心を身体に留める---Part2
まず、「心が身体の外に出る」とは
この「認識する心」は、
もっとも、「心が外に出てはいけない」というわけではありません。
ですから、SUT(Sayadaw U Tejaniya)は、
修行者
私は信念を持って、ある目標に向かって生きていますが、修行を始めるとその信念を捨てなければならない事にはなりませんか?
長老
私たちがやっているのは、気づきの修行を通した自然な自己理解だ。決してあなたの信念や生活の営みを奪うものではない。
私たちはそれぞれの宗教的・哲学的・心理的な信念や実践に導かれて生活している。気づきを持つという事は、自分の生活の仕方を手放す事ではない。 これまでどおり生活を続けながら、ただ「行っている事の中で自分の心を知る訓練」を加えるだけだ。
もし修行と言いながら、あなたの生活に干渉し、信念や目標を妨げたり奪ったりするようなものがあれば、それは誤った修行だ。そのような方法に出会った時は、それを実践すべきではない。気づきの修行は自己理解のために行い、それによって生活も自然と整えられる。
修行者
座って瞑想しても、心が澄んで明るくならない時はどうすればよいでしょう?
長老
正しい態度で修行に臨む事だ。善行為を行うために努力できる事、そして心を善心で満たす気づきの瞬間がある事は、本当にありがたい、喜ぶべき事だ。その事を理解し、進めばいい。
修行の土台は「善を行う事に邁進できる」事に感謝し、それを正しい態度を持って続けていく事にある。 そして日常生活で起こる様々な出来事を「興味深いもの」と見なす。なぜなら、それらは自身の心を知るために取り組むべく、絶好の材料を与えてくれるものだからだ。
修行者
合宿では瞑想でスッキリできますが、家に帰るとダメになります。
長老
それは、自分の瞑想を良いか悪いか判断し、評価しているからだ。考えているだけで、瞑想になっていない。気づきを評価するのは一つの思考だし、良い体験を求めるのは貪欲さだ。
修行者はよく、気づきを高めるには何か特別な事が必要だと思ってしまう。 しかし実際には、心が迷っていると気づいたその瞬間、立派な瞑想になっている。なぜなら、その時点で気づきと共にあるからだ。スッキリしたかどうかは関係ない。 気づいてさえいれば十分なのだ。
修行者
気づきが強くなると心の中に不善心が出てきて、不善な思考が起こります。
長老
対象に目を向ける時、対象についての概念ばかり観ると、貪欲さや怒り、嫌悪感が発生し、気分が高揚したり落ち込んだりする。だから概念ではなく、もっと気づきに目を向ける事だ。
瞑想中に何か聞いたり、思い出したりした時、「何々の音」とか「何々の思い出」などの概念ばかり観ると、思考が発生し、煩悩が出てきてしまう。心の中に次々と現れる対象に煩わされたくなければ、「気づきがある」事を認識し、気づきに留まった方がいい。
修行者
一人では中々瞑想が続かないので、仲間と一緒にやるというのはどうでしょう?
長老
もし志を同じくする友人や家族がいれば、定期的に集まったり、Zoom、グループチャットなどで話し合ったりした方がいい。お互いに励まし合うのは修行にとても役に立つ。
修行者
合宿の開始時は、いい体験をしようと力んで瞑想していましたが、直ぐに疲れてリラックスするようにしたところ、気づきが多くなりました。
長老
そう、努力は意図と非常に関係がある。正しい意図があれば正しい努力となり、誤った意図は誤った努力につながる。
私たちは往々にして、自分が注いでいるエネルギーの質を理解しないまま、一生懸命やろうとしてしまう。だが、もしそこにもう少し「智慧」のエネルギーである、落ち着きや思慮深さ、受容性を使うなら、瞑想への打ち込み方も、より楽でリラックスしたものになる。
修行者
物事が「苦(dukkha)」であると観るにはどうすればよいのでしょう?
長老
物事が苦であると観るのではない。私の師はよく「対象に無常・苦・無我といった特性を当てはめてはいけない。それが自ずから現れてくるのに任せなさい」と言っていたものだ。
心身に起こる現象には、無常・苦・無我の特性がある。しかし、物事を特性に合わせて観るのではなく、ただ今、起こっている事に気づき、それを認識し続け、気づきの修行を育てていけばいい。気づきが正しく働いてさえいれば、必ず何らかの悟りへと導かれるだろう。
修行者
ミャンマーでは、無常を観るように勧める瞑想指導者が多いのですが?
長老
たしかに多くの指導者は、雑念が生滅したり、身体感覚が生滅したりする様子を『無常』と言い、観察するように勧める。しかし、それは頭だけの理解であって、体験的な理解ではない。
本当の無常の理解は、雑念の生滅や、身体感覚の生滅を観ただけでできるものではない。修行者たちも実際には、ただ「そうすべきだ」と思って、自分の修行に付け足しているにすぎない。だから特性に合わせて観るのではなく、もっと自然に理解していけばいい。
修行者
天国や地獄に生まれ変わる事について考える必要はありますか?
長老
もし、 天国を正しく知れば執着は減る。また、地獄を正しく知れば嫌悪は減る。 良い経験であれ悪い経験であれ、天国の状態の時であれ、地獄の状態の時であれ、私たちは気づきを持つ必要がある。
修行者
心が静まると、聞く事や感じる事への興味を失い、眠くなります。
長老
気づきが実際には働いていない時は、それに気づかないと、心が思考に流れてしまう。だから自分の働いている心、つまり「気づき」をよく見て、何が欠けているのかを確かめなければならない。
心が静まった時は、静けさそのものを観察するのではなく、心が「気づいているかどうか」を観察する。 心を覚醒させ続けるには「気づき」を維持するしかない。気づきは一瞬で消えてしまうので、自分がまだ気づいているかどうかを常に確かめ続ける必要があるわけだ。
修行者
座る瞑想の時、最初は嫌悪を観ていましたが、しばらくすると、その嫌悪が自分自身のように感じられ、とても不快でした。
長老
最初はそうではなかったが、そう発展した。つまりそれは、嫌悪と共に留まったからだ。 気づかないうちに気づきが汚染されたのだ。
瞑想中に嫌悪感を観察し、嫌悪感と同一化してしまったのは、心が嫌悪感の方に囚われたからだ。だから、それに気づかなかった。その場合は、心を気づきの方に置いておくといい。対象ではなく、気づいている事を確認するようにすれば、心が対象に囚われる事はない。
修行者
気づきに気づく方法を教えて下さい。
長老
気づきに気づけるようになるまでには、繰り返しの訓練が必要だ。数か月から数年はかかるだろう。 「何が(気づきの心によって)知られているのか?」と繰り返し自問する事は、気づきを認識する助けになる。
修行者
「自分」という感覚は、失くしたりできるのですか?
長老
「自分」という感覚があると、何をするにも自分と他人を比較したりして苦しむ。その「自分」を弱めるには、貪欲さや怒り、無知に気づく事。そして自然の働き(宇宙の法則)をそのまま観察する事だ。
自然の働きを観察するとは、縁起を理解するという事。例えば「見るという働きがあって貪欲さが生じる、感覚がないと煩悩は働く事ができない」というように、心の中で起こる出来事を縁起として理解できるようになると、その結果「自己」という感覚が弱まっていく。
私たちは「自分」という存在を本当にあると思えば思うほど、苦しみも強く感じられていく。 しかし、その「自分という感覚」を観察すると、気づきも対象も常に変化しているため、実体と信じていた強い思いは崩れていく。 自己という思いが和らぐと、苦しみも和らぐ。
例えば私たちは、親友が寝たきりになると深い悲しみを感じるが、それは「自己」を固く信じているため「私の親友の苦しみ」という思いも、現実的で堅固になってしまうからだ。 だが、その自己を観ていくと、悲しみや怒りも自然に静まる。 これが一つの修行の方法だ。
苦しみは「私のもの」である必要はない。 それなのに「私の苦しみ」にしてしまうから、心理療法や神仏の助けが必要になる。だが心を顧みてそれを観察し、理解するなら、苦しみは終わる。「私」なるものが実在しないと知れば、苦しみを所有する事もなくなるからだ。
修行者
自宅にいると邪魔が入って中々瞑想できません。
長老
瞑想は軽やかで、優しいものだ。 それは押しつけがましいものでも、排他的なものでもない。 つまり「今、瞑想しているから他のことは何もできない」とか「邪魔しないで!」といった性質のものではない。
日常生活をマインドフルに過ごすとは、心に何かの経験が起きていると知る事だ。自身が考えている、話している、計画している、食べている、などと気づく事、それで十分に正しい。 途切れずに気づき続ける必要はない。思い出したときに始め、また実践し直せばいい。
修行者
瞑想する時は、心を空っぽにしなければならないのですか?
長老
瞑想はそんな難しいものではない。瞑想の本質は「気づき」にあり、自分が何を考えているのか、何を感じているのか、何をしているのかを知る事だ。いつでも、どんな状況でも瞑想する事ができる。
多くの人は、瞑想は心を空っぽにし、何も考えず、集中するものだと思っている。しかし、それは誤解であり、特別な事をしたり、何かを変えたり、押しのけたり、起こそうとしたりする必要はない。ただ「心の中で何かの体験が起こっている」と気づいているだけでいい。
修行者
気づきながら落ち葉を掃いたら、終わった後に満足しました。でも新しい葉が落ちてくると、また不満になりました。
長老
同じ事を繰り返していると思うと、体験もリサイクルされるが、実際には心に起こる出来事は常に新しい。そう理解すると体験も変わる。
修行者
例えば嫉妬した時に「人それぞれ違う業を持っているのだから比較すべきではない」という正しい理解を持ち込むべきでしょうか?それとも、ただ自然のままに観察すべきでしょうか?
長老
できる限りそのまま観る。そうする事で、その感情の本質を理解できる。
嫉妬を減らすために「考え」を使うことと、観察するための正しい姿勢を保つために「考え」を使う事とは別の事だ。 しかし、もし嫉妬がひどくなって観察できないようなら、一旦心から離れて、呼吸の観察に切り替え、嫉妬が静まってから心の観察に戻った方がいい。
修行者
例えば数学の問題を解いている時、気づいている事もあれば、集中して気づきを失ってしまう事もあります。 こういう事が繰り返し起こるのは普通ですか?
長老
それが普通だ。そして気づきがもっと自然になってくると、更に多くの出来事を認識できるようになる。
修行者
朝から10時まで3時間坐り続け、それから30分歩く瞑想をしました。
長老
長時間の坐る瞑想は良くない。 1時間坐って、その後30分から1時間歩くのがいい。大切なのは 坐り続ける事ではなく、気づいている事だ。そして日常生活でも、常に気づいているように。
また、私がこうして修行者たちの瞑想体験を聞くのも、瞑想の結果が良いかどうかを知りたくてやっているのではない。修行者が一貫して修行を続けられるかどうかを知りたいのだ。 努力して継続させようとしているのなら、それで十分。結果が良いかどうかは関係ない。
修行者
まだ環境に慣れないせいか、瞑想中も周囲の物音が気になって落ち着かず、中々喜びが得られません。
長老
瞑想の本質は気づきだ。平安や静けさ、喜びは瞑想の本質ではない。なぜなら、それらはすべて移ろいゆく体験であり、現れては消えていくものだからだ。
多くの人は、瞑想を平安や喜びと結びつけて考える。そのため、もし平安を感じられず、霧の中を歩いているような鈍さを感じると、瞑想できないと思ってしまう。 しかし実際には、瞑想の本質は気づきであり、たとえ鈍さを感じていても、気づきがあれば大成功なのだ。
修行者
瞑想が上手くいかないと思うのは、私が完璧主義だからでしょうか?
長老
瞑想で心地良さを得ようとして、心を観ようとしていない。そんな時は「得ようとしているものは本当に必要か、有益なのか?」と自問するといい。すると注意が自身の心理状態の方に向かう。
修行者
まだ瞑想の初心者なので、気づきの効能について教えて下さい。
長老
日々の生活の中で苦しみが発生した時は、自身の心を顧みる事で安らぎを得る事ができる。気づく事で、苦しみの原因である「自己」というものの堅固さや実在感を打ち崩す事ができるからだ。
日常生活の中での気づきの瞬間は「自己」という幻想が崩れる。それは気づく事で幻想の代わりに、現実の五蘊の働きが体験されるからだ。苦しみは幻想が崩れた分だけ軽減される。 私たちは、苦しみから解放されるために「気づきと智慧の旅」に足を踏み出すわけだ。
修行者
瞑想中に足が痛むと「あっち行ってくれ」と頼んでます。
長老
「あっち行って」というのは嫌悪感(瞋/ドーサ)の性質だ。ドーサは痛みを観たくないのだ。どうせなら痛みを「これはダンマだ」と言い聞かせながら迎え入れ、受け入れるようにした方がいい。
嫌悪感がある時は、痛みではなく、嫌悪感の方を観る。「痛みは良くない」と思うと嫌悪感が発生するが、瞬間ごとに一貫して気づこうとすると、心は痛みについて考えられなくなり、その結果、不快な感覚は弱まっていく。気づこうと努力するのが「正しい努力」だ。
修行者
瞑想中は、雑念や感情がある時は気づいていますが、心が静まってくると眠くなります。
長老
そんな時は「心は静かか、それとも眠いのか?」と自問すると、気づきを保つ助けになる。 あとは、静けさや眠気の度合いを観察する事も、気づきを持続させるのに役立つ。
修行者
気づきに気づくという意味が理解できません。
長老
一言で言えば、対象が気づきを通して知られている事を認識する事だ。その訓練のため、定期的に「何かの体験が知られているか?」と確認する。これを「オープン・アウェアネス(開かれた気づき)」と呼ぶ。
気づきに気づく事を「対象のない気づき」と説明する指導者もいる。「見る事」や「見えている事」が知られている時、それは「見る」という体験が気づきによって知られている事を意味する。練習方法は、頻繁に「今、何が知られてる?」と、自問するのがいい。
修行者
シャワーが温水ではないので、浴びている時は寒くて気づいていられません。
長老
そんな時は、冷たさの感覚や緊張の感じ、怒りや嫌悪感を観るといい。何が起きても、それを知るだけでいいのだから。気づきを切らすと「不便な生活は辛い」という思考に囚われる。
修行者
お腹の膨らみ縮みに気づいていますが、その一方で雑念がたくさんあります。
長老
雑念は問題ではない。あなたの気づきが良くなってきたからこそ、身体のプロセスと心のプロセスの両方を知ることができた。つまり修行が十分だからこそ、雑念に気づけているのだ。
既に雑念がたくさんある事を知っているのであれば、もうそれを追いかけたりせず、繰り返し呼吸に注意を向けた方がいい。 雑念は「心」で、お腹の動きは「体」だ。つまり、名法(nama)と色法(rupa)の両方を、同時に知る事ができていると理解すべきだ。
修行者
ほとんどの人々は、気づきがなくても別に困っていませんが?
長老
私たちは自分の人生や周囲の世界をどのように知るのか? それは「知覚」と「思考」を通してだ。では、心の中で何が起こっているかをどのように知るのか? それは「気づき」を通して知る。
私たちは、知覚と思考によって自分の人生や周囲の世界を知り、気づきによって自分の心を知る。 記憶が失われると私たちは不安になるが、気づきを失って心を見失っても平然としている。私たちは迷妄の中にいて、煩悩が概念的な生活の中で増殖する事を知らないのだ。
修行者
瞑想中は、雑念や音、感じるものなどに、どうしても「良し悪し」の判断をしてしまいます。
長老
私たちは、好き嫌いで物事を観るのが習慣になっている。だから良し(好き)悪し(嫌い)の気持ちが出てきたら、その気持ちに気づいて、習慣を改めていくしかない。
好き嫌いは、邪見・邪思惟、つまり「無明(moha)」によって起こる。好き嫌いがあると、その対象を「良いもの・悪いもの」と思い、本来のありのままを理解できない。だが、好き嫌いが消えると対象の見え方が変わる。智慧がある時は、気づきは中立的になるのだ。
修行者
身体の痛みを観察すると、変化して消えていくのがわかります。嫌悪の心も消えます。しかし、それが捨(ウペッカー)なのか、あるいは痴(モーハ)なのかわかりません。
長老
もし痛みと、痛みへの抵抗が消えるのなら、それは捨(ウペッカー)という事になる。
痛みを観察する時は、その相関関係である名色(心と体)のプロセスも理解する必要がある。痛みも嫌悪感も消えるのなら、あなたは既にわかっている。 しかし自分に智慧がある事は知らない。だから、それが痴か智慧か尋ねた。智慧の事はまだ認識していなかったのだ。
修行者
気づきに気づくための、いい訓練法はありますか?
長老
座る瞑想の時に、不明瞭な対象、例えば微細な対象や眠気のようなものを追ってはどうか?対象が明確だと、どうしても対象にばかり注意が向かうが、不明瞭だと気づきそのものにより注意が向かうものだ。
修行者
どうすればヴィパッサナーを実践して苦しみから解放されますか?
長老
私たちは「自己」の代わりに「心の働き」を体験するようにしている。 つまり、基準点を「自分」という感覚から「心の働き」へと移す事で、自己への依存を減らし、心への依存を増やすのだ。
例えば、呼吸しながら腹部の動きを観察する事で、心を「私が呼吸している」という感覚から「実際の身体の動き」と「それを知っている心」に気づく方向へと転換する。 それを継続する事で「私が」という思い、つまり無知(無明)が減っていき、苦しみも減っていく。
修行者
日々、人間関係のストレスに苦しんでいます。
長老
ストレスを「私のストレス」と思えば苦しみが発生するが、「私の」と思わなければどうなるか?ストレスだけではなく、恐れや不安、怒りや嫉妬についても「私の」と所有すれば、苦しみの原因になってしまう。
修行者
瞑想中に、正しく観察できているかどうかを確認する方法はありますか?
長老
この心身について、どう考えているかを確認する。 もし心身で起こっている事を「私」と思っていれば間違いで、「起こっている事は全て自然現象」と思っていれば、それは正しい。
例えば痛みが生じた時、その痛みを「自然のもの」「瞑想の対象」として正しく理解していなければ、心は「私が痛い」「私が苦しい」と思ってしまう。 その結果、瞑想ができなくなる。これは、あなたがまだよく理解していなくても、実践の中で適用すべき知的な理解だ。
修行者
自分が実体として存在していないというのが実感できません。
長老
気づきがないと、自身が実体として感じられるが、気づきがあれば、流動的で移り変わるものとして感じられる。気づきがあれば、堅固さから流動性へと、自身についての感覚も変わってくるわけだ。
修行者
瞑想中に怒りが出てくると、強力でどうにもなりません。
長老
怒りの感情が恐ろしく思えるのは、それを取り除けないからではなく「それもまた過ぎ去るものだ」と知らないからだ。怒りがいつも自分と共にあると思うと、怒りの感情に支配される事になる。
怒りが出てきても「それは直ぐ滅する」と自分に繰り返し言い聞かせるならば、恐れる事はなくなる。怒りは取り除こうとするのではなく「心のプロセス」として観察するのだ。つまり 怒りが生じては消えていくのを観るのが「心のプロセス」として観察している事になる。
修行者
瞑想は、雑念や思考をストップして心を静めるのが目的ではないのですか?
長老
瞑想の目的は「気づいている事」「今起こっている事を知る事」になる。もし勘違いして「静まりたい」「考えを止めたい」と期待すると、瞑想は緊張したものになってしまう。
正しく瞑想するには、心身に起こる現象をコントロールしないように。様々な感覚や 思考、感情をそのまま起こらせ、心が「これが起きている」「あれが起きている」と、知るようにするだけで十分。もし気づきを失ったら、何か一つの対象を「知る」事に戻ればいい。
修行者
座って瞑想している時だけ呼吸を観察すればいいのですか?
長老
初めのうちは、呼吸を主な対象として使って構わない。だが、観察を呼吸だけに限定しない事だ。他の感覚が生じたらそれを認識して受け入れ、その後、再び呼吸へ注意を戻すように。
サマタ瞑想は、一つの対象だけに集中するのが目的だが、ヴィパッサナーは様々な対象に気づく事を目的とする。だから、瞑想法によって対象の使い方が異なるわけだ。しかし、一つの対象だけを使っていると、無意識のうちに心がその対象に執着してしまいがちになる。
ヴィパッサナーの実践では、今の瞬間に、心身上に起こっている事に気づき、その情報から身体と心の関係を理解しようとする。一つの対象だけを使っていると、視野が狭くなるが、多くの対象に気づいていると視野は広がり、対象同士の関係が見えて智慧が育っていく。
修行者
対象を観察していると、対象は変わるのに、観察している心は変わりません。
長老
それは、まだ「観察している心」そのものに気づいていないからだ。つまり、気づきを認識できていないからだ。それに気づくには、 観察している心と対象を別々に見るようにする事だ。
初めのうちは、対象を観察していても、対象と観察する心とが混ざっていて、分離していない。 しかし、智慧が成熟してくると、どれが観察する心で、どれが対象なのかが別々に見えてくる。そうなると、対象も観察する心も、変化しているのがわかるようになる。
修行者
瞑想における中道とは、どういう意味ですか?
長老
仏教では「智慧こそが中道である」と説く。つまり、それは貪り(ローバ)の道でも、怒り(ドーサ)の道でもなく、どんな対象が現れても、平静(ウペッカー)に見守れば、とても良い瞑想ができるという意味だ。
座っている時、痛みがなければ心は穏やかだが、痛みが生じると心は抵抗する。それを平静に観るには、好き・嫌いという感情に気づく練習をたくさんする必要がある。熟練してくると、それを「中道」と呼ぶ。心が平静でいられるようになった時、それが中道なわけだ。
修行者
私はとても自己中心的ですが、瞑想すれば治りますか?
長老
もちろんだ。私たちは自分の心を観察しない限り、人生のすべては自己中心的になる。 気づきの実践を始めてやっと、心の中で起こっている事に目を向けるようになるのだ。 それがなければ一生自己中だ。
瞑想を始めても、何十年も続いた自己中心的な見方の勢いは、なお私たちの生き方を支配し続ける。自己中な生き方を実感できるのは、ほんの一瞬だけだ。 この事を理解して修行していかなければ、瞑想をしていても、私たちは依然として自己中のままでいる事になる。
修行者
私の国はキリスト教国なので、私は自己中心的な生き方から脱するために、信仰心による神中心の生き方をしようと思っているのですが?
長老
人にはそれぞれ自己中心、神中心、そして心中心の生き方がある。そして何を中心に物事を見るかで、見方が違ってくる。
自己中心と神中心の見方は「思考」を通してアクセスする。いずれも「私が見る」という見方で、継続的だ。 一方で心の次元には「気づき」を通してアクセスする。それは一瞬であり、「私」や概念に囚われない。 この見方なら幻想から脱し、現実に生きる事ができる。
修行者
正しい修行方法を知らないと、どうなりますか?
長老
正しい修行を知らなければ、苦しみはなくならない。 例えば、暴走する思考の止め方を知らなければ、眠りたい時でさえ、考え続ける事になる。 心の働きのプロセスを知らなければ、心の平安は得られないのだ。
修行者
心身の相関関係を観るとは、どういう事ですか?
長老
怒りや不安、または喜びなどの感情が出てきたら、それに伴う身体の変化も観る。例えば肩に力が入ったとか、呼吸が苦しくなったとか。相関関係は心身だけではなく、心と心の方も観ておくといい。
思考を観察していると、ある種の考えが感情を生み出す事に気づく。怒りの思考は怒りの感情を生み、楽しい思考は楽しい感情を生むといった具合に。 思考が正しければ、心は静まり、誤った思考が起これば、心は乱れる。心が乱れた時は、誤った思考から離れればいい。
修行者
欲望や怒りを「私のもの」にすると、どうなりますか?
長老
煩悩への執着は注意を外側や望む結果へと向かわせ、修行に影響を与える。緊張や焦り、自己否定の思い、結果への執着を生み出し、気づきの自然な流れを妨げる。 執着を手放せば、修行は自然になる。
修行者
好きな事や嫌いな事を思い出すと、心に引っかかってしまって、気づきが継続できなくなります。
長老
心が対象の意味を理解していれば、執着したり、拒んだりする事はない。 しかし対象に好き嫌いで反応するのが習慣になっているので、最初のうちはそれが難しい。
何かを見たり、聞いたり、思い出したりした時、心は好きか嫌いかの反応を示す。 だから最初は反応が起こるたび、その反応を観察し、それが消えたら対象に戻るようにする。そうすれば一日中修行を続ける事ができるし「対象は生滅するだけのもの」と正しく理解できる。
修行者
日々の生活では、不安や心配に悩まされてばかりです。
長老
感情は日常の修行にとって良いよりどころになる。感情には気づくのが簡単だし、感情が続けば気づきも継続的になる。それによって心が気づきでいっぱいになれば、今度は充実感で満たされるだろう。
修行者
気づきを継続させようとすると疲れます。
長老
気づくのに、力んだり集中し過ぎたりすると疲れて長続きしない。 しかし、穏やかな覚知をもって実践すれば、一日中続けることができる。リラックスしているかどうかを常に確認しながらやるのが「賢い方法」だ。
もし気づきが何度も途切れるようなら、逆に努力が弱すぎる。 その場合は、より多くの対象を観察したり、「今、対象を知っているか?」と何度も自問したりした方がいい。座っている時に軽い気づきを保てると、日常生活の中でも、軽い気づきを保つことが容易になる。
修行者
いつも好き嫌いの感情で、心が揺れ動いています。
長老
それが自然だ。私たちの心は決して安定していない。 常に「好む」か「嫌う」かのどちらかへ動いている。それは死ぬまでずっと続く。もし心が動かないなら、それはとても穏やかで静かな状態という事だ。
苦しみを避けたい分だけ、心は苦しみに抵抗する。私はこれを「振り子の理論」と呼ぶ。振り子の両端には「貪=好む心」と「瞋=嫌う心」があり、 30度の「好む」があれば、30度の「嫌う」が生じ、 90度の「好む」があれば、90度の「嫌う」へと揺れ戻るわけだ。
修行者
心を見失うと、苦が発生します。
長老
心が空想や過去、未来へと遠くさまよっている時は、煩悩が私たちを苦しめる。 しかし、心が自分のそばにある時は、ダンマ(法)によって守られる。 見失った心を取り戻すには「今、何をしているか?」と自問すればいい。

