不安障害者の瞑想 

2020年5月2日土曜日

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シュエウーミンは癒しの瞑想センターという事でも有名だ 
 

1,対人恐怖の観察

 世の中にはソシオパス(反社会性パーソナリティー障害の一種)なる異常性格と言われる人々がいる。彼らは鬼のようにライバル意識が強い上に嫉妬深い。そして他人の顔色の変化に敏感で、他人の欠点や弱点を探すのに長けている。

 何でも、ハンカチ隠しゲームを使って彼らの敏感さを実験すると、誰がハンカチを持っているか百発百中で当てるという。

 彼らには、その能力を使って他人の失敗や欠点を探し、それを突っついて相手の評価を下げる事で自らの優位を示し、他者をいいようにコントロールしようとする習性がある。



 ヤンゴンのマハーシ瞑想センター総本山には、2013年初頭、60代の日本人男性と20代の日本人青年とが流血の乱闘を繰り広げたという、所謂「2013マハーシ内日本人乱闘事件」という血生臭い伝説が残っている。

 これは目撃証言によると、60代男性の方がソシオパスであり、真面目に修行していた20代青年に対し執拗につきまとい、粗探しをして突っついては威嚇し、自らの優位を誇示していたため、修行を妨害された青年が切れてソシオパスを撃墜したというのが真相のようだ。

 ソシオパスのこのような行動は、彼らがいる所ならば何処ででも見られる。彼らは大体100人に3〜4人の割合で存在すると言われているから、学校だと何処のクラスにも1人や2人はいる計算になる。ただしソシオパスはサイコパスと違って、仕事は長続きしないので、ちゃんとした仕事に就いている割合は少ない。

 だからその分上手くいっている人に嫉妬深くなっているので、ソシオパスに妬まれたら最後、彼らと離れ離れになるまでずっと「価値下げ」、つまり粗探しされて、失敗や欠点をずっと突っつかれ続けなければならないハメに陥る。

 ある禅宗の雲水さんの話では、彼が永平寺で修行中にもソシオパスの先輩雲水がいて困らせられたという。何故困ったかというと、僧堂では雲水は先輩の言う事には何でも「はい」か「いいえ」か「判りました」のどれかでしか答えてはいけないからだ。だからソシオパスに突っつかれても「はい、判りました」ぐらいしか言えないし、逃げるに逃げられないし、辛い日々を送らざるを得なかったそうだ。

 また、ソシオパスには他人を思いやる気持ちが微塵も無いので、普通の人には口に出せないような失礼な事でも平気で言える。更に彼らは一度嫉妬した者には、徹底的に足を引っ張ってやろうと、どんな所にいても見張って失敗するのを待ち続ける。スッポンのように喰らいついたら離さない。

 ライバルがグラウンドでサッカーをやっているのを見かければ、校舎の3階からでも、ヘマをするのをジッと待ち構えて見ている。勿論後でバカにして笑うためにだ。ヘマをしていなくてもこじつけでヘマをした事にしてしまう。その価値下げの執念たるや凄まじいものがある。

 そんな事をずっと継続的にやられていると、嫉妬された方は慢性的な心の傷を持つようになり、精神的に参ってくる。そんなボロボロの精神状態になったところにバッタリと今度は違う人、例えばヤクザみたいな狂暴な境界性パーソナリティ障害の人物に出会い、すれ違いざまにちょっと肩が触れたぐらいで「ゴラア」と、思いもかけなかったような常識外の態度を取られたりすると、心は錯覚に陥り「世の中の人間という人間は皆このように狂暴なものだったのか・・・?」と思うようになってしまう。

 そして電車などの人混みにいると「ここにいる全員が私の欠点を粗探しして突っつこうとしているのではないか?」と恐ろしく思えてくる。また、床屋に行ったりすると、ハサミやカミソリを持つ理容師に無防備に身を任せている事に耐えられなくなる。「もしこの人が私に敵意を持っていたら、その鋭利な奴で簡単に私の事を・・・・」という不安で一杯になってしまうからだ。
 
 更に、外を歩いていれば、道行く人がみんな自分の粗探しをしようと必死になっているように思えてくる。今までずっとそうされていたので、梅干しやレモンを見ただけでツバが出てくるのと同じ条件反射の原理で、他人に会うと「コイツ見張ってる、ヘマしないように気をつけないと・・・」と反射的にそう構えるようになってしまったのだ。つまりそれが対人恐怖症の症状だというわけだ。

 そんな事で対人恐怖症にかかってしまった人は、外に出て人に会うのが億劫になり、また「ああ、俺は恥ずかしい奴だ、死んでしまいたい」とカエルのヘソのようなものの事をゴチャゴチャ考えては自己嫌悪に陥り、自殺すら考えるようになる。まんまとソシオパスの策略にハマり、人生を台無しにされたのだ。


妄想過剰 

 この場合は、ソシオパスにさんざん付きまとわれて攻撃されたため、傷つけられないように心が防衛過剰になっているものと思われる。偵察衛星やら偵察機やらを張り巡らし、いつも周囲からの攻撃に備える事で頭が一杯になってしまっている。つまり、自分が他人からどう見られているか、想像を張り巡らせ過ぎているというわけだ。

 自分がどう見られているか想像すると、今度はその想像図が脅かされる不安に陥り、更にそれ守ろうと想像を張り巡らす。そしてまた更にその図を守ろうと・・・・妄想は止まる事を知らず何処までも堂々巡りを繰り返し、終には疲弊し、衰弱してしまう。これがこの不安障害の恐ろしいところだ。

 自分がどう見られているか不安な時は、視線がキョロキョロ定まらない。所謂キョドるという奴だ。そのためそれが周囲の人々に不快感を与えているのではないかとまた自己を妄想する。それでまたキョドり、更に一層自己を妄想する。もう悪循環の極みで、そこまで行ったらエネルギーが枯渇してダウンしてしまう。

 これはさんざんソシオパスにやられて心にそういう習性が根づいているのだから当然の事。心に根づいた習性だから仕方ない。もうどうにもならない・・・もう人生終わった。

 ではない。そこでその習性を観察してそこから脱却してしまおうというのがこのマインドフルネス瞑想というもの。そこで、その時心の中で何が起こっているかを観察してみる事にしたい。

 そこで実はちょっと立ち止まって考えてみたい事がある。というのは、苦しんでいるその症状は、いつでも何処でもあるものなのかどうか?という事だ。

 例えば頭の中が他の事で一杯の時にはそういう症状が出てくるだろうか?或いは仕事で忙しくて電車の中ででも書類整理をしなければならないような時に、果たして自分の視線がどうなっているか気になったりするだろうか

 病気だったら、いつ、どんな時でも症状が出て来なければおかしい筈なのだが・・・・
何か変ではないだろうか?何なんだこの心の病というものは・・・・・?そういう事にも余裕ができたらちょっと注意を向けてみて頂きたいのだ。


自分で不安に執着している 

 例えば電車に乗っている時、何か頭の中を占めている問題がある時は、決して周囲の人々に恐怖心を覚える事はない。そもそも自分に不安障害がある事を忘れてしまってさえいる。しかしヒマでぼんやりとして「嗚呼またキョドりそうだなあ」などという考えが浮かんでしまうと本当にキョドる。これは一体どういうわけだ?

 というのは、つまり結論から言えばそれは、自分でその不安にしがみついてしまっているという事になる。実はこの手の不安障害は自分で悪化させているケースが多いのだ。信じられずに驚かれるかもしれないが、病んでいる方はよく自分の胸に聞いてみて頂きたい。心当たりがあるのではないか?

 だから、対人恐怖症の場合は人混みや人前で「嗚呼またキョドりそうだ」という不安な思いが浮かんできたら、その思いにしがみつかないように注意する必要がある。つまりその思考を「ハロー」と受け入れ、直ぐに「グッバイ」手放す。手放すとは消えていくのを観る事が必要だという事になる。

 不安にしがみつくとまたカエルのヘソの事を考えるように自分の姿を妄想し、それで人々に傷つけられるような恐怖が生じると、身を守ろうとしてまた皆んなからどう思われているかセルフイメージをする。そしてまた・・・・とカエルのヘソみたいなものの事を考えて止まらない堂々巡りに陥る。そうなったら大変、心は疲弊し、衰弱してしまう。

 だから不安が消えたらそのままにして、あとは追いかけない。次に不安が浮かんできても「ハロー」「グッバイ」を繰り返す。決して抑圧せず、不安を次々と受け流す。 

 抑圧すると首筋がパンパンに張ってきて頭がのぼせてくる。首筋の張りは抑圧の危険信号だ。とにかくリラックス。首筋が張ったらよくマッサージする。決して力んでそれをやってはならない。下手すると他の所を傷める。

 あるいはずっと見張られ続けていたため、人前に出るとどうしても「誰かに見張られている」ような気がして仕方ない。そういう時もその気持ちに気づき、受け入れ、消えるのを観る。そうする事で自分の事をアレコレ考える事は止める事が出来る。

 あとは、いつでも「今」の瞬間にいる事を心がけて、マインドフルにしている。心の行き先はコントロールせずに心が向かった先々を観察する。それもまた心に妄想するヒマを与えない。それでもまだキョドるようだったら、周囲の人々にメッターを送ってやってはどうだろう?

 瞑想に熟練してくると「また不安になりそうだ」などと妄想する時の意志が見えて来る。そうなったらその意志を観察するだけで妄想をストップする事が出来るようになる。するともうこっちのもので、怖いものは無くなる。もう恐怖に怯えて過ごす事は無くなるのだ。凄い事だ。だから慣れてきたらその辺りを観察するのも面白い。

 しかし、それにしてもこの恐怖というのは何処から来るのだろう?一体何を恐れているのか?どういう時に起こって来るものなのか?落ち着いてきたら今度はそういう探求もしてみて頂きたい。

 この恐怖は対象を受け入れている時にも起こって来るか?心の行き先をコントロールしなくても起こって来るか?では仏・法・僧に帰依している時でも起こって来るのか?或いは剣豪宮本武蔵の天下無敵の心構え「我以外皆師なり」と思っている時でも起こって来るものなのか?さあ、何を恐れているのか?探求への興味は尽きない。



2, パニック障害の観察 


シュエウーミンには修行者のお世話をしてくれる優しい尼さん達もいる 


 宗教学者の中沢新一教授のチベットでの修行の体験談を書いた「チベットのモーツァルト」の中に、こんな感じの一節があった。今は手元にその本が無いので憶えているくだりだけちょっと書いてみると、修行を始めて7日目、教授が頭上に観想したヴァジュラ・サットヴァか何かに向かって「ヘック、ヘック」と飛び込むイメージをしていたら、本当に身体から心が抜け出し、体外離脱したのだという。

 教授は凄い事が起こったと思い、早速その事を師であるラマ僧に報告した。喜んで貰える事を期待していたのかもしれない。しかしラマの反応はそれに反して「何だそんなもの」みたいな冷淡なものだったという。教授はせっかくの凄い体験をその様に無下に扱われて落胆してしまった。

 するとラマは「そんながっかりするなよ、まあ、これでも飲んで」とお茶をいれてくれた。教授がそれを飲もうとするとすかさずラマは茶碗を指して「それは何だ?」と質問した。教授が「茶碗です」と答えるとラマは「何故それが茶碗だと言える?」と突っ込んで来た。教授はまた「お茶を飲む物だからです」と答えた。

ラマは更にまた「お茶を飲まなかったらどうなる?」と突っ込んだ。とうとう答えに詰まった教授。困っているところにラマは更に「お前が名前をつけて実在のように呼んでいるものなど、単なる条件の寄せ集めに過ぎないのだ」と言った。

それを聞いた教授は、突如として不安のどん底に落とされるような思いがしたという。

 この時の不安とは一体どういうものだったのだろう?

 前述のソシオパスさんとか、或いは自己愛性パーソナリティー障害を持つ人とか、アスペルガー症候群の人々もそうだが、彼らの脳を調べてみると、どうも普通の人々とは違った機能の仕方をしているの事が判るのだという。「扁桃体が機能していない」とか、そんな専門的な事を言われても素人には何が何だかサッパリ判らないが、まあ簡単に言えば普通の人々とは思考回路が違っているという事だろう。

 かつて筆者の身近にいたソシオパスの例で言えば、彼は物事を表面的にしか見れず、人の言った事を何でも額面通り受け取る奇妙な言動をとっていた。

 例えば彼は地方出身で田舎者コンプレックスが強く、都会人っぽくなろうとしていたのだが、その方法が異常だった。というのも、彼は「都会人」というものは「スレた人」という意味だと受け取っていたからだ。そして「田舎者」とは「人の良さそうな人」と受け取っていた。だから都会人っぽく振る舞おうとして彼は、わざとスレたような事ばかり言っていた。誠実な態度を見せようものなら直ぐ「うー田舎臭え」と言われてしまった。

 普通の人は「都会人」と言えば「品の良い紳士的な人」とか「洗練された言動」とか「ファッションセンスが良い」などと思っているのだと思う。確かに彼の言う事もわかるが、それが「都会人」なる言葉の意味だとは到底思えない。

 また、彼はカッコイイとは「アメリカ的」という意味に受け取っていた。だから彼は映画を観るにも音楽を聴くにもアメリカのものしか受け付けなかったし、小説もアメリカのものしか読まなかった。スポーツも当然アメリカのものしか観なかった。アメリカ人でも日本のアニメが好きな人や武道や禅をやっている人がたくさんいるのだが、そこまでは考えが及ばないようだった。

 もし彼に日本の音楽を聴かせたり、映画に誘ったりすれば「うっダセー」と凄く嫌な顔をされた。カッコイイ奴は何処の音楽を聴いても何の映画を観てもカッコイイと思うのだが、彼の考え方は違っていたのだ。彼の「カッコイイ」は性格の事ではなく「カッコイイ事をやってる人」という意味だった。

 だから彼は普通の人々が言うカッコ良さ、例えば「あの人、気前良くてカッコイイ」とか「爽やかでカッコイイ」などといった話が理解出来なかった。そのため飲み会でみんなに奢ってくれたリッチマンを「カッコイイ」と皆んなで賞賛していても「全然カッコ良くねーよ、演歌ばかり歌ってたじゃねーか」と一人反発していた。

 それ以外にも良識が欠落していたり、自分の置かれている立場を把握出来なかったりして、かなり奇妙な思考回路を持っていたため、彼と話していると頭が混乱してきて何が何だか判らなくなり、ラマに突っ込まれた中沢新一教授のように不安のどん底に突き落とされた。

 瞑想修行がある段階まで行くと、全ての物事は実体など無く、条件の組み合わせから成る現象である事がチラチラと見えてくる。丁度中沢教授がラマに言われていた事が判ってくるのだ。すると指導者は必ず修行者に「今どんな気持ちだ?」と聞く。つまりそういう現実が見えてくると、それまで信じていたものが幻想であった事が判ってきて恐ろしくなるからだ。この時はまさに不安のどん底に突き落とされるような気持ちになる

 人格に障害があり、脳が正常に機能していない、言葉を額面通りに受け取る人々と話していて不安になるのは、心の中の言語を司る機能の「サンニャー」(想)がパニックに陥り、麻痺して働かなくなってしまって、チラリと現実が見えてしまい、それで怖くなるような気がする。その時の不安と瞑想で幻想を超える時の不安とは同じものだからだ。ではそんな時はどうしたら良いのだろう?


自分で不安にしがみついている 

 難しい言葉で言えば「存在の不安」という事になるこの不安は「自分というのは存在するのかどうか?」というタイプの不安であり、お金が入れば解決する不安などと違って解決に困難を極めるため、どんなに不安であっても誤魔化して生きるしかない。存在の真相を知るまでは無くなる事がないのだから。一番辛いのはその事だ。

 だから一度この不安を体験すると、あの辛さを二度と味わいたくないという激しい拒絶感にかられる。そしてちょっとでも不安な事があると「また来るんじゃないか?」と必要以上に慌てふためいてしまい、問題を大きくしてしまう。実際には空腹感ぐらいしかないような些細な感覚でも「あっ!また来た!」と大袈裟に動揺してしまうのだ。

 結論から言えば、これもまた自分で執着してしまっている事になる。つまり「また大きいのが来るぞ!」という大袈裟な不安に、自らしがみついてしまっているわけだ。そしてまたカエルのヘソのような事を考える堂々巡りに陥り、疲弊してしまう。しかしそこには救いがある。他人がやっているならともかく、自分でやっているのだから止める事も出来るのだ。

 では、どうやって止めるのかと言ったら、これもしがみつかないように受け流すしかない。心の中に不安や恐怖のエネルギー、つまり煩悩が生じて来たら、それを抑圧する事なく「ハロー」と受け入れる。すると煩悩は消えていく。それに気づいたからだ。気づきの智慧は煩悩よりパワーが強いので、煩悩は消えてしまうのだ。

 この時に無理に消してはならない。「グッバイ」と自然に消えるのを見届けるのがポイントだ。そうする事が心の中の不安・恐怖のエネルギーを放電している事になる。そうやって次々と不安や恐怖を「ハロー」「グッバイ」と受け流す。

 その不安や恐怖の感情とともに、そこから発生してくる想念についても同じ様に受け流す。不安でザワザワしている時はどんな想念が出てくるか?恐怖におののいている時はどんな想念が出てくるか?巻き込まれないように受け流す。

 最初のうちはまだ恐怖で消えるのを見届ける事が出来ないかもしれない。そんな時はEMDRやバタフライ・ハグなどを使う方法もある。しかし必ず消える確信を得ると、もうそういうものに依存しなくても平気になり、心の中をどんなに不安がよぎっても、受け入れては手放す事が出来るようになる。

 例えば電車に乗って「嗚呼またパニックに陥るのではないか」という不安がよぎったら、直ぐ「あっ来た、ハロー」と受け入れておいてからその不安に手を触れず、消えてきたら「グッバイ」と手放す。それに熟練してもう執着は止められるという確信を得ると、もう何が起こっても大丈夫。

 しかし、不安がよぎったら直ぐに気づくためには、いつでもマインドフルに過ごしているしかない。辺りの景色に気を取られていたりすると、肝心な時に気づけず、いつものお決まりのパターンにハマって、また心臓が口から出てくるような激しい動揺に揺さぶられなければならなくなる。そんな目に遭うよりは、疲れていてもボンヤリする事なく、気づいていた方がずっとマシだ。

 そして熟練してくると「不安になりそうだ」と自らを苦しめるような思考をしようとしている自らの意志にも気づく事が出来る。そこまでいけばもう何が起こっても平気だ。不安が生じる前に止められる。だがそのように心の中には自らを苦しみに向かわせるようなフザケた事を企てる部分があるのだ。そんな奴らにナメられてはならない。

 自らを惑わせ続けて止まないもの、その正体やいかに?心の中の幻覚剤!侮ってはいけない!あなたは幻惑されているぞ!という事で今度は新たなる探求が始まる。

 そういう事で、ちょっと余談になるが、人前でキョドったり、人混みで不安になったりする事に対してこういう瞑想をやったり、様々な心理療法を試してみたりしなければならないのは、我々が日本人だからだ。

 もしミャンマー人がお寺に行って、長老たちにそんな風に苦しんでいる事を相談しても、長老たちは「そんな時は仏・法・僧に帰依しますって言えば良い。そうすれば治る」としか言わない。素っ気無いようなアドバイスだが、実は仏教徒にはこれが一番いいのだ。だから仏教を知っている人は実際に試してみてはどうだろう?5秒で出来る。本当はこれが一番効くのだから。
 
 「仏・法・僧に帰依します」不安になったらまずこれを。

 まあ「進歩」した物事の考え方の上に立つ人々というのは、心の中も大変な事になっているものだ。



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  最終更新日 2023.12.31

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