考えた事もなく、単に「今ここ」にいると気分がいいから気づき続けただけだった。



私が修行中に感じた事は「今の瞬間に気づいていると鬱の状態が良くなった」という事だった。そのような動機が気づきの継続を支えたのだ。だから今の瞬間に気づいているのといないのとではどう違うか確認してみてほしい。そしてその答えを頼りに修行する事を勧める。



修行者

心はどのように探求すべきですか?


長老

探求とは対象を注意深く観察する事。その場合考えたり分析したりせずに、ただ気づき続けるだけにする。怒りがあればそれをおさめるのではなく、どのように心身に影響を与えるかを観る。好奇心が探求を進めていく。



修行者

日常生活で気づいていると、どういう利点がありますか?


長老

例えば車を運転している時でも、気づいていればより安全運転になり、渋滞になってもストレスを感じないでいられるだろう。こういうのが修行から得られる真に有益な恩恵だ。些細な事でも大切な事だ。






修行者

心は欲しくてたまらないものや、憎くてたまらないものを追うというのは、心は敢えて苦しみを追うという意味ですか?


長老

そう、瞑想修行は心の訓練だ。敢えて苦しみたくはなくても、心は苦しみを追ってしまう。だから心を訓練して、苦しみを追わないようにするしかない。


私たちに習慣づいているのは物思いに耽り、心地よいものを追い、不快なものを避ける事。日常生活ではそればかりやっているので、瞑想合宿でも自然とそればかりやろうとする。だから修行に入ったら自分の習慣に反し、心身に生じる現象全てに気づく事を思い出し続ける必要がある。



何をするにしても、今行っている事に気づくようにする。話したり、食べたり、立ったり、歩いたり、座ったり、横になったりする時は、その場にいて気づくようにする。心を今の瞬間より先に進めない。気づきが集まれば、それが心の土台となっていき、平穏さと落ち着きをもたらす。



修行者

怒っている時に怒りの思考に目を向けると益々怒りますが、怒りの感情に目を向けると落ち着きます。こういう事を知るのが智慧ですか?


長老

目を向けるものが智慧だ。つまり怒りの思考に目を向けるのが煩悩で、怒りの感情に目を向けるのが智慧という事になる。



単に、調子がいい時は貪欲さが生じ、悪い時は不安や嫌悪感が生じるだけなのに、気づきがなければそれがわからず、状態を一層悪化させてしまう。私たちがすべき努力は、解脱の叡智を育むために気づきを継続させる事だけだ。マインドフルネスの修行はシンプルだが完全だ。






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  最終更新日 2023.12.31

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