人それぞれの解釈
ミャンマーには日本語を勉強している学生が多い。
街を歩いていると腕試しによく話しかけられる。大体、
彼等は最初にまずこちらの様子をうかがっている。
そしてある瞬間に日本人と判ると「あっ!日本人ですか?」
と寄って来る。それがいつものパターンだが、
こちらとしては中国人やら韓国人やら似たような顔と格好をしたの
が沢山歩いているのに何故日本人だと判ったのか不思議な気持ちに
させられる。
どうやら彼等は独自の日本人判別法というのを持っているようだ。
中にはこちらの顔をジッと覗き込んで、いきなり「スケベ」
と言ってきた奴がいる。「何ィ?」とその男の方に目をやったら、
とたんに「アッ!日本人だ」と話しかけてきた。なるほど、
中国人や韓国人じゃそう言っても判らないから、
それが一番手っ取り早い日本人判別法だったというわけか。
しかしそんな失礼な事言ってないで「カッコイイ」
とかにしておいたらどうだろう?誰かに殴られてからでは遅いぞ!
いや、もしかしたらその男、純粋で実直そうな奴だったから、
誰か悪い日本人にハメられたのかもしれない。
だとしたら今頃痛い目に遭って先進国の世知辛さを思い知ったか?
それもこれも皆、日本で生きるための勉強・・・なのか?
そんなある日、私がとある瞑想センターに滞在していたら、
いつものように私の方を見て何やら話しかけたそうな顔をしている
20歳ぐらいの女性と会った。
私はまた日本語を勉強している学生だろうと思ってスマイルを作っ
て、何も言わずに目だけで挨拶した。その時、
私の傍らには一緒に歩いていたもう一人の日本人男性、
Mさんがいた。
そのMさんも彼女の事を良く知っていて「
あの娘といつも目が合うんですよ」と言っていた。
彼女はMさんに対しても、私と同じ態度をとっていたのだ。「
でも我々は親父だから若い娘は話しかけにくいのだろう」
私はそんな風に思った。だがM氏の方はその時「俺、
彼女と何か運命的な出会いみたいなものを感じるんですよね」
と言い出した。
「ハア・・・」開いた口が塞がらないとはこの事だ。「
何処の世界に50過ぎの禿げ親父に憧れる女子大生がいる」
思わずあまりのM氏のムシの良さに呆れた。だが、
顔を見るとM氏は本気だ。
何やらそのまま彼女の所に向かって行きそうな気配すら漂わせてい
る。思えばM氏はあまり女性と縁がないままこの歳まで来た人だ。
もしかしたら女性に見つめられて、
舞い上がってしまったのかもしれない。
「ドン・キホーテだ・・・」危険だ、
このまま勘違いで女子大生の所に突進して行ったら恐ろしい結末が
待ち構えている。いや、恥ずかしい結末と言うか・・・テロだ!
M氏は自爆テロを決行しようとしている。
何とか思い留まらせる方法はないか?
風車に突進したドン・キホーテ
しかし良く考えてみたら別にそういう女子大生がいてもおかしくな
い。
ちょっと変わった趣味を持つ人だって世の中には沢山いるのだ。
何も私の勘だけが正しいとは限らない。
そうだ、
私も彼女の気持ちを判ったつもりになっているが、
これはM氏の解釈同様、あくまでも勘に過ぎない。
そう思ってM氏を引き留めるのを止めた。
どういう結末になろうと、やめさせるだけの証拠がない。
やはりこういう事は本人に聞いてみなければ判らない。
勝手な推測、憶測だけで物を言って、
それが現実だと思い込んでいてはちょっと危ない。この場合、
病気の人なら「あの女、俺を見てバカにして笑ってるな」
と思うかもしれないし、シャブ中なら「
何処かの組織が送り込んだ偵察の女で、
背後に俺の命を狙っている奴らがいる」と思うかもしれない。
我々のやっている事も程度の差こそあれど、
彼等と全く同じ事なのだ。
我々に彼らの事をとやかく言う資格はない。
妄想の投影
人間は多かれ少なかれ、
そうやって想像をかぶせ合って生きている。
だから誤解やら何やらで人間関係は大変な事になっている。
そもそもそうやって推測したり憶測を立てたりするのは、
自分の知識や経験の範囲内での試みであって、
想像の範疇を越えている出来事については正確に推測する事は出来
ない。
M氏はミャンマーには日本語を勉強している学生が沢山いる事を知
らなかったため、あのように推測するしかなかったのだ。
更に、世の中にはよく「オマエ今こういう事思ってるだろ?」
とか「こんな事を考えてるんじゃないか?」「
あんな事を考えてるんじゃないか?」などと、
やたらと他人の考えている事を詮索する人々がいる。
やはり何らかの心の障害だと思うのだが、
果たして彼等の推測が当たっていたためしがあるだろうか?
そもそもああいう人々というのは想像力が足りない上に、
物事を表面的にしか見ないから、
何を見たって変な解釈しかしない。
こちらの事も全然的外れのキャラクターに当てはめて、
変な勘ぐりを入れてくるので迷惑この上ない。
だが本人はその妄想が全て当たっていると思っているのだ、
その根拠のない自信、盲信を持てるところが狂気と言えよう。
しかし、やはり我々は彼等の事をとやかく言えない。
口には出さないだけで、やってる事は彼等と同様の下手な推測、
解釈、妄想だけなのだから。
そんな訳でマインドフルネス瞑想をする時は、
もう二度とそんな見当違いな推測を巡らすのは止めて、
単に事実だけを見るようにしなければならない。
現実だけを見る
この場合はマインドフルネス瞑想という点から見たら、
私もM氏も妄想の世界にどっぷり浸かっているという事になる。
こんな時は単に「若い娘がこっちを見ている」だけで、
証拠のない推論は立てないようにするのが正しい。
例えば空から「カアー」という音が聞こえたら、
アレコレ想像を巡らせず、
ただ音が聞こえた事だけを確認しておく。
この場合重要なポイントとなるのは「聞こえている」のか?「
聞いている」のか?の違いだ。受動的聞こえたのか?
自分から音に寄って行って能動的に聞いたのか?
その違いを自分で判っておく必要がある。
そして、できれば聞こえただけの時と、
自分から聞きに行った時のリアクションの違いもちゃんと観察して
おく。そういうマメな態度で対象と接する事が、
マインドフルネス瞑想をする上で一番求められるあり方だ。
あとは、音を感知した事で生じてくるプロセス、
例えばカラスのイメージが心に浮かんだとか、
カラスについて考えたとか、
因縁に依って心身のプロセスが次々と自動的に生起してくるので、
それについても確認しておく。
この場合でも解釈も分析も何もせずに、ただ「
音を聞いたら想念が生じた、想念に依って思考が・・・」
と事実だけを見ていく。
自分を想像する
それから、他人の目を気にして、
他人からどう思われているか想像を巡らすのも、推測、
憶測の部類に入る。
他人の視点に立って自分の姿を想像する訳だが、
病んでいる人にはこれが一番有害な行為になるので、
注意しなければならない。もし、うっかりハマっていたら、
直ぐに今の瞬間に戻る。今にいれば妄想は出来ないのだから。
あるいは周囲の人々にメッター(慈しみ)を送ってやるのもいい。
ミャンマーには「他人の目が気になったり、
他人からの評価が気になったりした時は、
周囲にメッターを送りなさい」
という民間療法みたいな教えが伝わっている。
お婆ちゃんの知恵袋みたいなものか?
丁度日本で言う「しゃっくりが止まらない時は、
グラスの水を息継ぎしないで一気飲みしなさい」みたいな教えだ。
確かにそれをやると本当にウソのようにピタリと止まる。いや、
しゃっくりの事じゃなくて、
人の目が気になってしょうがない事が。マジで。
それから瞑想中に過去の事を思い出しても「これは俺」とか「
俺がやった」と解釈せずに、ただ「俺」
抜きで想念が生じた事だけを確認する。
車やら家やら彼女やらを思い出しても「俺のもの」
などと解釈する事も同様。そして「俺」「俺の」
をつけて物事を見た時と、
ただ物事を見た時とのリアクションの違いをよく知っておく事も大
切なポイントだ。
くれぐれも気をつけなければならないのは、
概念やら幻想やらを超えようとして、心を抑圧してしまわない事。
解釈したらその事に気づき、
イメージが浮かんできたらその事に気づく。それだけでいい。
そして今の瞬間に戻ればゴチャゴチャ解釈、
妄想しないで済むので、素早く「今」に戻る。
今の瞬間はいわば妄想からの避難場所だ。
こうして見ると人間というのは正常と言われる人も異常と言われる
人も、やっている事は大差ない。
違うのは自分の妄想を妄想と自覚出来るかどうかぐらいなものだ。
そうだ、ノーマルとアブノーマルを分けるものは、
そんな根拠のない自信、つまり盲信が強過ぎるかどうか、
マインドフルネス的に言えば智慧があるか?ないか?
ぐらいしかないのだ。
だからマインドフルネス瞑想で自分が妄想している事に気づくとい
う行いは、どんどん智慧を身につけ、
自らを正常と言われる方向に向けている、自分のためにもなり、
他人のためにもなる、
素晴らしい行いだと思って良いのではないだろうか?
少なくともこれをやっている限りは、危ない、
迷惑な人間になる事だけは避けられるのだから。
そして我々が気づけずにいる最大の妄想とは・・・・・・
その後M氏はどうなったか?というと、
ここでは「
だからちゃんと妄想を妄想と気づいていないと」としか言えない。
しかし見ているだけで恥ずかしかった・・・そういう訳で、
私の修行は、
その妄想から脱却して真の自己同一性を取り戻すまで続けられる。
まだまだ始まったばかりだが。