【ウ・テジャニヤ長老の名言第17集】

2023年9月1日金曜日

名言集

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熱が冷めないうちに!!


コロナパンデミックが始まって以来かれこれ4年になります。この間ミャンマーの瞑想センターは感染拡大防止のため、ずっと閉鎖を余儀なくされておりました。しかし今ではパンデミックも収まり、瞑想センターの方も順調に・・・・と言いたいところですが、実はまだ瞑想センターは、どこも閉鎖されたまま再開の目処が立っておりません。


これはもうご存知の通り、政情不安が主な原因として挙げられます。内戦が激化している状態ではしかたありません。


では、このブログをお読みいただいたりして、直ぐにでも瞑想センターに行って修行に打ち込みたくなっている人々はどうしたらいいのでしょう?せっかく修行したい気持ちに駆られているのに、こんな事では熱が冷めてしまうではありませんか。


そんな訳で今回はミャンマー以外にある瞑想センターを調べてみました。ミャンマー以外の仏教国のタイやスリランカ、ネパールやマレーシアなどでは、とっくの昔に瞑想センターが再開しています。熱くなっている方々は、冷めないうちに早くミャンマー以外の国を訪れてみてください。


まずタイですが、こちらでもマインドフルネス瞑想は大人気で、中でもこの手動瞑想のダンマ・ウィリヤ・アシュラムには日本人がたくさん訪れます。



https://uramasafaa.wixsite.com/viriyadharma/home



それからワット・ソファラム国際瞑想センターという、シュエウーミンの修行者がよく訪れる瞑想センターもあります。



https://watsopharam.org/



スリランカではこのスマティパーラ国際瞑想センターが外人に人気があります。私の友人のイタリア人も、現在ここで修行中です。



https://www.photodharma.net/Sri-Lanka/Sumathipala/Sumathipala.htm



また、マハーシ式の瞑想センターですが、こちらはマレーシアにもたくさんあります。マレーシアは3か月まででしたら、ビザ無しで滞在できるので、面倒な手続きが不要です。


これはペナン島にあるMBMC(Malaysia Buddhism Meditation Center)という、パンディタラマ・シュエタンゴン瞑想センターの支部です。



https://www.mbmcmalaysia.org/?m=1


そしてこのルーナス瞑想センターは、マハーシ瞑想センターのマレーシア支部ですが、クアラルンプールやペナン島等、マレーシア各地にいくつもの分支部があります。



https://www.dhamma.ru/sadhu/1645-buddhist-hermitage-lunas


ネパールのルンビニーにもパンデイタラマ・シュエタンゴン瞑想センターの支部があります。こちらのドイツ人指導者は白人さんに凄い人気があります。



http://www.panditarama-lumbini.info/


更に、こちらのBMSM(Buddhist Missionary Society Malaysia)はパオ式の瞑想団体です。パオ式瞑想センターもミャンマー以外の国にたくさんあります。



https://bmsm.org.my/about/


こんな感じで瞑想センターでの本格的瞑想修行は、ミャンマーでなくても十分にできます。ですから今熱くなっている方々は、ぜひこれらをご利用になってください。くれぐれも修行への情熱が冷めてしまう事がありませんように。





修行者

無常・苦・無我について本で読んでいたら絶望的で落ち込みました。


長老

智慧と煩悩とが一致していないとそうなる。無常について考えても、心の中には依然として「いつまでも存在したい」という強い渇望があるため対立が生じ、絶望感で怒ったり憂鬱になったりするわけだ。


苦については、実際には「決して満足する事はない」という意味なのに、ほとんどの人は感覚の苦痛の意味に誤解している。そして心の中に「楽になりたい」という渇望があるため、それと対立して不快な気分になる。だから心がまだ理解していない事は考え過ぎない方がいい。


また「何でも思い通りにしたい」と熱望しているのに、無我の「思い通りになる事はない」という話を聞けば、当然嫌にもなる。瞑想を続けて智慧が生じると無常・苦・無我の理解が自然と心の中に生まれる。これらは考えてわかるものではなく、智慧で閃くものだと思った方がいい。



修行者

コロナに感染して味覚と嗅覚を失った時は、どうしたらいいかわかりませんでした。


長老

辛い状況に直面しても逃げずに気づいている事だ。そうすればどんな辛い状況でも気づいていられるようになる。楽しい事も辛い事も、気づきの対象としては同等のものなのだから。


なぜ人は体調が悪いと苛立つか?それは楽しい状況に執着しているからだ。そして状況が悪化すると、振り子のように楽しんだ分だけ心は抵抗する。しかし智慧は楽への執着は許さず、楽しい事も辛い事も気づきの対象としては同等であると見なし、執着を超えようとする。



修行者

瞑想中に気づきの質が悪い時はどうしたら良くなりますか?


長老

気づきの質をチェックするのはいい事だがそれを変える必要はない。気づきがよくない事と、よくなるように望んでいる事を確認すれば十分。瞑想とは起こっている事を認識するもので、何かを変えるものではない。


修行者はたいがい悪い状態を嫌う。そして何とか克服しようとしてしまう。しかし悪い状態は悪い状態で、一つの気づきの対象にすぎない。対象を自分に都合のいいようにコントロールしようというのは誤った考え方だ。大切なのは状態の良し悪しよりも、それに気づく事だ。



修行者

瞑想中はいつも思考が邪魔になります。


長老

その考え方は正しくない。心とは考えるものだ。考える事ができなくなったら大変だ。思考を邪魔者扱いすると余計に気になってくるので、そんな時は思考が起こる過程、雑念が起り、考えたい気持ちが起こってくるのを観る事だ。


私たちが外部の音に気づいている時は、音に注意を向けているのではなく、音が聞こえ、聞きたい気持ちが生じ、音に注意を向けるという過程を観ている。それと同様、思考が気になる時はその過程を観る。欲や怒りは思考に巻き込まれる方を選ぶが、智慧は思考の過程の観察の方を選ぶ。



修行者

日常生活で気づきを継続させるコツを教えて下さい。


長老

日々の活動の中で頻繁に「今気づいているか?」と自問してみるといい。それだけで十分。心は今何を認識しているのか?日常生活の中でその事を思い出すだけで気づきの性質がより明確になる。





修行者

心が落ち着いて明晰な体験をしましたが、何か気をつけなければならない事はありますか?


長老

心が明晰で賢明な体験をしても、それを「私の体験」にしてしまうと賢明ではなくなる。誰のものでもないそのような体験があったという現実だけを見ると、賢明な体験になる。



修行者

日常生活で気づいているとどうなるのですか?


長老

通常、私たちは人間として「私」「あなた」「善悪」「優劣」などの、実際には存在しない概念の世界でのみ生きている。しかし心身の現象に気づく事で心のプロセスを探求し、現実世界にアクセスできるようになる。


概念的世界での生活はストレスが多く、「私の」怒りや貪欲さに束縛されている。一方の現実世界には「私」「優劣」などという概念はないので、バーチャルの世界から解放された気分でいられる。気づきを持って心のプロセスを探求する場合にのみ、私たちは自由を味わえるのだ。



修行者

苦というのは概念的世界だけのものなのですか?


長老

「私」「私の」という考えは概念的世界だけのもので、現実には存在しない。「私」があれば苦しみが生じ「私」がなければ解放がある。妄想は概念的世界で生きる事を選択するが、智慧は認識によって現実世界を選択する。



修行者

瞑想中に昔の事を思い出すと、自己嫌悪で瞑想できなくなります。


長老

記憶の解釈や物語の筋の方に目を向けると問題が起こる。何かを思い出すたび解釈したりイメージしたりしている事に注意する。記憶を「過去の私」と解釈せずにそのまま観る事だ。


私たちには悪い思い出がたくさんある。しかし記憶は邪魔にはならない。記憶を消す事はできないが、智慧があれば記憶のせいで嫌悪感が生じる事はない。何かを思い出しても、その物語の筋やイメージに目を向けたり「これは私」と執着したりしなければ、それはただの記憶でしかない。



修行者

瞑想中は音や雑念が邪魔に思えます。


長老

サマタ瞑想では音や雑念は本当に邪魔になるが、ヴィパッサナーでは邪魔にはならない。音が聞こえたらそれを認識し、考え、感情が生じるというプロセスを観るからだ。雑念も同様にそれによって起こった心身の変化を観ればいい。


一点集中のサマタ瞑想では、音や雑念があると深い集中が得られず心が乱されてしまう。音や雑念が本当に不快に感じられる。しかし気づきのヴィパッサナー瞑想では、音や雑念を対象とし音や雑念のお蔭で無常・苦・無我を理解できる。だから修行者を邪魔するものは何もなくなる。



修行者

なぜ瞑想中に集中し過ぎると良くないのですか?


長老

対象に気づいているだけの状態と、対象をジッと見つめた時の状態とではどう違うか?ジッと見ると「自分がいる」という感覚が強く出てくる。それによって「私」がいて「私が何かやってる」という考え方になってしまう。


私たちは何かを見たり行ったりするたびに「私が見た」「私がやった」と認識しているが、気づいている時はただ何かが見えたり、心身が動いただけと認識されている。しかし気づいている時にジッと見ると「私が」という概念的認識も機能するため、気づきの効果が失われてしまう。



修行者

マインドフルネス瞑想でやる事は、概念と現実、思考と認識とを見分ける事と思っていて間違いないですか?


長老

そう、ここでやっている事は単純明快で、何かを認識している時にその認識を認識し、認識を通して現実世界を発見していく事だと思っていていい。





修行者

瞑想中に何か思い出すと重要な事に思えますが、後でなぜあんな下らない事を考えたのかと不思議になります。


長老

それが妄想の罠だ。心が気づきより考える方が重要だと思える時は妄想に囚われている。妄想に囚われるとどんな下らない事でも重要に思える。


心は見たり聞いたり考えたりするものを現実のもののように受け取る。誰かの事を想像すると、想像が現実のように思える。自分を想像すると、それが実在のように思える。だから何かをする時に気づかずにいると「私が」実際に永続的な体験をしたように思えてしまう。



修行者

私は話したくない事が多く、どこにいても孤立してしまいます。もっと話した方がいいですか?


長老

話すか話さないかは重要ではない。話すべきなら話し、話すべきではないなら話さない事だ。これは智慧が導く事を意味する。好き嫌いで話すと智慧より煩悩に導かれる事になる。



修行者

気づかずに見たり聞いたりすると、概念に悩まされるわけですね?


長老

気づかずに何かを行うと「私」が何かを体験しているように考え、そのまま「善悪」「優劣」を争う概念的世界に巻き込まれて疲弊する。しかし気づきがあれば概念や幻想から抜け出し、冷静でいられる。


大切なのは物事に善悪や優劣の判断を加えない事だ。マインドフルネス瞑想では対象に心を乱される事はない。物事には善悪も優劣もないのに、自分で勝手にそれを決めて心を乱される。しかし瞑想に熟練すれば物事を判断せずにありのままに観る事で、智慧や善心が増える事になる。



修行者

人によって「美しい」とか「美味しい」という感覚が異なるのはなぜですか?


長老

私たちが何かを見るたび心はそれについて考える。見るプロセスと考えるプロセスとは別物だ。美しいものや美味しいものがあるのではなく、そう考えているだけだ。だから人によって異なる。


仏壇の花を見ると、心は美しいとか美しくないとか考える。花が美しいと思うのは思考のプロセスだ。実際には花は美でも醜でもない。この見るプロセスと考えるプロセスの組み合わせで人は花がどんなものかと言う。そのような花が存在しているのではなく、そう見ているだけなのに。



修行者

いつも座る瞑想が終わって立ち上がった途端に、気づきがどこかへ行ってしまいます。


長老

瞑想が終わっても合宿が終わっても気づきは継続させるべきだ。過去も未来も想像の中にしかなく、現実は今の瞬間にしかないという正しい考えを持つと、気づきを継続させやすくなる。





修行者

私は修行の正しい心構えを知っていますが、それでも瞑想中に苦しみます。知識だけだからですか?


長老

瞑想修行はゲームみたいなものだ。やればやるほど理解が深まり熟練していく。正しい心構えとは、瞑想中に良い体験を望まず、起こってくる現象を全て受け入れる事だ。


瞑想中に自身がどのような心構えでいるかを確認するのは大切な事だ。自身の心構えを認識するたび洞察は深まり、観察に熟練する。瞑想中にいい体験を望んだりしている事に頻繁に気づけるようになる。自身のそのような態度を見つければ見つけるほど、瞑想中の障害が少なくなる。



修行者

気づきさえあれば、瞑想中は雑念だらけだろうが苛立っていようが構わないのですか?


長老

瞑想中は鮮明な心であれ、苛立った心であれ、対象としては同等のものになる。たとえ不善な心であっても、それに気づけば善心が発生する。だから対象が何であれ、それに気づく事だ。



修行者

修行の正しい態度とはどういうものですか?


長老

私たちは瞑想で心地良い鮮明な状態になる事を望み、嫌悪感や不快感を除こうとする。しかしそれは気づきよりも体験を重視する考え方だ。気づけば不善心からでも善心が生じ心の質が改善されると思えば更に気づきが促進される。



修行者

思考を直接観察するにはどうしたらいいのですか?思考が起こった事に気づいたとしてもそれ自体が思考ではありませんか?


長老

いや、そうではなくて、あなたは思考が起こった時に既に気づいていた。そしてそれについて考えたのだ。あなたは思考を観ようと頑張り過ぎている。


座って呼吸を観察している時に何か考えた事に気づいたのであれば、それは呼吸と思考とに同時に気づいている事を意味する。そんな時は両方の対象を観ればいい。呼吸と思考とを別々に観る必要はない。そんな感じで思考が起こった事がわかれば十分。なにも気負って観る事はない。



修行者

瞑想中はかつて酷い事を言われた記憶ばかり思い出して不快になります。いくら観ても全然解決されません。


長老

それでもあなたのすべき事はそれを認識する事だけだ。何度でも思い出しては不快になるプロセスを観る。思考に巻き込まれないよう、感情に注意を向けながら。


同じ事ばかり思い出す時は、そのプロセスを観続けるだけでなく「私はまだ何も学んでいない」という考えも認識した方がいい。心の探求において結果を期待している事実は本当に見逃しやすい。そして期待通りの結果が得られなかった場合は、そこから落胆や失望が発生する。



修行者

修行が妨げられて前に勧めないような気がします。


長老

あなた自身の期待以外に修行を妨げるものはない。瞑想でいい体験をしたり、上達したりする事を期待すると、期待通りにいかなかった時に上達していないように感じる。修行がどこへ向かっているかは考えないほうがいい。


修行においては私たちの期待以外に障害はない。修行を続けている限りは瞑想は確実に進歩している。私たちは何も心配せずに修行するだけでいい。心配すべきなのは今の瞬間に気づいているかどうかだけであって、もし心配になったら、確認すべきはその事だけだ。




修行者

私は自己中心的でケチなので、それを克服して善人になりたいのですが?


長老

いや、利己主義やケチを克服しようとすると修行が難しくなる。それよりも無我について探求するとか、寛大さを育てようと考えた方がいい。あなたが理想とする善人というのも曖昧な概念にすぎない。


修行では利己主義やケチを克服して自身を浄化するのではなく、むしろ心の性質について探求するとか、健全で有益な心を育てるといった方法で心を改善すると考えた方が楽になる。また、概念通りの人になろうとするよりも、今の瞬間の現実のありのままの自分に気づいた方がいい。



修行者

修行に対する正しい考え方を保つにはどうすればいいのですか?


長老

基本的には瞑想に何かを期待したり、何かいい体験を望んだりする誤った態度を認識する事だ。気づけば直ぐ改善されるものもあるが、長く続くものもある。誤った態度を失くしたいというのも誤った態度だ。


瞑想中に心身に起こる事には「善悪」「優劣」などの判断を入れず「私の」ものにもせず、ただ気づくだけでいい。快い対象でも悪い対象でも関係ない。大切なのは気づく事だ。いい事が起こるのを期待したり望んだりしたら直ぐ気づく。その気づきこそがいい体験なのだから。



修行者

瞑想修行をせずに考える事で悟る事は可能ですか?


長老

例えば私たちは色受想行識の五蘊を熟考し、自己には実体がないという自己解体の体験をするが、それはやはり修行していないとできない。気づき続ける間の一瞬の体験であり、その後も気づき続けなければならないからだ。


熟考で「色受想行識の五蘊はそれぞれの機能があるだけで五蘊という実体があるわけではない、従って自己という実体はない」と悟る体験は、あくまでも修行に裏付けられたものだ。そのように智慧を開発するために熟考する事はあるが、その考えは多くの気づきから成り立っている。



修行者

瞑想でスッキリするという人もいますが、私はいつも足が痛くて嫌な思いばかりしています。


長老

自分の体験する事に不満を持ったり、良いの悪いのと判断したりしないよう、自分に言い聞かせておいた方がいい。足が痛いとか嫌な思いとか、ちゃんと気づいているではないか。


瞑想中に痛いの嫌だのと思ったのがわかったのは、心身に起こった現象に気づいていたからだ。それで十分瞑想になっている。心身に起こるものは何であれ、全て気づきの材料となる。気づきは善心であり、心の質を向上させ、智慧を生み出す。心身に起こる現象に有害なものはない。



修行者

ストレスを感じている時は瞑想しても中々気づけません。


長老

心が動揺したりストレスを感じたりしている時は、1〜2分呼吸に注意を向けて落ち着いてから瞑想を始めた方がいい。さもないと不安や罪悪感などが生じてくる。心が落ち着いているかどうかを確認するのも大切だ。



修行者

日常生活では食事やお茶の時に気づくようにしています。仕事中は気づきながらやると失敗するのでやりません。


長老

日常生活では朝目が覚めた時から夜眠りに落ちるまで、オハヨウからオヤスミまでずっと暮らしを見つめた方がいい。部分的に気づいていても効果は上がらない。


日常生活では洗面も入浴も、テレビを見るのも本を読むのも、全ての事を気づきながらやった方がいい。仕事ももちろん気づきながらやった方が能率よくできる。ミスをするのはむしろ不注意な時だ。一度確認してみるといい。一日中気づいていると生活が充実し、生きる喜びが増す。



修行者

座っている間に眠ってしまう場合はどうしたらいいですか?


長老

それは癖になっているので今後も続くだろう。眠くなったら目を開けて瞑想してもいいし「まだ気づいているか?」と自問してもいい。目覚めるために「今これに気づいている」と思考を活用して答えてもいい。


瞑想中に眠い時にする「今何に気づいている?」「音に気づいている」「○○に気づいている」などといった自問自答は、日常生活で頻繁に気づきを失う時にも使える。それによって気づきがより継続的になる。ただし10分自問自答しても眠くなる場合は、歩く瞑想に切り替える事。



修行者

貪欲さは瞑想中はどういう形で出てきますか?


長老

例えば修行者は「なぜ私の瞑想は進歩しないのでしょう?」などと言う事があるが、それなどは貪欲さの表れだ。私たちが重視すべきなのは期待している結果ではなく、気づく事そのものなのに、貪欲さがそう思わせる。


貪欲さを認識できる事は感謝すべき事だ。なぜなら私たちは、貪欲さや怒り、嫌悪感、不安、悲しみなどに気づく事で智慧を開発し、心の機能を理解し、洞察を得る事ができるからだ。だからそれらを決して有害なものと見なさず、単なる気づきを磨くための材料だと思った方がいい。



修行者

瞑想中に嫌な事を思い出した時は「これは私」と思わないようにしていますが、あまり効果がなく、相変わらず怒りや罪悪感が生じてきます。


長老

正しい考えを取り入れるのは、正しい態度で瞑想するためだが、心が興奮しているとその効果が出ない。まずは落ち着いておく事だ。


例えば「全ては無常」という考えは興奮している時は受け入れる事はできない。だが気づきを継続させて落ち着いている時は、どんな嫌な事を思い出しても「私」と思わなければ怒りや罪悪感は生じない。つまり正しい考えで正しく瞑想するには、気づきの継続が不可欠になるわけだ。



修行者

瞑想中はいつも雑念を観ているか考えているかのどちらかです。


長老

マインドフルネス瞑想は今の瞬間に心身に起こっている事に気づくだけで十分。より良い瞑想だと思うものを手に入れようとはしなくていい。進歩を急ぐ必要もない。今気づいているものが最高の瞑想対象になる。




最後にこの「Don't expect anything」は、今ミャンマーを一番騒がせている映画です。監督のスイス人は、サンガを冒瀆したという理由で政府当局に逮捕されてしまいました。(軍政批判よりずっと罪は軽い)興味のある方はぜひ自動翻訳を使ってご覧下さい。



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「DON'T LOOK DOWN ON DIFILEMENTS - 侮れない煩悩」入門編


「DHAMMA EVERYWHERE - ダンマはどこにでも」実践マインドフルネス


「AWARENESS ALONE IS NOT ENOUGH - 気づくだけでは不十分」マインドフルネスQ&A

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《お知らせ》シュエウーミン瞑想センターの再開について

  最終更新日 2023.12.31

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