ミャンマーの瞑想センターを遍歴しよう 〈後半〉

2020年4月7日火曜日

瞑想センター

t f B! P L

右端が若き日のパオ・セヤドー。ミャンマーの片田舎、モン州出身の2人の瞑想法が世界に広まる事になろうとは、この頃は誰も思っていなかった



トラブルは無知から


鈴木大拙が著書「日本的霊性」の中で平安貴族たちが詠んだ歌について何やら文句を言っている箇所がある。

どうやら彼は貴族たちが物事の移ろいゆく様子を見ては「無常」と呼んでセンチメンタルな気分に浸っている事が気に喰わないらしい。

そして「仏教で言っている無常とはそのような大雑把な変化の事ではない。刹那滅だ。指をパチンと鳴らす間に全ての物事は終わっているのだ」みたいな事を言っている。

この、指をパチンと鳴らす間に物事が数万回と生滅を繰り返している状態の事、つまり究極の現実の事をパーリ語でパラマッタと言う。

鈴木大拙は平安貴族たちの言う諸行無常やら、もののあわれやら、そのような大雑把な変化は無常とは認めなかったのだ。

これについてはシュエウーミンのウ・テジャニヤ長老も同じような事を言っている。

「木の葉は散りゆくから無常なのではない。枝にくっついている時点ですでに無常なのだ」と。だからつまりこの人たちは「パラマッタを見ないうちはまだ無常を知ったなんて言えない」と言ってるわけだ。

実はこの足の痛みがズキズキしているのを「生・滅」と見なす事は生滅している様子を観察しているのでも何でもない。

単に「自分でそのように見ているだけ」なのだ。

「無常」も同様、そのような知識、概念を当てはめているだけにすぎない。

だから生滅観察派でも通常はこれを無常とは言わない。

マハーシ式だけが無常と言っている。そして非生滅観察派のみならず生滅観察派からも突っつかれている。

孤立無援のマハーシ。

そもそも足の痛みがズキズキしているのを観て「生・滅」と思う人が世の中にどれだけいる事か?ましてやそれを更に「無常」と解釈する人などいるのだろうか?おかしいとは思わないだろうか?

例えばいつでも今の瞬間に留まろうとするならば、誰もが瞬間瞬間の変化、無常を感じるだろう。

こちらは本物なのだから当然だ。

わざと「生滅」と観ようとする必要がない。

しかし足の痛みの事は予め仏教の「生滅」やら「無常」やらの知識を持っている人でなければ、そのように認識する事など出来る芸当ではない。

ミャンマー人ならば子供の頃から無常についてみっちり吹き込まれているからいいのだが、外人はそうはいかない。

そもそもマハーシ式であったら本来足の痛みがズキズキしているのを観て「生滅」やら「無常」やらと思った時は「考えている、考えている」とラベリングしなければならないはずだ。

にもかかわらずその時ばかりは指導者もラベリングを忘れて「その生滅は無常だよ」と一緒になって言う。

何故かと言えばそのズキズキに集中しているうちに細かい生滅が見えてきて、一体化したり、パラマッタが見えてきたりするからだ。

しかしこれはおかしい。

つまり矛盾しているわけだ、筋が通っていない。

「ありのままに見る」と言いながら概念的に見る方法を混ぜてあるからおかしな事になっている。

余談になるが筆者はとあるマハーシ式の瞑想センターにいる時に面接指導でこの矛盾を突いた事がある。

筆者はその時、指導の長老に「足の痛みはどうやって観察している?」と聞かれたのだ。

それで別にジャーナに入ろうとは思っていなかったので「生滅とか無常とか考えたら直ぐ『考えている、考えている』とラベリングします」と答えた。本当にそうなのだからしかたない。

するとその時筆者のブロークン英語の報告をミャンマー語に通訳して長老に伝えていた優しいアメリカ人の尼さんが驚いて「ヒロさん!」と日本語で筆者の名前を叫んだ。

顔を見たら「な、何て事を・・・・・」と書いてあった。だが長老は平然としていて、ただ「ウム・・・・」とだけ言って大きく頷いた。そしてその時はそれ以上の事は何もなく面接指導は終った。

そこの住職が筆者をその瞑想センターから追い出したのはそんな事があってからひと月たった後の事だった。

こちらは先程の生滅観察派から非生滅観察派に移った修行者とは逆のパターン。

指導者は筆者の事を「せっかくいい体験させてやろうとしてるのに何考えてんだかコイツ」と思っている。

そうだ、矛盾だとか無茶苦茶だとか色んな批判を浴びてはいるものの、マハーシ式がこれほどまでに栄えているのはやはりその効果の絶大さの故にだ。

だからミャンマーまで行ったら何としてでも本当のマハーシ式に触れてきていただきたい。

話は飛んでしまったが、そのようなトラブルがミャンマーの瞑想センターでは日常的に起こっている。

シュエウーミンでも頻繁にある。そのため今はどうか判らないが、マハーシ瞑想センターでは非生滅観察派から来た人は入れなかったし、ゴエンカ師の所でも生滅観察派から来た人は断わっていた。

シュエウーミンでは指導部長自身がかつては「生滅観察者」だったので断わったりはしない。

そもそもミャンマー人というのは瞑想をやらせると一生懸命感覚の中で生滅している部分を探して観察しようとする人々だから、断わったりしたところでキリがないからだ。

しかしそういう人に会うたび説明するのも大変だ。

という事でミャンマーに行く人はこの辺りの事に注意して、トラブルの無いように修行してきていただきたい。

生滅を観察したいのか?ありのままに観察したいのか?集中したいのか?気づきたいのか?

自分のやりたい事をはっきり決めておく必要もある。

何しろ筆者は3回も瞑想センターから追い出された経験を持つ者だから、これからの修行者たちには何としてでもヘマだけは避けて貰いたいのだ。



迷走に関する情報はこちらからも⇓⇓⇓




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  最終更新日 2023.12.31

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