【ウ・テジャニヤ長老の名言第32集】

2026年9月4日金曜日

名言集

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タイとミャンマーのお坊さんの違い


最近、私は2か月ほどタイの瞑想センターに滞在する機会がありました。そこで気づいたのが、タイのお坊さんとミャンマーのお坊さんとの、法衣の色や着かたの違いです。

私がわかった範囲だけでも、ここに書き出してみたいと思います。


タイのアーチャン・チャー


まず、タイのお坊さんは黄色い法衣を着ています。

一方、ミャンマーのお坊さんの法衣は、赤っぽい色をしています。


ミャンマーのマハーシ・セヤドー


これは、アユタヤ時代、タイとミャンマーが戦争をしていた頃(16世紀半ば〜19世紀半ば)に生まれた習慣だという説があります。

もともとは、ミャンマーのお坊さんもタイと同じ色の法衣を着ていたそうです。しかし戦争になると、両国の兵士たちが、お互いにお坊さんになりすまして相手国に侵入することがあったのだとか。

そのため、両国とも困ってしまい、タイ側もミャンマー側も、お坊さんを相手国の者と区別できるようにする必要に迫られました。

そこで、タイの王様はお坊さんたちに「眉毛を剃れ」と命令し、一方、ミャンマーの王様は「法衣の色を変えろ」と命令したそうです。

それによって、タイのお坊さんは頭を剃るときに眉毛も剃るようになり、ミャンマーのお坊さんは法衣を赤っぽく染めるようになったのだそうです。


ただし、これはあくまで伝承で、歴史的な起源については諸説あるようです。

また、タイとミャンマーでは、法衣の着かたにも違いがあります。これは、戒律の解釈の違いによるものだそうです。

普段は、タイのお坊さんもミャンマーのお坊さんも、皆さんご存じの「右肩を出すスタイル」でいます。しかし実は、お坊さんは外出するときや法要のときには、両肩を隠す着かたをしなければなりません。

つまり、お坊さんにも「ノーマルな格好」と「フォーマルな格好」があるわけです。

このフォーマルな着かたも、よく見るとタイとミャンマーでは違います。

ミャンマーのお坊さんの法衣には、襟のような部分がありますね。これは、ミャンマーでは「托鉢のときは喉を見せてはならない」という戒律を守るために、法衣を身体に巻きつける際、わざわざ襟の部分を作るのだそうです。

実は、これがなかなか面倒なのです。

一方、タイでは、ミャンマーのやり方だとうなじの部分まで隠れてしまいます。それでは「托鉢のときは頭を隠してはならない」という戒律に触れてしまう、ということで、襟を作りません。

タイの巻きかただと、時間もかからず、すぐに着ることができます。

この2種類のやり方は、どちらが正しいというわけではありません。

ただ、その違いを見ていると、法衣の着かたにまで、それぞれの国の国民性の違いが表れているようで、なかなか興味深いものがあります。


ちなみに、スリランカのお坊さんは、このフォーマルな着かたをどうしているのでしょう?

そう思って聞いてみると、スリランカでは、

「要するに、両肩を隠せばいいんだろ」

とばかりに、お坊さんたちは法衣の下にTシャツや長袖シャツを着るだけで済ませてしまうそうです。


スリランカ式



  襟を立てておめかししたSUT

修行者

日常生活の気づきが上手くいかず、全然瞑想が進歩しません。


長老

コーヒーを飲みながら、その温かさや香りに気づき、それを味わうことも瞑想だ。心の中の何か単純なことを知るだけでいい。そんなシンプルな気づきで十分だと満足していれば、不満は発生しない。


シンプルな気づきで満足していれば、心は実践に対して中立的になり、「もっと何かを得よう」としなくなる。つまり、自身の気づきの良し悪しを決めたり、良い体験を期待したりせず、ただ気づき続けていれば、智慧が現れてきて、自ずと瞑想は深まり、進歩していくのだ。




修行者

朝、気持ち良く目覚めた時、爽快感でいっぱいになります。しかし、これも貪欲さなのですか?


長老

そう、実際には心地良くて喜びが発生したのではなく、心が「良い」と考えたので心地良さが発生したのだから。その思考には妄想(無明)が働いている。


体験を『いいな』と受け取る瞬間にも無明が潜んでいる。快い感覚そのものが問題なのではなく、それを「良いもの」「続いてほしいもの」として掴むことで執着が生まれる。執着してはいけないのではなく、それに気づいた時、ただ気づく事が必要という事だ。それで十分。


今の瞬間、気づいている心(サティ)に気づく。気づきがあれば怒りや不安、喜びなどの思考や感情と心が離れ、リラックスし、落ち着く。特別な事をする必要はない。気づいたら今ここに戻るだけだ。その繰り返しが「知る者はいない」と気づく智慧を育てるのだ。



修行者

何かを見たり聞いたりすると、その対象の名前や意味を思い出しますが、知らないものを見た時には名前が出てきません。


長老

その「名前が浮かぶ」「浮かばない」という事自体が観察すべき心の現象だ。そこで心がどのように働いているのかを知るべきだ。


そんな時に気づきがあると、見る→認識する→名前を付ける→考える→といった心の流れが見えてくる。この心のプロセスは瞑想中だけでなく、日常生活で何かを見たり聞いたりするたびに絶えず起こっている。その働きを知っていく事が、智慧を育てる実践なわけだ。



修行者

私は「悪いと気づいたら改善する」と考えて生きてきたので、気づくだけで何もしないという考え方に抵抗があります。


長老

気づいている事自体が、思考や感情に働きかけている。気づく事で心は方向が変わる。だから、経験そのものを変えようとする必要はないのだ。


たとえ気づきを失っても、気づきを思い出すたび呼吸に戻る。それで十分。私たちは、これまで気づきのないまま思考や感情に浸る事を習慣づけてきた。だから、気づきを失うのは当然。しかし、それを変えようとするのではなく、新しく気づきを習慣づければいい。


六つの感覚や、心の中で起こる様々な出来事を観察する事に慣れてくると、日々の実践はより容易になる。私たちは既に多くの対象に親しんでいるので、ただ気づきがあるのか、ないのかを確かめるだけでよくなるのだ。心のプロセスがどう生起し、働いているかを知る事だ。



修行者

もし気づきの対象としているものが、より多くの煩悩を引き起こすなら、それは間違った対象なのでしょうか?


長老

それは間違った対象であり、間違った実践方法になっている。正しくやれば気づきが増える。もうその対象を瞑想の対象として使うべきではない。


例えば、憎い人や足の痛みなどを見続けて、心が怒りを強めていったとする。その時はそれを瞑想対象として用いるべきではない。心がその対象を受け入れられていないからだ。どんな対象でも無理に観なければならない事ない。気づきを育てる事を最優先にするべきだ。




修行者

対象がとても強力な時は、呼吸に心向けても心が対象に巻き込まれてしまいます。


長老

何度も繰り返し呼吸へ心を戻し続けるしかない。その場合はヴィパッサナーに固執せず、仏随念や慈悲などのサマタの方法を用いて落ち着かせてもいいから、諦めないように。


強い怒りや不安、欲望、あるいは考え事に巻き込まれている時は、完全に観察できなくてもいい、中立的な対象に戻る、慈悲の瞑想、仏随念をするなど、できる事を少しでも続ける事だ。それを諦めずに続けていれば、心は流れに飲み込まれた状態から少しずつ離れていく。


たとえ心が対象に囚われても、気づきは心を取り戻す。たとえ眠気に覆われても、気づきは能動的に働く。心が動揺し、落ち着きを失っていても、気づきは静かで安定している。だから「心を静めよう」「眠気をなくそう」とするより、まずその状態に気づく事が大切だ。



修行者

日常生活では何をメインに据えて実践したらいいですか?


長老

自らの習慣的な「思考や感情の反応」に気づき、それをそのままにしておきながら「今、心の中で何かが起きている」と知る事だ。つまり、何かに気づいたらそれを変えようとせず、また気づきに戻る事だ。


たとえ困難な状況でも、身体の感覚に意識を向ければ、心を安定させる事ができる。呼吸のリズムや見えるもの、聞こえる音などに注意を向ければ、反応が自動的に繰り返されるサイクルを中断する事ができるわけだ。そして今の瞬間に戻るのが、日常生活の実践の目的だ。



修行者

瞑想中に強い怒りや不安が出ても、頑張って観察したら心は安定していました。


長老

煩悩を何とかしようとすると、知らないうちに嫌悪や抵抗が加わり、かえって煩悩にエネルギーを与える。そんな時は頑張らずに、気づきを保ちやすい対象に注意を移した方がいい。


強い怒りや欲、恐れ、不安などが起こった時は、それを「敵」として扱わない。瞑想は気づきを育てる事が第一であり、煩悩をなくす事が第一ではない。呼吸や身体感覚など、受け入れやすい中立的な対象に心を向け、煩悩は背景の出来事として知っておく程度でいい。


私たちが思考や感情に囚われている時は、既に緊張している。なぜなら、その体験と自分を同一視しているからだ。だから気づきを取り戻そうとする時は、その緊張に気づく事ができる。緊張をなくそうとするのではなく、緊張そのものを気づきの対象にするのだ。



修行者

強い怒りや欲望、不安がある時に、それを観ようとしてかえって巻き込まれてしまいます。


長老

煩悩がとても強く、正面から向き合えない時は、心が受け入れられる対象に注意を向けた方がいい。呼吸や身体感覚を観たり、立ち上がって歩く瞑想に切り替えてもいい。


瞑想中に怒りや欲望、不安などに振り回されそうな時は「煩悩と戦う」のではなく、まず心が受け入れられる対象に注意を移して心を落ち着かせる。そして落ち着いたところで、正しい態度をもって観察に戻る。それでも落ち着かなければ、お茶して休憩した方がいい。



修行者

瞑想中に観察する対象は、自分で選んだり替えたりしてもいいのですか?


長老

もしも観察している対象が、あまりに不快だったり、心地良くて囚われそうだったりして、気づきを保てない時は、呼吸や身体感覚に注意を移していい。大切なのは対象よりも気づきだ。


坐っているうちに眠ったり、無理に足の痛みを観察して、怒りや嫌悪感を増大させたりするよりは、目を開けたり、姿勢を変えたりして気づきを保った方がいい。私たちが目指すのは、心地良い体験をしたり、忍耐力を試したりする事ではなく、気づきを育てる事なのだから。




修行者

病気になると、必ずそれを嫌悪(拒絶)してしまいます。


長老

なぜ身体が病気になると、心はすぐに反応するのか?それは、健康な時は無明(妄想)が「これは良いものだ」と思わせて、健康である事を楽しんでいるからだ。だから病気になると反発してしまう。



修行者

長い間修行を休んでから再開する場合、イチからやり直しですか?


長老

ゼロからでいい。 私は在家の頃、瞑想センターで何年も修行したものの、自宅ではさっぱりだった。その後、鬱になって再開したが、体得した正しい方法は、ブランクがあっても失われなかった。


長く修行から離れていた人は「以前はもっとできたのに」「元のレベルに戻らなければ」と考えがちだ。しかし、そうした過去と比較する心を手放し、今この瞬間の初心者として再開する事だ。一度身につけた正しい方法は、たとえ長い空白があっても失われないからだ。



修行者

朝、目覚めると、まだ眠り続けたいと思っている心がありますが、一方でそれに気づいている心もあります。気づいている心は、眠たがっている心とは別物です。


長老

その通り。しかし、まだある。その気づきを観ている心もあるではないか。実際には心は三つある。


心には三つある。煩悩と、煩悩を見ている気づきの心。そしてその気づきの心さえも見ている「証人(目撃者)の心」だ。煩悩と自分を同一視しなくなっても、まだ『気づいている私』という微細な自己観念が残るので、その気づきにさえも気づいておく必要があるのだ。



修行者

無我を理解し、常に心のプロセスを観察していますが、まだ自我に縛られています。


長老

あなたは一日に何度も無我を理解しているかもしれない。しかし一日に何度「私が」と思うか?無我を知的に理解するだけでなく、実体験の積み重ねで理解していく必要がある。



修行者

自分では、概念の世界に生きているのか、現実に生きているのかがわかりません。


長老

普通は誰もが概念の世界にいて「これはPC」「返事を書く」などの概念を実体として感じている。それが現実になると、単に「見る」「書く」と、実際の出来事だけを見ている。


日常生活では概念を使わなければ生活できない。しかし、ヴィパッサナーでは、その概念に埋もれず、背後で起きている心身の働きを知る事が大切だと説く。「フォロワー」「いいね」というのはみんな概念であって、「見える」「考える」「指が動く」などというのが現実だ。



修行者

瞑想の合宿に参加したら、充実感でいっぱいになりました。


長老

ここにいる間は、一日中修行しているが、それこそが「生きる」という事だからだ。それは単に日常生活で瞑想するという意味ではなく、全ての心身の現象に気づき続ける事だという意味だ。


人生とは、六つの感覚の入り口(六門)で起こる体験の連続の事だ。視覚や聴覚、味覚、嗅覚、触覚などに刺激を受け、それに反応して感情や欲望が発生する事の繰り返しが人生。だから、心身に現象が起こるたびに気づく事が生きるという事であり、生きる技術でもある。


合宿が終わって日常生活に戻っても、合宿で育まれた洞察(智慧)を維持すれば、更に新たな洞察を育てる事ができる。また、欲望や怒り、悲しみ、不安、心配などの感情が生じても、より早い段階で気づく事ができるため、それらに囚われる事がなくなり、心が安定する。




修行者

今まで瞑想で結構閃いた経験があるので、瞑想すると直ぐに閃きを求めてしまいます。


長老

修行慣れしてくると、必ずそれが問題になってくる。だから、本当に一歩一歩、初心に戻らなければなければならない。初心とは、今の瞬間に気づいていようとする態度だ。


瞑想の目的は、今この瞬間の心身の状態に気づいている事であり、何かいい体験をする事ではない。閃いたり一瞥体験をしたりするよりも、気づきを育てる方がずっと大切だ。上手くできたと気づくのも、上手くできなかったと気づくのも、気づきとしては同等なのだから。



修行者

まだ修行に慣れていないので、瞑想しても効果がないように感じられます。


長老

正しい方法で心の反応を観察すれば、初心者でも瞑想の効果を感じられる。正しい方法とは、感情や欲望を思考によって育ててしまわないようにする事だ。それだけで十分心は落ち着く。


瞑想で何らかの体験を得ようとせず、リラックスして気づきを育てる事に専念する。それが正しい方法だ。欲望や怒り、嫌悪などの感情に気づき、それらを思考によって育てず、気づきの方を育てる。観察できなけれ呼吸を観ていい。大事なのは気づきの方なのだから。


家庭での気づきと、合宿での気づきは異なる。それらは別の技能なのだから。日常生活の中で、心地良い感覚から発生する欲望や、不快感から発生する怒り、嫌悪感、心配、不安に早い段階で気づけるようになると、感情に振り回されず、心はより安定していく。



修行者

瞑想中、心が平穏になりましが、その後眠くなって気づきが失われてしまいました。


長老

それは多くの修行者によく起こる事だ。心が静かで穏やかになると、貪欲さがその状態を楽しもうとし、観察の努力が弱まるそして心地良さに浸ろうと、昏沈・睡眠が生じる。


心が静かになった時こそ気づきが失われないように注意する。そんな時は「静けさを楽しむよりも、気づきとともにいる」事を最優先させる。つまり、静けさに気づいているよりも、気づいている事を確認しながら静けさの中にいる事だ。そうすれば、気づきは失われない。



修行者

日常生活での気づきは瞑想なのですか?


長老

普通は瞑想と言うと、足を組み、目を閉じ、穏やかな表情で座るものの事を言う。しかし、マインドフルネス瞑想は、心身に起こっている事に気づくのを目的とするので、いつでも、どんな姿勢でも行う事ができる。


何かを変えようとせず、日常生活を妨げる事なく、生活を続けながら、心身で起こっている事に気づきを付け加えるだけでいい。それが日常生活における気づきの実践になる。そしてその時は、生活の中で何度も自分に問いかる必要がある。「今、気づいているか?」と。



修行者

どうしても感情に巻き込まれてしまい、観察し切れません。


長老

たとえ怒りや不安、悲しみが起きていても、それらを知っている気づきは、怒りや不安そのものではないと理解する事だ。それらの違いを何度も実際に体験すれば、心は感情に巻き込まれにくくなる。



修行者

心が落ち着かない時は、心を静めるために一つの対象に集中してもいいですか?


長老

いや、私たちは心を静めるために瞑想しているのではない。気づきを育てるためにやっている。だから、落ち着かない時は、それに気づいていればいい。それで瞑想は成功している。


私たちは安定した心を目指しているのではない。目標は「知る事」、そして「知り続ける事」であって、心を無理に落ち着かせようとする事ではない。心が落ち着かずそわそわしている時は、その落ち着きのなさが観察対象になる。それは気づきを継続させやすい明白な対象だ。





修行者

ケーキを見た時、渇愛(貪欲さ)に駆り立てられたので、食べるのを止めました。


長老

食べるのを止める必要はない。ただ、ブレーキをかけるようにその勢いを弱めればいい。私たちが目指しているのは、食べるのを止める事ではなく「気づく事」なのだから。


これは食べ物だけでなく、怒り、不安、欲望、眠気、雑念など、あらゆる煩悩に当てはまる。そして煩悩を敵として戦うのではなく、「今、渇愛がある」「今、怒りがある」と知ることが修行だ。気づきがあると、煩悩は燃料を失って自然に勢いを弱めていく。


もし心が気づきと体験の間にある「間」に興味があれば、それを観察するといい。例えば怒りが起こった時、怒りになってしまわず、「怒りがある」と気づいているなら、その両者の間には「間」がある。その「間」が明瞭になるほど、心は体験に振り回されにくくなる。



修行者

現実世界を生きようとする者にとって、概念・幻想は敵なわけですか?


長老

最終的に観察するのは概念ではなく現実だが、概念を上手に利用することで現実が見えやすくなる。例えば腹部の「膨らむ・縮む」という概念は、その動きの感覚を観察しやすくしている。


また「見ている」という概念があるから「見る心」がある事に気づきやすいし、「観察者」という概念も、気づきそのものを認識するための足がかりになる。つまり、概念を排除するのではなく、上手く利用し、現実の心身の働きに気づく事が修行のポイントになる。



修行者

気づきも観察対象になるのですか?


長老

もちろんだ。自分の気づきを観る事ができたら、次は気づきがぼんやりしているか?それとも目覚めているか?それらの気づきの質の違いを観る。喜びや苦しみの体験よりも、それらに気づく事の方がずっと大切なのだから。


気づきがあるかどうかを確認できるようになったら、次はその気づきの状態を観るといい。例えば、ぼんやりして重い気づきか?はっきりと目覚めた気づきか?欲や怒りに染まった気づきか?気づきそのものの状態を観る事を「気づきの質を見る」と言っているわけだ。



修行者

気づきを観察対象にすると、どんなメリットがありますか?


長老

思考や感情を観ると、本当に存在している、実体のあるもののように感じられて巻き込まれるが、気づきを観ると実体も意味も感じられず、心身のプロセスだけを観る事ができるようになる。



修行者

心配や不安、孤独感があると、必ず考えてしまって思考に巻き込まれます。


長老 

苦しみを伴う思考が生じている時は、それを発生させる感情の方に目を向けると、思考は次第に弱まる。思考を観察しようとすると、感情に巻き込まれて気づきを失いがちになる。


思考を直接観察するのではなく、まずはその思考に伴って生じている苦しさ・重さ・不快感などの感受に気づく事だ。思考は次々と内容が変わり、気づきが弱いと簡単に巻き込まれてしまう。だが、不快感に気づくと、その元となっている感情も自然と見えてくる。



修行者

私は毎朝太極拳をするのですが、合宿中はできますか?


長老

身体を動かす運動は、私たちの修行を助ける。しかも太極拳は、自分自身の身体や動きへの気づきを助ける。大切なのは「私」が動くという見方から、身体感覚そのものに気づく態度へと切り替える事だ。


太極拳や歩行、ヨガ、掃除など、身体を使う活動は、そのものが修行になるのではない。それらを行う際に身体の動きや感覚に注意を向ける事によって、「私が動く」という見方から、「私」抜きの見方「私はいない」「私の身体ではない」という見方に変わる事ができるのだ。





修行者

日々の生活で悪い事をしないように気をつけています。


長老

それは大切な事だが、そのためには、思考が行動を生み出すプロセスそのものに気づく事だ。つまり、思考が生じ、その思考を信じ、従い、言葉や行動が発生する、一連の流れを観察する事が修行なわけだ。



修行者

人生は空虚で意味がないと感じます。


長老

「人生には意味があるべきなのに、自分の人生には意味がない」と思う時、実際には貪り(lobha)が望むものを得られないという心がある。そんな時は落ち込んだ考えを追い続けず、心を気づきへ切り替えた方がいい。


落ち込んでいる時は、その考えの内容を分析したり、意味を探したりせず、落ち込んでいる心や、その時の身体感覚に気づきを向ける。気づきが育てば否定的な思考や感情は自然と勢いを失っていくからだ。つまり、問題を解決するのではなく、問題を知る心を育てるのだ。



修行者

心が動揺しやすく、何かあると直ぐに心配や不安で緊張します。


長老

一つ言えるのは、動揺はあなたのものではなく、心の働きだという事だ。だから「私が動揺する」「私の動揺」と思うのを止めた方がいい。そして、動揺した心で考えず、ただその動揺を観察する。


多くの人は心が動揺すると、それを嫌って「早く落ち着きたい」「こんな状態では瞑想にならない」と抵抗する。つまり動揺が問題なのではなく、動揺に対して嫌悪や執着が加わる事が、さらに心を不安定にしてしまうのだ。だから、決して動揺を自分のものにしないように。



修行者

智慧を育てる方法はありますか?


長老

私たちは、何よりも気づきを優先して育てる必要がある。常に気づきに立ち返れば、貪・瞋・痴のエネルギーは弱まっていく。そうすれば、智慧は自然と現れる。だから、智慧を得ようとするのではなく、気づきを育てるのだ。



修行者

人生はなぜこんなにも重く、複雑なのですか?


長老

複雑なのは「私の問題」「私の将来」「私の人間関係」といった概念の世界の話だ。それらは実際には「見る」「聞く」「考える」「感じる」といった心身の現象が、ただ生じては滅しているだけで全然複雑ではない。


人生が複雑に思える時は、心身のプロセス(名色の働き)を観察するように切り替えると、すべてはシンプルで、実体のないものに思える。私たちはもっと心を拠り所とする事を学ぶべきなのだ。心を観察し、学び、智慧を育む事によってのみ、苦しみから解放される。



修行者

スピリチュアル・マテリアリズムとスピリチュアル・バイパスについて教えて下さい。


長老

いい瞑想体験をひけらかしたりして自分の価値を高めようとするのが「マテリアリズム」で、仏教やヨガの教義を言い訳に、向き合うべき困難から逃げるのが「バイパス」だ。


簡単に言うと、怒りがあるのに「すべては空だから問題ない」と考えたり、心理的な傷を観察せずに「すべてはカルマだから」と片付けたりするのが「バイパス」で、悟りや特別な体験を、自我(私)が所有しようとするのが「マテリアリズム」になる。


スピリチュアル・バイパスやスピリチュアル・マテリアリズムを、ストレスを和らげたり、人生に幸福感をもたらしたりするための手段として理解していれば、それらに囚われる事はない。実際、修行を始める段階では、心を落ち着かせるためにそのような働きが必要になる。



修行者

思考や感情はそのままで、気づきだけを継続させる事ができません。


長老

日常生活で気づきが安定していないと、思考や感情をそのままにしておくのは難しい。どうしても「消そう」「失くそう」としてしまい、結局それに巻き込まれる。まずは気づきを育てるしかない。


思考や感情をそのまま観察できず、直ぐ巻き込まれてしまう時は、呼吸や身体感覚を使って気づきを育てる。無理に心を観る必要はない。呼吸や痛み、痒み、暑さ、寒さなどを使って気づきを継続させるのだ。十分に気づきが安定してから、思考、感情の観察に戻ればいい。





修行者

私の場合は、大好きなお菓子を味わったり、失礼な人に遭遇したりすると、貪欲さや怒りに巻き込まれて観察どころではなくなります。


長老

そんな時にも貪欲さや怒りを観ず、呼吸に注意を向けて、欲望や感情が過ぎ去るまで待ってから気づきを再開させた方がいい。


日常生活における私たちの気づきは、たいてい弱い。だからこそ、それを育てる事を学ばなければならない。これはまさに生涯にわたる修行だ。六つの感覚器官(六根)を通して貪りや嫌悪が生じるたびに、私たちは何度でも気づきを取り戻そうと努めるのだ。



修行者

動揺に素早く気づけるようになるには、どうしたらいいですか?


長老

「動揺はただの心の働きで『私が動揺している』のではない」という見方を育てる事だ。なぜなら「私のもの」という見方を弱めると、心との距離が生まれ、智慧(paññā)が育っていくからだ。



修行者

瞑想ホールを出た瞬間、気づきの勢いや継続性が弱まる事に気づきました。なぜなら「気づきは疲れたから休憩しよう」と思うからです。


長老

そのプロセスを見ている間は、その思考が心を圧倒する事はない。そこには既にある程度の理解(智慧)があるからだ。


一人になると気づきを止める習慣に気づいたら、次は「一人になったら気づく」「部屋に入ったら気づく」「トイレに入ったら気づく」というように、日常の決まった場面をきっかけに、気づきを起こす習慣を作る。一人になる事を、気づき始める合図にしてしまうわけだ。



修行者

日常生活では思考や感情で、心が荒れ狂っていますが、瞑想センターに来ると、何もしなくてもそれだけで心が静まります。


長老

それは、日常生活では外の世界にばかり注意を向けているものの、瞑想センターではあまり外の世界に注意を向けていないからだ。


環境が心を清らかにしているのではない。日常生活では、六根を通して外界に注意が奪われやすいものの、瞑想センターでは刺激が少ないため、身体感覚や心の動きを観察しやすく、煩悩も起こりにくくなっているだけだ。だから、日常生活こそが本当の修行の場だと言える。



修行者

貪欲にならないように、なるべく心地よい事を楽しまないようにしています。


長老

いや、反応を止めようとするのではなく、反応している心に気づく事が修行だ。「心地よい/悪い」と判断した時点で貪欲さが発生しているが、気づきがあればその勢いは自然に弱まる。


また、逆に心地よさに浸ろうとして、心の中で「楽しんでも大丈夫」と言っていたら、それは無明の働きだ。それは現実を智慧によって理解した結果ではなく、現実を見ないための自己暗示だからだ。そんな「都合のよい考え」に気づく事も智慧を育てる修行になる。



修行者

日々苦しみでいっぱいで「なぜこんなに苦しいのだろう」と思います。


長老

苦しみを悪者にしないように。「私」のものにせず「今、心の中に強い煩悩(貪・瞋・痴)が働いている」と、単なる条件によって生じた現象と見れば、心が煩悩や苦しみから少しずつ離れる。



修行者

悩みがあると、どうしてもその事ばかり考え続けてしまいます。


長老

そういう時は、その事について考え続けるのではなく、動揺している心を繰り返し観察する。「考える事」から「気づく事」へと切り替えるわけだ。悩みは何とかするのではなく「知る」事だ。


例えば何か嫌な事があって苦に感じている時、その事を考え続けるのをやめ、動揺している心を繰り返し観察する。すると瞋(dosa)が次第に静まり、心を悩ませていた記憶もまた弱まっていく。心が変われば、体験についての思いもそれに従って変化していくのだ。



修行者

瞑想中に否定的な考えが頭をよぎると、どうしても考えて暗くなります。


長老

気づきがあれば、否定的な考えが浮かんでも、それに従わずに無視する事もできる。気づきさえあれば、心に何が浮かんでも、それに従うのか手放すのかを選択できるようになるのだ。



SUTと再会



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  最終更新日 2023.12.31

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