【ウ・テジャニヤ長老の名言第29集】

2026年2月6日金曜日

名言集

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ヴィパッサナー式慈悲の瞑想


慈悲の瞑想と言えばサマタ(集中)瞑想に分類される方法ですが、

「元祖瞑想バカ一代」こと、マインドフルネスカレッジの学長であり、

マインドフルライフ研究所オフィスらくだ主宰者の井上ウィマラ先生によりますと、
清浄道論の注釈書には、ヴィパッサナー式のやり方も書かれているのだそうです。
そういうわけで、今回はその方法をお知らせしたいと思います。

サマタ瞑想には、見たくないものを見えないようにしてしまう特性があります。
何かに集中するということは、
それ以外のものを見えないようにしてしまうからです。

清浄道論の注釈書では
水面を棒で叩くと
その衝撃で水草は除かれるけれども
周囲に散ってしまう状況
比喩として使われていました。

慈悲の瞑想でも
サマタ式でやっているとマントラに集中することで
自分の中の怒りを見ないふりする
ことをしてしまいがちなものです。

ヴィパッサナー式の慈悲の瞑想では
慈しみの近い敵である
愛欲・愛情と、
遠い敵である
怒り・憎しみ
両極端の揺れ動きをしっかりと見つめて、
両極端を揺れ動きながら消えてゆくまで見守ってゆきます。

井上ウィマラ(談)











ウィマラ先生によれば、
このヴィパッサナー式の慈悲の瞑想については、
ミャンマー仏教界でも知っている人は少ないということでした。

ウ・ジョティカ長老なら絶対に知っているから、
詳しいことは長老に聞くように言われました。

そう言われてみれば、確かにウ・ジョテカ長老の後輩ウ・テジャニヤ長老でも、
それを知りませんでした(!)

今回もSUTのQ&Aを読んで、日常での気づきを実践していきましょう!




修行者
心が静まった時は、どんな対象を見ればよいのでしょうか?


長老

心が静まったら、その「静まった心」が対象となる。 しかし、心が穏やかになると、その状態を楽しんでしまいやすいので要注意。もし、それに気づいている事がわかったら「気づき」を対象とする。


瞑想中に対象がなくなったら「気づきがあるかどうか」を確かめる。 心が穏やかだと眠くなるから、気づきを対象にしようと努力すれば、目が覚める。 対象とするものは何でもいいし、心が穏やかになるかどうかも重要ではない。大切なのは「気づき」そのものだと心得る。





修行者

「私」「私のもの」という思いは、どうやって発生しますか?


長老

縁起の教えでは感触が快・不快の感受を生じさせ、次に快を追い、不快を避ける渇愛が生じる。そこで「私」を感じ、取へと繋がる。無明(妄想)が身体の形、知覚、思考を使って働いているのだ。



修行者

瞑想中は、雑念や音が気になって心がさまよってばかりいました。


長老

それはサマタ(止)修行の考え方だ。サマタでは、心が一点に集中し、静まっていなければならないと言う。だがヴィパッサナーでは、雑念や音に気づいていてさえいれば、瞑想は大成功だ。


ヴィパッサナー(観)の修行では、いくら雑念が出ようと、騒音がやかましかろうと、何の問題もない。 あなたはそれに気づいており、何が起こっているかをちゃんと観ているではないか。 ヴィパッサナーでは気づきがある限り、心がさまよっているとは言わないのだ。



修行者

心とは、見失った時はどこへ行き、どこから戻ってくるのでしょう?


長老

多くの修行者は、心がどこかへ行ってまた戻ってくると思っている。 しかし実際には、心の本性とは「生じては直ぐに滅する」ものだ。心が身体の外へ出て、また戻ってくるという事はない。


もし「心がここにあって、家へ行ってまた戻ってくる」などと考えるなら、それは心が常住であるという誤った見解になる。実際には「考える心」は生じては直ちに消えている。 この事を十分に体験できるようになると、私たちは「心は無常である」と実感するようになる。



修行者

無常を悟るには、思考が生滅する様子を観察すればいいのですか?


長老

気づきがある時は無常もある。気づきがない時は無常もない。 無常を悟るためには、一貫して気づいているように努める事だ。なぜなら、この洞察は気づきのあるところにしか生じないからだ。



修行者

座っていて痛みが出た時は、嫌悪の心を観察すると痛みが軽くなります。


長老

今、あなたは心と感覚の相関関係を理解した。 怒り(嫌悪、dosa)がだんだん少なくなると、痛みも減っていく。 つまり、痛みは実体のあるものではなく、心理現象という事だ。


心と感覚とは関係がある。それを確かめるには、まず足の痛みと嫌悪感との関連性を観察するといい。それによって、心が痛みを誇張しているから強く感じられている事が理解される。同様に、味覚や嗅覚、聴覚などについても、嫌悪感や怒り、貪欲さとの関連性を観る。



修行者

日常生活では、常に様々なしがらみに縛られ、心が重く感じられます。


長老

過去の事や未来の事について、気づかないまま考え事をし続けていると、心はとても混乱し、重くて暗く感じられる。 しかし、常に自らの状態に気づいていると、心は軽く自由に感じられる。


気づきがある時、なぜ心が自由であると感じられるのか? それは、一瞬一瞬に新しい気づきと新しい対象を体験できるからだ。過去のものは何ひとつ現在には残っていない。 「今」という瞬間は常に新鮮な体験なのだ。 心が過去や未来を考えていない時、それは自由だ。


日常生活の全ての行為を「知ろう」と努める事は、未知の世界を知る手がかりとなる。例えば食事という行為には、見る・触れる・味わう・嗅ぐ・好むといった体験が含まれているが、それらの感覚にその都度気づいていれば、今まで見えなかったものが見えてくる。




修行者

瞑想中に怒りや貪欲さに気づいたら、それを止めるのですか?


長老

瞑想中は何が起こっても、それを観察するだけにする。例えば食事中、満腹なのに味覚に囚われ、必要以上の量を食べようとしている事に気づいたら、それを止めるのではなく、その心理を観察する。


或いは恐れが生じた時、あれこれ考える代わりに「恐れている感じ」を観察する。 それによって妄想を増やすのではなく、気づきと智慧とを増やした事になる。気づいている事自体が体験に変化を与えているので、体験そのものに対して何かを「する」必要はない。



修行者

瞑想中に身体が消えたように感じます。


長老

それは自然な現象だ。気づきに勢いがつくと、身体の形が消える。修行者は驚いて「手はどこ?身体はどこ?」と心配するが、何の問題もない。普段は身体について考えているものの、それがなくなったからそうなった。


心は常に身体について考えている。「頭はどこ? 手 足はどこ? 」と。これは「想」(saññā)の働きだ。しかし、心が静まる事で、心に入ってくる情報が変わる。すると心は形(身体)について考える事ができなくなり「対象」「それを知っている心」だけが残る。


瞑想で心が静まり、身体の事を考えなくなって、聞こえるものや感じるものと、それを認識する作業だけになると、修行者は「身体の形が消えた」と思う。この仕組みを知らなければ、本当に驚くだろう。しかし、これは修行者にとって自然な現象で、何の心配もいらない。



修行者

「自分」とは身体内にあるのではないのですか?


長老

私たちが「自分は身体の中にいる」と考える限り、常に身体を通して物事を見て・感じて・考えるため、「自分」という幻想が生き続ける。しかし実際のところ「自分」は身体の中ではなく心の中にある。


「自分という感覚」は、誤った認識から生じる「同一視」であり、その認識こそが心の働きだ。自分とは心理現象と理解できれば、自分という感覚も心とともに変化していると気づく。すると、モーハ(無明)は心をさらに強く掴む事ができなくなり、幻想が剥がれる。



修行者

私たちはどのように心と体を「自分」とみなしてしまうのですか?


長老

身体は、ある程度は自分で動かせるので、どうしても「自分」「自分のもの」「自分は身体の中にいる」と思ってしまう。 そして心も同様に「自分」にしてしまい、身体の中にあると思い込む。


このようにして、無明(moha)と貪り(lobha)とによって、輪廻の中でずっと心と体への強い同一化と執着が続いていく。しかし、実際には「自分」という認識は心の中に生じている。 なぜなら、認識の働き(サンニャー)こそが、心の働きそのものだからだ。



修行者

私は身体を動かすものが自分だと思っています。


長老

私たちは「これをしたい」と思って行う時、 或いは、心が努力している時「私は頑張っている」と言う。つまり私たちは「意図」が自分だと信じているのだ。だから努力している時「私は頑張っている」と言う。



修行者

他の修行者と話した後は、心がどこかへ行ってしまい、直ぐには気づきに戻れません。


長老

集中したり話したりした後「しばらく心を見失っていた」と気づいたら、まずは「見失っていた」事を認める。そして、心が自然に気づきに戻るまで認め続ける。


心を見失った事を認めるのは、大事な修行の一つだ。それを悪い事だと判断せず、力を抜いて取り組めば、修行は励みとなり、自然なものになる。対象を急いで捕まえる必要はない。「気づいているという結果を求める」のではなく「心へ戻るための条件を整える」のだ。



修行者

瞑想中に思考に飲み込まれなくなりました。


長老

それは努力の成果だ。あとは、その努力も認識する事。心を対象として観察できるようになると、努力のエネルギーが瞬間ごとに存在しているのが見える。すると 努力しなければ直ぐ思考に飲み込まれる事がわかる。


人は、中々自分が努力していることに気づかない。それは、対象に集中しすぎて、心が何をしているのか気づいていないからだ。だから私は、体験に不満を言うのではなく「気づきが存在している」事を喜ぶように言う。なぜなら、それこそが貴い努力の成果だからだ。



修行者

日常生活を観ていると、苛立ちながら行動している事が多いと気づきました。


長老

何か不快な事があると、それを取り除こうとする。それが「嫌悪」だ。だから行動する前に心の乱れを観察して落ち着かせる。そうすれば最も良い心の状態で行動できるようになる。






修行者

痛みを観察すると、減るどころか強くなってしまいます。


長老

それは、あなたが間違った態度で見ているからだ。もう一度、自分の態度を確認した方がいい。その対象(痛み)を 良いとか悪いとか自分のものだとか思っていると、 間違った見方と態度で痛みは強くなる。


修行者は対象を見る時、どんな見方・どんな態度でいるのかを確認する必要がある。痛みを観察しても弱まらず、強くなるのは、対象(痛み)だけを知り、自分の心を知らないからだ。 そんな時にこそ、対象・感覚・思考だけでなく、心の状態も確認するといいだろう。



修行者

雑念・思考が多くて、心が安定しません。


長老

多くの人は、心の中でたくさん考えている時にはサマーディ(心の安定)がないと思っている。しかし、実際には思考によって怒っていなければ、既にサマーディがある。そうでなければ、対象を知る事はできない。


雑念・思考は一日中、絶えず起こるので「考えている心」に気づく訓練をする必要がある。しかし、いつも思考ばかり見ていると迷ってしまう事になる。だから雑念・思考が消えたら一旦身体の対象へ戻る事だ。そうすれば思考に気づきながら心を安定させる事ができる。



修行者

良い気づきを得るには、どうすればいいですか?


長老

その前に、修行する時「良い気づきを」という欲のような執着をしない事だ。 思考が多くて気づきが少ない状態であれば、好きなものの事や、自分を傷つけた人の事を思い出すと、一発で気を取られて迷ってしまう。


気づきを磨くための最初のステップは、まず「気づきの心」の力を育てる事だ。そうすれば次の2つが可能になる。


1. 強い思考から注意をそらし、再び心に戻れるようになる

2. 気づきを一貫して継続させる事によって、理解が少しずつ生まれてくるようになる



修行者

なぜ私たちは心と身体を観察するのですか?


長老

それは、どれが身体であり、どれが心なのかを理解するためだ。 見る・聞く・嗅ぐ・触れるといった作用は身体に属するが、認識、思考、嫌悪、欲望といった働きは心に属する。それらの違いを明確にするわけだ。


例えば、ケーキを「見る」「ケーキの事を考える」の違いは、 見るのは身体に属するが、認識したり、味を思い出したりするのは心の働きだと知ったとする。そうすると、ケーキが欲しくなるのは身体の働きが原因ではなく、味を思い出す心の働きが原因だと理解できる。



修行者

瞑想中に気づきの対象とするものは何ですか?


長老

いい質問だ。「対象」の意味を理解すれば心は穏やかになる。 例えば、机や鉢植え、男性、女性などを見ているとすれば、それは概念を見ている事になる。そこでは「見る」という行為こそが気づきの対象となる。


「見る」という行為は、外側ではなく心の内側で起きている。だから、何かを見ているのなら「見る」という行為こそが瞑想対象になる。外側で起こっている事は概念に過ぎず、瞑想の対象ではない。 ただ「見る」という行為が心の中で起きている、と認識すればいい。



修行者

つまり、気づきの対象とは自身の行いという事ですか?


長老

今の瞬間に 心がしている事が瞑想の対象になる。 そして、外部で起きている事は概念的対象となる。例えば、花を見たら、見たという事実、それについて何か反応したという事実だけを対象とする。


或いは、瞑想中に誰かが騒いでいたら、騒いでいる人々に注意を向けるのではなく、自身の心に注意を向ける。そして、聞いている事や、思考、反応している事に気づく。「騒がしい人々」というのは、概念に過ぎない。ただ、心の状態だけに気づいていればいい。



修行者

何かを見る時「見る行為が気づきの対象であって、見えているものが対象ではない」と思うと、心が落ち着きます。


長老

対象の意味を理解している時、心は安らかだ。それは、心が対象に囚われていないからだ。だが、心が見えている対象に囚われると、心は乱れる。


「見る」という行為は心の中で起こっている。しかし、机だとか壁だとか、人とか物とか、見えているものは概念上の対象であり、心の外にある。ただ「見る」という働きが心の中で起こっていて、外にあるわけではないと認識するといい。心が外に出なければ落ち着く。



修行者

瞑想している時に誰か来たら「誰か来た」と気づけばいいわけですね?


長老

いや、だから他人は関係ない。気づく対象はあくまでも自身の心に起こっている事だ。その場合は聞いている事、感じている事、誰なのか推測している事、喜びや嫌悪感などの感情になる。




修行者

昼間に怒りや不安が出た時、どのように心を安定させ、落ち着かせればいいですか?


長老

例えば、近所の騒音がうるさいとか、経済的に不安定で落ち着かないなどという時は、起きている出来事ではなく、自身の心に目を向ける。そして、まずは感情を観察する事だ。


苛立ったり嫌悪感が出たり、不安で胸がザワついたりした時は、その事を考えると状況を更に悪化させる。だから注意を心に向け、嫌悪や不安が消えるまで、そして外の出来事がもはや不快な体験ではなくなるまで、感情を観察し続ける。心が変われば物事の見方も変わる。



修行者

日常生活で鋭く気づいていられるようになりたいのですが?


長老

気づきを育てるには、あらゆる出来事を活用する。特定の対象でもいいし、心が行く先々の対象を認識するのでもいい。常に「今、何に気づいているか?」と、自分に問いながら生活する事が大切だ。


歩行や食事、見たり聞いたりする事などの何でもない日常の行いは、実は、生活するのになくてはならない。その「見る」「聞く」「食べる」などの、今この瞬間に起こっているあらゆる出来事を認識するようにする。気づきを育てるには、常に気づいているしかない。



修行者

心を落ち着かせる方法はありますか?


長老

見るものや聞くものを制限したり、感情をコントロールしたりする方法が一般的だが、気づきを継続させる方法というのもある。これだと自身の行いに何の制限も加えず、抑圧もせず、自然体のまま落ち着く事ができる。



修行者

手紙を書く時、右手の一つ一つの動作に注意深く気づいていましたが、左手が既に紙を取っていた事には気づきませんでした。


長老

一つの事に集中しすぎると全体像が見えなくなり、一度に一つの事しか知る事ができない。集中するほど、気づきが鈍くなるわけだ。


サマタ瞑想の修行者は、日常生活でも一挙手一投足に集中し、動作と一体化する事を目指す。しかし、マインドフルネス瞑想の修行者は、逆に集中しないようにする。なぜなら意識を集中させすぎ、多くのエネルギーを使うと、心は重くなり、気づきは鋭さを失うからだ。



修行者

気づきが人類を進化させる鍵になると言えますか?


長老

進化かどうかはさておき、確かに人間だけが自分の心を知る能力がある。動物は智慧ではなく、モーハ(moha=痴・無知、迷妄)を持って生まれてくるため、自分の心を理解する事ができないのだ。


人間の自身の心を知る能力は、修行によって育てる必要がある。 長年瞑想を続けている人の心の質は、普通の人のそれとは全く異なる。その人の「存在のレベル」が高まっているのだ。 変容するためには、私たちの気づきが、より洗練されたものでなければならない。



修行者

メンタルが不安定なので、修行に入る自信がありません。


長老

正しい修行を始めれば、たとえ今は心の状態が悪くても、修行によって必ず良くなるという確信が生まれる。 気づきによって善心がもたらされれば、それが悩ましい心の状態を払い除けるとわかるだろう。



修行者

努力すれば必ず結果が出ますか?


長老

一般的に、努力すれば結果が得られると言われているが、実際には、どんな結果も欲したから起こったのではなく、条件が整ったから起こった。この性質を理解すれば、貪欲さは減っていく。貪欲さを持ったままの修行は苦しい。


修行においては、貪欲さこそが最大の問題になる。なぜなら、何かを得ようと期待すると、その結果を得ようとして心身が緊張し、疲れ切ってしまうからだ。だから、指導者は結果を求めないように言う。しかし、縁起(条件づけ)を理解すれば、貪欲さは静まっていく。


私の師、故シュエウーミン大長老は、常々修行者たちを次のように戒めていた。『何ものも作為しない事(不造作)。何ものも拒まず、抵抗しない事(不抗拒)。生じては滅していく現象を、ただ覚知し続ける事』これらの点を、繰り返し修行者たちに想起させていた。





修行者

人生は苦だという事だけは良くわかります。


長老

一般の人々は苦(ドゥッカ)を通常、生活の中の苦しい体験の事だと思っている。つまり、求不得苦、怨憎会苦、愛別離苦、老い、病、死の事だと。一方、瞑想修行者は、苦の心的側面もまた体験し、理解する。


瞑想修行者は「心の変化し続ける性質は信頼できず、満足を得られるものではない。無常こそが苦の原因」と理解する。今、深刻になって考えている事も、数分経てばどうでもいい事のように思えたりして、体験も心も条件次第のもので、信頼できるものではないとわかる。



修行者

私の考えでは「考えようと意図するから」考えているのだと思います。


長老

考えようとする意図があるから、思考が起こる。その通り。そして、その「意図」は別の心であり、それも自然だ。その「意図」については考えないように。ただ気づくだけで十分だ。


私たちは通常「意図=自分」だと錯覚している。だから、考えようとする意図があると、直ぐ「私が考えている」と思ってしまう。だから意図については考えず、それに気づき、親しむ事が大切だ。その錯覚を直ぐ手放す事はできない。それには修行が必要だ。



修行者

怒っている時は、相手に対して酷い事を考えますが、後でその事を思い出すと、自分が恐ろしくなります。


長老

そう、私たちが考える事は、条件に左右されてばかりで、全く信頼できない。だから、思考や感情を本気にせず、気づきにとどまるほうが安全なわけだ。



修行者

「通常、人々は心に起こっている現実ではなく、概念の方ばかり見ている」とは、どういう意味ですか?


長老

例えば帰宅中に「早く帰って食事したい」と思っていたとしたら、「私が急いでいる」という思いは概念で、「焦りや期待がある」という気づきが現実だ。


そのような、空腹や「食べたい」という欲求、「見る事」「知覚」といった、身体的・心的な対象を確認する事に慣れてくると、日常生活でも「私が何かをしている」という概念的な出来事ではなく、「感覚や欲求が起こっている」という、現実に目が向かうようになる。



修行者

心配や不安が出てきた時、どうすればいいですか?


長老

まず最初にすべき事は、心配や不安を押しのけようとしない事だ。そして、これは一つの心の状態だと考え、瞑想の対象として用いる。起こるたびに繰り返し観察するといい。それらは怒りの煩悩だ。


その時に見るのは感情の方で、物語ではない。心配の物語は、考えれば考えるほど増大するが、心が同じ対象に繰り返し気づいていれば、感情はそれ以上強まる事ができず、心は静まる。しかし一日中、心配の原因について考えていると、一日中心配しているハメに陥る。



修行者

この「私」をどうやって失くせばいいですか?


長老

それはできない。理解が生じた時にのみ取り除かれるのであって、あなたがそれを行うのではない。気づきの役割は、心の中で何が起こっているかを認識する事で、煩悩を取り除くのは、智慧の役割になる。



修行者

時々、何をやっても虚しくなって「人生とは何だ?」と考えます。


長老

私たちの概念的な人生は、夢であると気づく事だ。「善悪」「優劣」というのも、実際には実在しない便宜上の概念にすぎない。つまり概念的な人生というのは、頭の中だけの出来事なのだ。


私たちが目覚めるたび、それが現実ではないと気づく事で、夢の中の痛みや苦しみから解放される。私たちは気づいている時は目覚めている。だから私たちは、決してトラウマを解決するように、夢を良いものにしようとはしない。私たちが望むのは、ただ目覚める事だけだ。




修行者

概念・幻想のない、現実の中だけで生きる事はできますか?


長老

それはできない。人間は、概念・幻想を共有し合わなければ、生活が成り立たない。だから、概念が生じるのを止めようとするのではなく、概念とは何か、現実とは何かを理解しようとする必要がある。


概念・幻想を取り除こうとするなら、それは誤った見解になる。「私/あなた」というのも概念だが、それがなければ私たちはコミュニケーションがとれない。何一つできない。だから、概念を排除するのではなく、概念と現実の違いを知る事だ。それが智慧なのだから。



修行者

気づきを継続していても、会話をすると途切れてしまいます。


長老

会話の最中に「話しすぎていないかどうか?」を定期的に確認すると、会話に飲み込まれにくくなる。相手の話に耳を傾けるようにもなるし、落ち着いて「今ここ」にいる感覚を持てるようになる。



修行者

考えるのが好きで、瞑想中にもやめられません。


長老

「私が」考え、話す時は、慣れ親しんだ概念的世界にいて、自己を強めている。しかし、気づきがある時は自己のない、異質な世界にいる。自己が関わらない状態では、私たちは簡単に退屈してしまうのだ。



修行者

食事中に気づくのは、味に囚われず好き嫌いをしないようにするためですか?


長老

それは別に好き嫌いをなくすためのものではない。瞑想とは何かを取り除く事ではない。好き嫌いが起こるたびに、ただ気づいていればそれでいい。瞑想はとても簡単なものだ。


好き嫌いが起こるたびにそれをなくそうとすれば、不満や落胆を感じてしまうが、好き嫌いが起こるたびに気づけていれば、成功したと思える。「気づけている!」と喜べる。だから、起こっている事を取り除こうとするよりも、気づきがそこにある事に感謝した方がいい。



修行者

概念と現実の区別のしかたが、良くわからないのですが?


長老

例えばバナナを食べる時、バナナの形や栄養を知る事はできない。実際に知る事ができるのは、硬いか柔らかいか、甘いか酸っぱいか、冷たいか温かいかだけだ。それが現実で、形や栄養は概念だ。


ヴィパッサナー瞑想の対象は、どんな時でも実際に感じている現実になる。修行の中で現実と概念の違いを見分けるのだ。今までは現実について良く理解していなかったが、これから現実により注意を向けていくようにすれば、徐々に、現実の本質についての理解が深まる。


煩悩は概念に注意を向けるが、智慧は現実に注意を向ける。もし、瞑想中に足の痛み(という概念)に苦しんでいれば、そこには嫌悪感が存在し、痛みについて考えている事を意味する。しかし痛みではなく、心の嫌悪感を観察すれば、嫌悪感は消え、痛みもまた消える。



修行者

日常生活の中で修行をするのが難しいです。


長老

普段はやりたい事を何でもして構わない。必要なのは、それに「気づき(覚知)」を伴わせる事だけだ。最初は古い習慣が消えないから辛く感じられる。煩悩に従い、貪欲さや怒り、嫌悪感のままに生きる習慣が。


私たちは、歩いている時でさえ、次に何をするかを考えるのに忙しく、自分が「歩いている」という事さえわかっていない。だから最初のうちは、古い習慣を超えるための努力が必要になる。ここで努力を怠れば、人生は混乱し、平安のないものになってしまうだろう。



修行者

瞑想中に不快な感情が出ると、ますます機嫌が悪くなります。


長老

通常、嫌悪感や不安、心配などが現れると、どうしても取り除こうとしてしまう。しかしそれは逆効果だ。不快さであっても慌てず、ただ気づいていれば、心はより安定し、落ち着いていられるだろう。





修行者

「善悪」「優劣」だけでなく、「新旧」「美醜」など、どうしても概念を現実だと思って見てしまいます。


長老

智慧がなければ、心は何が現実であるのかを理解することができない。心には多くの迷い(無明)や渇愛があり、いつも概念に注意を向けているからだ。


私たちは、心が今、何に注意を向けているのか?概念なのか?実際の現象なのか?を常に確認しておく必要がある。そうしなければ、幻想に惑わされたまま、いつまでも苦しみから抜け出せない。確認のポイントは、現実の本性は常に変化しているという点になる。


例えば、足の痛みを観察する時、最初は痛みに気づくと、それは強く、粗く、固いものに感じられる。これは煩悩が痛みに抵抗しているからだ。しかし、嫌悪感が静まり心が中立的になると、智慧が育つ。すると痛みは変化し、動いているものとして感じられるようになる。


だから、私は修行者に「心が痛みに抵抗中の間は、痛みを観察しないよう」助言する。なぜなら煩悩の対象は常に概念だからだ。痛みのある時は、まず嫌悪感をケアし、心が落ち着いてから、痛みを観察するように。すると、その体験は全く異なるものとなるだろう。



修行者

忙しすぎて日常生活の中で気づいている余裕はありません。


長老

そう思うと不満になるので、悩んでいる時でも、心の状態に気づいていれば落ち着くという利点の方に目を向ける。そして、怒ったり考え込んだりする時間を、気づきの時間に置き換えてしまえばいい。



修行者

色受想行識の「想」とは何ですか?


長老

想(Sanna)とは概念、記憶の事で、日常生活では常に起こっているが、多くの人は「想」を認識できていない。例えば、今日見知らぬ人に会ったとして、次の日にどうやってその人を思い出せるのかわかるだろうか?


ある人を見たら、心は直ぐにその人を印象づける。体型や顔つきなどを「想」によって記憶するのだ。だから、翌日再びその人を見た時、直ぐに思い出す事ができる。何か物を置く時も、心は直ぐに記憶し、印象づけている。だから、どこに置いたかを思い出せるわけだ。



修行者

気づいているのか、考えているのか良くわからない時があります。


長老

もし考えていれば、心に怒りや貪欲さが簡単に入り込んでくる。なぜなら、煩悩は現実よりも思考に注意を向けるからだ。もし気づいていれば、思考は止まり、煩悩は消えていく。


例えば怒りが生じた時、気づいていれば、怒りの原因について考えるのではなく、感情を確認する。そうすれば、怒りの心は考える事ができず、さらに怒りを強める事ができない。思考が止まれば、やがて怒りも止まる。だから気づいていれば、心が乱される事がないわけだ。



修行者

受験勉強中は、どう気づけばいいですか?


長老

普通は受験への不安な気持ちがあるから、感情を観察してはどうか?感情を見つめ、学習そのものにも注意を向けるのだ。その間を行き来しているうち、少しずつ上達し、リラックスして勉強できるようになるだろう。



 オランダ人青年によるシュエウーミン探訪記




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  最終更新日 2023.12.31

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