【ウ・テジャニヤ長老の名言第31集】

2026年6月26日金曜日

名言集

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キョドって混乱した時の対処法


前回の修行者列伝で、キョドる修行者の話を書いたところ、極度の「緊張しい」読者の方からご連絡をいただきました。その方によると、「緊張するとキョドってしまい、目が泳いで不審者のようになり、周囲から怪しまれることがある」のが悩みとのこと。
ご本人の了承をいただきましたので、この場をお借りして、そんな時の対処法についてお話ししたいと思います。


その方いわく、「実際にキョドっている時はパニック状態なので、とても記事に書かれていたような対処法を実践する余裕はない」とのことでした。
たしかにその通り、それが自然な反応です。


キョドっている時には、多くの場合

「どうしよう!?」
「変に思われているかも…!?」
「早くこの状況を抜けたい!!」

といった焦りや不安が心の中で一気に広がっていきます。
さらにその一方で、

「こんな自分はダメだ!」
「落ち着かなくちゃ!!」

と、今の状態をなんとか抑え込もうとする力も同時に働いていることがあります。
こうした拮抗する反応が重なることで、かえって混乱やパニックが強まりやすくなります。
そのような時、まずは


「今、自分は焦っている」
「キョドっている」
と気づくだけでも十分な一歩になります。



キョドっている時には、「私」という感覚が胸の奥で大きく重く感じられます。
例えば

恥ずかしい自分、
かっこいい自分、
こんなはずではない自分、

など、さまざまな「私」が湧き上がると共に混乱も更に強まっていきます。
まずはそうした反応に気づくことから始めてみる。

そして、それに慣れてきたら「私がいる」という感覚や、強く反応している心の動きに気づいていく、というふうに少しずつ段階を踏んでいくのはどうでしょうか。
そのための具体的な方法はいくつかありますので、ぜひ気軽に試してみてください。


まず、これはウ・テジャニヤ長老がお勧めされている方法ですが、周囲のものを直接見たり聞いたりするのではなく、「認識していることを認識する」というやり方があります。

これは一見すると少し難しく感じるかもしれませんが、特別なことをするわけではなく、普段私たちが何気なく行っている「気づいていることに気づく」働きを、もう一段はっきりさせるようなイメージです。

ただ、そこまでできなくても大丈夫です。基本的には「今この瞬間」に気づいているだけで、「私」という感覚は薄れていきます。


キョドり始めて慌ててしまったら、まずは呼吸に注意を向けて落ち着くことが先決かもしれません。
その後、一呼吸置いてから自分自身に慈悲の心を向けてみるのもよいでしょう。そして、周囲の人々にも慈悲を送ります。慈悲の心が働いている時、「私」という感覚は自然と退いていきます。



また、自分自身が見たり聞いたり感じたりしたことを、すべて「うん」「OK」「大丈夫だよ」と受け入れる方法もあります。受け入れている時もまた、「私」を強く感じることはありません。


さらに、周囲の人の視線が気になって緊張が強まることもあるでしょう。そんな時は、あちこちへ飛び回る心を身体の内側に収めてしまうとよいかもしれません。
例えるなら、母鳥に優しく抱き抱えてられているヒナになったようなイメージです。

呼吸を観察したり、見たり聞いたりしていることに気づきつつ、心が外へ飛び出していかないようにします。心が外へ出なければ、「私」を感じることも少なくなり、他人の目も気になりにくくなります。



気づきを使った咄嗟の対処法としては、おおむねこのようなものでしょうか。

また、これらとは違う方法で、信仰心を活用するという方法もあります(!)
「仏法僧に帰依します」と唱えるのも一つの手です。心を崇高な対象へ向けている時も、「私」という感覚は薄れています。
あるいは、宇宙を思い浮かべたり、親しみのあるマントラを唱えてみるのもよいでしょう。

それで効果があるなら、念仏や御題目ももちろん有効です。
実際知人の中には、緊張することがある度『ナンミョーホーレンゲキョー』と唱えているという人もいます。熱心な信者でもないのに!


というわけで、「緊張しい」の方々は、ぜひこのような方法を試してみてください。信仰心を使った方法もよいですが、気づきを使った方法なら誰の目も気にすることなく、いつでもどこでも実践できるのが強みです。





修行者

一人で瞑想していると、孤独で虚しくなります。


長老

一人で静かにしている時に「人生は悲劇的で、自分は孤独で他者や世界と切り離されている」と感じる事は誰にでもある。しかし、その感情や思考に従ってしまうと落ち込んでしまう。しっかりと気づく必要がある。


孤独や空虚感を感じる時は、更に考え続ける代わりに思考を止め、呼吸に注意を向けて気づきを継続させながら、感情をやり過ごす。ネガティブな感情は脇に置いておいて、呼吸を観察するわけだ。そうしないと、落ち込んだ気分に簡単に引き込まれてしまう。




修行者

空虚感から目を背けるのは逃げではありませんか?


長老

動揺を引き起こす対象から呼吸へと注意を切り替える時、それは立ち向かうべき困難から逃げようとしているのではない。単に気づきを維持しているだけだ。対象が重すぎて観察する事ができないのだから。


通常、私たちは呼吸などの身体的対象をメインの対象とするが、動揺している心は、背景にあるものとして引き続き認識されている。意図的に注目しなくても、心は既にその動揺を知っているのだ。つまり、その状態の時は、二つの対象を同時に認識しているわけだ。



修行者

智慧をもって修行するにはどうしたらいいですか?


長老

最初のうちはまだ体験的な理解がないから、知的な理解に頼って修行するしかない。その知識を、何かを見たり聞いたり感じたりした事で、思考や感情が発生するプロセスに当てはめていくだけで十分だ。



修行者

ゴミ箱を開けた時、中にウジ虫がいました。普段なら身震いするのですが、今回は気づきを継続中だったので落ち着いていました。


長老

強い気づきがあったから、あまり反応しなかった。無明が強いと反応も強まるが、サマーディがあると心は強く反応できないのだ。



修行者

でも帰り道で人の話し声に気を取られたら、またウジ虫のことを思い出してしまい、そしたら今度は嫌悪感が出ました。


長老

その時は気づきが十分でなかったから反応が生じた。そんな感じで、心の状態が変わると同じものを見ても、反応のしかたが変わるわけだ。



修行者

瞑想中に裏切りや死の恐怖を伴う体験を思い出します。気づきでそれを克服できる時もあれば、感情に巻き込まれる時もあります。


長老

トラウマが克服されるかどうかは重要ではない。重要なのはそれに気づく事。私たちはここで気づきと智慧とを育てているのだから。


修行によってトラウマが克服される場合もあれば、されない場合もある。しかしそれは重要ではない。もしトラウマの克服を目標にしてしまうと、それがうまくいかなかった時に失望してしまう。私たちの目標は、あくまでも気づきを鍛える事だと心に留めておく事だ。



修行者

音や感覚を明確に観ようとするのは、対象を理解するためですか?


長老

対象を細かく明確に観ていると、深く理解できなくても、智慧が発生してくる。対象への関心があり、細かく明確に観えている時は、その観ている心には既にある程度の智慧があるわけだ。



修行者

心の苦しみから解放されたい人もいれば、単に落ち着くためだけに瞑想する人もいます。瞑想する目的はどんなものでも構わないのですか?


長老

目的は色々あって構わないが、それに気づいておく必要はある。自分を動かしている心というのは、特に重要だからだ。


多くの人は目的のある人生を求め、信念・関心・原則に従って、家族や宗教、社会的な活動に関わって生きている。しかし、自分の動機や心の質を理解していなければ、そこで執着や嫌悪を育ててしまう。そうならないためには、自分の心を継続的に観察する必要がある。





修行者

世俗の知恵と解脱の智慧との違いは何ですか?


長老

世俗の知恵とは、日常生活で役に立つ理解や知識の事。仕事のスキルや人間関係のコツ等だ。一方の解脱の智慧とは、実際の経験を通して無常・苦・無我といった性質の「ありのまま」を直接観る理解だ。



修行者

瞑想すると必ず過去の過ちを思い出し、自己嫌悪に陥ります。


長老

自分の中にある醜い側面、嫉妬、不安、憎しみ、貪欲さなどの欲望や感情と、過ちを犯す事を、自分自身に許した方がいい。「それでも大丈夫」と自分に言ってやれば、煩悩を観る事への抵抗も減る。


私は煩悩にこう言う。「大丈夫、あなたはこの心に存在する権利がある。ゆっくりしていていい。私は決してあなたを追い払おうとはしていない」と。こうして煩悩にスペースを与えると、より中立的に観る事ができ、手放す事も容易になる。これが煩悩への正しい態度だ。



修行者

最近は、気づきと感情や思考との間に距離ができ、巻き込まれ難くなりました。


長老

日常生活で気づきを継続させていると、気づきと対象との距離が広がり、パパンチャ(papañca:心の増殖的な妄想)や、それに対する心の反応が鎮まり、生活が平和になっていく。



修行者

この身体と心が「自分」ではなく「自然(現象)」であると観る事ができません。


長老

通常、私たちはこの心身を「自分自身」と思ってしがみついている。それを一歩引いて観るために、日々気づきを積み重ねている。だから、まずは気づきを継続させる事だ。


「自然」とは、心身に発生する感覚や思考、感情などと同一化せず、一歩引いて観る事ができるという意味だ。それができなければ、ヴィパッサナー(洞察瞑想)を実践する事はできない。心身を「自分」と思ったまま瞑想しても、怒りや貪欲さまみれにしかならない。



修行者

日常生活では、家族がうるさくて落ち着かず、気づきが継続できません。


長老

落ち着く事は目的にする必要はない。騒音があれば、それに気づき、嫌がったり怒ったりしていれば、それに気づく。心が気づきでいっぱいになれば、騒音の中にあっても心は落ち着く。


瞑想で何らかの結果を得ようとすると、方法や環境に不満が出てくる。今は気づきを育てている時だから、気づきを失う事は問題ではない。もし状況が悪くないのにマインドフルでいる事が難しい場合は、心よりも呼吸や身体感覚に注意を向けて、今の瞬間にいるようにする。



修行者

瞑想すると緊張するのですが、それも結果を求めているからですか?


長老

あとは、心の傷を思い出すのが辛かったりして緊張する事もある。いずれにしても、マインドフルネス瞑想で大切なのは、何らかの体験をする事ではなく、気づく事そのものだと心得ておく事だ。



修行者

雑念が生滅するのは無常ではないのですか?


長老

それを観ただけで無常を悟ったように思うのは間違いだ。無常を悟った時には、同時に苦も無我も悟っている。無常について固定観念を持たないように。雑念や身体感覚の生滅を観ただけでは何も学べない


ある修行者が、感覚や雑念、思考、感情の生滅を観るようにしていた。そしてそれを「観ている心」まで観察して消そうとしていた。だから私はそれを制止した。もしそれをやったら、観る心によって思考や感情が変化する様子を観察する事ができなくなってしまうからだ。





修行者

何かの行動を起こす前には、必ずインテンション(意図)があるのですか?


長老

考える時でも、身体を動かす時でも、行為の前には必ず行おうとする意図がある。私はこの意図を確認してから動くように言っているが、修行者たちの多くは勘違いしてしまっている。


意図を確認する時に良くやるのが、まず「動きたい」と思ってから動く事だ。これは意図ではなく思考だ。意図とは言葉ではなく、何かを考えようとしたり、動かしたりする心のエネルギーだ。これを確認できると、思考が止められなくて苦しいという事もなくなる。



修行者

車を運転していて、渋滞になると腹が立って常に心の中で前の車を「バカ野郎」と罵っています。しかし渋滞がなくなると気分が変わり、前の車に好感すら持ちます。


長老

思考は感情によっていくらでも左右されるから、自身の感情に騙されないようにする事だ。


何かが起こり、それに対して苛立ちや不安、渇望で心が反応する時は、その反応を注意深く観察する。その感情が収まると、日常を過ごす中で心は再び落ち着き、バランスを取り戻す。感情による思考に巻き込まれてばかりいると、日常生活もトラブルばかりになる。



修行者

幻想、概念と現実とはどうやって見分けますか?


長老

足の痛みを例にとると、もしその痛みが5分間ずっと続いていると考えるなら、それは概念だ。瞬間ごとに新しい感覚が生じては滅していると観ていたら、それは現実を観ている事になる。これは病気も同様だ。


その他にも、現実には「善悪」「優劣」「上下」などの対立概念はない。だから、そういう思考に惑わされたら、直ぐ幻想だと気づく事。だが、幻想は社会生活を送る上で必要なものだから、決して幻想を無視した態度で、周囲の人々やら上司やらに接するべきではない。



修行者

瞑想のときに観察する「名色」の中のルーパは、物理的なルーパ(物質)を指しているのですか?


長老

それは物理的なものではない。私たちはルーパ(物質性)そのものを見る事はできないのだ。ルーパというのは実在で、四大元素のエネルギーのようなものだ。



修行者

雑念や足の痛みの生滅を観察し「無常だ」と言うのは、ありのままではなく、概念的に観ているのではありませんか?


長老

私の師は「体験が変化している事を無常だと『考える』のではなく、無常の理解が心の中に自然に生じるようにしなさい」と説いた。


私たちは、身体感覚や雑念、思考、感情などの生起と消滅を見つけようとする事に慣れていて、それが見えると喜ぶ。しかし、それだけでは無常の理解にはなっていない。それは無常の「しるし」には違いないが、無常そのものの理解とはまったく別のものなのだ。



修行者

身口意の何らかの行為をする前に、必ず「行おう」とする意図があるという事ですが、その意図を理解すれば智慧が生じるのですか?


長老

意図があって行為が発生するというプロセスに興味を持つ事自体が智慧だ。智慧がなければ意図と行為について関心は持てない。


智慧が生じると、意図と行為の流れを明確に見る事ができる。気づきが智慧を伴うと、現実のプロセスは非常に明瞭になる。意図と行為のプロセスが心の中で明確に見えている時は、日常生活の質はとても良くなる。意図と行為を理解する事は、人生の質を高めるのだ。



修行者

どうすれば気づきの恩恵がわかりますか?


長老

自分に「シンプルに実践しよう」と言い聞かせる事ができれば、気づきの恩恵が見えてくる。シンプルにとは、宗教的な期待抜きで実践するという事。期待があると苦しくなり、気づきの守護的な働きが見えなくなる。




修行者

修行の恩恵とは、どういうものですか?


長老

私たちの修行は、心を守り、高めてくれるものだ。しかし私たちは宇宙の法則を実践している善業を過小評価してしまう。世俗的な幸運に出会った時と同様に、もっと宇宙の法則に従って善業を積める事を喜ぶべきなのだ。


宇宙の法則を実践できる幸運とは、もし不善な心に気づけば(サティ)、不善は減少するし、もし善い心を観れば、善は増大していく事だ。私たちは日々、不幸の因を取り除き、幸福の因を増加捺せている。だからこそ、私たちは修行できる事に感謝し、喜んだ方がいい。



修行者

瞑想すると過去の失敗を思い出し、トラウマが甦ります。対処法を教えて下さい。


長老

トラウマが浮かび上がった時に重要なのは、それを観ている心の質だ。以前は無明(moha)と執着によってトラウマが生じたが、今は智慧があるから、心の質も異なっている。


瞑想中に嫌な記憶が甦った時、かつては恐怖心や嫌悪感、怒りや憎しみなどで瞑想ができなくなった。しかし、今は違う。心の中に定(samadhi)と智慧がある。そして思い出したものは「私ではない」と理解する。そうする事で、トラウマに伴う思考や感情は消えていく。



修行者

雑念が出た時は、雑念ではなく反応の方を観ています。


長老

それでいい。反応する心をアーランマニカ(arammanika)と言う。雑念でも他の感覚でも、気づきを持って観察すれば、欲しがったり嫌ったりする反応は少なくなり、心はバランスが取れていく。



修行者

「気づきに気づく」とは、見る事や聞く事、触れる事、考える事などに「気づいている事を観る」という意味ですか?


長老

その通り。もしくは、心身が色んな経験をしているのを「観ている事を観る」と言ってもいい。それが気づきを保ちやすくする最良の方法だ。


この「気づきそのものを知る事」に慣れると煩悩は薄れていく。例えば、座るとすぐに緊張が高まり、瞑想できなかったとする。その時、緊張に対する「気づき」を観察すれば、煩悩は心を圧倒する事ができない。なぜなら、気づきそのものが対象になっているからだ。



修行者

私は今まで心というのは、脳から発せられて身体の中に充満している、霊のようなものだと思っていました。


長老

私たちの心は「概念によって成り立つこの人生のように実体があるものではなく、目で見たり手で触れたりできるものではない」と覚えておくように。


私たちは、自分自身について「私はこういうキャラ」とか、世間の様々な価値観とかを、まるで実体のある現実のように信じているが、それらは単なる共同生活を送る上での便宜上の概念、幻想にすぎない。そしてそれらは全て、実体のない心によって創られているのだ。



修行者

気づく対象は、いつでも一つでいいのですか?


長老

いや、一つではなく二つだ。感覚や雑念、思考、感情などの対象と、それに気づいている事、認識している事を含めて二つだ。対象だけではない。今の瞬間に起こっている事は、対象と知る心の二つあるのだ。



修行者

修行への意欲がありません。


長老

気づきの修行を「心を静め、感情や欲望を抑え、雑念や思考が湧いてこないようにするためのもの」と思っていると、やる気がなくなる。心はそのままで「今の瞬間に起こっている事に気づくだけのもの」と自分に言い聞かせる事だ。


自身に無理難題を課していると、修行への意欲が失われる。そんな時は自身にもっと取り組みやすい課題を与えてやる方法もある。例えば、日常生活で気づきの事を思い出したら、1〜2分でいいから気づきを継続させるといった、小さな目標に切り替えてみたりする。




修行者

長老がインターネットをやっている時は、完全に気づきながらやっているのですか?


長老

そんな事はない。よく夢中になって、完全にその体験の中にのめり込んでいる。その間は心が体験に囚われて何もできない。それに気づいた時にやっと、心へと戻る事ができる。


私たちが体験に夢中になって心を知る事ができない時は、現実は完全に失われている。しかし、心に長年気づきを継続させてきた勢いがあれば、その勢いが心を再び現実へと戻してくれる。もし、私が常に完璧に気づいていられるのなら、私の修行はとっくに終わっている。



修行者

私たちはこの合宿で、瞑想で現実に触れながらも、日常生活では概念的世界を生きるという、二つの世界で生きる訓練をしているという事ですか?


長老

そういう事になる。私たちはアナッター(無我)の世界と、アッター(自己)の人生と、二つの世界に生きている。


現実は心のプロセスだけがあり、不連続で固定した意味を持たず、自由になれるが、「私」の人生は、連続性があり、多くの意味に満ち、執着や嫌悪、苦しみに縛りつけられる。「私」の人生を生きながらも心のバランスを保つには、絶えず現実に触れ続けているしかない。


修行者は二つの世界を生きる。一つは「自己」が存在しない nāma-rūpa(名色)の世界、無我の世界であり、もう一つは「自己」によって営まれる日常生活の概念的世界、自己の世界だ。気づきがあれば無我に生き、なければ「自己」という妄想・錯覚で苦しむ。



修行者

気づきに気づく、認識を認識する方法について例をあげて説明して下さい。


長老

例えば、瞑想中の「お腹が空いた」とか「明日の仕事が心配だ」などの雑念を追わず、ただ浮かんでは消えるのを確認する。その時に雑念に気づいている事に注意を向けてみる。


気づきの方に注意を向けていると、雑念と雑念の間に静寂さを感じたりする。また、何かを見たり聞いたりしている時も、対象の方ではなく、気づきの方に注意を向けると、心が対象を「これは林檎」「これは蜜柑」などと概念化する以前の、ダイレクトな感覚が掴めてくる。



修行者

匂いや味は、気づきの対象として扱うのが難しいです。


長老

好きな料理を前にすると、心は簡単に魅了され、囚われてしまう。この場合は「貪」の衝動に巻き込まれている。また、不安や心配があって心が囚われるような場合は「瞋」の衝動に巻き込まれている。


見たり聞いたり味わったりするものを概念的に見ると、貪欲さや怒りが発生して巻き込まれてしまう。しかし、何かを見たり聞いたり味わったりした時に、それに気づいているかどうかを確認する方に心を向ければ、概念的に見る事はなく、感情に巻き込まれる事はなくなる。



修行者

オープンアウェアネスとは、六つの感覚器官の門を開いて気づくという意味ですか?


長老

いや、気づきに気づくという意味だ。気づきそのものに注意を向けると、全ての感覚が自然に心へとやって来る。感覚の入り口や対象にばかり注意を向けると、緊張して疲れる。



修行者

日常生活で気づきを継続させようとしても、一旦思考や感情に巻き込まれると、再開できなくなります。


長老

体験している事に巻き込まれても問題ないが、その体験に注意を向け続けると、再開が難しくなる。重要なのは体験より気づきだと理解しておく事だ。


気づきを再開させる簡単な方法は、心がどれほど乱れていても関係なく、気づきを何度も適用し直す事だ。「体験そのものは重要ではない。なぜなら『気づいている心』を訓練しているのだから」と自分に言い聞かせながら。それを繰り返していると、気づきが勢いづいてくる。



修行者

「見る事」には気づく必要はありますか?


長老

もちろんだ。どの瞑想センターも「見る事」を対象として教えてはいない。だから、どうしても気づく必要はないと思ってしまいがちだ。だが、実際には常にそれに気づいていれば、自然に全ての感覚に気づくようになる。


「見る事」の観察は重要だ。なぜなら、日常生活の多くの問題が「見る事」から生じるからだ。例えば、動揺は何かに注意を向けてじっと見る事で起こる。見なければ起こらない。だから、何かに注意を向けた時と、いない時との反応の違いをよく観察しておくといい。





修行者

無常はどうしたら観察できますか?


長老

まず「私は〇〇な者で、△△な人生を送っている」という概念、幻想から離れ、ただ何かを感じ、それに心が反応するプロセスだけを観察する。何度も繰り返し観察すると、そのプロセスは変化し続けている事がわかってくる。



修行者

歩行瞑想をしている時、見る、聞く、匂いを嗅ぐなど、六つの感覚を全て知ろうとしていますが、数日実践したら、夜に眠れなくなりました。


長老

初心者のうちから六感を全て観ようとすると、気づくべき対象が多すぎて、心が落ち着くかなくなる。


初心者は、まず一つのはっきりした対象から始める事だ。呼吸でも「暑い、寒い」などの身体感覚でもいい。時計の音がカチカチ聞こえるなら、聞こえている事に気づいてもいい。最初から多くの対象に気づこうとすると、過度に集中してしまい、心は落ち着かなくなる。



修行者

普段は瞑想が良くできなくても問題ありませんが、苛立っている時は、たくさん問題が起こります。


長老

「瞑想が良くできない」とは、つまり思った通りにできないという事か?それは自分で瞑想の良し悪しを決めているだけで、実際に良くないわけではない。



修行者

気づきで困難を乗り越えるどころか、雑念や感情に飲み込まれないようにするだけで精一杯です。


長老

常に気づこうと努力し、思考や感情に巻き込まれまいともがいている時は、その時点で既に心を守っている。その時、心は思考や感情に完全に迷い込む事はない。


例えば、差し迫った問題について不安を抱えていたり、孤独から落ち込んでいたりする時、気づく事を思い出したら、ただ気づきを入れる。最初は1分か2分だけでもいい。その技術こそが苦しみを育たなくし、老いや病気といった人生の困難に直面した時、自身を助けるのだ。



修行者

気づきながらの慈悲の瞑想を教えて下さい。


長老

慈しみや憐れみを送る時、心に執着や嫌悪感や「受け入れられない気持ち」がないかどうかを確かめるといい。特に、身近な人や好きな人、嫌いな人、恵まれない人に送る時に、そのような気持ちがないか確かめる。



修行者

私たちはいつも「私」が主体だと思っていますが、実際「私」は心によって知られているので主体ではありません。


長老

その通り。「私」という感覚は、私たちがそれを知る事ができるので、対象になる。もし心が「私」と言えば、それは心が考えているという意味だ。


「私」という自己は、知られるものなので対象である。もし「私」がこの心身を支配する「魂」「我」などの主体であれば、知られるものではなく、知る方であるはずだ。そんな事からも「私」という感覚は、心身の主体ではなく、単なる感覚にすぎない事がわかる。



修行者

日常生活で気づき続ける事は、生活の重荷になります。


長老

それは家庭での実践をどのように捉えるか次第だ。「常に気づいていなければならない」「決して気を散らしてはいけない」と思えば重荷になるが、気づきを生きていくための道具と思えば、気楽にできる。


日常生活の気づきは、思い出したときに呼吸を見て立ち止まり、世間との関わりから離れるぐらいに思っていた方がいい。それは世間から逃げるためではなく、世間に戻るために立ち止まるのだ。つまり日常生活の中で何度も心をリセットするわけだ。そのために呼吸を使う。





修行者

長老は複数の対象に同時に気づけると言いますが、アビダンマではどの瞬間にもただ一つの心だけが生起すると説かれています。


長老

個々の心が生滅する様子を知る事は、仏陀にしかできない技だ。私たちは、実際に見えたり聞こえたりしたように気づくしかない。



修行者

「見る事」だけに気づき続ければ、見る事が一瞬ごとに新しいと気づけますか?


長老

もちろんだ。気づきが見る意識に気づくたび、それは既に消えているか新しいものになっている。現実とは、ただ生起するか、消滅するかだけであって、そこに意味はない。


変化する心を見なければ、私たちは全てが永続していると思ってしまう。現象はただ生起しては滅するだけであり、『私に起こっている』『良し・悪し』『何か特別な意味がある』といった解釈は後から思考が付け加えている。生滅だけが現実で、あとは自分で考えた幻想だ。



修行者

怒りや不安、焦燥感などに駆られた時、それに気づいているだけでいいのでしょうか?


長老

そう、たとえメンタルの状態が良くなくても、決して感情を取り除いたり、変えようとしたりせず、ただ機械的に気づきを繰り返す。それが瞑想中の正しい態度になる。


気づきが繰り返されると、心は澄んできてその質が変化する。私たちは気づきを用いて心の質を向上させているのだ。心が落ち着いていない時は、つい感情や思考の内容を変えようとしてしまうが、気づきを繰り返す事によって、結果として心の質が自然に改善されるわけだ。



修行者

お茶を飲む時「お茶はお茶」「熱さは熱さ」であり、それらは別のものだと気づきました。


長老

あなたはお茶そのものを直接知る事はできない。知る事ができるのは、香り、味、そして熱いという感覚だけだ。「お茶」というのは概念で、現実は感覚の方だ。


私たちがお茶を飲む時、実際に起こっているのは、香り、味、熱さ、飲み込む感覚が知られるといった現実(paramattha, 究極的実在)であり、「お茶」というまとまったものは後から心が付けた概念(paññatti)になる。そして、洞察によって現実と概念とを見分けた。



修行者

怒っている時に慈悲の瞑想をすると、怒りと慈しみが混ざった感情が発生するのですか?それはどんな感情でしょう?


長老

その考え方は誤りだ。怒りは怒りだけで心の中で発生し、消える。慈しみは慈しみだけで発生しては消える。それぞれ別個に起こるのだ。


親しい人に慈悲を送る時は、慈悲心に貪欲さが混ざるし、不運な人に送る時は、嫌悪感や反発心が混ざる。だから「私は慈しみを送っている」「私は愛している」という物語よりも、「今の心はどんな状態か?」という現実を観察する方が、慈悲心に混ざった感情が見えてくる。



修行者

「私」という錯覚なしで物事を見るにはどうしたらいいですか?


長老

気づいていればいい。なぜなら、気づいている瞬間は心の働きが見えているので、その体験が「私」に取って代わるからだ。気づきが主観的な状態から心の働きだけを見る状態へとシフトするのだ。



修行者

心が煩悩に圧倒されている時、「何も認識できない」という事はわかるのですが、その煩悩をどう調べればいいのかがわかりません。


長老

それは良い状態だ。なぜなら、既に「認識できない」と気づいているからだ。それがわかっていれば煩悩を調べる必要はない。


瞑想中は、心に起こる事をただ知るだけでいい。それがその時に心のできる全てだ。心が煩悩に圧倒されている時は、調べる事はできない。無理に調べようとすると、落ち込んでしまうだろう。智慧を無理に作り出そうとするのではなく、まず気づきの側に立ち続ける事だ。



修行者

部屋に入る前に、靴を棚に置く動作の一つ一つを観ていたら「自分」がなくなりました。


長老

何をするにしても、そこには計画、意図、そして行為のプロセスがある。そのプロセスが見えている時はいつでも、「自己」という考えは存在していない。


「自己はいない」と頭で考えるより、実際に心を観察すると、計画 → 動機 → 意図 → 行為という因果関係の流れが見えてきて「私がやっている」という感覚が薄れてくる。すると「私」という主体より、条件によって生じる心と身体のプロセスの方が目立つようになる。



修行者

気づきを繰り返す効果はどういうものですか?


長老

心の状態が良くなかったり、思考や感情に圧倒されたりしている時は、呼吸や何らかの身体的な対象を機械的に観察すれば、今の瞬間へ戻る。それが繰り返されると、心は次第に澄み渡り、その質が変化していく。



実家の布地屋を訪れるウ・テジャニヤ長老



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  最終更新日 2023.12.31

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