セルフ・ウオッチャーになる

2020年4月18日土曜日

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セルフ・ウオッチャーは中華料理を食べる時も自分を観察している 


マインドフルな生活 


 完璧に気づけているわけではないものの、とりあえずは日々の生活をマインドフルに過ごしてはいる。難しい事などなくて、単に「今、何をやっているか?」を確認しながら生きているだけだが、それがマインドフルな生活というものだ。

 それでも自分がやっている事を他人事のようにずっと追いかけていると、今まで気づかなかった自分の行動パターンが見えてくる。自己観察によって自分の行動の傾向が掴めてきたのだ。

 例えば外を歩いている時の自分をずっと観察したとする。床屋へ行って変な髪型にされた日などは歩いていてもすれ違う人の髪型にばかり目が行って仕方なくなる。だがそういう事があったりしたら、それをやめる事なく自分自身を知るための絶好のチャンスとして観察するようにしている。

 或いは靴を新調した時は他人の靴にばかり目が行って仕方ない。引越しを考えている時は建物が目に入ると「あれはワンルームだ、あれは2DKだ」と間取りにばかり目が行く。また、昔チラシ配りのアルバイトをしていた時は普段歩いていても他人の家のポストにばかり目が行って仕方なかった。そういう事も思い出したら、それをただ他人事のように見ておく。

 更に空腹時には食べ物屋にばかり目が行って仕方ないし、欲求不満の時には女性の胸元やら腰の辺りにばかり目が行って仕方ない。そんな感じでずっと観察を続けていると、何やら欲求と視線の関係のようなものが、なんとなく見えてくる

 また、商店街を歩いていると服でも電気製品でも薬品でも「安売り」の表示にばかり目が行く。コンビニや牛丼屋、弁当屋などは何か新しいメニューが出ていないか必ずチェックする。パチンコ屋などは出具合いを確認してしまう。

 そんな時にカレーの匂いがしてきてついついカレー屋に入ってしまった。美味しいとガツガツ食べてしまうので、自分を戒めながらゆっくり食べたりする。しかし不味い物を食べる時は逆に「早く喰わないと待ち合わせに遅れる」なんて急がないと進まない。そういう事も自然のままいじらず観ておく。

 そのうちに見慣れた筈の景色の中に、ふと見慣れない仏具店やら洋裁品店がある事に気がついた。そして「こんな所にこんな店があったのか!」と驚いた。なぜならこの町に何年も住んでいて毎日この商店街を歩いているのに、今までちっとも知らなかったからだ。

 そこまでくるとある一定の法則性のようなものが見えてくる。自分の場合、好きな物や興味のある物ばっかし見て、嫌いな物や興味ない物の事はサッパリ見ていないのだ。好きな物を必死で追いかけて嫌いな物は避けている。そんな風にしっかり偏った見方をしている自分の行動パターンが掴めてきた。

 そんな感じで小さな気づきをどんどん重ねているうちに、ひとつのある傾向が掴めるようになる。その傾向がまたたくさん見えるようになってくると、大きな法則性がある事が判ってくる。自分を動かしている無意識の衝動が感じられるようになってくるのだ。

 今のはあまり鋭い気づきの例ではなかったが、こんな風に普段から自分のやっている事に気づく癖をつけていると色んな発見がある。マインドフルネスとはそんな自分の行動パターンの傾向を掴む作業だ。

世の中には様々な観察マニアがいる。例えば路上を観察する人々。
https://gramho.com/explore-hashtag/さいたま路上観察学会

社会の様々な風俗を観察する人々。
https://soukodou.jp/blog/2016/0608/185538


 そうだ、このマインドフルネス瞑想もやろうとしている事は彼らと全く同じだ。違うのは観察の対象が外部にあるものではなく自分自身の心身の現象であるという点だけだ。

 彼らが世の中の様々な光景を観察して回るように、ただひたすら他人事のように自分を観察する。そんなマインドフルネスとは、早い話が「自分オタク」になるようなものだと思っていて頂きたい。

 何かを見たり聞いたり感じたり味わったり思い出したりしたら、その対象に自分がどう反応しているかを確認する。人の姿なり音楽なりに心がどう反応しているか、好きとか嫌いとか正直な気持ちを自分の胸に聞いてみる。匂いやら温度やらにどう反応しているか、自分の胸に聞いてみる。気づくとはそのような自分に正直になる作業だ。ラベリングするよりそうやって心身に起こる現象を具体的に言葉に出来るぐらいにまではっきりと自覚しておいた方がいい。

 この場合肝心なのは、自分を所有しない事。この心身は誰のものでもなく自然に属するものなのだから、自然に返してやる。心身に起こる事は宇宙の必然として起こっているわけだから、コントロールせずに自然のままありのまま、隠さず開けっぴろげにしておく。決して「自分」のものにしない。「公共物」なのだから勝手に持ち帰らない。

 対象の事や心身に起こる事は勝手に「善・悪」やら「優・劣」やら判断しない。そんな事は誰にも判らない事だ。最高裁まで行って審議しても判らない。解釈も同様、勝手に加えない。私見を交えない。色眼鏡で見ない。ただ起こっている事を見つめるだけにしておく。もし判断や解釈を加えたら、それを確認する。

 それを一貫して緊張せずリラックスして続ける事だ。足を組んで痛いのを我慢してやる必要はない。一切集中力は使わない。雑念は浮かぶがまま、心はあちこち彷徨うがままにしておく。心に対象を選ばせ、コントロールせずに受け身になって心の行く先々の事を観察する。そして必ず「今」の瞬間に留まる。これは他の所でやっている厳しい方法とはちょっと違う。

 ウ・ジョティカ長老の本をたくさん翻訳している魚川祐司氏は、この方法で瞑想する事について「修行」とは訳さず「実践」と訳している。それは本人はあまり修行しているという実感がないからだと思う。ちなみに彼はマインドフルネスの本を出してはいても、実際にはミャンマーに来ればポウライ・ピャウライの方に行く。シュエウーミンは嫌いらしい。(バラしてどうする)

 また、この尼さんも同様、マインドフルネスをやっているわけだが修行という言葉は決して使わない。つまりマインドフルネスをやっている人々は修行しているという実感がないわけだ。

https://ameblo.jp/inamamonosowami/entry-12347355383.html?frm=theme

 だからこのマインドフルネス瞑想は集中没頭型の瞑想とは違って修行というよりも、むしろ「趣味」とか「道楽」とか、そんな部類の人生の愉しみのひとつと言った方がいいのかもしれない。

 しかもマインドフルネス瞑想をやっていると恩恵が生まれてくる。この趣味は実益を兼ねるのだ。それはよく言われているリラックスとかストレスの減少もそうだが、そんな小さな事ではない。そんな事などどうでもよくなるような大きな体験をするようにもなる。「ウソ?そんな事あるのかい?それって一体何だ?」そう思う方も居られるかもしれない。決してウソではないので、次にその事について触れてみたい。



幻想からの脱却 


セルフ・ウオッチャーは印度料理を食べる時も自分を観察をしている 


 ブッダは悟りを開く時「悟りを開くまでは決してこの座を立つまい」と決心し、尼蓮禅河の畔に座をしつらえ、一晩中十二縁起の法について順・逆に考察を続けられたという。そして夜が明けて明星を見た時に「ウム」と大悟されたと言われている。これは日本に伝えられている仏伝の中のエピソードだ。

 これについて禅の大家山田無文老師が面白い事を言っている。

 「ブッダは明星を見た時『あっ、あそこで私が光ってる』と言って大爆笑したに違いない」と。

 こういうのがどうも悟りを開く時の様子らしいのだが、果たしてどんな状態の事を言っているのかお判りだろうか?また、これと似たような話で、仙道の島田明徳氏のエピソードがある。島田氏は師匠について10数年の修行を経たある日、360度何処を見ても何を見ても、全てが自分に見えるという体験をしたのだと言う。ブッダの悟りの体験同様、周囲の風景が自分になっている。これは一体どういう事なのか?

 また鈴木大拙は悟りの境地について「無分別の分別」なる言葉を使っている。無分別とは自他の区別がないという意味だ。しかしそこに自分という区別がある。「即非の論理」とも言う。これも一体何なんだ?

 更に西田幾多郎は同じ事を「絶対矛盾的自己同一」と言った。「自分なるものはない、だからこれが自分だ」みたいな論理か?一体これらはどういう事になるのだろう?悟りの境地なんて常人の理解を超えている。

 「やっぱり彼らは禅やら仙道の人たちだから仏教とは違う悟りを開いたんじゃないだろうか?ではミャンマーの坊さんたちは一体どうやって悟りを開いてるの?」という疑問を持つ人も居られるかもしれない。では今度はテーラワーダ仏教の方では何と言っているかを見てみたい。

 こちらの仏教ではマインドフルネス瞑想を続けていると心の中の智慧が開発され、洞察智という大きな智慧となって花開くと言われている。その洞察智は15段階から成り、まず最初に「ナーマー・ルーパー・パリツァデ・ニャーナ」という智慧が出て来る事になっている。このナーマーというのは心という意味であり、ルーパーというのは身体という意味だ。つまりそれは心理現象と物理現象とを見分ける智慧という意味になる。日本語で名色分離智慧という。

 心理現象と物理現象とを見分けるとは早い話、「幻想から脱却する智慧」という意味だ。さんざん道楽を愉しんだ後には幻想から脱却出来るという、信じられないオマケまで付いてくるのがこのマインドフルネス瞑想というわけだ。

 しかしどうでもいいのだが、この幻想とは一体どういう幻想を指すのだろう?幻想から脱却すると言っても人は幻想がなければ何も出来ない。この文章もみんなで文字という幻想を共有しているから、つまり共同幻想があるから読めるのであり、人と人とも言葉という共同幻想があるからコミュニケーションがとれるのだ。社会というのもみんなで習慣やらマナーやら法律やらという共同幻想を持っているから秩序立っている。一体何の幻想から脱却するって言うんだい?禅だけじゃなくてテーラワーダの方だって何が何だかサッパリ判らないではないか。

 そこで先程の禅匠たちの悟りの体験談に戻りたい。実は彼らは皆「周囲のものこそが自分であったと気づき、真の自己同一性を回復した」と言っているのだ。それまでずっと自分ではないものを自分としていたが、誤りに気づいて大爆笑したと、みんな一様に同じような体験談を語っている。では一体それまで何を自分として生きてきたというのか?

 結論から言うと、実は禅匠たちの言っている悟りの体験と、テーラワーダ仏教で言う名色分離智慧とは同じ体験の事を言っているわけだ。しかし我々は無明という煩悩に覆われているので、それが理解できない。

 いくら禅匠たちが「周囲のもの、見えるもの、聞こえるもの全てが自分なんだよ」と教えてくれても「そんな訳あるはずねえ、そんな事言ったら世の中全部、世界中、全宇宙が俺って事になっちまうじゃねーか。そんなおかしな話が何処にある?俺ってなぁここにあるこのちっぽけなものの事を言うんでえ。俺は凄えんだぞ、偉えんだ、完璧なんだ、カッコイイんだぞ」と、我々はそういう風にしか思わないのだ。幻想に覆われてしまっていてサッパリお話にならない。

 そんな事で我々はいつも「俺」と「俺」をぶつけ合って、「俺」と「俺」を比べ合って「俺は凄え奴だ」とか「俺は無価値な人間だ」とか、何処にも存在しないものの幻想に振り回されて、いい気になったり、病んでしまったり、お互いの首を締め合ったりしている。それが人間というものだから仕方ないと言えば仕方ない。

 しかしこのマインドフルネス瞑想で自分を見つめ続けるならば、必ずやそんな哀れな状態から脱却し、本当の自己同一性を回復する事が出来るわけだ。そしてそこから15段階の智慧の階梯をかけ登る本当の修行が始まる。

 それまでの主客転倒した物の見方から、全ての物事は実体がなく、条件の組み合わせで生起してくる現象であるという正しい見方に改められ、因果法則に沿った考え方で新しく生まれ変わったような気持ちで新たな修行、いや道楽が始まるのだ。

 そんな解放感こそがマインドフルネスの恩恵というもの。そしてその時にはもはや幻覚剤は効かなくなっている。だからリラックスとかストレスの減少だとか、そんな事ばかりを求めてやるにはあまりにも勿体無いものに違いない。マインドフルネス瞑想の利用価値は十分に知っておく必要がある。

 それはちょうど一万円札をティッシュ代わりに使っているようなものだ。そして私はそれを見て「要らないんだったらハナかんだ奴でいいからゴミ箱にある奴全部くれよ」って言ってるようなもんだ。

 話は飛んだがそういう訳でこのマインドフルネス瞑想、続けていればそのような体験も起こってくるので、趣味や道楽としては申し分ない。マニアになってハマるだけの価値も十分にあるので、安心してのめり込んで頂きたい。修行というより本当にオタク感覚なので、マニアックな人たちは試してみるだけでも試してみてはどうか。

 「マインドフルネスにハマって世間から浮いてしまったらどうすんだ?大変じゃねーか」そう思われる人も居られるかもしれないが、そんな心配など必要ない。なぜならこのシュエウーミン瞑想センターはいつも周囲から「そんな事ばかりやって何が面白い?」と言われているマニアックな連中が世界中から集まってくる溜まり場なのだから。ハマってしまったらしまったでちゃんと行き場所が用意されているから大丈夫。

 マインドフルネスが原因で世間から疎外された孤独な者たちは、ブッダや瞑想センターの創始者の元で一同に会する事になっている。そしてそこに集結した時の彼らの共感や結束力の強さたるや、並大抵のものではない。日頃話し相手に飢えている同士だけに凄まじいの一言だ。シュエウーミンはそんなマニアックな野郎たちの熱い交歓の場でもあったわけだ。

 そんな訳でそのような世界中から集まったオタク野郎たちに共鳴する人々は、何を恐れる事もなくマインドフルネスに心行くまでハマって、是非ともミャンマーまで来てシュエウーミン瞑想センターを訪れて頂きたい。そこが何処にも居場所がないアウトサイダーたちの世界で唯一の居場所なのだから。





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  最終更新日 2023.12.31

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