日本人に生まれていたら絶対相撲取りか落語家になっていただろうと思われるウ・テジャニヤ師匠、じゃなかった長老
シュエウーミン用語
シュエウーミン瞑想センターの指導部長、ウ・テジャニヤ長老は、変な事にこだわる事でも有名だ。例えばマインドフルネス瞑想の指導者のくせにマインドフルネスという言葉を使いたがらない。理由は「マインド(心)がフル(ぎっしり)みたいだから嫌い」なのだそうだ。だからかつてはその代わりに同じ気づきという意味の「アウェアネス」(AWARENESS)という言葉を使っていた。しかし今やマインドフルネス瞑想という言葉はすっかり世の中で定着してしまったので、否が応でも使わなければならないハメに陥っている。あとは、想念が浮かんだり消えたりするのを「生滅」と言いたがらない。生滅と言ったら他の瞑想センターのように生滅する様子を観察する人が出てくるからだ。だからシュエウーミンではこの場合「想念が去来する」という言い方をする。英語で「COME AND GO」だ。しかしまあ、これは判るか、別に変ではないな。
更に、通常は対象に意識を向ける時の意識の先っちょの事を「心の焦点」「マインドフォーカス」などと呼び、心の行き先をコントロールせず、行くがままにしておく事を「フリーフォーカス」などと言ったりするのだが、これを由としない。「フォーカス」などと呼んだら集中する事だと勘違いする人が出てくるかもしれないという事で、「心の注意点」「マインドアテンション」と呼ぶ。
そしたら心に行き先を選ばせる事は「フリーアテンション」と言う事になるのだが、これはあまり使わない。だから他の所では「心の焦点」と言うものを、ここでは「心の注意点」と言うので、何卒ご了承願いたい。
心の注意点の観察
そういう訳でこの心の注意点だが、マインドフルネス瞑想をする上では、これの行き先をコントロールせずに、これが行く先々の対象を観察する事が基本となっている。だからこの姿勢がつまり「受けて立つ」という態度になる訳だ。そして次々と眼耳鼻舌身意の六門上に生じてくる感覚を「OK」と受け入れてはまた心が移った先の感覚を受け入れる。そして何も対象が生じて来ない時だけ、鼻先やら腹部の動きやらで呼吸を観察する。あくまでもそれをメインの対象にする事なく。だからマインドフルにしているという事は、いつでも心の注意点を見失わずに一緒にいるという事にもなる。人と話している時でも、テレビを見ている時でも、決してこれを見失ってはならないのだ。
しかしそうは言ってもそれが簡単に出来るものならば誰も苦労はしない。そんな事なら世の中アラハット(阿羅漢)だらけになってしまっている。だからやはりここは注意点を見失わないための訓練が必要となってくるのだ。そしてこればっかしは日々の生活の中で少しずつ積み上げて行くしかない。
そして思考に巻き込まれている時というのは、この注意点がどうなっているのか?感情に巻き込まれた時というのは、この注意点がどうなっているのか?良く観察しておかなければならない。そしてこの注意点がアチコチ彷徨っている時はどんな心理状態でいるかも観察する事になる。
更に精神的に不安定な時、何かを望んで止まない時、夜も眠れないほど悔しがっている時、注意点はどうなっているか?こういう事もいつでも観察する事を忘れない。マインドフルネス瞑想をするのは何も座っている時だけではないのだ。
面接指導にはシュエウーミン用語が飛び交う
注意点はいつもあるわけではない
おっと忘れていた。最後にもうひとつあった。そうだ、ウ・テジャニヤ長老は驚いた事にメッターメディティション(慈しみの瞑想)を「やらなくていい」と言う。何でそんな事を言うのかというと、これは別に慈しみを軽んじている訳ではなくて、その理由として「怒りと慈しみとがバッティングすると良くない」という、心の中の事情を考慮したために、そのような方法を取るに至っている。つまりこれは長老が、修行者が感情を抑圧する事で、うつ病になったり、うつ病を悪化させたりしないようにと配慮しているためという意味だ。この辺りがシュエウーミンが「癒しの瞑想センター」の異名を取る所以でもある。シュエウーミンではそのように、指導者による修行者の心理状態に対しての配慮というものが行き届いているので、いわゆる瞑想難民というのは出ないと言っていい。
そして「四無量心は瞑想の進歩に応じて自ずと育つ」と言って、特には教えない。だが、四無量心が自ずと育つとはどういう意味なのだろう?筆者はまだ判っていない。しかし、今やっている「全ての対象を受け入れる」というテクニックは、確かに対象に対して何らかの四無量心を持っていなければ出来ない事のような気がする。では、そういう意味なのだろうか?それはまだ定かではない。
しかしどうでもいいが、心の注意点を見失わないようにしながら対象を受け入れるようにすると、注意点が消えてしまうのだが?これは一体どういう訳なんだ?ちょっとやってみて頂きたい。私だけがそうなのか?またややこしい事になってきたぞ。消えて何処へ行くんだ?それとも気のせいか?単に見失ってるだけなのか?どうなっているんだこれは?
もしかして、対象を受け入れている時というのは、何だか肚が据わっているような気がするのだが、丹田に行っているという事はないか?しかも注意点が無くなると、自分まで消えて無くなるような気がするのだが・・・一体何なんだ、この心の注意点というのは?
そんな感じで、また新たなる探究の課題が出て来たところで、ではその探究の結果は次回に発表する事にして、そんなマインドフルネス瞑想界の問題児、いや、異端児と言うべき、ウ・テジャニヤ長老のマインドフルネス瞑想のスーパーテクニックが満載されてある著作集はこちらからどうぞ。
ウ・テジャニヤ長老の著作
「侮れない煩悩ーDIFILEMENTS」
「AWARENESS ALONE IS NOT ENOUGH − 気づくだけでは不十分」
「DHAMMA EVERYWHERE - ダンマはどこにでも」