【ウ・テジャニヤ長老の名言第19集】

2024年1月5日金曜日

名言集

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ウ・テジャニヤ−1,0


昨年末、この記事の質疑応答の解答者であるウ・テジャニヤ長老が、突然私が滞在しているお寺を訪ねて来ました。


私が現在滞在しているのは、ミャンマーの中央部からタイ、ラオス、中国国境にかけてそびえ立つ1500メートル級の山岳地帯、シャン高原にあるシャン州のヘーホーという町です。私はこの町の山の中にあるお寺で、お坊さんになって修行している最中です。


長老はミャンマーの最大都市ヤンゴンから、わざわざ高速バスで10時間もかかる田舎町にいる私に会いに足を運んでくれたのか?と言うと、そういう訳でもありません。


このヘーホーには空港があり、飛行機の利用者にとっては、まさにシャン州の玄関口とも言える町です。長老はシャン州まで用事があってやってきたついでに、空港から車で7〜8分の私のいるお寺まで、ちょいと足を伸ばしてくれたのでした。


理由は、私が「シュエウーミン瞑想センターはまだ再開しないのか?」と、何度も連絡してきてやかましいから。


そうです、コロナ禍で瞑想センターが閉鎖されてからかれこれ4年、再開を待ち望む人が多いため、私はどうしても頻繁に確認を入れずにはいられなかったのです。


「再開したらこちらから連絡する!悪いが、もうしばらくここで修行していてくれ!!」


長老はただそれだけを言いに、わざわざ私に会いに来たようでした。急かされているみたいで、よっぽどウザかったのでしょう。私の方もこうして日本に向けてシュエウーミン瞑想センターの情報を発信しているため、問い合わせを受けるたびに「まだか?まだか?」と再三にわたってメッセージを送らずにはいられませんでした。


という事は、長老はつまり、シュエウーミン瞑想センターでの修行を待ち望む日本人修行者の方々のために、わざわざ立ち寄られた事になります。


しかし、長老も好き好んで瞑想センターを閉鎖している訳ではありません。コロナ禍やら内戦やら、そこには止むに止まれぬ事情がありました。ですからここは、瞑想センター側も修行者側も、ひたすら修行環境が整うのを待つしかありません。


という訳で、ミャンマーでの瞑想修行を待ち望んでおられる方々には大変恐縮ですが、瞑想センターはまだこのような状況であるという、長老直々の説明がありましたので、どうかもうしばらくの間、ご辛抱をお願い致します。瞑想センターが再開しましたら、直ぐにこのブログでお知らせ致します。


「最初の3冊だけか・・・・・」


ついでに長老はこのブログについて、自分の著書が10冊ほどあるうちの、3冊しか翻訳されていないと、このような不満とも思える言葉を漏らしておられました。まるで「英語版や中国語版、韓国語版、ベトナム語版は全部翻訳されているのに、日本語版はたったの3冊・・・」とでも言いたげに。


そしてこの名言集については、日本語がわからないため、自分の指導内容が翻訳された記事だとは判らず、更に上のイラストについても、自分の似顔絵だなどとは微塵も思わず、ただ著書が3冊しか翻訳されていないという事だけを気にして去って行かれたのでした。


よそのお寺の本堂で遠慮なくくつろぐウ・テジャニヤ長老




修行者

合宿中は瞑想してると熱帯の暑さで汗をかきましたが、快適さを求める欲求がある事に気づいたら嫌悪感がなくなりました。しかし部屋に戻って扇風機を見たとたんに、嫌悪感が出てきました


長老

貪欲さを観察したのは正解だったが、瞑想についての考え方は条件次第で変わる。


瞑想中は不快感があっても正しい心構えを持ってそれを観るしかないが、条件が変わって快適さを得る事ができるようになると、心は「もう正しい心構えでいなくても大丈夫」と態度を変えてしまう。だから決して煩悩を軽視してはならない。特に貪欲さは一番厄介なものだから。



修行者

日常生活では苛立ったり、見たいものがたくさんあったりして、心が智慧とは程遠い状態にあります。


長老

日常生活では怒りや貪欲さ以外にも、何かを楽しみにして浮ついたり、心配で落ち着かなくなったりする事が多いが、どんな状態であっても気づきの対象としては同等になる。


日々をマインドフルに過ごすには、どんな心の状態でも良し悪しの判断をせずに観る事だ。それによって修行についての正しい心構えを理解し、心を落ち着かせる智慧が生じてくる。大切なのは心身の状態よりもそれに気づく事であり、悪い状態の方がむしろ学ぶ事が多くなる。



修行者

なぜ身体に痛みがある時は心理状態との相関関係を観るのですか?


長老

それはただの気づく練習だ。身体が痛い時は不快な感情も生じるため、不快な気分が落ち着くまで痛みと感情とを交互に観察し続けるといい。痛みをなくすためにやるものではないので、間違わないように。



修行者

知らない人といるより、むしろ友人知人らといる時の方が心が乱れます。


長老

身近な人といると、何かをするたび過度に干渉したりされたりし、その都度言い争ったりしてしまう。だから親しい人といる時の方がより気づきを維持するよう、慎重にならなければならない。



修行者

心の中に貪欲さが潜んでいるのなら、前もってそれを観ておきたいのですが?


長老

貪欲さは感覚器官が何らかの対象に触れて、それを快いと感じた時にのみ発生する。だから貪欲さを観察できるのはその時しかない。まだ発生していない貪欲さについては、心配する事はない。



修行者

瞑想中に誰かが歩き回ったり、外で騒いでいたりすると、気が散ってできなくなります。


長老

音が聞こえてきて不快感をおぼえ、心が瞑想どころではなくなったら、まずはその状態に気づく事だ。気づけばもう気が散る事はないし、それができれば既に瞑想に成功している。



修行者

時々気づいているのか考えているのかわからなくなります。


長老

そんな時は「今、気づいているか?」と自問してみる。同じ事を繰り返しているようで時々わからなくなるが、そのわからない事も気づきの対象だ。そうしているうちに、気づきを繰り返し適用できるようになる。



修行者

貪欲さや怒り等の煩悩は失くさなくてもいいのですか?


長老

私たちは心に貪欲さや怒り、嫌悪感、不安、嫉妬等の煩悩があっても、それに対して何もする必要はなく、ただ気づく必要があるだけだ。この瞑想は単なる気づきの訓練であり、何かを取り除いたりするものではない。



修行者

私は自虐的というか、苦しみを渇望しています。私は狂っているのですか?


長老

それはごく普通の事だ。狂っているのはあなただけではない。ブッダは私たちをプトゥジャナ、狂った世俗者と呼んだ。私たちの心は、たとえ自らを苦しめるものであろうとも、見境なく渇望するのだ。


心には習慣化されたパターンがあり、苦しみとなるものへの渇望もある。哀しい唄を好み、悲劇的なドラマを好む人の数を見るといい。私たちはわざわざ苦しみを経験したがるのだ。しかし苦しみを渇望するのは狂っていると理解したという事は、そこから一歩抜け出した事になる。



修行者

悲しみを観ると呑み込まれそうになります。


長老

そんな時は決して思考に目を向けずに、感情の方を観る。考えるとネガティブな感情が増大するからだ。だから思考と距離を置き、考えてしまわないようにする。そして気づける事に感謝すると、気づきを継続しやすくなる。


瞑想中にネガティブな感情に圧倒されそうになっても、その感情と闘ったり、その感情が減少するようにしたりする必要はない。ただ観察する必要があるだけだ。観察すると心のポジティブな性質が成長し、ネガティブな性質は減少する。つまり悲しみを理解するつもりで観ればいい。




不安や恐怖に駆られている時に「私は恐れている」などと自分の事を考えると、状況を更に悪化させる。だから思考に巻き込まれないよう、身体の状態、心臓の鼓動や熱、顔の紅潮などと、感情との相関関係に目を向ける。そして自身の心に「何を恐れているのか?」と聞いてみる事だ。



修行者

なぜマインドフルネス瞑想で日常のストレスを軽減できるのですか?


長老

私たちは気づきを持って心を観察する時、苛立ちや恐怖、不安、心配などの感情が瞬間的に消え去る事を知り、安心を得る。しかし心の状態を観ずにいると、感情や妄想に囚われ、ストレスを感じてしまう。


日常生活で常に心理状態に気づいていると、苛立ちや憎しみ、不安、恐怖などに囚われなくなり「私は非難された」とか「私は失敗した」などという『私』という思いにも囚われなくなる。そのためには、ただ日々の活動をしながら「今気づいているか?」と頻繁に自問するだけでいい。



修行者

精神状態が良くない時に瞑想しても効果はありますか?


長老

確かに集中の瞑想では機嫌が悪かったり、眠気や病気などで心が曇っている時は効果が上がらない。だがマインドフルネス瞑想では気づいてさえいれば対象は関係ない。その悪い状態に気づけば心の質が良い方に変わる



修行者

今にいながら気づくという、二つの事を同時にやるのが大変です。


長老

いや、一つだけだ。気づいているのが今だ。気づきと智慧とは過去でも未来でもなく、現在の瞬間にしか起こらない。だから気づいていれば今の結果に満足できる。瞑想すればその習慣が身につくわけだ。



修行者

他人から非難されている時でも落ち着いて対応するにはどうしたらいいですか?


長老

他人と接して心が乱れそうな時は、心を呼吸に置き、常に呼吸を感じながら対応する。激しい怒りや悲しみの感情が出てきた時は、そのまま心を呼吸に置いてやり過ごすといいだろう。



修行者

気づきを継続させようとするとエネルギーを注ぎ込み過ぎて疲れます。


長老

気づきを全く途切れさせない事を目指してやるとキツくなるので、途切れては戻りながら一貫して気づいているようにした方がいい。途切れても一貫していれば大丈夫なので、緊張しないようにやる事だ。



修行者

世界の全ては概念であり、幻想であるというのは本当なのですか?


長老

世界は概念であって実際には存在しない。例えば山でも川でもそれについて考えた時は存在するが、感覚や思考に気づいている時は存在していない。智慧がつくほど思考が減るので、概念的世界も小さくなる。



修行者

瞑想中は落ち着かなくて全く気づけなかったので落ち着きのなさを観ていたら様々な事を望んでいるエネルギーがありました。


長老

その時に感じたのは落ち着きのなさではなく不満だった。何も気づけないと思って不満だったかもしれないが、実際には良く気づけていたではないか。


瞑想中は心が鮮明ではなくても、気づけていればそれで十分。だが、その不鮮明さに不満を持つと、上手くできなかったように思えてしまう。あなたは心の鮮明さによって瞑想の良し悪しを判断したが、それは対象の方ばかり観ていたからだ。気づきに注意を向けると成功したと思える。



修行者

瞑想の妨げになる五つの障害とはどういうものですか?


長老

五蓋とは貪欲さ/瞋恚/怠慢さ・眠気/浮つき・後悔・心配/疑念の事で、集中の瞑想では禅定を妨げる要因と言っているが、マインドフルネス瞑想では、日常生活で心を気づきから遠ざける要因と言っている。


五蓋は五蘊(色受想行識)の一つ、行蘊に属し、心の中で生じては滅するだけのものだ。しかし私たちは、それらの感情を「私のもの」と思い込んで、事を大袈裟にしてしまっている。五蓋を自分のものとせず、単に条件によって生滅する無常の心と見なせば、もはや問題はなくなる。





修行者

煩悩の強力なパワーは、普段はどこに潜んでいるのですか?


長老

私たちの貪欲さや怒り、妄想は、条件によって形成される現象で、瞬時に生じては滅する。ただそれだけのものなのにもかかわらず、それに「私」「私の」と執着すると、常に存在しているように思えてしまう。


全ての心と同様に、貪・瞋・痴の心もまた無常であって「私の客観的イメージ」とか「私の怒り」などと掴んでしまえるものではない。だから貪欲さや怒り、不安、恐怖などの煩悩に気づいた時は「全ての形成されたものは無常である」と自分に言い聞かせておいた方がいい。



修行者

自分では物事に「私のもの」とか「私がやっている」などと考えているつもりはありませんが、いつの間にやっているのでしょう?


長老

物事を自分がやっているかのように考える同一化は、何かを行おうとする意志と共に生じる。だから意志が生じた時に気づかないとわからない。


物事に「私のもの」とか「私がやっている」と考える同一化の作業は、何かを行おうとする意志と共に、五蘊の中の行蘊であり、心の中で起こる無常の現象(Anicca Vata Sankhara)になる。私たちはこの同一化の作業に気づかなければ「私」という概念は増大するばかりになる。



修行者

いつもストレスで苛立ち、発散のために浪費してしまいます。


長老

ストレスは抑圧され、心に蓄積された強力なエネルギーであり、条件が揃えば表面に現れ続ける自分の思い通りにできるものではない。だから「私のストレス」と思うのではなく、自然のものと見なした方がいい。



修行者

気づける事に感謝するにはどうしたらいいですか?


長老

まず私たちは、何をするにも期待を持っている事を知らなければならない。気づく事で何かいい体験でも起こるような期待をしていると、気づくだけでは不満になる。実際には、気づく事そのものがいい体験にもかかわらず。


瞑想で何かいい体験が起こるように期待していると、その期待は存在し続け、瞑想する度に不満になる。実際には気づく事で心の性質は良くなり、落ち着き、怒りや嫌悪感、貪欲さによる思考で失敗する事はなくなっているにもかかわらず。しかしその恩恵を知ると、自ずと感謝が生じる。



修行者

座る瞑想中に眠くて瞑想できなくなったら歩く瞑想に切り替えてもいいですか?


長老

それが正しい方法だ。眠くて瞑想にならない時は気づきを継続させる事ができず、智慧も弱くなっているから心を活性化する必要がある。できなくなっている事に気づいたら直ぐにやった方がいい。


瞑想中に眠くなって心を活性化したい時は、他にも頭から始まって耳、鼻、口それから身体の全ての感覚を一つずつ感じていって気づきを増やしたり「今気づいているか?」と頻繁に自問したりしてもいい。自分で工夫する事だ。心が変えられない時は、身体の姿勢を変えるしかない。



修行者

私は何かを感じると「美・醜」「美味・不味」などの「良し悪し」に分かれた感覚が発生してくると思っていましたが、それらは自分で判断していると理解しました。


長老

そう、感覚には単に感じるか感じないかしかない。良し悪しを判断すると貪欲さや怒りが発生してくる。



修行者

私は褒められるのが好きで批判されるのが嫌いです。これは瞑想するうえでは誤った態度ですか?


長老

正しい態度とは貪欲さや怒り・嫌悪感、妄想がない事だが、褒められたいのは貪欲さで批判が嫌なのは嫌悪感だから誤った態度になる。そしてそれらは誤った見方から出てきた。


あなたの誤った見方は、自身の心身を「私」と思っている事だ。だから褒められると嬉しいし、批判されると辛くなる。心身を「私」と見なさなければ、褒められようが貶されようが動揺しない。それでもその誤った態度は未熟な心の性質の現れなので、悪い事と思う必要はない。


私たちが心身を「私」と見なしたり、何か行う度に「私がやっている」と見なすのは、誤った自己同一性を求める作業になる。それから離れるためには常に自身の行いに気づいているしかない。気づいている時は「私」はそれほど関与しないため、多くの理解が得られるようになる。





修行者

瞑想には多くの種類がありますが、中には心を乱すものもあると聞きます。


長老

瞑想で自分を見失うというのは、怒りや嫌悪感を持って瞑想している時や、いい体験を求め過ぎて貪欲になっている時に起こる。つまり煩悩が増えすぎている時に起こる事で、瞑想法のせいではない。


いい体験をしようと貪欲になっている時は、何かを盲信したり、それを実行したりして、心を限界まで導く可能性がある。だから方法はどうあれ、正しい態度で瞑想する必要がある。正しい態度とは貪欲さや怒り・嫌悪感に気づく事。過剰な期待があればそれにも気づく事だ。



修行者

快楽を味わう事と瞑想とは両立しないのですか?あとは瞑想をやり過ぎると嫌悪感が出てやる気がなくなります。


長老

日常生活では快楽を味わうなとは言わない。大切なのはそれに気づいている事だ。また、瞑想は断片的な気づきでもいいから、あまり頑張り過ぎずにやるように。


気づくたびに喜び、自らを励ましていると、どんどん気づけるようになる。そうすれば快楽を喜んでいても気づく事ができる。瞑想と快楽を味わう事とは別の活動ではない。瞑想とはただ気づく事。何かに気づくたびに喜び、感謝していれば、気づきはますます成長していく。


日常生活において修行する時は、別に禁欲的になる必要はない。私たちが行うのは、何処にいてもただ心身に起る感覚や欲求、感情などに気づいている事だけだ。たとえ気づきが断片的で分散していても、心は自ら貪欲さや怒りを理解できるように情報収集し、それらをまとめてくれる。



修行者

瞑想するのに欲求不満だったりしても構わないのですか?


長老

構わないどころか、そこが観察の重要なポイントになる。なぜなら私たちは常に満足感を追い求めているが、渇望のエネルギーは強烈で決して満たされる事はないからだ。ストレスを解消したければその渇望を観る事だ。


瞑想で気づくのは、欲求不満でも心配でも不安でも何でも構わない。大切なのはそれに気づく事、それを自覚する事だ。それが瞑想するうえでの正しい態度だ。つまり最初は渇望や不安で誤った態度でいても、それに気づいているうちに落ち着く、つまり正しい態度になるというわけだ。



修行者

善因善果悪因悪果というのは本当ですか?それはどうしてわかるのですか?


長老

あなたは行為の結果は来世にならないと返ってこないと勘違いしている。だから「来世の事なんかどうやってわかる?」と思っている。しかし実際には行為の結果は、今、この瞬間に現れる。


何かを行えばその結果は瞬時に現れる。例えば慈しみを持って他者に接すると、穏やかで平和的な気分になるが、怒れば興奮して心身共に不快になる。それが精神的活動とその結果であり、善因善果、悪因悪果だ。行為には身・口・意のものがあるが、善い行為の結果は全て果報と呼ぶ。



修行者

時々気づく事がなくなってぼんやりしてしまいます。


長老

ぼんやりしたらその心や眠気など、より広範囲の対象を観察すれば気づきは一貫していく。例えば雑念や痛みや騒音などは心を乱すものではなく、気づきを支えるものだと考えると、気づく事がないなどという事はなくなる。


瞑想に慣れると観察する対象は何であれ、大事なのは気づきの方だとわかってくる。そして気づきを継続させるために、観察もより広く精密になってくる。そこから更に一歩踏み込むと、今度は気づいている事を認識するようになる。そうなると対象が不明瞭でも明確に気づいていられる。



修行者

存在するとはどういう事なのですか?


長老

私たちが外の世界に注意を向け、色々と認識し、考えている時に世界は存在する。しかし心を内側に向け、心身のプロセスに気づいている時は存在していない。修行によって世界が生じては滅するのを体験する事ができる。





修行者

軽快で継続的な気づきを養うにはどうすればいいですか?


長老

まず注意を自身の心に向ける。そして安らいで快適で満足しているかどうか心の状態を良く観る。そうすれば気づく度に心が安定して明るくなっているのがわかる。それで十分。あとは自身の努力を認めてやる事だ。



修行者

私は何事もクヨクヨ考え過ぎていつも苦しんでしまいます。


長老

苦しみは思考から発生する。例えば嫌な事や不安な事、心配事は、考えれば考えるほどその感情が増大し、呼吸が乱れ、心臓が高鳴り、身体が緊張で震え、汗ばむ。これは苦しみについて考えた結果だ。


あるいは愛する人が病気になった事を考えると、心配や悲しみで夜も眠れない。これらは自分で敢えて苦しい事を考えて、苦しみを生み出しているのだ。それによって適切な対応を見失う。しかし考えている事に気づいていれば、そこで考え過ぎを認識し、立ち止まる事ができる。



修行者

瞑想中に起こる心身の現象は、たとえ怒りや悲しみなどの不善な心でも、それに気づけば善心が生じるという事ですか?


長老

不善心が善心に変わるのではなく、たとえ不善心であっても気づけば善心が生じるという事だ。気づきそのものが善心であり、善心は気づきと共に生じる。



修行者

日常生活で気づいていると、生活に支障をきたしませんか?


長老

あなたは日常生活における五つの障害(五蓋)、貪欲さ/瞋恚/怠慢さ・眠気/浮つき・後悔・心配/疑念に気づく事はできるだろうか?それを観れば、本当に生活に支障をきたすものは何かがわかる。


日常生活の中で五つの障害が出てきたら、それを取り除こうとはせず、ただ気づくだけにしておく。それによって気づきが定着すると、気づきは生活の一部になっていく。気づく事と取り除く事とは別物であり、マインドフルネス瞑想においては、決して何ものをも取り除く事はない。



修行者

瞑想中に思い出すものは現実的で深刻なもののような気がして、つい考えてしまいます。


長老

やりたい事を絶えず考え続けると、その思いはどんどん現実味を帯びてくる。嫌だった事や楽しかった事などを思い出しては考えるほど、その思いはリアルで強烈になっていくわけだ。


例えばある出来事についてストレスを感じていたとする。それについて考え続けると、その思考は意図や「私が体験した事」にしてしまう同一化によって、現実味を帯びて苦痛なものになる。だから瞑想中は何かを思い出しても、その背後の感情を観て、考えてしまわないようにする。



修行者

瞑想中はどうしても雑念や感情に気を散らされます。


長老

誰でも瞑想中は頻繁に気づきを失うものだが、もし気が散っている時に「気が散っている」と気づく事ができれば、それは気づきに気づいている事になる。気づきに気づく事に慣れれば、気づきは一貫するようになる。





修行者

日常生活の中で恐怖が生じる事がありますが、恐怖に対して嫌悪感を抱く事にも気づきます。あとはどのように探求すべきですか?


長老

それ以上探求する必要はない。あとは気づいている事に満足すればいい。そうすれば自ずと気づき続け、心は自ら学び、自然に探求が起こる。


今のところあなたが気づけるのは、感情と身体感覚と思考だけだ。しかし意図的に更なる心の探求を目指す必要はない。心が気づいているペースで理解していけばいい。あとは気づける事に満足し、喜びをおぼえていれば、自ずと気づきが増え、探求が深まるようになるだろう。



修行者


私は仏教用語を知らないので、瞑想体験を上手く説明できません。


長老


仏教用語を使って自分の状態を上手く表現できないからといって、気づいていないという事にはならない。しかし別に説明するのに大袈裟な仏教用語を使う必要もないし、他人の体験と比べる必要もない。


瞑想でしなければならないのは、とにかく心身に起こる現象に気づく事。そしてその気づきを認識する事だけだ。それで十分。自分の体験を仏教理論に当てはめて説明する必要はないし、むしろ当てはめない方がいい。なぜなら殆どの人は、仏教理論を誤解して当てはめているからだ。





修行者


座る瞑想をしていたら「もう止めだ」という意志が生じて止めました。瞑想の始めと終わりは明らかです


長老


何が瞑想で何が瞑想でないかは考えない方がいい。座っている時も日常の活動をしている時も、気づいていればそれは瞑想なのだから。他の瞑想への移行と思えばいい。


気づいていない時に何かに気づき、その気づける事に感謝していれば、気づきはどんどん伸びていく。テレビを観ている時に、突然感情に気づいたりするかもしれない。瞑想が自動的に起こったのだ。そしてまた気づきを失うが、また突然取り戻す。そんな感じでやっていて大丈夫だ。



修行者


以前長老から何かを感じたり行ったりする時は、いつでも気づきながら行い、それを継続するように言われました。それで何があっても気づくようにしていたら心が変わり、心の活動を理解できるようになりました。


長老


良かったのはただひたすら指導に従った事、それだけだ。


瞑想してもその結果が得られないとか、自分のやり方は正しいのかと疑問に思ったりせず、ただ指導に従って最善を尽くせば修行は上手くいく。家では気づきながら生活できないと嘆く人々とあなたとの違いは、指導を疑わず、不満を持たず、ただひたすら気づいていたという事だけだ。




長老の著書を3冊も訳したのに「3冊だけ」ですと!?



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「DON'T LOOK DOWN ON DIFILEMENTS - 侮れない煩悩」入門編


「DHAMMA EVERYWHERE - ダンマはどこにでも」実践マインドフルネス


「AWARENESS ALONE IS NOT ENOUGH - 気づくだけでは不十分」マインドフルネスQ&A

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《お知らせ》シュエウーミン瞑想センターの再開について

  最終更新日 2023.12.31

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