【ウ・テジャニヤ長老の名言第18集】

2023年11月3日金曜日

名言集

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修行者たちの共通点

ミャンマーの瞑想センターという所は、世界中から修行者が集まってくる一種独特な場所です。言わば地球上に棲息する瞑想好きのたまり場と言ってもいいでしょう。本当に様々な人種や民族が滞在しています。

その大部分は地元や近隣諸国の仏教国の人々になりますが、最近では欧米や中東、アフリカなどの非仏教圏からも多くの修行者たちが詰めかけます。

そして、その非仏教圏から来る人々には、ある共通点があります。それはみんな友達がいない孤独な人々だという事です。しかし、それは別に性格に問題があって、周囲の人々から嫌われているからではありません。

では、なぜ彼らは孤独なのでしょう?それは勿論、彼らは普通の人々とは正反対の生き方をしているからです。つまり普通は人間というのは、誰もが何処までも幸福を追及する事を人生の目的としているのに対し、彼らはアグラをかいてじっと座りながら「それは貪欲さだ」などと言って喜びを追うのを慎しんだり、「この世に『私のもの』と言えるものなどない」などと言って、大切な財産を簡単に寄付したり、わけのわからない事ばかりしているからです。

そのため彼らは周囲の人々から「瞑想なんかして何がそんなに面白いの?そんな生き方して何が楽しいの?」などと不思議がられ、白い目で見られてしまいます。そして友人たちからも疎外され、孤独なまま生活していくしかなくなってしまうわけです。

「自慢じゃないけど友達は一人もいない!!」

そして、そのような生活を何年も続けているうちに、彼らの唯一の自慢は、友達がいない事になってしまうのです!では、母国ではそんな孤独な生き方をしている者同士が、ミャンマーという地でばったり出くわしたらどうなるでしょう?

「💞おおおおおおおおおおおおおおお💕」

そうです。そこには人種や民族、文化を超えて、共感の嵐が吹き荒れ、初めて会うにもかかわらず、お互いを知り尽くした10年来の友達のように、固い連帯感と仲間意識とで結ばれた人間関係が生まれるのです。そのためたとえ1週間しか一緒にいなくても、一生涯の友達になってしまいます

つまりミャンマーの瞑想センターとは世界中からアウトサイダーたちが結集して意気投合し、結束を高め合う場所だったわけです。

ですから、ミャンマーの瞑想センターに行ったら、どんな修行者たちに会うのかと心配されている方がおられましたら、どうかご心配なく。なぜならそこで会うのは皆、自分と同じ境遇の人々ばかりなのですから。







修行者

心と身体のつながりを理解したいのですが、上手くいきません。


長老

例えば心配している時や嫌な気分の時、怒っている時に身体が熱く感じられたり、胸がザワザワしたりしていれば、それが思考と身体感覚がつながっている時だ。無理に心と身体を結びつける必要はない。


身体に心を向けると、感覚だけでなく、心の領域である感情にも気づく。緊張感や胸の不快感や口の渇き、身体や頭の重さ、あるいは爽快感や身体の軽さなどを観ていると、感情の方もわかってくる。その身体の内側と感情との相関関係を観ていると、より心に親近感がわいてくる。



修行者

私は食べる時の意志を観察していて、選んで食べるたびに貪欲さが食べる動機になっている事がわかりました。


長老

とても良く気づいている。貪欲さは改めようとせず気づいているだけでいい。大切なのは気づきの方だから。次の食事ではその気づいている事に気づいてみるといい。



修行者

初心者ですが、なぜ瞑想では呼吸を観るのか教えて下さい。


長老

呼吸に気づいている時は身体と心の2つの世界で生きている事がわかる。まず呼吸する事で身体が生きているのがわかるし、呼吸を観る事で心の中で起こっている事を知り、智慧を実践し、開発する事ができる。



修行者

無常とは全てのものは移り変わるという意味と思っていいですか?


長老

本当の無常を知るというのは、人生はこの一瞬しかないと理解する事だ。瞬間瞬間の現象に気づいていれば、心はあらゆる瞬間の体験と常に一致する。これが安定した平和的な心への最善の道だ。



修行者

自己評価が低く、何事にも自信がありません。それが修行にも支障をきたしています。


長老

いつも自信がないわけではないはず。自信がある時には気づいて認めてやる事だ。自信がなくなるのは多くの期待を持ちながらも、それが満たされない時だ。何事も期待しすぎないように。


過度の期待は非現実的であり、自らの首を締める。非現実的な望みを達成できないからといって自信を失くすのは賢明であるとは言えない。なぜその望みを達成する必要があるのか?その背景にある思いを理解しながら高い期待と低い自己評価の感情を観察し、それを手放す事だ。


私たちが得られるものは、私たちができる事と一致する。望んでいるほど多くのものを手に入れる事はできない。たとえ自己評価が更に低下しても、少しずつ望みを手放していけば、必ず良い結果が得られる。ただしくれぐれもそれで何もかもが上手くいくような期待は持たないように。



修行者

瞑想を何年もやっていますが、智慧も洞察も全然出てきません。


長老

修行者は自分が瞑想方法を知っていると気づくだけで既に智慧を得ている。方法を知る事自体が智慧だ。だからわざわざ何かを体験しようとしたり、認識しようとしたり、探したりする必要はない。


日頃、落ち着きのなさや心配、不安、あるいは渇望や嫌悪感などを観る事ができれば、もう既に瞑想の方法を理解している。思考に巻き込まれないように感情を観る事を知っていれば、智慧は既に働いている。修行者にとって最も役に立つ洞察は、そんな日常生活での修行方法を知る事だ。



修行者

瞑想するといつでも困難が持ち上がり、平和な心でいられません。


長老

平和すぎる心は成長する事はできないが、困難に直面しても気づきを維持できれば心は成長する。私たちはあらゆる機会を利用して、気づきを持って困難に立ち向かうべきであり、気づける事に感謝すべきだ。


瞑想中に楽しい体験を探すのは私たちの習慣だ。私たちは常に次の洞察を望んでいるが、死の間際にはそれが起こらない。私たちがこれから直面するのは、直面する必要がある問題だ。だから直ぐそれらと向き合ってみる事だ。気づきに導かれれば自分の創った物語の中で迷う事はない。



修行者

マインドフルネス瞑想の核心は気づきの継続性を高める事であり、これが最重要ポイントだという理解でいいですか?


長老

その通り、気づきを継続させるのが修行の核心だ。そして見る事聞く事に気づいたら、同時にそれら2つに気づく事もできるのも確認するといい。




心が落ち着くのは集中するからではなく、心に疑いや妄想、貪欲さ、嫌悪感などがなくなるからだ。そういう心の有害な要素があると心は穏やかではなくなる。落ち着いたらその落ち着きにも気づき、妄想や貪欲さが出たら気づくように。取り除く必要はない、気づくだけで十分だ。




修行者

他人から瞑想なんかして何が面白いと言われます。


長老

私も同じ事を言われた時に「例えば怒っている時に私が怒っていると思うのと、ただ怒りの感情があるだけと思うのとではどう違う?」と聞いたら「難解だ」と言われた。それを理解できる修行者は幸運な人々だという事だ。



修行者

私は痛みを自然のものとして観る事ができず、嫌悪感をおぼえます。どうしたら正しく観れますか?


長老

嫌いな感覚を嫌うのも自然な事だ。嫌悪感を観る時はそれがどれだけのレベルかを観ればいい。私は10段階に分けていた。それを観ながら嫌悪感が減るかどうかを確認する。


嫌悪感のレベルを観て、嫌悪感が減ったと思ったら、もう一度痛みを観る。すると再び嫌がる事に気づく。そして嫌悪感が増したらまたレベルを確認し、痛みの観察とレベルのチェックとを行ったり来たりする。そうしているうちに痛みと嫌悪感との相関関係がわかってくるだろう。



修行者

私は幸福に暮らしていましたが事故で重症を負い、その傷で今だに苦しんでいます。そのため瞑想すると混乱してしまいます。


長老

混乱した心も単なる心であり、他の心と何ら変わらない。それに気づけば幸福な心であれ、混乱した心であれ同じ事だ。大切なのは気づきの方だ。


幸福な時にそれを認識し、研究し、その本質を理解していないと、生活の状況が変わった時に苦しむ。それまで心の支えとしていたものを突然失ったからだ。だが幸福な時にそれを認識し、その本質に気づいておけば、状況が変わった時の差異にも混乱する事なく、落ち着いていられる。



修行者

瞑想中は望みや期待、後悔や恨みで考えてしまいます。


長老

何かを思い出した時は直ぐ気づかないと未来や過去に思いを巡らせてしまう。そんな時は「気づきがないと瞑想が進歩しない」と自分に言い聞かせるしかない。気づかずに動いたり考えたりしている時もそうするといい。



修行者

まだ無常・苦・無我という考え方に確信が持てないのですが、瞑想ではその考え方を適用しなければなりませんか?


長老

マインドフルネス瞑想では観察対象を判断したり結論づけたりはしない。確信のない事を信じる必要もない。ただ心身に起こる現象に気づくだけでいい。


心身に何か起ったとわかったら、その時は既に気づいている。また何もないとわかった時も気づいている。それで十分、それ以上対象についての説明は要らない。そしてその観察方法を、本当の真実を理解するための洞察力が生まれるまで続ける。仏教理論に合わせて観る必要は全くない。



修行者

私はキリスト教圏から来たため、仏教に馴染めないところがあります。仏教と他の宗教との違いを教えて下さい。


長老

確かに私たちの修行は他の宗教とは異なる。例えば他の宗教では心には実体があって永遠に続くような事を言うが、私たちは瞬時に生滅して実体がないと言う。


他の宗教では「私・あなた」「魂」「善悪」などの概念により多くの注意を向けるが、瞑想ではありのままの現実に注意を向けようとする。そして人生について学ぶために本を読んだりせず、心身を観察する。その心身についての理解が深まれば深まるほど、心はより平和的になる。





修行者

怒っている時の思考は、後で冷静になるとかなり危険なものに感じられますが、その時は止められません。


長老

日常生活の中でネガティブな思考に気づいた時は、その思考を信じているかどうか確認した方がいい。特に怒っている時の思考は、絶対に信じてはならない。


私たちはネガティブな思考を信じて失敗する事がよくある。そんな時はその思考を認識し「この考えを信じているか?」と自問してみる。特に怒りの思考は自滅の道なので、必ず確認する。自らの思考を信じれば苦しむが、自らの認識と智慧とを信じればストレスから解放される。



修行者

合宿では心は修行に打ち込みますが、家では心は修行を拒否します。


長老

家にいる時は仕事を休んで合宿代を払っているわけではないので、真剣な決意は欠落している。だから別に心が修行を拒むのではない。家にいると修行ができないような固定観念は、自らを蝕んでしまう。


なぜ私たちは家にいると修行できないと思うのか?そもそも自宅で合宿と同じようにやろうと思ったら失望してしまう。合宿の時のように準備を整えて来るわけではないのだから。家では気づける事に感謝し、毎秒幸せを感じていれば、その気持ちは成長し、やがて満足できるようになる。



修行者

合宿中は集中できるので気づけますが、家に帰ると集中できなくて気づけなくなります。


長老

あなたは集中力が気づきをもたらすと思い、自身の修行を妨げている。集中はそれ以上必要ないので日常生活では気づきの維持に努める事だ。生活に持ち込むのは集中ではなく気づきだ。


日常生活でできない事を嘆くより、今ある気づきに感謝した方がいい。あなたに足りないのは生活しながらのスムーズな気づきであって、集中力ではない。生活の中で座る瞑想同様に気づいていたければ、常に気づきを継続させる事。歩く時も食事の時も、何をするにも気づいている事だ。



修行者

老人や知人が亡くなったり、重い病気に罹ったりしたのを知ると、嫌な予感がします。


長老

それは自分も同様に年齢を重ねているので、いつか同じようになるという恐怖だ。そこには「私のもの」を失いたくないという執着心と、いつまでも生きていたいという生存欲とがある。


他人の死や病気を知って恐怖や不安をおぼえた時はどうするか?その時はまず「私の」と心身や家族、財産などに執着している事と、恐怖心や胸の不快感を観察する。恐怖が生じる度にそれがなくなるまで観察を続ければ、知人の訃報を聞いても恐怖が増大する事はなくなる。



修行者

甘いものが好きで、貪欲なのはいけないと知りつつも、毎日たくさん食べてしまいます


長老

貪欲さを取り除こうとしても、貪欲さについていくら考えてみても、修行は進歩しない。そんな習慣を変えようとするのではなく、その貪欲さを観察してはどうか?その方が簡単にできる。


もし貪欲さや怒りで失敗したり、健康を害したりするような事があれば、そんな習慣を変えようとするより、どんな対象に貪欲になったり怒ったりするのかを観た方がいい。瞑想は何かを変えようとするのではなく、ただその感情に気づくもの。囚われているものを自覚するだけでいい。



修行者

瞑想がうまくいっているかどうかを知るにはどうしたらいいですか?


長老

例えば瞑想中に何か思い出して怒った時、その怒りに気づき、怒りの原因となる思考ができなくなって怒りが消えたら、それは正しい方法だ。怒りに気づこうとした時点で既に瞑想に成功している。


心に怒りがあるとして、それに気づこうとする心は善心になる。それは心の質を変え、怒りを消す。怒りが消えるかどうかは重要ではない。重要なのは気づこうとする努力の方だ。気づく努力をしてその努力に気づき、更に気づいている事にも気づければ、瞑想にはもう熟練している。





修行者

瞑想中に何か思い出すと、気づくより考えたくてしょうがなくなります。


長老

私たちは悟りには程遠い。だから好き嫌いによって気づく以上に考えたくなる。そんな時は「まだ理解していない事がたくさんある」と自分に言い聞かせて観察に努めるしかない。



修行者

ある時は気づきが継続できたかと思うと、ある時は気づけなくなったりして修行に一貫性がありません。


長老

心が気づきを好むようにするには、気づく度に気づきに感謝し喜ぶ必要がある。そして気づきに不満を持たない事だ。気づく度に喜べば、心はまた気づきたい気持ちになる。


たとえ小さな気づきであっても成功したと思っていれば、心は気づく事が幸せだと感じ、気づきが生じる度にどんどん気づきたくなってくる。しかし気づいていても「大したことではない。もっといい体験をしたい」と不満を持つと、心は気づこうとする意欲がなくなって気づけなくなる。



修行者

瞑想するのに適した場所や時間はありますか?


長老

まず瞑想に対する固定観念を捨てる事だ。瞑想するのは心であって場所や時間は関係ない。何をするにも気づいていれば、心は一日を通してリラックスして平和になる。何かを体験する事を目的にすると、道をそれてしまう。



修行者

瞑想中に考え込んで落ち着くどころか興奮してしまいます。


長老

興奮した時は一時的に呼吸などの穏やかな対象に注意を移す。考え込んでいる事に気づいたら直ぐにやって興奮をやり過ごす事だ。それによって思考に巻き込まれずにすむ。興奮が冷めたらまた通常の観察に戻る。


考え込むというのは多くの場合「私」に囚われている。「私が何かした/された」と思うと記憶が現実味を帯びてきて、後悔や自己嫌悪に陥ったり、恨み憎しみに駆られたりするからだ。「私が」という思いがあると心は記憶と一体化し、記憶を対象として識別できなくなってしまう。



修行者

私たちは本当に輪廻しているのですか?


長老

私たちは毎朝起きて歯を磨き、食事をしてから同じ道を通って駅ヘ行き、電車に乗り、会社へ行って毎日毎日あれこれ色んな事をしなければならない。おそらく毎日数百もの事を繰り返しているだろう。それが輪廻というものだ。



修行者

死ぬまでは今生ではないのですか?


長老

私たちは死が訪れるまではずっと同じ人生を生きていると思っているが、実際には心が湧き上がる全ての瞬間は別の人生になる事を知っておく必要がある。今の瞬間の次の心は来世になるのだ。つまりあらゆる瞬間に来世が来るというわけだ。



修行者

「私」という概念や個人の好みなどは何故発生するのですか?


長老

個人とか独自性などといったものは、物事を認識する普遍的プロセスによって捏造される。私たちは何かを見たり聞いたりする度に、概念的な人生を創造しているのだ。それを理解すれば概念に惑わされなくなる。




修行者

じっとしているのが苦手で座る瞑想ができず、日常生活の活動をただ観ているだけです。しかしやっているうちに更に落ち着かなくなりました。


長老

あまり深刻にならずに脱力して他人から気づきながら生活してるとバレない程度にやった方がいい。あまり辛い思いをしないように。


瞑想が辛く感じられる時は、落ち着きのなさは観ない方がいい。直接それを観る事で心が動揺すると、事態は更に悪化する。そんな時は気づきながら楽しくなるような事をするといい。動いているのが好きなら料理したりお茶したり、何でもいいから楽しい事をしながら気づいている事だ。



修行者

今生で瞑想修行をしなければ、来世は低い世界に生まれ変わるのですか?


長老

私たちが悪趣に生まれ変わるか善趣に生まれ変わるかは、心の成熟の度合いで決まる。心は習慣のパターンであり、怒りや貪欲さに支配されたのと、善心を持って死ぬのとでは違ってくるわけだ。


来世の人生に目を向ける必要はない。なぜなら来世はこの人生で既に、幸福で充実し、自信に満ちた高度な精神状態を培っているか?未熟で欲と怒りに支配された不幸な状態にいるか?見えているからだ。だから死ぬまで待つ必要はない。毎日自身の生まれる世界を体験している。



修行者

長老の言う瞑想時の正しい心構えはどうすれば身につきますか?


長老

正しい心構えを身につけるには、正しい心構えを受け入れる事だ。例えば、瞑想中に意識が鮮明になるような体験をするよりも、雑念だらけでもそれに気づいている方が素晴らしいという考えを受け入れるのだ。


瞑想時の正しい考え方とは「大切なのは何かを体験する事ではなく、気づく事の方」という事だ。この考え方を受け入れれば既に心に正しい心構えは存在している。正しい心構えさえあれば、瞑想中に騒音や痛み、雑念があっても、それらを邪魔だと思わずに瞑想に成功する事ができる。



修行者

パニック発作の時に気づいているにはどうしたらいいですか?


長老

パニック発作で心が圧倒されている時は、痛みを伴うものを直接観ない方がいい。心を呼吸のような中性的な感覚に置いたり、音が聞こえてくる事に気づいたりして、まずは不安や恐怖をやり過ごす事だ。


心が混乱し、不安や恐怖に駆られている時は、決して思考に巻き込まれてはならない。そんな時にいくら考えても不安や恐怖の思考しかできず、一層それらの感情を増大させる事にしかならない。一旦心を中性的な感覚に避難させ、感情と思考をやり過ごし、落ち着いてから感情を観る。



修行者

私はてんかんを患っているので不安になると失神します。不安を軽減するにはどうしたらいいですか?


長老

不安に気づける事に満足していると楽になるが、不安を取り除こうと必死になっていると苦しくなる。気づける事に感謝すると、楽に気づきを継続させられるようになる。


心に不安があってもそれを取り除こうとせず「不安があっても気づけば大丈夫」と考えるようにした方がいい。不安をなくそうとすると何かある度に不安がやってくるのではないかと恐れる事になるが、不安に気づき、気づける事に感謝していれば、やがて不安や恐怖は和らいでいく。



修行者

気づきと洞察との違いは何ですか?


長老

困難な状況に直面していても、気づきがあり、貪欲さや怒り、妄想から解放されていればそれは洞察であり、智慧が働いている。つまり困難な時には、貪欲さや怒り、自分について考えている事を観ればいいと知っているのが洞察という事だ。



修行者

不快感や怒り、不安などに気づくたび嫌な気分になります。


長老

瞑想中は何かが起こったからといって不幸になるのではなく、気づけている事を喜んだ方がいい。実際に気づきは心にとって有益な事であり、喜ぶべき事だ。気づく対象は何であれ、気づけばそれで大成功なのだから。


気づく対象は何であれ、ただ気づいていれば瞑想は成功している。心がこの正しい考え方を受け入れる時は、対象を深く理解している。気づかずに日常生活の様々な出来事に巻き込まれて苦しんでいる時の事を思えば、たとえ気づいたのが怒りであっても、それは幸せな事だと思える。



修行者

瞑想を始めるとまず苛立ちや身体の不快感がありますが、それが気づきを引き起こして喜びが生じてきます。


長老

困難に直面するのは心にとって有益な事だ。いい状況にばかりいても心は成熟しないが、問題に直面すれば気づきによって学び、成長する事ができるからだ。



修行者

望みが叶わないと苛立ち、ストレスになる事がわかりました。


長老

その通り。それがわかったらあとは、望みが叶った時も忘れずにその結果が生じるために必要な原因や条件が整っている事に注目する。そうやって因縁から結果を見直す習慣をつけると、貪欲さや怒りが減少する。



おしまいに、ベトナムの12歳の女の子が描いたウ・テジャニヤ長老の一日の様子をどうぞ。長老の一見コミカルな風貌は、子供たちの目にはまるでマンガのキャラクターのように映るのかもしれません。





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「DON'T LOOK DOWN ON DIFILEMENTS - 侮れない煩悩」入門編


「DHAMMA EVERYWHERE - ダンマはどこにでも」実践マインドフルネス


「AWARENESS ALONE IS NOT ENOUGH - 気づくだけでは不十分」マインドフルネスQ&A

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  最終更新日 2023.12.31

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