メンヘラーの瞑想 

2020年4月30日木曜日

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ウ・テジャニヤ長老はマインドフルネス瞑想でうつ病を克服した事で知られる 




カエルのヘソについて考える 

 
 というのはどうも、多かれ少なかれ自分が自分ではないような感覚を覚えてしまっているようだ。だがそれは当然だ。自分でも何でもないものを自分として生きているのだから、そう感じるのも無理はない。

だからどうも何かが違うような気がして仕方ないのだが、それが何故なのかはよく判らない。それでついつい自分が何者なのかを考えてしまう。

 しかし自己について探求する事は、自己についてあれこれ想像を巡らす事とは別物だ。

「私はあんな奴でこんな感じで」とか「今、周囲の人々はおれの事をどう思っているか?」とか、人は自分が何者かを知るためにあれこれ考える。

だがそれは自己を妄想しているだけであって探求している事にはならない。

ちょうどカエルが「私のおへそはどんな色?どんな形?」と想像を巡らせているようなものだ。どんなに考えたって無いものの事など判るはずなどない。

 自己を知るためには「自分」という機能、ハタラキを通して知るしかない。「自分というハタラキ」を観察して傾向を掴んでいくしかないのだ。

それはつまり心身に起こる様々な現象を観察するという事、マインドフルネス瞑想をするしかないという事になる。

 しかしどうも人間というものはおかしな幻想に覆われてしまっているため、自分について考える事を止められない。どうせならもっとマトモな事を考えればいいのにそうもいかない。

カエルのヘソの事を考えるみたいな事に必死になってしまう。そんな無意味な行動に大量のエネルギーを浪費し、行き詰まるしかない思考を巡らせた挙げ句に、とうとう思い詰めてしまう。
 
そうなったら心の方はおかしな事になってしまうのは当然。

大事な精神エネルギーは枯渇し、倦怠感に覆われ、何もしたくなくなる。

動きたくても身体が重くて動けない。

食べる事も寝る事も出来なくなってしまう。

だから自分についてあれこれ妄想する事は全く無意味な徒労であるばかりか、命に関わる問題にもなってくる。



では、そんな時はどうしたらいいのか?

どうしたらクヨクヨ考える事を止められるのか?と言うと、そんな時はマインドフルネス瞑想を治療に使うセラピストたちは必ず「今の瞬間に気づけ」と言う。

つまり心が今の瞬間に留まっている間はゴチャゴチャ考える事が出来ないのだ。

カウンセリングで「今」を強調するのはそんな理由がある。

だから直ぐマインドフルネスな状態に切り替えればいい。

嘘だと思うならちょっと試してみて頂きたい。


うつ病を瞑想で克服した瞑想指導者

 
 シュエウーミン瞑想センターの指導部長、ウ・テジャニヤ長老はマインドフルネス瞑想でうつ病を克服した事でも知られる。

そのため今ではシュエウーミンは、心の病に苦しむ多くの人々が、長老の指導を受けようと世界中から集まる場所にもなっている。

長老はいつも通院している人々には治療と並行して瞑想を行なうように指導している。

そして薬を服用している人には急に止めたりせずに必ず医師と相談の上で量を調整するように言う。

このマインドフルネス瞑想は通常のカウンセリングや森田療法、EMDRやバタフライ・ハグなどといった治療法とも全く矛盾しないというわけだ。

 そして病んでいる人々が絶対やってはいけない事として、思考や感情の抑圧を挙げている。そのためシュエウーミン瞑想センターでは現在、病んでいる人々のみならず、全ての修行者にメッターメディティション(慈悲の瞑想)や身体内部をイメージする瞑想(身随観)を教えていない。それらを行なう事はどうしても感情を抑圧する事になるからだ。

シュエウーミン瞑想センターとパオ瞑想センターとは、かつて創設者同士がお互いにポウライ・ピャウライ勢力に対抗した仲だった事もあり、尊重し合う関係が続いている。

現在でも住職の部屋にはパオ・カレンダーが掛けてあるし、ウ・テジャニヤ長老も2006年にはマレーシアの仏教雑誌の企画でパオ・セヤドーと対談した事もある。部屋にはその時の写真も飾ってあったりした。

しかし今ではその写真も撤去され、シュエウーミンの中でも長老だけはパオ・メソッドを批判する。

感情を抑圧して集中する事はうつ病を発生させたり、うつを更に悪化させたりする危険性を含むというのがその理由だ。

病んだ人が多く訪れる瞑想センターなので、その辺りの事を最大限に配慮してとの事となる。或いは実際にパオ・セヤドーの写真を見てパオ瞑想センターに行き、悪化させた人がいるのかもしれない。

また更にシュエウーミンには、名物の修行とも言える「トーキング・メディテイション」(話しながらの瞑想)というものがある。普通は瞑想修行者がリトリート期間中に他者と話をするなど許される事ではない。

何処の瞑想センターに行っても修行者は下を向いて他者と目を合わせないようにしながら、日常生活の一挙手一投足に気づくように細心の注意を払って動いている。

だがシュエウーミンの指導部長のウ・テジャニヤ長老だけは「気づきながらであれば話してもいい、ただし短時間」とタブーを破ってそれを許可している。それは何故か?

実はそれもまた同じ理由があるからだ。

そこには病んでいる人々がずっと下を向いて感情を押し殺して病状を悪化させてしまわないようにという配慮がある。

だが、それをいい事におしゃべりに興じて修行を放ったらかしにしている者たちが多いのも事実だ。

だから指導者の間でもこのトーキング・メディテイションについては賛否両論がある。

否定派のある長老は「シュエウーミン・セヤドーが生きて居られた時には絶対に会話なんか許さなかった」と主張した。

そういう訳で今はウ・テジャニヤ体制だからそれも許されているが、体制が変わったらどうなるか判らない方法でもある。

そういった事を見てみると、現在シュエウーミンで行なわれているマインドフルネス瞑想が、どれだけメンヘラ系の人々への配慮が施されたものであるかがご理解頂けると思う。

では次にメンヘラ系の人々が瞑想する時はどうやったらいいのか?その方法を見てみたい。


トラウマを観察する 


 筆者には子供の頃の交通事故のトラウマがある。

しかも場所が頭部で瀕死の重症を負ったために、今でもその時の事を思い出すたび恐怖ですくんでしまう。瞑想中思い出すと悲鳴を上げてしまいそうにすらなる。

しかしその記憶を抑圧してしまってはおかしな事になるので、何とか観察しなくてはならない。

だからまず記憶が蘇るとそれを受け入れる事にしている。

それは受け入れたのと拒絶したのとでは随分その後の反応が違ってくるからだ。

当然の如く嫌な気分、辛い思いを味わうのはもうたくさんなのでそのようにしている。

つまり苦痛を避けるために受け入れているわけだ。

悲惨な記憶が蘇るたび「OK」と頷いて受け入れる。

するとその出来事が客観的に見えてきてだいぶ楽になる。

嘘だと思ったら一度自分で実験してみて頂きたい。

或いはその後、その事故での負傷箇所を嘲笑されたというトラウマも残っている。

重症を負い、後遺症やら何やらで苦しんでいる私の姿を見て今度は、信じられない事に嫌悪感一杯に罵る者たちがいたのだ。

その時の記憶が蘇るや否や、私は怨念で気が狂わんばかりになってしまう。

だが、今更復讐に出かけたところでどうなるわけでもない。

また、怨念にまみれて瞑想するわけにもいかない。

ではどうしたらいいか?こんな時はブッダに聞くしかない。



 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。
 
      (ダンマパダ 3 中村元訳)



ブッダはそんな時「奴らは『俺』を罵った」と思っているうちは怨念でドロドロにならなければならないという。

つまりその時の記憶が蘇った瞬間に「あいつら『俺』の事を」と解釈していては心が安まる事がないという事だ。それならばブッダの教えに従って『俺』と思わなかったらどうなるか?

なる程、さすがブッダの言う事は違う。

一発でドロドロの精神状態から抜け出す事が出来た。

嘘だと思うなら自分で試してみて頂きたい。


『俺』を抜くだけでこんなに違うなんて。


あとはこの記憶も事故のトラウマ同様に「OK」と受け入れる事も忘れない。

また「かれは、われにうち勝った」という思い、つまり「負けたくない」という思いがあったらそれも確認しておく。

何処から出てくるのだろうか、こういう思いは?この思いが無かったとしたらどうなるか?それもできれば観ておく。

そしてここで問題になるのは「傷つくもの」の存在だ。

一体何が傷つくのだろう?では連中の記憶が蘇った時に、謙虚になっていたとしたらどうなるか?「俺アホだ」と思っている時に何か言われたら傷つくか?宮本武蔵みたいに「我以外皆師なり」という超謙虚な姿勢でいたら果たして傷つくか?こういう事も探求してみると面白い。



 話しは戻るが、まずそうやって過去の記憶を受け入れた後は手放す事も必要だ。

その記憶の想念は直ぐ消えて行く。

そしたらそれをそれ以上追いかけない。

追いかけると、またゴチャゴチャとカエルのヘソについて考えるみたいな事が始まるので、消えるがままにしておく。

思い出は去来するがままでいい。

そんな感じで、大体だが筆者の場合はトラウマの記憶が蘇ったらいつもそのように観察している。

そして怒りが出てきたら絶対抑圧せず、そのエネルギーを感じる。

そうする事が怒りのエネルギーを放電している事にもなるわけだ。

それをしないで心に溜め込むと、行き場を失ったエネルギーは心の中でザワザワモヤモヤ自分に襲いかかってくるようになる。

しかし世の中には子供の頃の虐待などの重いトラウマが原因で、心が別人格を創出し、多重人格になる事で自らを守るという心の形態を持つ人々もいる。

そのような人の場合には無理して観察する必要はない。

心が観察するのに十分な強さを身に着けてからで大丈夫だ。


中にはそのトラウマを観るのが嫌でカウンセリングも受けられないという人もいる。

そういう人は常に「今」に留まる事を心がけて、日々マインドフルに生活する事に専念して頂きたい。

 また、十分心得ていると思うが、修行者は瞑想センターでそのような人格がコロコロ変わる人を見たとしても、動じるべきではない。人間の心は背負い切れない程の重荷を負った時、防衛手段としてそのような方法を取るものだ。それは自然の事でもある。落ち着いて対処したい。

そして瞑想をやりながらEMDRをやったり、バタフライ・ハグをやったり、タッピングをやったりしても全然構わない。

マインドフルネスは集中・没頭型の瞑想ではないから全く問題ない。

もし試してみたい方がいれば、迷わずどうぞ。

その他、心の病の原因には、身体的な病やら、生まれついての性質やら、肉親との別離やら、事業の失敗やら、「鬼親」やら、数え上げればキリがない程の種類があるが、マインドフルネス瞑想でやる事はいずれの場合でも原則は皆同じになる。

つまり思考、想念、感情を抑圧せずに受け入れて、それから手放す。

もしカエルのヘソの事を考えていたら、消えるのを待って直ぐ「今」に戻る。

それだけがメンヘラーが気をつけなければならない要注意事項となる。

簡単な説明で済ませてしまったが、実際には瞑想で心の病を治すなどという大それた事は一筋縄ではいかない。

あとは、マインドフルネス・セラピーと言えば何と言ってもこちら、日本でのその道の先駆者、日本マインドフルネス学会の井上ウィマラ教授だ。

日本で一番詳しい専門家だから、是非この教授の説明も参考にして、色々と自分に合った方法を試してみて頂きたい。

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-805.htm
 
http://spiwisdom.com/spibooks/meditation/inoueuimara

 

それでは今度はまた同じ様に、不安障害の不安が出た時の観察のしかたを見てみたい。





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「DON'T LOOK DOWN ON DIFILEMENTS - 侮れない煩悩」入門編


「DHAMMA EVERYWHERE - ダンマはどこにでも」実践マインドフルネス


「AWARENESS ALONE IS NOT ENOUGH - 気づくだけでは不十分」マインドフルネスQ&A

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  最終更新日 2023.12.31

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