【実践!マインドフルネス瞑想6】分別妄想の色メガネ   

2020年7月18日土曜日

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日本でも有名なウ・ジョティカ長老


ウ・ジョティカ長老の行方 

 先日、ある人から「シュエウーミンに行けばウ・ジョティカ長老の指導を直接受けられるのか?」と聞かれた。ウ・ジョティカ長老は日本でも数冊の本を出版されているので、御存知の方も多い。色んな先生に付かれた方だが、最終的にシュエウーミン・セヤドーと出会い、シュエウーミン式で修行を完成されたようだ。

 しかし長老は、確かに一時期シュエウーミンで指導していたものの、現在は行方不明というか、一修行僧に戻って、何処か目立たない所で修行に励んでいるらしい。だから現在はシュエウーミンではウ・ジョティカ長老の指導を直接受けられる機会はない。しかし、長老の法話を録音したものは残っていて、毎日昼食後の11時半から12時半までの1時間、瞑想ホールにおいてそれを流しているので、全くウ・ジョティカ長老の教えが聴けないという訳でもない。但しそれはミャンマー語なので外人に理解出来るかどうか・・・・



法話するウ・ジョティカ長老 


ウ・ジョティカ長老の著書(日本語版)

魚川 祐司 翻訳
自由への旅「マインドフルネス瞑想」実践講義 ウ・ジョーティカ (著)





先手を出したのと受けて立ったのとの違い


 対象に向かって先に手を出した時と受けて立った時とでは、明らかにそれに対する反応が違ってくる事が判ってきた。先手を出して対象に注意を向けた時は、何やら対象の事について判断や解釈を加えたりするようだ。まあ、仏教用語で言えば「分別・妄想」と言う奴だが、そればかりかどうも「俺」がどうのこうの・・・と考えたりするような気もする。

 これは一体どういう訳だ?しかし受けて立った時、対象に注意を向けずに向こうから来るのを待っていた時は、あまり分別・妄想もしないし「俺」がどうのとも考えない。この辺の事は今後の研究課題にするとして、ではここでちょっとその分別・妄想というものについて整理してみたい。

 そもそも人というものは、世の中の事を見ているようでサッパリ見ていない。旨い物を食べているようで、ちっとも食べていないし、いい匂いを嗅いでいるようで、ちっとも嗅いでいない。固定観念やら先入観やらの概念、幻想に囚われてしまって、何も現実が見えなくなってしまっているのだ。

 例えばある人が「ビヨンセって綺麗だね」と言えば、ある人は「どこが?」と言って口論になったり、ある人が「納豆って美味しいね」と言えば、ある人は「不味い、大嫌い」と言って口論になったりする。こういうのは皆、綺麗だとか綺麗でないとか、美味しいとか不味いとか、自分で勝手な判断を下しているだけなのに、全くその事に気づいていない所から発生するツマラン争いだ。

 しかも自分で対象の事をそう見ているにもかかわらず、対象の方がそのような事になっているものと勘違いしてしまっている。こんな下らない事でいちいち争ってばかりいては人間関係に疲れてしまう一方だ。だから瞑想する時はそのような概念を全て外し、物事をありのままに観なければならない。諸悪の根源である固定観念やら先入観やらといった幻想を心の中から取り払わなければ、いつまでたっても心が安らかになる事はないからだ。

 ざっと囚われやすい概念を並べてみると、「善・悪」「優・劣」「正・誤」「勝・負」「大・小」「美・醜」「全・個」「有・無」「自・他」「生・死」「新・旧」「長・短」「高・低」「広・狭」「時・空」「貧・富」「僧・俗」「悟・迷」「上・下」「光・闇」「硬・軟」「始・終」「進・退」「早・遅」「縦・横」「男・女」「近・遠」「過去・未来」「有情・無情」「成功・失敗」「仏・衆生」「幸・不幸」「戦争・平和」「先進国・途上国」などなど、挙げればキリがないが、こういった概念の色メガネを通して物事を見ているからおかしな事になっているのが人間というものだ。



相対比の世界から脱出する 

 そして、もうお気づきだろうが、これらの概念は皆、相対比だ。つまり、何かと比べた結果として出てくる概念だ。では一体、それは何と比べて出てくるものなのだろう?また、これらの概念は人間が社会を作って生きていく上で必要不可欠な幻想でもある。抑圧して頭の中から吹っ飛ばしてしまっては人間同士のコミュニケーションがとれない。

 概念は概念、幻想は幻想として、囚われないように気づいていて、上手く利用していかなければならない。大変な作業だが、色メガネを通して物事を見ている事に気づきながら生きなければ人間関係も上手く築いていけない事になるのだ。人間は共同幻想がなければやっていけない生命体なのだから。

 そして、人間にはその事に気づける人々と、全く気づけずに幻想の中に没頭したまま一生を送る事になる人々とがいる。例えば上から目線で人を見る人物というのは「上・下」やら「優・劣」やらの幻想に囚われてしまって全く現実が見えなくなっている人だ

 世の中には幻想を本気にして「俺は偉い」と盲信して手が付けられない状態になっている困った人々が確かにいる。そしてこの手の人物というのは高慢な分だけ劣等感も強いから、周囲の誰かが表彰され、賞賛されたりすると、嫉妬してその人の足を引っ張ろうとする。また、何とかしてその人の価値を下げようと、貶したり欠点を粗探ししたりして突っつこうとしたりもする。

 そして、そういう奴に限って「自分より上」と見なした者にはヘコヘコするものだ。お世辞を言ったり胡麻をスッたり、下の者に対する横柄な態度から一転して卑屈な態度に変わる。まるで分別の固まりのような奴だ。そういう奴の事を英語では「ブラウン・ノーザー」茶色い鼻をした奴と言う。

 茶色い鼻とはつまり、鼻の頭の所に糞をつけた奴という意味らしい。どうして鼻の頭に糞をつけているかと言うと、上の者のケツの穴の臭いを嗅いだからだという。英語圏の人々は、偉い人にお世辞を言ったり胡麻をスッたりする事を「ケツの穴の臭いを嗅ぐような卑屈な行為」と見ているのだ。

 澤木興道老師の「禅談」という速記本の中に「若い頃、『悟りたい悟りたい』と言っていたら、先輩僧に『そんなに悟りたい悟りたいと言うのは、鼻の頭の所に糞をつけておきながら『屁元は何処だ?屁元は何処だ?』と言ってるようなものだよ」と注意されたというエピソードが載っている。老師は「どうも汚い話をする人だ」と思ったそうだが、それによって悟りとはどういうものなのかが判ってきたという。



澤木興道老師



 「速記本」というのがその本が発行された年代を物語っているわけだが、この時代には当然サングラスも無かった訳だから、概念を通して世の中を見る行為も「鼻の頭の糞の例え」で表現するしかなかった訳だ。だが、こうして見ると日本でも英語圏でも鼻の頭の糞の例えは同じようなタイプの人間を指している事が判る。何処の国においてもブラウン・ノーザーとは、分別まみれの、幻想に囚われた奴という意味になっているのだ。これは一体どういう訳だ?



ありのままの世界 

 また、禅で言うブラウン・ノーザーの意味はそればかりではない。もうひとつ「探しているものは遠くにではなく、目と鼻の先にある」という意味もある。禅宗の寺に行くと大概玄関の下駄箱の所には「脚下照顧」と書かれた看板がぶら下げられてある。つまりこれと同じ意味もある訳だ。

 こうして見ると禅では、悟りの世界というものを「あまりにも身近過ぎて気がつかないから、よく注意しておけ」みたいな感じで言っている事が判る。メーテルリンク風に言えばメルヘンチックに「幸せの青い鳥は目と鼻の先にいるよ」ってなもんか?しかし「糞」と「青い鳥」とでは例え話を創った作者の品位にずいぶんと差があるものだ。

 では、その目と鼻の先にあるものとは一体何の事なのだろう?というと、それがつまり色メガネを外して物事をありのままに見た世界という事になる。どうも一切の価値判断を止めて見える宇宙の実相というものは、あまりにも身近過ぎて判らないものらしい。それはつまり当たり前過ぎて判らないという事か?白隠禅師という人は「例えば水の中にいて、渇を叫ぶが如くなり」と言ったそうだが、やっぱりそういう事なのだろう。

 禅の公案で「趙州狗子」とか「隻手の音」とか言うのも、物事を概念無くありのままに見るための課題だ。そしてその解説書によると、世界の実相とは「皆んな同じもの」なのだという。皆んな同じものって、そこの窓もガラスも庭の木も街並みも、空も雲も太陽もそしてそれを見ているこの身も、皆んな同じものという事か?では宇宙全部丸ごと皆んな同じものなのか?何だそりゃ?そんなの全く判らない。

 そして禅ではそんな宇宙の実相を知るために、公案を「ムー」と唸って思考を頭の中から吹っ飛ばしながら対象を見るのだという。そうやって腕づく力づくで「ありのまま」を見ようとするのが禅だ。いかにも日本人のやりそうな方法だ。一方のマインドフルネス瞑想ではそんな事はしない。対象となる物事を見ながら考えたら、その考えた事に気づき、概念が浮かんできたら、その事に気づくだけだ。こちらは呑気な東南アジアの人々って感じ。だが、見ようとしているものはどちらも一緒だ。

 そしてその概念の無い世界、皆んな同じものの世界ってのは目と鼻の先にあって、あまりにも当たり前過ぎて気がつかないのだという。うーむ、自慢じゃないがサッパリ判らない・・・・・仕方ない、課題ばっかり増えていくが、これもまた次の課題としてやっていくしかない・・・・・マインドフルネスの世界は本当に奥が深い。



比較しない考え方 

 だが、そんな事を考えていたら、ある日知り合いの禅宗の尼僧さんから、彼女の尼僧堂での話を聞かせて貰う機会があった。その尼僧さんは僧堂での作務の時、掃除の点検係と、木魚を鳴らす「副堂」のお役を仰せつかったのだという。その時に堂長から「部品がひとつでも欠けたら時計は動かない」みたいなご教示を頂いたという話だった。

 それはつまり、どんなにつまらなく見える仕事でも、それが欠けたら全体が成り立たなくなるという事か?ではブラック企業が無くなったら世の中は成り立たなくなるのか?振り込め詐欺をする奴がいなくなったら世の中は成り立たなくなるのか?どうも判らない?

 しかしそういった犯罪ってのは確かに世の中の歪みから生じて来ているような気がする。そしてその堂長のように考えていると、相対比の世界から抜け出せる事も確かだ。そこには確かに「優・劣」も「善・悪」もないのだから。なるほど、これこそが禅の世界の発想というものか。比較まみれの世俗の考え方とは一線を画している。さすが堂長さんだと感心した。どうもこの辺に「ありのままの世界」への入口があるような気がするのだが、まだよく判らない。

 もしかして対象を観察する時に受け入れるようにしておけば分別・妄想が減るというのは、比較が減っているという事ではないだろうか?しかし私は一体何と対象とを比較しているのだろう?また、どうして受け入れる事でそれが減るのか?これまたよく判らない謎だが、そういう謎が多ければ多いほど探求心も膨らむというもの。そういう訳で私の修行はまだまだ続く。

 そんな感じで、ありのままの世界を見るヒントになればという事で、今回はウ・テジャニヤ長老の本ではなく、ウ・ジョティカ長老の英語での法話があるので、ご覧になりたい方はどうぞ。

https://m.youtube.com/watch?v=yde0Ccpfmpg
https://m.youtube.com/watch?v=ak0WH2Y7K4E
https://m.youtube.com/watch?v=RgRm4j43bbE

お勧め ウ・ジョティカ長老の著書

魚川 祐司 氏の翻訳
自由への旅「マインドフルネス瞑想」実践講義 ウ・ジョーティカ (著)
は瞑想関連書の傑作のひとつで一読の価値があります。


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ウ・テジャニヤ長老の著作物(無料日本語訳)

「DON'T LOOK DOWN ON DIFILEMENTS - 侮れない煩悩」入門編


「DHAMMA EVERYWHERE - ダンマはどこにでも」実践マインドフルネス


「AWARENESS ALONE IS NOT ENOUGH - 気づくだけでは不十分」マインドフルネスQ&A

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  最終更新日 2023.12.31

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