若い力士に胸を貸す横綱
どっしり構える
実は前回、雑念を受け入れると思考に巻き込まれずに済む事を発見してからというもの、以来ずっとそれが病みつきになってしまっている。それは雑念だけでなく、この方法を使えば様々な感情にも巻き込まれずに観察出来るし、他人と話している時でも相手の世界に引っ張り込まれずに、自分をキープしたまま冷静に対応出来る事が判ったからだ。
座る瞑想をやっていても気を抜かない限りは殆んど雑念や感情を受け流せるようになった。嫌な思い出、心配や不安が出てきても「うん」と受け入れれば、取り敢えずは消えて行くので、自分でも驚くほどの瞑想の進歩を感じている。
しかも、日頃は頭から溢れるほど氾濫する情報の中で、ストレスを溜めながら生きているわけだが、そのひとつひとつを受け入れる事で、自分を見失わずにいる事までもが可能になった。そして他人に対応する時も、いつも落ち着いていられるようになったので、人間関係も良くなったような気がする。
これがウ・テジャニヤ長老の言うところの「修行の恩恵」なのか?これを味わったら確かにマインドフルな生活にハマってしまわずにはいられない。そうなると今度は自ずと瞑想をする時の態度も変わってくる。これまでは瞑想となると「先手必勝」とばかりに対象となる雑念や感情に、まるで攻撃するかのように注意を向けていたのだが、今ではすっかり静観の構えに変わり、対象の方からこちらへ向かって来るのを待っているようになった。
つまり「さあ、何処からでもかかって来い!」そんな感じで対象を扱うようになったのだ。余裕というか、ちょうど相撲取りが練習で後輩に胸を貸してやる時の構えだ。胸を突き出して決して自分から向かって行く事はなく、後輩の技を何でも受け止めてやる。そして最後はヒョイと投げ捨てて力の差を見せつけてみせる。そんな感じの瞑想に変わった。瞑想の進歩は相撲の進歩に似ている。
対象に向かって小細工をしない
今までは心の何処かに瞑想中の対象の事を、何やら自分の都合の良いようにコントロールしようとする思惑があった。だから対象とぶつかったり、いじくり回したりしては巻き込まれるといった状態に陥っていたのだ。雑念や感情には、胸を広げてありのままを受け止めてやるといった、横綱のような度量の広さが必要だったにもかかわらず。
これは人間関係にも言える事で、他人のやる事に対してアレコレ口出ししてくる干渉的な人々というのが何処に行ってもいるわけだが、大抵やかましくて皆に嫌われている。私にもそういう部分があるが、自分がされてウザかったから、他人のやる事にはあまり口出ししないようにしている。
つまり、瞑想をやるとその部分が露骨に出てきてしまうのだ。そして対象に対して干渉しようとすると逆に巻き込まれ、干渉せずに受け止めてやると、対象との人間関係も上手くいく。別に人間じゃないけど。しかしこの雑念とか想念とか感情といったものは生き物だから、やはり人間と同じ扱いをした方がいい事がわかる。
だから干渉的な人がマインドフルネス瞑想をやっても進歩は望めないわけだ。そういう人はサマタに行けばいい。なんつって、ウザい奴をサマタの方に追っ払ったりして。だが、そんな我の強い奴はサマタをやってもジャーナには入れないっつーの。
しかもそういう人々というのは他人を利用する事しか考えてなくて、人を動かすために「オマエのためを思って言ってやってんだぞ」などと詭弁をぬかす。一度この方法が上手くいくと味をしめて、もう得意技のようにどんどん使いまくり、気がついたらとんでもない偽善者になっている。どんな良い話だろうがエゴはエゴ、こういう悪質な人物には気をつけなければならない。
また、こういうエゴの権化に限って「世の中は汚れている。美しいのは私だけ」と思っているものだ。だから他人を自分に都合の良いように仕立て上げようとする傲慢さを何とも思っていない。そしてエゴを「世直し」などと言い繕ってすらいる。他人をいいように利用するためには黒も白と言い立てるのだ。完全に異常心理の世界に入っている。彼らの詭弁に引っ掛かったら最後、洗脳されたような状態になって利用されまくり、搾取されまくる事になる。
まあ、大概こういう事を言う人々というのは、心に何らかの障害を持っている場合が多い。そして、こういう人々が何を言ってきても「OK」と一旦受け入れておいてから反応すれば彼らの異常な思考回路に巻き込まれずに済むというわけだ。
あるいは誰かに「三千円貸して」と頼まれた時も、一旦「うん」と受け入れておいてから「でも、アンタまだ先日貸した五千円返してないじゃん」と断ればいいし、「お茶しない?」と誘われても「うん」と受け入れておいてから「でも急いでるから」と断れば、角が立たずにやんわりといく事になる。
マインドフルネス瞑想をやっていると、こんな感じで日頃の行ないもどんどん変わってくる。そしてこれから判る事は、瞑想中の態度とは、日頃の行ないに影響を及ぼすものであり、日頃の行ないが瞑想中の態度となっていくという、日常世界と非日常世界との相関関係についてだ。
チャンコを食べる時
シュエウーミンの食事風景
食事は自分で好きなだけとっていい。右側が韓国スタイルの尼さんで左側が中国スタイルの尼さん。ついでに後ろにいる4人は左からチェコ人、チェコ人、セルビア人、アメリカ人。
相撲の世界では食事の事を「チャンコ」と言うそうだが、ありのままに受け入れるものはチャンコにも適用される。これは何を食べる時でもその味を「うん」と受け入れるようにするのだ。そうする事で、味覚に囚われてしまって気づきをおろそかにするのを防ぐ事が出来る。また、相撲の世界では食欲の事を「エビスコ」と言って、「エビスコが良い、悪い」と言ったりするそうだが、そのエビスコに流されてしまって気づきをおろそかにするのも防ぐ事が出来る。
そうする事で必要なものを必要なだけ摂取し、いつも健康でいられるようにもなれる。心を治める事は体を治める事にもなる。まあ、食事量を抑える話を相撲用語を使いながら言ってもあまり説得力はないのだが。しかしこのマインドフルネス瞑想を日常生活に持ち込むならば、思いっきり良い事だらけになる事だけは確かだ。ぜひこれからも生活の一部として実践していきたいと思っている。
そういう事で今回はマインドフルネス瞑想のやり方を相撲の稽古になぞらえてみたわけだが、これは私がいつも瞑想をする度にイメージしている事でもある。私は瞑想の時は対象となるものに対して「何処からでもかかって来い」と胸を突き出して構えているつもりになっているのだ。気分は相撲取りだ。しかし何で相撲取りなのか?この場合は侍の剣でも、空手の達人でも何でもいいだろうに?あっ!わかった、あの長老の体型から連想して・・・・毎日檀家さんから御馳走されてブクブク肥った・・・・
そんな感じで、マインドフルネス瞑想を実践する上での大事なポイントをわかり易く説明した本がある。ウ・テジャニヤ長老の著作集がそれだ。まだ読まれていない方はこちらからどうぞ。
ウ・テジャニヤ長老の著作
「侮れない煩悩ーDIFILEMENTS」
https://somjapan.blogspot.com/2020/01/dont-look-down-on-defilements.html?m=1
「AWARENESS ALONE IS NOT ENOUGH − 気づくだけでは不十分」
https://somjapan.blogspot.com/2020/01/awareness-alone-is-not-enough.html?m=1
「DHAMMA EVERYWHERE - ダンマはどこにでも」
https://somjapan.blogspot.com/2020/03/dhamma-everywhere.html?m=1
シュエウーミン方式について
ミャンマーにマインドフルネス瞑想が登場してきた経緯1「ミャンマーの瞑想の現状」
https://somjapan.blogspot.com/2020/03/blog-post_31.html?m=1
ミャンマーにマインドフルネス瞑想が登場してきた経緯2「2種類ある仏教の瞑想」
https://somjapan.blogspot.com/2020/03/blog-post_9.html?m=1
ミャンマーにマインドフルネス瞑想が登場してきた経緯3「ミャンマーの瞑想の歴史」
https://somjapan.blogspot.com/2020/03/blog-post_55.html?m=1
ミャンマーにマインドフルネス瞑想が登場してきた経緯4「新しい流れと伝統の維持」
https://somjapan.blogspot.com/2020/03/blog-post_71.html?m=1
ミャンマーの瞑想センターガイド
https://somjapan.blogspot.com/2020/04/blog-post.html?m=1
ミャンマーの瞑想センターを遍歴しよう
https://somjapan.blogspot.com/2020/04/blog-post_7.html?m=1