ヴィパッサナー式慈悲の瞑想
慈悲の瞑想と言えばサマタ(集中)瞑想に分類される方法ですが、
「元祖瞑想バカ一代」こと、マインドフルネスカレッジの学長であり、
何かに集中するということは、
水面を棒で叩くと
その衝撃で水草は除かれるけれども
周囲に散ってしまう状況
サマタ式でやっているとマントラに集中することで
自分の中の怒りを見ないふりする
慈しみの近い敵である
両極端の揺れ動きをしっかりと見つめて、
両極端を揺れ動きながら消えてゆくまで見守ってゆきます。
ウィマラ先生によれば、
このヴィパッサナー式の慈悲の瞑想については、
修行者
心が静まった時は、どんな対象を見ればよいのでしょうか?
長老
心が静まったら、その「静まった心」が対象となる。 しかし、心が穏やかになると、その状態を楽しんでしまいやすいので要注意。もし、それに気づいている事がわかったら「気づき」を対象とする。
瞑想中に対象がなくなったら「気づきがあるかどうか」を確かめる。 心が穏やかだと眠くなるから、気づきを対象にしようと努力すれば、目が覚める。 対象とするものは何でもいいし、心が穏やかになるかどうかも重要ではない。大切なのは「気づき」そのものだと心得る。
修行者
「私」「私のもの」という思いは、どうやって発生しますか?
長老
縁起の教えでは感触が快・不快の感受を生じさせ、次に快を追い、不快を避ける渇愛が生じる。そこで「私」を感じ、取へと繋がる。無明(妄想)が身体の形、知覚、思考を使って働いているのだ。
修行者
瞑想中は、雑念や音が気になって心がさまよってばかりいました。
長老
それはサマタ(止)修行の考え方だ。サマタでは、心が一点に集中し、静まっていなければならないと言う。だがヴィパッサナーでは、雑念や音に気づいていてさえいれば、瞑想は大成功だ。
ヴィパッサナー(観)の修行では、いくら雑念が出ようと、騒音がやかましかろうと、何の問題もない。 あなたはそれに気づいており、何が起こっているかをちゃんと観ているではないか。 ヴィパッサナーでは気づきがある限り、心がさまよっているとは言わないのだ。
修行者
心とは、見失った時はどこへ行き、どこから戻ってくるのでしょう?
長老
多くの修行者は、心がどこかへ行ってまた戻ってくると思っている。 しかし実際には、心の本性とは「生じては直ぐに滅する」ものだ。心が身体の外へ出て、また戻ってくるという事はない。
もし「心がここにあって、家へ行ってまた戻ってくる」などと考えるなら、それは心が常住であるという誤った見解になる。実際には「考える心」は生じては直ちに消えている。 この事を十分に体験できるようになると、私たちは「心は無常である」と実感するようになる。
修行者
無常を悟るには、思考が生滅する様子を観察すればいいのですか?
長老
気づきがある時は無常もある。気づきがない時は無常もない。 無常を悟るためには、一貫して気づいているように努める事だ。なぜなら、この洞察は気づきのあるところにしか生じないからだ。
修行者
座っていて痛みが出た時は、嫌悪の心を観察すると痛みが軽くなります。
長老
今、あなたは心と感覚の相関関係を理解した。 怒り(嫌悪、dosa)がだんだん少なくなると、痛みも減っていく。 つまり、痛みは実体のあるものではなく、心理現象という事だ。
心と感覚とは関係がある。それを確かめるには、まず足の痛みと嫌悪感との関連性を観察するといい。それによって、心が痛みを誇張しているから強く感じられている事が理解される。同様に、味覚や嗅覚、聴覚などについても、嫌悪感や怒り、貪欲さとの関連性を観る。
修行者
日常生活では、常に様々なしがらみに縛られ、心が重く感じられます。
長老
過去の事や未来の事について、気づかないまま考え事をし続けていると、心はとても混乱し、重くて暗く感じられる。 しかし、常に自らの状態に気づいていると、心は軽く自由に感じられる。
気づきがある時、なぜ心が自由であると感じられるのか? それは、一瞬一瞬に新しい気づきと新しい対象を体験できるからだ。過去のものは何ひとつ現在には残っていない。 「今」という瞬間は常に新鮮な体験なのだ。 心が過去や未来を考えていない時、それは自由だ。
日常生活の全ての行為を「知ろう」と努める事は、未知の世界を知る手がかりとなる。例えば食事という行為には、見る・触れる・味わう・嗅ぐ・好むといった体験が含まれているが、それらの感覚にその都度気づいていれば、今まで見えなかったものが見えてくる。
修行者
瞑想中に怒りや貪欲さに気づいたら、それを止めるのですか?
長老
瞑想中は何が起こっても、それを観察するだけにする。例えば食事中、満腹なのに味覚に囚われ、必要以上の量を食べようとしている事に気づいたら、それを止めるのではなく、その心理を観察する。
或いは恐れが生じた時、あれこれ考える代わりに「恐れている感じ」を観察する。 それによって妄想を増やすのではなく、気づきと智慧とを増やした事になる。気づいている事自体が体験に変化を与えているので、体験そのものに対して何かを「する」必要はない。
修行者
瞑想中に身体が消えたように感じます。
長老
それは自然な現象だ。気づきに勢いがつくと、身体の形が消える。修行者は驚いて「手はどこ?身体はどこ?」と心配するが、何の問題もない。普段は身体について考えているものの、それがなくなったからそうなった。
心は常に身体について考えている。「頭はどこ? 手 足はどこ? 」と。これは「想」(saññā)の働きだ。しかし、心が静まる事で、心に入ってくる情報が変わる。すると心は形(身体)について考える事ができなくなり「対象」と「それを知っている心」だけが残る。
瞑想で心が静まり、身体の事を考えなくなって、聞こえるものや感じるものと、それを認識する作業だけになると、修行者は「身体の形が消えた」と思う。この仕組みを知らなければ、本当に驚くだろう。しかし、これは修行者にとって自然な現象で、何の心配もいらない。
修行者
「自分」とは身体内にあるのではないのですか?
長老
私たちが「自分は身体の中にいる」と考える限り、常に身体を通して物事を見て・感じて・考えるため、「自分」という幻想が生き続ける。しかし実際のところ「自分」は身体の中ではなく心の中にある。
「自分という感覚」は、誤った認識から生じる「同一視」であり、その認識こそが心の働きだ。自分とは心理現象と理解できれば、自分という感覚も心とともに変化していると気づく。すると、モーハ(無明)は心をさらに強く掴む事ができなくなり、幻想が剥がれる。
修行者
私たちはどのように心と体を「自分」とみなしてしまうのですか?
長老
身体は、ある程度は自分で動かせるので、どうしても「自分」「自分のもの」「自分は身体の中にいる」と思ってしまう。 そして心も同様に「自分」にしてしまい、身体の中にあると思い込む。
このようにして、無明(moha)と貪り(lobha)とによって、輪廻の中でずっと心と体への強い同一化と執着が続いていく。しかし、実際には「自分」という認識は心の中に生じている。 なぜなら、認識の働き(サンニャー)こそが、心の働きそのものだからだ。
修行者
私は身体を動かすものが自分だと思っています。
長老
私たちは「これをしたい」と思って行う時、 或いは、心が努力している時「私は頑張っている」と言う。つまり私たちは「意図」が自分だと信じているのだ。だから努力している時「私は頑張っている」と言う。
修行者
他の修行者と話した後は、心がどこかへ行ってしまい、直ぐには気づきに戻れません。
長老
集中したり話したりした後「しばらく心を見失っていた」と気づいたら、まずは「見失っていた」事を認める。そして、心が自然に気づきに戻るまで認め続ける。
心を見失った事を認めるのは、大事な修行の一つだ。それを悪い事だと判断せず、力を抜いて取り組めば、修行は励みとなり、自然なものになる。対象を急いで捕まえる必要はない。「気づいているという結果を求める」のではなく「心へ戻るための条件を整える」のだ。
修行者
瞑想中に思考に飲み込まれなくなりました。
長老
それは努力の成果だ。あとは、その努力も認識する事。心を対象として観察できるようになると、努力のエネルギーが瞬間ごとに存在しているのが見える。すると 努力しなければ直ぐ思考に飲み込まれる事がわかる。
人は、中々自分が努力していることに気づかない。それは、対象に集中しすぎて、心が何をしているのか気づいていないからだ。だから私は、体験に不満を言うのではなく「気づきが存在している」事を喜ぶように言う。なぜなら、それこそが貴い努力の成果だからだ。
修行者
日常生活を観ていると、苛立ちながら行動している事が多いと気づきました。
長老
何か不快な事があると、それを取り除こうとする。それが「嫌悪」だ。だから行動する前に心の乱れを観察して落ち着かせる。そうすれば最も良い心の状態で行動できるようになる。
修行者
痛みを観察すると、減るどころか強くなってしまいます。
長老
それは、あなたが間違った態度で見ているからだ。もう一度、自分の態度を確認した方がいい。その対象(痛み)を 良いとか悪いとか自分のものだとか思っていると、 間違った見方と態度で痛みは強くなる。
修行者は対象を見る時、どんな見方・どんな態度でいるのかを確認する必要がある。痛みを観察しても弱まらず、強くなるのは、対象(痛み)だけを知り、自分の心を知らないからだ。 そんな時にこそ、対象・感覚・思考だけでなく、心の状態も確認するといいだろう。
修行者
雑念・思考が多くて、心が安定しません。
長老
多くの人は、心の中でたくさん考えている時にはサマーディ(心の安定)がないと思っている。しかし、実際には思考によって怒っていなければ、既にサマーディがある。そうでなければ、対象を知る事はできない。
雑念・思考は一日中、絶えず起こるので「考えている心」に気づく訓練をする必要がある。しかし、いつも思考ばかり見ていると迷ってしまう事になる。だから雑念・思考が消えたら一旦身体の対象へ戻る事だ。そうすれば思考に気づきながら心を安定させる事ができる。
修行者
良い気づきを得るには、どうすればいいですか?
長老
その前に、修行する時「良い気づきを」という欲のような執着をしない事だ。 思考が多くて気づきが少ない状態であれば、好きなものの事や、自分を傷つけた人の事を思い出すと、一発で気を取られて迷ってしまう。
気づきを磨くための最初のステップは、まず「気づきの心」の力を育てる事だ。そうすれば次の2つが可能になる。
1. 強い思考から注意をそらし、再び心に戻れるようになる
2. 気づきを一貫して継続させる事によって、理解が少しずつ生まれてくるようになる
修行者
なぜ私たちは心と身体を観察するのですか?
長老
それは、どれが身体であり、どれが心なのかを理解するためだ。 見る・聞く・嗅ぐ・触れるといった作用は身体に属するが、認識、思考、嫌悪、欲望といった働きは心に属する。それらの違いを明確にするわけだ。
例えば、ケーキを「見る」と「ケーキの事を考える」の違いは、 見るのは身体に属するが、認識したり、味を思い出したりするのは心の働きだと知ったとする。そうすると、ケーキが欲しくなるのは身体の働きが原因ではなく、味を思い出す心の働きが原因だと理解できる。
修行者
瞑想中に気づきの対象とするものは何ですか?
長老
いい質問だ。「対象」の意味を理解すれば心は穏やかになる。 例えば、机や鉢植え、男性、女性などを見ているとすれば、それは概念を見ている事になる。そこでは「見る」という行為こそが気づきの対象となる。
「見る」という行為は、外側ではなく心の内側で起きている。だから、何かを見ているのなら「見る」という行為こそが瞑想対象になる。外側で起こっている事は概念に過ぎず、瞑想の対象ではない。 ただ「見る」という行為が心の中で起きている、と認識すればいい。
修行者
つまり、気づきの対象とは自身の行いという事ですか?
長老
今の瞬間に 心がしている事が瞑想の対象になる。 そして、外部で起きている事は概念的対象となる。例えば、花を見たら、見たという事実、それについて何か反応したという事実だけを対象とする。
或いは、瞑想中に誰かが騒いでいたら、騒いでいる人々に注意を向けるのではなく、自身の心に注意を向ける。そして、聞いている事や、思考、反応している事に気づく。「騒がしい人々」というのは、概念に過ぎない。ただ、心の状態だけに気づいていればいい。
修行者
何かを見る時「見る行為が気づきの対象であって、見えているものが対象ではない」と思うと、心が落ち着きます。
長老
対象の意味を理解している時、心は安らかだ。それは、心が対象に囚われていないからだ。だが、心が見えている対象に囚われると、心は乱れる。
「見る」という行為は心の中で起こっている。しかし、机だとか壁だとか、人とか物とか、見えているものは概念上の対象であり、心の外にある。ただ「見る」という働きが心の中で起こっていて、外にあるわけではないと認識するといい。心が外に出なければ落ち着く。
修行者
瞑想している時に誰か来たら「誰か来た」と気づけばいいわけですね?
長老
いや、だから他人は関係ない。気づく対象はあくまでも自身の心に起こっている事だ。その場合は聞いている事、感じている事、誰なのか推測している事、喜びや嫌悪感などの感情になる。
修行者
昼間に怒りや不安が出た時、どのように心を安定させ、落ち着かせればいいですか?
長老
例えば、近所の騒音がうるさいとか、経済的に不安定で落ち着かないなどという時は、起きている出来事ではなく、自身の心に目を向ける。そして、まずは感情を観察する事だ。
苛立ったり嫌悪感が出たり、不安で胸がザワついたりした時は、その事を考えると状況を更に悪化させる。だから注意を心に向け、嫌悪や不安が消えるまで、そして外の出来事がもはや不快な体験ではなくなるまで、感情を観察し続ける。心が変われば物事の見方も変わる。
修行者
日常生活で鋭く気づいていられるようになりたいのですが?
長老
気づきを育てるには、あらゆる出来事を活用する。特定の対象でもいいし、心が行く先々の対象を認識するのでもいい。常に「今、何に気づいているか?」と、自分に問いながら生活する事が大切だ。
歩行や食事、見たり聞いたりする事などの何でもない日常の行いは、実は、生活するのになくてはならない。その「見る」「聞く」「食べる」などの、今この瞬間に起こっているあらゆる出来事を認識するようにする。気づきを育てるには、常に気づいているしかない。
修行者
心を落ち着かせる方法はありますか?
長老
見るものや聞くものを制限したり、感情をコントロールしたりする方法が一般的だが、気づきを継続させる方法というのもある。これだと自身の行いに何の制限も加えず、抑圧もせず、自然体のまま落ち着く事ができる。
修行者
手紙を書く時、右手の一つ一つの動作に注意深く気づいていましたが、左手が既に紙を取っていた事には気づきませんでした。
長老
一つの事に集中しすぎると全体像が見えなくなり、一度に一つの事しか知る事ができない。集中するほど、気づきが鈍くなるわけだ。
サマタ瞑想の修行者は、日常生活でも一挙手一投足に集中し、動作と一体化する事を目指す。しかし、マインドフルネス瞑想の修行者は、逆に集中しないようにする。なぜなら意識を集中させすぎ、多くのエネルギーを使うと、心は重くなり、気づきは鋭さを失うからだ。
修行者
気づきが人類を進化させる鍵になると言えますか?
長老
進化かどうかはさておき、確かに人間だけが自分の心を知る能力がある。動物は智慧ではなく、モーハ(moha=痴・無知、迷妄)を持って生まれてくるため、自分の心を理解する事ができないのだ。
人間の自身の心を知る能力は、修行によって育てる必要がある。 長年瞑想を続けている人の心の質は、普通の人のそれとは全く異なる。その人の「存在のレベル」が高まっているのだ。 変容するためには、私たちの気づきが、より洗練されたものでなければならない。
修行者
メンタルが不安定なので、修行に入る自信がありません。
長老
正しい修行を始めれば、たとえ今は心の状態が悪くても、修行によって必ず良くなるという確信が生まれる。 気づきによって善心がもたらされれば、それが悩ましい心の状態を払い除けるとわかるだろう。
修行者
努力すれば必ず結果が出ますか?
長老
一般的に、努力すれば結果が得られると言われているが、実際には、どんな結果も欲したから起こったのではなく、条件が整ったから起こった。この性質を理解すれば、貪欲さは減っていく。貪欲さを持ったままの修行は苦しい。
修行においては、貪欲さこそが最大の問題になる。なぜなら、何かを得ようと期待すると、その結果を得ようとして心身が緊張し、疲れ切ってしまうからだ。だから、指導者は結果を求めないように言う。しかし、縁起(条件づけ)を理解すれば、貪欲さは静まっていく。
私の師、故シュエウーミン大長老は、常々修行者たちを次のように戒めていた。『何ものも作為しない事(不造作)。何ものも拒まず、抵抗しない事(不抗拒)。生じては滅していく現象を、ただ覚知し続ける事』これらの点を、繰り返し修行者たちに想起させていた。
修行者
人生は苦だという事だけは良くわかります。
長老
一般の人々は苦(ドゥッカ)を通常、生活の中の苦しい体験の事だと思っている。つまり、求不得苦、怨憎会苦、愛別離苦、老い、病、死の事だと。一方、瞑想修行者は、苦の心的側面もまた体験し、理解する。
瞑想修行者は「心の変化し続ける性質は信頼できず、満足を得られるものではない。無常こそが苦の原因」と理解する。今、深刻になって考えている事も、数分経てばどうでもいい事のように思えたりして、体験も心も条件次第のもので、信頼できるものではないとわかる。
修行者
私の考えでは「考えようと意図するから」考えているのだと思います。
長老
考えようとする意図があるから、思考が起こる。その通り。そして、その「意図」は別の心であり、それも自然だ。その「意図」については考えないように。ただ気づくだけで十分だ。
私たちは通常「意図=自分」だと錯覚している。だから、考えようとする意図があると、直ぐ「私が考えている」と思ってしまう。だから意図については考えず、それに気づき、親しむ事が大切だ。その錯覚を直ぐ手放す事はできない。それには修行が必要だ。
修行者
怒っている時は、相手に対して酷い事を考えますが、後でその事を思い出すと、自分が恐ろしくなります。
長老
そう、私たちが考える事は、条件に左右されてばかりで、全く信頼できない。だから、思考や感情を本気にせず、気づきにとどまるほうが安全なわけだ。
修行者
「通常、人々は心に起こっている現実ではなく、概念の方ばかり見ている」とは、どういう意味ですか?
長老
例えば帰宅中に「早く帰って食事したい」と思っていたとしたら、「私が急いでいる」という思いは概念で、「焦りや期待がある」という気づきが現実だ。
そのような、空腹や「食べたい」という欲求、「見る事」と「知覚」といった、身体的・心的な対象を確認する事に慣れてくると、日常生活でも「私が何かをしている」という概念的な出来事ではなく、「感覚や欲求が起こっている」という、現実に目が向かうようになる。
修行者
心配や不安が出てきた時、どうすればいいですか?
長老
まず最初にすべき事は、心配や不安を押しのけようとしない事だ。そして、これは一つの心の状態だと考え、瞑想の対象として用いる。起こるたびに繰り返し観察するといい。それらは怒りの煩悩だ。
その時に見るのは感情の方で、物語ではない。心配の物語は、考えれば考えるほど増大するが、心が同じ対象に繰り返し気づいていれば、感情はそれ以上強まる事ができず、心は静まる。しかし一日中、心配の原因について考えていると、一日中心配しているハメに陥る。
修行者
この「私」をどうやって失くせばいいですか?
長老
それはできない。理解が生じた時にのみ取り除かれるのであって、あなたがそれを行うのではない。気づきの役割は、心の中で何が起こっているかを認識する事で、煩悩を取り除くのは、智慧の役割になる。
修行者
時々、何をやっても虚しくなって「人生とは何だ?」と考えます。
長老
私たちの概念的な人生は、夢であると気づく事だ。「善悪」や「優劣」というのも、実際には実在しない便宜上の概念にすぎない。つまり概念的な人生というのは、頭の中だけの出来事なのだ。
私たちが目覚めるたび、それが現実ではないと気づく事で、夢の中の痛みや苦しみから解放される。私たちは気づいている時は目覚めている。だから私たちは、決してトラウマを解決するように、夢を良いものにしようとはしない。私たちが望むのは、ただ目覚める事だけだ。
修行者
概念・幻想のない、現実の中だけで生きる事はできますか?
長老
それはできない。人間は、概念・幻想を共有し合わなければ、生活が成り立たない。だから、概念が生じるのを止めようとするのではなく、概念とは何か、現実とは何かを理解しようとする必要がある。
概念・幻想を取り除こうとするなら、それは誤った見解になる。「私/あなた」というのも概念だが、それがなければ私たちはコミュニケーションがとれない。何一つできない。だから、概念を排除するのではなく、概念と現実の違いを知る事だ。それが智慧なのだから。
修行者
気づきを継続していても、会話をすると途切れてしまいます。
長老
会話の最中に「話しすぎていないかどうか?」を定期的に確認すると、会話に飲み込まれにくくなる。相手の話に耳を傾けるようにもなるし、落ち着いて「今ここ」にいる感覚を持てるようになる。
修行者
考えるのが好きで、瞑想中にもやめられません。
長老
「私が」考え、話す時は、慣れ親しんだ概念的世界にいて、自己を強めている。しかし、気づきがある時は自己のない、異質な世界にいる。自己が関わらない状態では、私たちは簡単に退屈してしまうのだ。
修行者
食事中に気づくのは、味に囚われず好き嫌いをしないようにするためですか?
長老
それは別に好き嫌いをなくすためのものではない。瞑想とは何かを取り除く事ではない。好き嫌いが起こるたびに、ただ気づいていればそれでいい。瞑想はとても簡単なものだ。
好き嫌いが起こるたびにそれをなくそうとすれば、不満や落胆を感じてしまうが、好き嫌いが起こるたびに気づけていれば、成功したと思える。「気づけている!」と喜べる。だから、起こっている事を取り除こうとするよりも、気づきがそこにある事に感謝した方がいい。
修行者
概念と現実の区別のしかたが、良くわからないのですが?
長老
例えばバナナを食べる時、バナナの形や栄養を知る事はできない。実際に知る事ができるのは、硬いか柔らかいか、甘いか酸っぱいか、冷たいか温かいかだけだ。それが現実で、形や栄養は概念だ。
ヴィパッサナー瞑想の対象は、どんな時でも実際に感じている現実になる。修行の中で現実と概念の違いを見分けるのだ。今までは現実について良く理解していなかったが、これから現実により注意を向けていくようにすれば、徐々に、現実の本質についての理解が深まる。
煩悩は概念に注意を向けるが、智慧は現実に注意を向ける。もし、瞑想中に足の痛み(という概念)に苦しんでいれば、そこには嫌悪感が存在し、痛みについて考えている事を意味する。しかし痛みではなく、心の嫌悪感を観察すれば、嫌悪感は消え、痛みもまた消える。
修行者
日常生活の中で修行をするのが難しいです。
長老
普段はやりたい事を何でもして構わない。必要なのは、それに「気づき(覚知)」を伴わせる事だけだ。最初は古い習慣が消えないから辛く感じられる。煩悩に従い、貪欲さや怒り、嫌悪感のままに生きる習慣が。
私たちは、歩いている時でさえ、次に何をするかを考えるのに忙しく、自分が「歩いている」という事さえわかっていない。だから最初のうちは、古い習慣を超えるための努力が必要になる。ここで努力を怠れば、人生は混乱し、平安のないものになってしまうだろう。
修行者
瞑想中に不快な感情が出ると、ますます機嫌が悪くなります。
長老
通常、嫌悪感や不安、心配などが現れると、どうしても取り除こうとしてしまう。しかしそれは逆効果だ。不快さであっても慌てず、ただ気づいていれば、心はより安定し、落ち着いていられるだろう。
修行者
「善悪」「優劣」だけでなく、「新旧」「美醜」など、どうしても概念を現実だと思って見てしまいます。
長老
智慧がなければ、心は何が現実であるのかを理解することができない。心には多くの迷い(無明)や渇愛があり、いつも概念に注意を向けているからだ。
私たちは、心が今、何に注意を向けているのか?概念なのか?実際の現象なのか?を常に確認しておく必要がある。そうしなければ、幻想に惑わされたまま、いつまでも苦しみから抜け出せない。確認のポイントは、現実の本性は常に変化しているという点になる。
例えば、足の痛みを観察する時、最初は痛みに気づくと、それは強く、粗く、固いものに感じられる。これは煩悩が痛みに抵抗しているからだ。しかし、嫌悪感が静まり心が中立的になると、智慧が育つ。すると痛みは変化し、動いているものとして感じられるようになる。
だから、私は修行者に「心が痛みに抵抗中の間は、痛みを観察しないよう」助言する。なぜなら煩悩の対象は常に概念だからだ。痛みのある時は、まず嫌悪感をケアし、心が落ち着いてから、痛みを観察するように。すると、その体験は全く異なるものとなるだろう。
修行者
忙しすぎて日常生活の中で気づいている余裕はありません。
長老
そう思うと不満になるので、悩んでいる時でも、心の状態に気づいていれば落ち着くという利点の方に目を向ける。そして、怒ったり考え込んだりする時間を、気づきの時間に置き換えてしまえばいい。
修行者
色受想行識の「想」とは何ですか?
長老
想(Sanna)とは概念、記憶の事で、日常生活では常に起こっているが、多くの人は「想」を認識できていない。例えば、今日見知らぬ人に会ったとして、次の日にどうやってその人を思い出せるのかわかるだろうか?
ある人を見たら、心は直ぐにその人を印象づける。体型や顔つきなどを「想」によって記憶するのだ。だから、翌日再びその人を見た時、直ぐに思い出す事ができる。何か物を置く時も、心は直ぐに記憶し、印象づけている。だから、どこに置いたかを思い出せるわけだ。
修行者
気づいているのか、考えているのか良くわからない時があります。
長老
もし考えていれば、心に怒りや貪欲さが簡単に入り込んでくる。なぜなら、煩悩は現実よりも思考に注意を向けるからだ。もし気づいていれば、思考は止まり、煩悩は消えていく。
例えば怒りが生じた時、気づいていれば、怒りの原因について考えるのではなく、感情を確認する。そうすれば、怒りの心は考える事ができず、さらに怒りを強める事ができない。思考が止まれば、やがて怒りも止まる。だから気づいていれば、心が乱される事がないわけだ。
修行者
受験勉強中は、どう気づけばいいですか?
長老
普通は受験への不安な気持ちがあるから、感情を観察してはどうか?感情を見つめ、学習そのものにも注意を向けるのだ。その間を行き来しているうち、少しずつ上達し、リラックスして勉強できるようになるだろう。
オランダ人青年によるシュエウーミン探訪記








