【ウ・テジャニヤ長老の名言第30集】

2026年4月24日金曜日

名言集

t f B! P L

 


コントロールしない


SUTの指導の中で、よく出てくるのが「コントロールしない」という言葉です。これは誤解されやすい表現かもしれませんので、ここで少し補足しておきます。

結論から言うと、「コントロールしない」とは「怒りや欲望のままに生きろ」という意味ではありません。

むしろ瞑想修行者は、日常生活の中で修行を着実に進めるために、


①不殺生

②不偸盗

③不邪婬

④不妄語 

⑤不飲酒


という五戒を守りながら修行していきます。


瞑想修行には、戒律を守り行動を慎むことで心の波風が収まり、心が安定し、智慧が現れてくるという、「戒・定・慧」の三学が土台にあります。


しかし、怒りや欲望が生じるのは自然なことでもあります。

ですからSUTはそのようなとき、

「怒ってはいけない」

「怒りを何とかしなければ」とか、

「欲望を何とかしなければ」といったように、

心身の状態をジャッジしたり、

否定したり、

無理に変えようとしたりせず、

そのままにしておきなさいと説いています。

これが「コントロールしない」の本当の意味です。


コントロールとは、自分や他人を理想通りにしようとするエゴの働きです。分かりやすく言えば、直ぐ「お前のために言ってやってんだ!」などと言う、職場などでよく見かける、他人に口出しをしたり、何事にも口うるさかったりする、いわゆる「あの人」のようなあり方です。

そして他人が自分の思い通りにならないと、嫌味を言ったり、当てつけをしたりする・・・そうした態度を、自分自身に対しても取らないようにするということです。


つまり、怒りや欲望、不安や恐怖に満ちた自分に気づいたとき、それを「何とかしよう」とするのではなく、赦し、受け入れ、そのままにしておく。そして、今やるべきことに目を向ける。それがマインドフルネス瞑想における正しい態度です。


これを実践していけば、自分にも他人にも口うるさく、偉そうに振る舞うことが減り、人間関係のトラブルも少なくなっていくでしょう。そして、自然と周囲から信頼される人になっていきます。言い換えれば、不要な摩擦を生まない生き方とも言えます。







修行者

宇宙の法則と言うか、自然の法則に沿って生きるには、戒律を厳守しなければならないのですか?


長老

ダンマの生き方をしたいという事なら、瞬間瞬間を生きる、つまり気づきを伴った生き方をする事だ。そこには、無常、苦、無我という三つの特徴が現れている。


一方、気づきのない概念的な生き方は、宇宙の真理に背くアダンマの生だ。なぜなら、気づきがない状態では、すでに「自己」という錯覚が存在しており、三つの特徴が現れていないからだ。私たちが気づく時、それは物事を「自己」抜きで、あるがままに見ている。





修行者

瞑想しても特別な体験はありませんが、しなければなりませんか?


長老

特別な体験はなくても、起こっている事を認識しようとするだけで十分に修行になっている。修行とは何かを得ようとする事ではなく、ただ気づきが今ここにあるかどうかを確認する事だ。



修行者

無常はどうやって悟るのですか?


長老

私たちは、概念を見るのではなく、心の働きを観察するために修行している事を理解する必要がある。それによって心がもつ無常の性質を悟る事ができる。それは、概念は連続しているが、心の働きは常に変化しているからだ。


例えば不安を感じている時は、不安から来る思考ではなく、不安そのものを観察する。不安は心の状態であり、無常という特徴を持っている。しかし、不安な思考の方は概念なので、持続するものだ。不安を克服しようと考えると、いつまでも心に残って消えていかない。



修行者

概念と現実とを見分けるポイントは、無常を知る事ですか?


長老

あらゆる現象は生じて、ほんの短い間とどまり、消えていく。例えば、味覚に注意を向けてみると、舌の上で味はどれくらい続くだろう?私たちは、本当に美味しいものを味わっているのだろうか?


実際には私たちは、食べた後に味を思い出している。そして食べて知った後に、どんな味だったかを記憶している。味は舌の上に現れるが、ほんの一瞬で消えてしまうからだ。このように観ていけば、少しずつ現実を理解し、現実そのものに興味が向かうようになる。



修行者

別にいい体験をしなくても、気づいていれば十分なわけですね?


長老

そう、修行者の役割は、一日を通して情報を集める事であり、自分を気持ちよくさせようとする事ではない。情報は今この瞬間に起こっている事に気づく事で集める。それに専念していれば十分だ。



修行者

自宅で一人で修行する時、自分の実践が正しいのか間違っているのか、確認する方法はありますか?


長老

家で修行している時は、自分の胸に聞くしかない。もし実践が間違っていれば、心は不安定で落ち着きがなくなるが、正しければ、心は次第に静まっていくだろう。


また、正しく気づけていれば、智慧は少しずつ育つ。正しく気づくために必要なのは、常に今の瞬間にいる事。そして心に起こっている事なら何でも知る事だ。何が正しく、何が間違っているかを理解するのが智慧であり、智慧が育てば、それ自体が正邪を判断できる。



修行者

瞑想中は気づいているつもりでも、いつの間にか一つの対象に集中しています。


長老

集中しすぎると心は一つの対象に張りつき、気づきが働かなくなる。そうならないためには、気づきが今もきちんと認識されているかを、定期的に確認しながらやった方がいい。


ヴィパッサナーは、落ち着いた心で対象を観察するが、集中(サマタ)の方は、一点に集中した心で対象と一体化する。日常生活では、どちらが実践しやすいかを確認してみる事だ。心の安定によるサマーディと、一点集中によるサマーディの違いを知っておいた方がいい。





修行者

毎日ずっと気づきを継続させなければならないと思うと、気が遠くなります。


長老

長い間修行すると思わず、ただ今日一日の事だけを考えればいい。実際、本当の今この瞬間はとても短く「今」しかない。気づきのない、ダンマのない生き方では、心が乱れて苦しい。



修行者

日常生活では、楽しみに心が奪われて、気づいていられません。


長老

日常生活では、心は目や耳からの刺激に多くの注意を向け、外の世界に惹きつけられて思考を追いかけてしまう。外界に強く関心が向いている時は、心の中で起こっている事には関心を持てない。


日常生活で気づいていられない時は、感情だけでも確認する事。それは身体に表われるから、緊張しているのか、リラックスしているのかを確認すればいい。多くの対象を使う必要はない。心の状態をチェックするだけだ。一つの事だけをすればいいから簡単なはずだ。



修行者

嫌な事があると、頭の中がその事で一杯になり、気づいていられなくなります。


長老

何かに心を乱された時は「1〜2分間は気づいている事に注意を向けよう」と自分に言い聞かせるしかない。それによって苦しみが消え、智慧が育つという、2つの恩恵を受ける。



修行者

やはり合宿で集中的に修行した方が、自宅で気づき続けるより上手くいきます。


長老

いや、その結論はまだ早い。なぜなら合宿では速度を落として気づきながら動くので、良く気づけているように思えるが、動作にばかり集中して、心の方は疎かになりやすいからだ。


一方、自宅や職場で気づいている時は、途切れながら気づき続けるので、どうしても自分の気づきは不十分だと思ってしまう。だが、常に思考や感情に気をつけ、冷静に物事に対処すべく、心に多くの注意を向けていれば、合宿で修行するより、はるかに上手くいっている。



修行者

日常生活や瞑想中、時々悪い考えが浮かびますが、何か悪い影響がありますか?


長老

それは誰にでもある事だから心配しなくていいが、気づく必要はある。気づいていれば、何の影響もないが、気づかなければ悪影響が出るからだ。そして、気づける事に感謝だ。



修行者

日常生活に戻ると、合宿で築いた穏やかな心が失われてしまうのが惜しいような気がします。


長老

穏やかな体験は合宿を離れると失われるが、瞑想する心までは失われない。状況の変化で、心の状態も変化するのは確かだが、それも一つの気づきの対象にすぎない。


このマインドフルネス瞑想は、穏やかな体験を得る事が目的ではない。心の状態はどうあれ、それに気づく事が目的だ。だから修行者が気をつけるべきなのは、今の瞬間に気づきがあるか、ないか?という事だけだ。心に起こる事は何であれ、そのままにしておいていい。



修行者

音でも感覚でも雑念でも、瞑想中に気づくべき対象は何でもいいのですか?


長老

そう、対象は関係ない。大切なのは正しい考え方を持って気づく事だ。もし間違った考え方をしていれば、過去の記憶に囚われたり、後悔したりして、多くの問題が生じてしまう。


瞑想でおかしくなってしまうというのは、瞑想そのもののせいではなく、瞑想に対する誤った考え方のせいだ。だからこそ私は常に「対象よりも気づきの方が重要だ」と言う。瞑想中は、たとえ何が現れても変える必要はなく、「私」のものにせず、ただ気づくだけでいい。




修行者

味覚の「美味しい」というのも実際にはないのですか?


長老

ない。味はただの味で、それ自体の本性としては、良くも悪くもない。あなたがそれを好めば良いものになり、好まなければ良くないものになる。甘いのと辛いのとどちらが好きか?良いのはどちらか?



修行者

昨日は気づきが継続して意識がクリアになったのですが、一晩寝たら元に戻ってしまいました。


長老

それが普通だ。気づきがより一貫しているほど、体験は連続的ではなくなるからだ。もし体験が長く続くなら、それは気づきが一貫していないという事を意味する。


合宿中と日常生活とでは、体験する事の内容は異なるものの、どの体験も一つ一つの気づきとともに変化している事は共通している。その結果、良い体験も悪い体験も、やがて実体的なものではなくなる。これを知る事が、心が苦しみを終わらせる事を学ぶプロセスである。



修行者

日常生活では、朝10分、夜15分しか瞑想できません。


長老

たとえ5分、10分しかできなくても、やった分は積み重なっていく。忙しい時には、自身の状態について何かを知っているだけでも十分。それを習慣にすれば、気づきは日ごとに益々強くなっていく。



修行者

瞑想中に嫌な事を思い出すと、心が乱れて考え込んでしまいます。


長老

乱れた心を現在の瞬間へ戻すには、次のように自分に言い聞かせるといい。「 私はただ気づきを育てているだけであり、辛い体験があっても、これからの1分間は気づき続けるのだ」と。


また「嫌な体験は実体的なものではない。私はその体験より、気づきそのものにより多くの注意を向ける。単に何かが起こっていて、それが心によって知られているだけなのだから」と自分に言い聞かせれば、自分の体験に対して、より開かれた態度でいられるようになる。



修行者

日常生活では「今、気づいているか?」と自問しながらやると、気づきを保てます。


長老

生活の中で、気づきがあるかどうかを自身に確認する作業は、一日を通して気づきを高める道具になる。強く言うか静かに言うか、その時々の心と気づきの質によって決まる。



修行者

日常生活の気づきは、急いでいる時などは生活の妨げになるのですが。


長老

自宅や職場で気づきを継続させるためには、日頃から軽めの気づきを育てておく必要がある。日常の活動を妨げる事も、簡単に疲れてしまう事もない、一貫して保ちやすい性質のものを。


私たちはどうしても、合宿での安らぎの体験を瞑想の目的のように勘違いしてしまうが、実際には大切なのは、今の瞬間、心が気づいているかどうかであって、安らぎの方ではない。その点を明確に理解しておけば、日常生活の中にも軽やかな気づきを持ち込む事ができる。



修行者

日常生活の中で「見ている事」に気づくのは難しいです。気づいた時には既に対象の意味やイメージについて考えています。


長老

最初のうちは「見るという行為」に気づこうとしていれば十分だ。見るたびに、気づこうとする習慣をつけるようにするわけだ。





修行者

日常生活では心が乱れがちなので、瞑想が欠かせません。


長老

瞑想で心の静けさを体験できたら、その段階に留まらず、忙しい生活の中でも気づきを一貫して保つ工夫を心がけるようにする。まず、気づいた対象によって、心がどう影響されているかを観るといい。


乱れた心を落ち着かせる方法は二つある。一つは対象に心を集中させる方法で、もう一つは常に自分自身に「何が知られているか?」と問いかけながら、気づきを継続させる方法だ。前者は一過性の落ち着きだけだが、後者を実践すれば、常に安定した心でいる事ができる。



修行者

日常生活で貪欲さや怒りが出た時「これは渇愛だ」と言うと、止まります。


長老

それが渇愛だと言うよりも、気づき続けた方がいい。気づきとは情報を集める事だ。何度も気づいて多くの情報を集め、その法則性に気づく。貪欲さや怒りを止めるのが目的ではない。



修行者

日常生活で智慧の働きを感じる事はできますか?


長老

自分の得意な技能、専門性を発揮している時は、常にそれを自覚するといい。自分の強みを生み出しているのは智慧(パンニャー)だから、それを認識する習慣が、パンニャー・パーラミーを育てていく。


他にも聞き上手とか伝え上手とか、明るくおおらかで、嫌な事でもすぐに赦し忘れる事ができるとか、料理やお菓子作りが得意とか、日常生活で様々な自分の強みを発揮している時は、常に智慧が働いている。日常生活の中で智慧を認識できれば、瞑想中でもそれができる。



修行者

加齢とともに忘れっぽくなってしまいましたが、それでも智慧はつきますか?


長老

一般の人は、よく考え、よく記憶できる敏捷な心を智慧だと思っていて「心身の働きをよく理解する事が、困難な状況の中でも安定した心をもたらす」という事には気づいていない。


知恵には二種類ある。一つは記憶や思考から生まれる知恵で、もう一つは加齢という困難の中で心を安らかに保つ方法を理解する事から生まれる知恵だ。こちらが智慧になる。困難に対して心を開き、気づき、受け入れようと努めるなら、落ち着いた心を保つことができる。



修行者

何かを楽しんでハマってしまうと、気づきを忘れてしまいます。


長老

何も問題はない。気づきを失ってしまった事に不平を言うよりも、迷っていると気づいたそのたびに、心を戻す事だ。「気づきを失ってしまうから、まだまだ修行が必要だ」と前向きに考えて。



修行者

無常・苦・無我どころか、物事には堅固な実体があるように感じられます。


長老

心は、私たちが経験する事に実体があると考えるため、何事も「私」が行い、所有していると感じられる。この「実体感」は思考の連続性、つまり非常に高速な思考プロセスから生じる。


気づきがない時は、思考の流れは連続しているように感じられるが、気づきがあると、その思考プロセスが細かく分断され、不連続であることが明らかになる。気づきが深まるにつれて、より多くの洞察が生じ、心の真の無常・苦・無我の性質が明らかになっていく。



修行者

日常生活では会話をしなければならないので、気づいていられません。


長老

だからこそ日常生活では、話しながらの気づきに熟練する必要がある。怒りや不安、心配などの煩悩は、多くの場合は話す事から生まれる。人はあなたのところへ煩悩を持って来るのだ。


あなたが日常生活の中で出会い、会話する人々の多くは、迷い(無明)とともにいる。気づき(サティ)、集中(サマーディ)、智慧とともにいる人はほとんどいない。もし話しながらの気づきに熟練し、目覚めていなければ、心は簡単に苦しみに巻き込まれてしまう。



修行者

座る瞑想中に眠くなったら、立ち上がって歩きます。でも、歩いてもまだ眠いです。


長老

それに気づいているなら大丈夫だ。私たちの責任は「知る事」だけだ。何が起ころうと、そのままにしてそれを知るだけでいい。歩行瞑想をしてもまだ眠ければ、寝てきていい。



修行者

大好きなアイスクリームを楽しんでいる時、心は気づきよりも貪欲さの方に行っています。


長老

そうだ。だからこそ、体験している事より、気づきの方が重要と心得ておく必要がある。体験している事に魅了されてしまっていては、無常・苦・無我は理解できない。


気づきの心は、アイスクリームの楽しさよりも重要だ。味覚に魅了されてしまわず、貪欲さに気づき、それを継続させていれば、心はアイスクリームを離れ、智慧とともにあるようになり、存在の三つの特徴(三相)である、無常・苦・無我の理解は深まっていく。



修行者

ただ受動的に気づいているだけだと、ぼんやりしてしまいます。


長老

気づきとは受動的な観察ではなく、能動的な要素もある。五根(信・精進・念・定・慧)が協力して働く状態が気づきだ。例えば、眠い時は精進(エネルギー)を使って心を活性化させて行う。


あるいは、興奮したり、心配したりした時は、定(落ち着き)を使って心を鎮める。マインドフルネスとは、ただ受動的に気づいているだけでなく能動的な側面もあり、それは智慧が状況を判断し、心を調整している。心の五つの要素をバランスよく使っているわけだ。



修行者

瞑想で超常的な能力は身につきますか?


長老

瞑想修行は五つの心の要素を使って行う。眠い時は姿勢を正し、怒った時は呼吸を観て感情をやり過ごし、興奮した時は深呼吸で落ち着かせたりと、五根を使うとは、つまり常識を使う事だ。瞑想すると常識が身につく。



修行者

嫌な事があると、悪い気分が何度も繰り返し戻ってきて苛立ちます。


長老

それはただの煩悩のエネルギーの表れにすぎない。そんな時は「なぜ私は、大好きな食べ物を味わうたびに何度も喜びが起こる事には腹を立てないのか?」と自問してみるといい。


私たちを喜ばせたり悩ませたりする対象に対して、貪欲さや怒り、嫌悪が繰り返し発生してくる時は、その煩悩のエネルギーに気づきを持って心を向ければ、心が作り出す投影で傷つく事はなくなる。また、心そのものに注意を向ければ、概念に振り回される事もなくなる。



修行者

嬉しい体験には浸って、嫌な事だけ観察して嫌悪感に浸らないようにしています。


長老

喜びに浸るのは貪欲さで、嫌な事を嫌うのは瞋恚だ。どんな煩悩が現れても選り好みせず、ただの気づきの対象として同じように観察する事だ。それが正しい方法になる。



修行者

瞑想中、観察に興味がなくなる時があります。


長老

観察に興味がない事は悪い事ではない。また、やる気がある心も怠惰な心も、気づきの対象としては同等のものだ。だから肝心な事は「良い心を作ろう」とするのではなく「今ある心を知る」事だ。


信は増える時もあれば減る時もある。智慧はある時もあればない時もある。心は無常だからだ。やる気があるのもぼんやりするのも、全て自然現象 だ。だからそんな時は心の質の違いを観て、心は決して自分ではコントロールできないものである(無我)と知る事だ。





修行者

私には気づきはあっても智慧はありません。恐怖心が出ても、怖くて観る事ができなかったからです。


長老

あなたが気づくたび、智慧は既にそこにある。気づきと智慧とは自然に一緒に生じるからだ。そして気づきを継続すれば、智慧はゆっくりと成長していく。


瞑想で気づいている時は、対象とは何か、心とは何かを既に知っている。それこそが智慧だ。ただそれに興味を持ち、育てていけばいい。頭で理解しただけでは、恐怖心や他の激しい感情が出た時に対処できない。だからこそ、繰り返し観察の練習をする必要がある。



修行者

瞑想は天候や体調、気分次第で変わります。


長老

最初のうちは、体験する事に縛られてしまい、暑い時や頭が痛い時などは瞑想できないと思ってしまう。だが、それらの体験も気づきの対象なのだ。どんな体験でも対象にしてしまえば、体験から自由になる事ができる。



修行者

宗教的な瞑想と、宗教的ではない瞑想との違いは何ですか?


長老

悟りや天国に行く事などの結果や信念を目的にすると、「信じる → 修行 → 結果」 という、その宗教の信仰体系の一部になる。しかし、気づきを継続させるために修行すると、宗教的ではなくなる。


悟りや天国などの概念は、宗教の教義を信じる必要があるが、今体験している事に気づくだけなら、信仰は必要ない。瞑想は信じる事ではなく、体験を観察する事だ。そして「私が結果を得る」と思えば「私という感覚」が強まるが、気づくだけなら「我」は逆に弱まる。



修行者

気づきの対象を、怒りや貪欲さを持ったまま観察するとどうなりますか?


長老

痛みを例にとると、怒っている時は痛みは苦しく感じられるが、怒っていなければ痛みは興味深いものとなり、それほど苦しくはない。実は対象は、観察する心の質に依って変わるのだ。


観察する心に無知が多ければ、対象を観ても概念ばかり観て、巻き込まれる。だが心に智慧があれば、対象を自然に起こっている現象としてありのままに観る事ができる。対象は観察する心の質に左右されるので、心に煩悩を持ったままで正しく観察する事はできない。



修行者

気づきの対象は、心の質に左右されるような不確実なものなのですか?


長老

そう、だから私は対象を信用しない。味覚を例にとると、同じ食物でも空腹時には美味しくて、食欲がない時には不味いとか、心に貪欲さがあるのとないのとでは、全然違って感じられる。



修行者

もし瞑想中に無我を悟ったら、どうすればいいですか?


長老

たとえ瞑想中に洞察智が現れてきても、気づきを継続させるしかない。そうでなければ、今度は智慧が作り出すイメージに気を取られてしまう。「無我についての理解」でさえ手放して気づき続けるのだ。


たとえ自己が現れても、無我が現れても、瞑想中はそれらもまた「知られる対象」となる。例えば、かつて傷つけられた記憶にとどまり続ければ、気づきの継続は失われ、苦しむように、洞察の内容にとどまり続けても、やはり気づきの継続は失われてしまう。



修行者

瞑想中に聞こえる音や、感じる温度などの対象が、特に変化する事がなければ、別の対象に移ってもいいですか?


長老

対象が変化しているのを見る事は重要ではないし、対象の変化を急いで見ようとする必要もない。そんな時は、観察している心に目を向けるといい。


瞑想中に現れる気づきの対象は、あまり重要なものではないが、観察している心の方は重要なものだ。だから、そこに苛立ちや貪欲さがなく、リラックスしているかどうかを確認しながら瞑想した方がいい。対象が変化するのを待ち望むのは、誤った態度になる。





修行者

将来の事が不安で落ち着かず、焦燥感で何も手につきません。


長老

未来や過去への思考や感情で苦しむ時は、気づきによって心を現在に固定する。そうすれば「今この瞬間の力」が生じ、過去や未来を手放す事ができる。それによって、全てが大きく変わってくる。



修行者

食欲が出た時、食べたがるのは心ですが、実際に食べるのは身体です。


長老

「食べたい」と感じた時、それは昼になったから習慣として感じたのか?貪欲さから感じたのか?身体が必要としていると感じたからか?を正確に見分ける事が智慧の成長につながる。



修行者

托鉢で裸足で歩いていて地面が鋭くても、心が善い状態なら問題はありません。


長老

そう、気づいていれば不快な環境でも、怒りや嫌悪感を持たずにいられる。しかし気づきがなく、目覚めていなければ、同じ環境でも怒りや嫌悪感で、とても困難に感じられる。


不快な体験を観察する時に「あるがまま」に理解できるかどうかは、心の質に依る。もしモーハ(無明)が多ければ「困難な環境で苦しい体験をしている」としか思えない事でも、智慧があれば「自身の怒りや嫌悪感が状況を困難に感じさせる」と正しく観る事ができる。



修行者

瞑想する時間が短いと気づいていられますが、長く座ろうとすると気が散ります。


長老

5〜10分間の集中した気づきを設定する事は、気が散ることを大きく減らし、実践を深める事ができる。また、瞑想に取り組みやすくなるので、やる気を保つ助けにもなる。


瞑想中に気を散らすものから距離を取り、思考や感情に巻き込まれやすい心の傾向を弱めるための方法ならば、他にもある。その時心身に起こっている思考や感情、感覚ではなく、「それを知っている働き(気づきそのもの)」の方に心を向ける事だ。これもまた効果的だ。



修行者

気が散った時に、サマタ瞑想をしてはいけませんか?


長老

ヴィパッサナーにはサマタも組み合わさっている。散漫な心を一つの対象に向けて落ち着かせるのはサマタだ。サマタは、気づきより対象を重視するが、ヴィパッサナーでは、対象よりも気づきを重視する。



修行者

私は常に自身の体型を気にしたり、人生は無意味だなどと、余計な事ばかり考えています。


長老

そのような繰り返しの思考は、貪・瞋・痴の煩悩が世俗的な生活の中で具現化されたものだ。煩悩に気づき、観察した方がいい。


例えば、暑さについて不満を言い続けたり、自分が太って見える事を気にしたり、昨夜の夕食のメニューを何度も思い返したりというのは、全て貪・瞋・痴の煩悩の働きだ。直ぐに気づき、思考の内容ではなく、欲求や感情に注意を向け、囚われないようにする事だ。



修行者

智慧がある時の「あるがまま」とは何ですか?


長老

例えば、私が自分の部屋で何かやっている時は、意図と行為とが繰り返し起こっているのが見える。そこには「行為する者」はおらず、ただ意図と行為とのプロセスだけが起こっている。このような状態を言う。


「行為する者がいない」とは、行為しながらも「自分がやっている」という感覚のない状態を言う。決して私の姿が消えるという意味ではない。姿形はあるが、そこに「私」という感覚がなく、ただ行為する条件とプロセスだけが起こっている。これが「あるがまま」だ。



修行者

全てを実体ではなく、現象として観るとはどういう意味ですか?


長老

例えば怒りが発生した時は、「相手が悪い」などと考えるのではなく、その感情が発生したプロセスを確認していく。つまり私たちは、全ては自身の心の中の現象として観ようとしているわけだ。








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  最終更新日 2023.12.31

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