A氏 日本人 40代 男性
3月に、世界的にというよりはアウトサイダーの間で超有名な漫画家、つげ義春氏が亡くなった。それで、もう10年以上前のことになるが、ミャンマーの瞑想センターに、A氏という、つげ義春の信者とも言える熱狂的なファンの男性が来たことを思い出した。そこで今回は、そのA氏について紹介させていただくことにする。
M瞑想センター
旅行ライターで、ガイドブックの著書も多数あるA氏が、ヤンゴン中心部にあるマハーシ式ヴィパッサナー瞑想の総本山、M瞑想センターを訪れたのは、2013年10月のこと。ちょうど前回、第62話のC氏と入れ替わる形でやって来た。
A氏は、もともと何かを観察するのが大好きだったという。子供の頃は虫を観察したり、電線に止まる雀を観察したりして、それらの行動パターンや秩序を発見することを楽しんでいたらしい。
「誰も気づいていない世界の面白さを、自分だけが知っているという密かな優越感を味わうのが好きだったんです。本当にハマって、一日中没頭してましたよ。一種の瞑想ですよね。『自分』という意識を忘れて、対象と一体化してましたから」
それはすごい。まるでヴィパッサナー瞑想のカニカ・サマーディに入っていたみたいではないか。
そして大人になってからは、今度は人間観察に興味を持つようになったという。
「ネアカとかネクラとか言うじゃないですか。やっぱり社会での立ち位置とか、人の使い方とか、趣味とか、全然違ってきますからね。どちらがリア充になりやすいかははっきりしている。それで俺なんかネクラだから、他人のことを観察している場合じゃないぞ、自分のことを何とかしなきゃと思って、自己観察を始めたんですよ」
そんな感じで、A氏は事あるごとに自分を「ネクラ」だと言っていたが、私にはまったくそのようには見えなかった。というのも彼は、世界を旅して穴場を見つける旅行ライターとして、北欧から東南アジアまで、さまざまな国の言葉を操っていたからだ。ロシア人には怪しげなロシア語で話しかけ、スリランカ人には怪しげなシンハラ語を使い、瞑想センター中の修行者たちと積極的にコミュニケーションを取っていた。
しかしその一方で、つげ義春の大ファンでもあり、暇さえあればスマホにダウンロードした作品を読んでいる姿を見ると、やはりどこか影のある人なのではないかと思ってしまう。
つげ義春著/『大場電気鍍金工業所』より
ちなみに、今でこそ多くの人が「陽キャ」「陰キャ」という言い方をするが、2013年当時はまだその言葉が一般的ではなかったため、A氏は「ネアカ」「ネクラ」という表現を用いていた。同じような意味であることをあらかじめご了承いただきたい。
そんなA氏は、M瞑想センターの近くにある、通称「スラム」と呼ばれる小さな家々が密集したエリアを見つけ、すっかり気に入ってしまった。ここは住宅街の真ん中に、住民たちの生活排水や糞尿が流れ込む排水溝があり、何とも言えない悪臭を漂わせている、まさにつげ義春の作品に出てくるような一画である。
そのエリアの入り口には、当時A氏と私が「金玉カフェ」と呼んでいた喫茶店があった。M瞑想センターでは木曜日の午後に法話会があり、その後夕方まで休憩時間になるため、いつしか私たちは、毎週木曜日の法話会のあと、その喫茶店で1時間ほどくつろぐのが習慣になっていた。
キョドるA氏
「ネクラというか、かなりの恥ずかしがり屋なんですよ、俺。知らない人といるとキョドるし、怖そうなお兄さんといてもキョドる。一番困るのは、きれいな女性といるとキョドってしまうことですね。それで、あとになって何であんな態度とったのかって自己嫌悪に陥ったりするんですよ。だから、何か改善策はないかと思って瞑想を始めたんですけど。」
その喫茶店の壁には「金玉満堂」と書かれた貼り紙がしてあった。A氏と私はそれを店名だと思い、「金玉カフェ」と呼んでいたのだが、実際には中国語で「商売繁盛」を意味する言葉だったらしい。それはそれとして、その店では彼と毎週、かなり踏み込んだ話までじっくりと語り合うことができた。
「いや、しかし、あまり状態を改善しようとしない方がいいんじゃないですか?瞑想では逆効果らしいですよ。そのままにしておいて、ただキョドっていることに気づいているだけで十分だと言いますけどね。」
A氏はこういう汚い店だと、会話が弾むと言いながら、自身の傷や性格上のことまでどんどんさらけ出してきた。そんな彼に私は、自分を「ネクラ」などと裁いたり、性格改善を目指したりするものではない、といった具合にたしなめたりしていた。
金玉カフェのコーヒーはインスタントだ
「だから、つげ義春読んでると心強いんですよ。仲間がいるみたいで。まあ、こういう性格に生まれついたら、これに合った生き方をするしかないですからね。つまり、自分を受け入れるということですね。だからつげ義春は、いわば俺の人生の手本なわけですよ。」
そんなやりとりをしながら、金玉カフェではいつも、私もA氏からスマホを借りて、つげ義春の作品を読ませてもらっていた。
私事で恐縮だが、私が好きなつげ作品は、「必殺するめ固め」と「ヨシボーの犯罪」だ。どちらも、私が初めて読んだ作品でもある。高校時代、古文を教えていた20代後半の女性教師が、「面白いよ」と言って見せてくれたのだ。
今から思えば、かなりマニアックな先生だが、彼女もきっとどこか似たような性格だったのだろう。彼女のおかげで、私もつげ義春を知ることができた。
つげ義春著/『必殺するめ固め』より
そんな折、A氏の性格を仏教理論によって手厚く擁護する、チベット仏教のYという僧侶がM瞑想センターにやって来た。
ブータンの若い僧侶たち
ある日、A氏と私とで宿舎の休憩所で雑談していたら、そこへY僧がお茶しに現れ、三人で話す機会があった。
最初は三人でいてもなかなか話が盛り上がらず、気まずい空気が漂った。だが、A氏がY僧に対して、「私はシャイなので、初めて会う人とはうまく話せないのです」と恐縮しながら言ったところ、それを聞いたY僧は
「ほお!?あなたはシャイなのですか!?」
と、感心したような表情を見せ、それから彼は、熱心に仏教について説明し始めたのであった。
ブータン人僧侶Y
「Aさん、あなたね、羞恥心は仏教の世界では『聖なる財産』と言うんですよ。あなたはそんな尊い財産を持って生まれてきたのに、何を恥じているのですか?」
このY僧は30代前半のブータン人で、ヤンゴン市内にある外国人向けの仏教大学「国際上座仏教宣教大学(ITBMU)」の留学生だった。大学が休みに入ったため、インド人の留学生と一緒にM瞑想センターへ修行に来たのだという。
http://www.clio.ne.jp/home/sigeru-t/tripinttherauniv1.htm
ブータンは、世界で唯一チベット仏教を国教とする国で、仏教の教えは人々の生活に深く溶け込み、僧侶は公務員のような待遇を受け、国から年に100ドルの奨学金が支給されるという。Y僧はその奨学金を何年もかけてコツコツと貯め、ミャンマーまでやって来た。
M瞑想センターでは通常、大乗仏教の僧侶が来た場合、僧侶ではなく在家者として扱われる。だから、食事も在家者たちと一緒に摂ることになる。それは、彼らが比丘の受けている227の戒律を受けていないためだ。しかし、チベット僧だけは例外だった。彼らは比丘と同様の扱いを受け、食事も比丘たちと共にした。それは、彼らが227の戒律を受けているからであった。
「パーリ経典では『羞恥心』は、修行者が備えるべき必須の資質として定義されています。羞恥心には、
内的なもの Hiri(慚) と
外的なもの Ottappa(愧) があり、
慚は、自分の内面的な自尊心や良心に照らして『悪を恥じる』心の働きです。
一方、愧は、悪行の結果(因果応報)や他者(賢者や社会)からの批判を恐れて『悪を慎む』心の働きです。
これらがなければ、母も叔母も師の妻も区別されなくなり、世界は動物の世界のように混乱するだろうと言われています。つまり、人間を堕落させるものは羞恥心の欠落なのです。」
「えっ!仏教では、ネクラというのはポジティブに捉えられてるわけですか?」
「そうです。仏教的な定義で言えば、あなたがもし『恥ずかしがり屋』であるなら、それは『良心が敏感に働いており、自分を律する力が強い状態』とポジティブに受け取るべきです。つまり、あなたは非常にポジティブな精神状態なんですよ!」
何と!一般社会ではまるで人でなしのように扱われる「恥ずかしがり屋」だが、一転して仏教では、聖者のように扱われるのだという。そもそも「恥ずかしがり屋」を否定的に捉えてマイナスのレッテルを貼る発想は、どこから来たものなのだろう?仏教以外の西洋的な価値観か何かだろうか?
「あなたは感受性が豊かで、自分を内省する力を持っているのです!」
そんな感じで、Y僧が熱弁を振るう一方で、A氏はその話に引き込まれるように、ひたすら耳を傾けていた。
不善なタイプの恥ずかしがり屋
「しかし、恥ずかしがり屋にもいくつかのタイプがあります。自分の言動が他者にどう映るか、あるいは道徳的に正しいかを深く気にするタイプの人は、仏教が重視する慚愧の念を兼ね備えているため望ましいのですが、それが行き過ぎて、遠慮がちになったり、人目を過度に気にしたりするようになると、問題が生じてきます。仏教では、恥ずかしがり屋は実は「美徳」と「障害」の両面から捉えられているのです。」
Y僧の話によると、仏教が推奨するのは、あくまで「向上心に結びつく恥」だという。「失敗して笑われたくない」とか「完璧でありたい」という恥ずかしさは、エゴであり、自分を縛る鎖になるらしい。
「なんだ、じゃあやっぱりダメじゃないですか。俺は他人にどう思われるかが気になって、キョドってしまうんですから。完全にエゴですよ。俺の羞恥心は美徳じゃなくて、ただの障害です。」
「うーん、そうですか。それでは――」
A氏は、本気でキョドる自分を何とかしたいようで、Y僧とのやり取りに真剣な眼差しを向けている。また、Y僧もその真剣さに応えるように、身につけた知識を惜しみなくA氏と私に語ってくれている。かくして二人のやり取りは、白熱した議論のように展開していった。
自己イメージの呪縛
「他人からこう見られたい」「バカにされたくない」と自意識過剰になるのは、「自分」という固定化された実体があると信じ、その「自分」を守ろうとする“我相”が強く働いている状態です。つまり、他人からどう思われているかという自分の姿をイメージし、そのセルフイメージを自分自身だと信じて守ろうとしているわけです。このセルフイメージは、仏教では「虚妄」と言われ、空虚な妄想として扱われています。それを実体のある自分だと信じて守ろうとすることで、かえって不自然さや苦しさが生まれてしまうのです。」
「なるほど。自分を守ろうとして、いわば見張りを立ててしまうわけか。言われてみればその通りだ。キョドっている時は、確かに『守ろう、守ろう』と必死になっている。それで余計に緊張してしまうんだ。じゃあ、それを止めるにはどうしたらいいですかね?」
「『虚妄』を守ろうとすれば、不自然になるだけではなく、緊張も強くなるのは当然。ですからまずは、それを『自分』と思わず、『今の瞬間に頭に浮かんだ考えの一つ』として気づくところから始めるといいでしょう。『虚妄』は羞恥心だけでなく、『慢』、つまり他人と自分を比べる心を生み、嫉妬や劣等感などを引き起こす、苦しみの根本原因とも言われています。」
「確かに俺は人前に出ると『どう見られているか』ばかり気にして、セルフイメージを形成している。じゃあ、それをしなければいいってことですか? それなら、セルフイメージしそうになった時にマントラを唱えるってのはどうでしょう?」
「それでも一時的には落ち着くでしょう。あとは、周囲の人に慈悲を向けてみるのも助けになります。ただ、一番大事なのは、やはりセルフイメージしていることに気づくことです。自分の癖そのものに気づいていくことが、いちばん効果的ですから。」
A氏とY僧は、そんなふうにセルフイメージ談義に熱を帯びていた。ちなみに仏教では、「自分自身を想像しなくなる(=自己への執着から離れる)」ためのアプローチは、単に考えるのをやめることではなく、「私」という存在の仕組みを正しく理解することだと説かれている。つまり、セルフイメージの呪縛から解放されるためには、無我を悟ることが最も確かな道だとされるのだ。
ただし、それは容易なことではない。だからこそ現実的には、まずは勝手に作り上げた「自分」という虚像に振り回されていることに気づき続けるところから始めることになる。
羞恥心のない人々
「羞恥心は財産か。ちっとも気がつかなかったな。でも、言われてみれば確かにそうだ。あまり関わりたくない奴って、恥というものを知らない。羞恥心より欲望や怒りの方が強いからだ。同時にまた、人目を気にしすぎると『ネクラ』になる。この場合は、セルフイメージを自分だと錯覚しているからそうなるわけですね。ブッダの教えは鋭い。的確に的を突いている。」
A氏はそれからというもの、「羞恥心」を基準にして物事を見るようになった。Y僧からのアドバイスは、彼にとって衝撃的だったようだ。
「でも、セルフイメージを観察するのって大変ですよ。昔のことを思い出して、気がついたらもう、恥ずかしいとか、人と比べたりとかしてますから。こういう感情って、セルフイメージするから出てくるわけでしょう?イメージしていることに、さっぱり気づかないんですよ。『他人にどう思われるか?』というのはわかるんですけどね。あと『舐められたくない』とかね。」
「でも、それに気づいていれば、大丈夫じゃないですか?『どう思われるか?』を気にしてセルフイメージするわけですから。うん、そうだ、確かに自意識に気づいていれば、羞恥心や嫉妬心は出てこない。心の中でシュミレーションしてみるといいですよ。」
そんなふうに、A氏との毎週木曜日の「金玉カフェ」でのやり取りも、セルフイメージが話題に上ることが多くなった。
「いいな、仏教って。俺ももっと勉強したくなったな。国際上座部仏教大学でしたっけ?俺も行きたいな。それともチベットがいいかな?」
A氏がそんなことを言い出すようになったちょうどその頃、Y僧のほうも、大学の2年のカリキュラムがもうすぐ終了するため、その後どうするかを考えていた。
そんな時、このシリーズ#23「修行していない修行者」に登場するD比丘というスリランカ人が、M瞑想センターを訪れた。
修行者列伝#23
https://somjapan.blogspot.com/2021/01/23.html?m=1
D比丘はMセンターには4〜5日しか滞在しなかったのだが、A氏とY僧は、彼にどこか不思議な縁を感じたようで、それから3か月後、2人で一緒にD比丘のいるスリランカの瞑想センターへ行くことを決めてしまった。
恥も外聞もないA氏
「俺、エアアジアのヘビーユーザーなんですよ。安いのしか乗りませんから。部屋も安いところにしか住まないんです。」
A氏は徹底した倹約家で、日本ではそうして旅費を作り、世界を駆け巡っている。次の目的地であるスリランカも、すでに何度も訪れており、地理にも詳しいという。海外が初めてのY僧も、彼と一緒にいると心強そうだ。
「でも、安いところって、6畳一間とか、そんなボロい部屋ですか?」
私はその話を聞いたとき、つげ義春ファンのA氏のことだから、つげ作品に出てくるような古ぼけたアパートに住んでいるのかと思った。しかし実際は違った。彼は比較的新しく、きれいな2DKにしか住まないのだという。きれいな物件なら都内近郊では安くはないはずだが、それだけ収入があるということだろうか。
「いや、事故物件を探すんですよ。俺、事故物件専門なんです。安いですよ。敷金や礼金がゼロで、家賃が半額になってたり、特殊清掃のあとなんか新築同様になってたりしますから。」
な、何と……A氏はそういう手段で旅費を捻出していたのだ。これは初めて聞いた。こんな倹約法があったとは……。
「変ですかね?
でも、何も出たことないですよ、
今まで一度も。」
いや、たとえ出なくても、少しくらい不気味さを感じたりはしないのだろうか。
「どこも快適ですよ。
何で不気味なんですか?」
「それはいいとしても、近所の人たちは、その部屋で事故があったことを知っているわけですよね?変な目で見られませんか?」
「たまに見られますけど、
なあに、
そんなことを気にしていたら
金が貯まりませんから!!」
まったく、A氏の旅に対する情熱ときたら、炎のように熱い。もはや完全に「旅行バカ」になっていて、誰にも止めることはできない。
この調子で彼は、これからも世界をどんどん回り続けるだろう。
羞恥心に縛られていた彼は、
実は“恥を超えて”行動していたのだ。

