ゴエンカ師が1995年に一時帰国を許された際にシュエウーミン・セヤドーを表敬訪問した時の様子 |
瞑想センターでトラブルを起こさないための心得
ミャンマーの戦後の仏教事情については、だいたいご理解いただけた事と思うが、では今度はそこへ行って実際に修行する場合に注意しなければならない事について説明させていただきたい。
ミャンマーにはマインドフルネス瞑想をはじめとする様々な瞑想流派があって、それがお互い対立し合い、宗教戦争状態になっている。
そこへ行って修行するという、いわば戦場に出かけるような真似をするわけだから、ヘタすると「敵の回し者」のように思われて、瞑想センターから追い出される事もありうる。
だから修行に行くにあたってはその対立理由の事をよく知っておかなければならない。
まずミャンマーの瞑想センターには、戦後に登場した新しいスタイルをとる所と、昔からやってきた伝統的スタイルをとる所との2種類ある事をご理解いただいた。
新しいスタイルの所はスンルン式、モゴ式、マハーシ式、テーイングー式で、伝統的スタイルの所はゴエンカ式、パオ式、シュエウーミン式という事になる。
それをここでは判りやすく、新スタイルを「生滅観察派」と呼び、伝統的スタイルを「非生滅観察派」と呼ぶ事にしたい。
それで修行者がミャンマーに行ってもずっと同じ瞑想センターでだけ修行するのなら何も問題はない。
しかし大概の瞑想センターは滞在期限が設けられているので、長期で修行したい人は期限が切れたら違う瞑想センターに移らなければならなくなってくる。
あるいは様々な瞑想法を試してみるために、あちこち遍歴しようと思っている人もいるかもしれない。
ここで注意を促したいのはそういう人たちに限られる。
その遍歴も同じ生滅観察派のセンターからセンターへ、あるいは同じ非生滅観察派のセンターからセンターへ移るのなら何の問題もない。
例えばよくあるのが、マハーシ式のパンディタラマ・シュエタンゴンで毎年恒例の年末年始スペシャル・リトリートに出て足の痛みの生滅の観察について覚えるパターンだ。
通常マハーシ式では足の痛みの生滅の観察は任意であって強制はしない。足の痛みに興味が出た人にだけ指導者が「では無常を観察しなさい」と教える。
だから足の痛みに興味を示さない限りは指導者はその事については何も教えない。
だがこのパンディタラマ・シュエタンゴンだけはそれが義務付けられている。
だから外人でもどんどん結果を出す。
そのためスペシャル・リトリートには毎年200人以上の外人が参加する。
しかし最初のうちは外人たちは何故結果を出す人がいるのか判っていないから、足の痛みなど誰も観ようとしない。
だがそのうちリトリート参加者の中で足の痛みの生滅を観察していて凄い体験をする人が出てくる。
ある人は足の痛みと一体化してジャーナに入った。
ある人は痛みが瞬間瞬間生滅しているのが見えてきて渴愛が落ちて無我を悟った。
ある人は生滅が1秒間に何万回も繰り返されているのが見えてきて、パラマッタ(究極の現実)という分子やら原子やら更に細かい波動のエネルギーの世界を体験し、心の本性である宇宙の法則(ダンマ)にたどり着いた。
そういう人々を目の当たりにしているうちに修行者たちは足の痛みの生滅の観察の大切さをはっきりと理解するようになる。
そして自分も本気で集中力を磨いて生滅をしっかりと観察出来るようになろうと張り切る。
やる気のない人にとっての2か月間のリトリートはとても長く感じられるが、燃えている人にとってはあっと言う間だ。
2か月やってもそのような体験を出来なかった場合は、他の所に移ってその修行を続けようとさえする。
今度はもう足の痛みの生滅の観察に専念したいからマハーシ式なんてじれったい事はやってられない。それに専念するにはスンルン式がいい。
という事でスンルン式に移る。
しかしスンルンでは10日間リトリートしかやってないから、10日間でジャーナを達成出来なかった場合はまた他へ移らなければならない。そうなるともうテーイングーしかない。
足の痛みの生滅を観察すると凄い体験が出来ると判っているから、9時間結跏趺坐を組んだって全然へっちゃらだ。そしてテーイングーで3か月間、1回9時間の座る瞑想をし続ける・・・・・
マハーシ式からスンルン式へ、そしてテーイングー式と、実はこれがよくある移動のパターンで、何故か中国人がこのパターンにハマる。
そしてこのパターンであれば何の問題もない。これは同じ生滅観察派のセンターを回っているだけだから場所は違えどやっている事は同じだ。
しかしこれをミャンマーの瞑想事情をよく判っていない人がやるとヘマをする。
そんな時に生滅観察派から非生滅観察派のゴエンカ式やシュエウーミン式に移ってしまうのだ。そうなったら大変。さあ、どうなるか?というと。
非生滅観察派では足が痛くても「痛み」とは観ない。
ましてや「生・滅」だとか「無常」なんて物事をいかにも教義に合わせて解釈したような見方はしない。
その感覚を概念抜きでありのままに観ようとする。
「ん?ちょっと待って、概念って何?痛みが概念なの?」いきなりそんな事を言うとそう思う人もいるかもしれない。だが結論から言えばそういう事になる。
痛みというのは概念であって実際には存在しない。
だが最初のうちはそんな事信じられないのが当然だ。
だから指導者はこうアドバイスする。
「ではその時の感情はどうなってる?感情と感受の相関関係を観てみてはどうかね」と。
そして「痛い」と思った時と思わなかった時の違いもしっかりと観ておくよう課題を与える。
更に痛みだけでなく「美味しい」とか「不味い」とか「臭い」とか「キモい」とか「イカす」とか、そういう感受全てにおいてそのように観察して次の面接指導に報告するよう言い渡す。
そうやっているうちに修行者はそのような感受というものは実在ではなく自分でそういう風に観ているだけだという事に気がついてくる。
これはひとつの智慧だ。小さな智慧には違いないが、このような智慧を積み上げて大きな智慧にたどり着く。
日本の禅では公案を「厶ー」と唸って思考を吹っ飛ばしながら物事をありのままに観ようとするが、こちらは概念である事を理解する事で概念に巻き込まれずに観ようとする。
こうして観察を続けているうちに、いずれ目の前に丸出しの「無」に気づくかもしれない。
こういうやり方が本来の伝統的なヴィパッサナーなのである。
それなのに観察を放棄して感受に集中・没頭してしまうなんて信じられない。
だからこちらの人々は生滅観察派の人々の事を「何考えてんだかあいつらは」と思っている。
そんな所へノコノコ足の痛みの生滅を観察しに行ったらどうなるか?当然そのやり方を否定されてしまう。
「痛いとかそういう概念を外して観察するように」と指導者に言われてしまう。
「生・滅」やら「無常」やらについても同様「そんな色メガネ外して観なさい」と言われる。
そこまで言われると生滅観察派から移ってきた修行者は驚く。
そして「生滅も無常も概念じゃないでしょう!?真理ですよ」と指導者に喰ってかかる事になる。
しかし指導者は言う「生滅も無常もあなたがそう観ているだけなんですよ」と。
唖然とする修行者。
そして「何で生滅や無常が概念なんですか!?あんた頭おかしいよ」とキレてしまう。
なぜなら彼はそれまで生滅観察派の指導者に「キミは生滅する様子を観察して無常を悟ったんだよ」と言われてきているからだ。
それでも非生滅観察派の指導者は「目を覚まして概念を外して感受をありのままに観察しなさい」としか言わない。彼に気づきの智慧を開発してもらいたいからだ。
だから修行に行くにあたってはその対立理由の事をよく知っておかなければならない。
まずミャンマーの瞑想センターには、戦後に登場した新しいスタイルをとる所と、昔からやってきた伝統的スタイルをとる所との2種類ある事をご理解いただいた。
新しいスタイルの所はスンルン式、モゴ式、マハーシ式、テーイングー式で、伝統的スタイルの所はゴエンカ式、パオ式、シュエウーミン式という事になる。
それをここでは判りやすく、新スタイルを「生滅観察派」と呼び、伝統的スタイルを「非生滅観察派」と呼ぶ事にしたい。
それで修行者がミャンマーに行ってもずっと同じ瞑想センターでだけ修行するのなら何も問題はない。
しかし大概の瞑想センターは滞在期限が設けられているので、長期で修行したい人は期限が切れたら違う瞑想センターに移らなければならなくなってくる。
あるいは様々な瞑想法を試してみるために、あちこち遍歴しようと思っている人もいるかもしれない。
ここで注意を促したいのはそういう人たちに限られる。
その遍歴も同じ生滅観察派のセンターからセンターへ、あるいは同じ非生滅観察派のセンターからセンターへ移るのなら何の問題もない。
例えばよくあるのが、マハーシ式のパンディタラマ・シュエタンゴンで毎年恒例の年末年始スペシャル・リトリートに出て足の痛みの生滅の観察について覚えるパターンだ。
通常マハーシ式では足の痛みの生滅の観察は任意であって強制はしない。足の痛みに興味が出た人にだけ指導者が「では無常を観察しなさい」と教える。
だから足の痛みに興味を示さない限りは指導者はその事については何も教えない。
だがこのパンディタラマ・シュエタンゴンだけはそれが義務付けられている。
だから外人でもどんどん結果を出す。
そのためスペシャル・リトリートには毎年200人以上の外人が参加する。
しかし最初のうちは外人たちは何故結果を出す人がいるのか判っていないから、足の痛みなど誰も観ようとしない。
だがそのうちリトリート参加者の中で足の痛みの生滅を観察していて凄い体験をする人が出てくる。
ある人は足の痛みと一体化してジャーナに入った。
ある人は痛みが瞬間瞬間生滅しているのが見えてきて渴愛が落ちて無我を悟った。
ある人は生滅が1秒間に何万回も繰り返されているのが見えてきて、パラマッタ(究極の現実)という分子やら原子やら更に細かい波動のエネルギーの世界を体験し、心の本性である宇宙の法則(ダンマ)にたどり着いた。
そういう人々を目の当たりにしているうちに修行者たちは足の痛みの生滅の観察の大切さをはっきりと理解するようになる。
そして自分も本気で集中力を磨いて生滅をしっかりと観察出来るようになろうと張り切る。
やる気のない人にとっての2か月間のリトリートはとても長く感じられるが、燃えている人にとってはあっと言う間だ。
2か月やってもそのような体験を出来なかった場合は、他の所に移ってその修行を続けようとさえする。
今度はもう足の痛みの生滅の観察に専念したいからマハーシ式なんてじれったい事はやってられない。それに専念するにはスンルン式がいい。
という事でスンルン式に移る。
しかしスンルンでは10日間リトリートしかやってないから、10日間でジャーナを達成出来なかった場合はまた他へ移らなければならない。そうなるともうテーイングーしかない。
足の痛みの生滅を観察すると凄い体験が出来ると判っているから、9時間結跏趺坐を組んだって全然へっちゃらだ。そしてテーイングーで3か月間、1回9時間の座る瞑想をし続ける・・・・・
マハーシ式からスンルン式へ、そしてテーイングー式と、実はこれがよくある移動のパターンで、何故か中国人がこのパターンにハマる。
そしてこのパターンであれば何の問題もない。これは同じ生滅観察派のセンターを回っているだけだから場所は違えどやっている事は同じだ。
しかしこれをミャンマーの瞑想事情をよく判っていない人がやるとヘマをする。
そんな時に生滅観察派から非生滅観察派のゴエンカ式やシュエウーミン式に移ってしまうのだ。そうなったら大変。さあ、どうなるか?というと。
非生滅観察派では足が痛くても「痛み」とは観ない。
ましてや「生・滅」だとか「無常」なんて物事をいかにも教義に合わせて解釈したような見方はしない。
その感覚を概念抜きでありのままに観ようとする。
「ん?ちょっと待って、概念って何?痛みが概念なの?」いきなりそんな事を言うとそう思う人もいるかもしれない。だが結論から言えばそういう事になる。
痛みというのは概念であって実際には存在しない。
だが最初のうちはそんな事信じられないのが当然だ。
だから指導者はこうアドバイスする。
「ではその時の感情はどうなってる?感情と感受の相関関係を観てみてはどうかね」と。
そして「痛い」と思った時と思わなかった時の違いもしっかりと観ておくよう課題を与える。
更に痛みだけでなく「美味しい」とか「不味い」とか「臭い」とか「キモい」とか「イカす」とか、そういう感受全てにおいてそのように観察して次の面接指導に報告するよう言い渡す。
そうやっているうちに修行者はそのような感受というものは実在ではなく自分でそういう風に観ているだけだという事に気がついてくる。
これはひとつの智慧だ。小さな智慧には違いないが、このような智慧を積み上げて大きな智慧にたどり着く。
日本の禅では公案を「厶ー」と唸って思考を吹っ飛ばしながら物事をありのままに観ようとするが、こちらは概念である事を理解する事で概念に巻き込まれずに観ようとする。
こうして観察を続けているうちに、いずれ目の前に丸出しの「無」に気づくかもしれない。
こういうやり方が本来の伝統的なヴィパッサナーなのである。
それなのに観察を放棄して感受に集中・没頭してしまうなんて信じられない。
だからこちらの人々は生滅観察派の人々の事を「何考えてんだかあいつらは」と思っている。
そんな所へノコノコ足の痛みの生滅を観察しに行ったらどうなるか?当然そのやり方を否定されてしまう。
「痛いとかそういう概念を外して観察するように」と指導者に言われてしまう。
「生・滅」やら「無常」やらについても同様「そんな色メガネ外して観なさい」と言われる。
そこまで言われると生滅観察派から移ってきた修行者は驚く。
そして「生滅も無常も概念じゃないでしょう!?真理ですよ」と指導者に喰ってかかる事になる。
しかし指導者は言う「生滅も無常もあなたがそう観ているだけなんですよ」と。
唖然とする修行者。
そして「何で生滅や無常が概念なんですか!?あんた頭おかしいよ」とキレてしまう。
なぜなら彼はそれまで生滅観察派の指導者に「キミは生滅する様子を観察して無常を悟ったんだよ」と言われてきているからだ。
それでも非生滅観察派の指導者は「目を覚まして概念を外して感受をありのままに観察しなさい」としか言わない。彼に気づきの智慧を開発してもらいたいからだ。
つづきはこちら
迷走に関する情報はこちらからも⇓⇓⇓