好きか?嫌いか?
人の好みは千差万別。あるスリランカの坊さんが私に尋ねた。「日本人は本当に生の魚なんか喰うのか?」と。生の魚とは刺身とか寿司の事だな。当然食べる。大好物だ。あんな旨いものないじゃないか。「イエス」だ。それ以外の答えはない。するとその坊さんは顔をしかめて「オー」信じられないというようなジェスチャーをした。
何だその顔は?あんな旨いものないのに。スリランカは海に囲まれてるから新鮮な魚が沢山捕れるだろうに勿体ない。「何で生の魚食べないんだ?」私の方こそ信じられないような気持ちになった。
また、ミャンマー人はみんなソースが嫌いだ。お好み焼きや豚カツにかけるソースが不味くて食べられないという。「何という変わった人たちだ」そう思うしかない。しかし彼らは激辛食品が大好物で、特に唐辛子を良く食べる。
私などは唐辛子をちょっと口にしただけでも舌がビリビリと焼けるように痛くなり、氷水で口の中を冷やさないと何も食べられなくなる。だが彼らは平気でそれを丸ごと何本もボリンボリン食べてしまうのだ。一体どういう舌をしているのか?しかし彼らにしてみれば「こんな旨いもの食べられない日本人って本当に可哀想だ」という事になる。
ミャンマー名物の唐辛子炒め
こういう例を挙げたらキリがない。敢えてURLは貼り付けないが、興味のある人は「ゲイ デブ専 熊毛」でググってみて頂きたい。これについても好きな人は好きなのだしこんな良いものないと思っている。或いは「女王様 黄金 奴隷」でもいい。人間便器の世界だ。「あんなもの食べるなんて!」その気のない者はそう叫ぶ。しかし好きな人は好きなのだ。一体何だろう?この好き嫌いというものは?
感情の色メガネ
「好き」というのはその対象となるものの事を心地よいと思っているに違いない。だからその感覚を見たり、聞いたり、味わったりする事にハマっているのだ。「嫌い」というのはその対象となるものの事を不快に思っている。だからもう二度とそんな感覚の事を見たり、聞いたりしたくない。
だが待てよ。ある人が好きと言うものを、ある人は嫌いと言う。しかし実際に感じているものは同一、同じ感覚ではないのか?同じものを見て、聞いて、味わっても、ある人は心地良いと思うし、ある人は大変不快に思う。これは一体どういう理由だ?
だから言える事は、快とか不快とかいう感覚は対象の事ではなくて、自分の感じ方なのだ。刺身が美味しいのでもないし、唐辛子が美味しいのでもない。人間の方がそう思っているだけなのに、勘違いして対象の方がそういうもののように思い込んでしまっている訳だ。それなのに人間たちはその事で言い争い、ケンカまでする。全く愚かな事だ。
そう思うと私はこれまでの人生、ずっとそんな感じで心理現象の事を物理現象のように思い込んで生きてきた。だからこの人生は錯覚だらけの人生だった事になる。何という恥ずかしい人生だ。若い人々はこんな風に人生を間違えないためにも、今のうちに錯覚を取り除いておいた方がいい。
心の中の幻覚剤
どうでもいいがこの好き嫌い、人によって随分違うのだが、一体何処から出てくるものなのか?
例えば次の写真、これだって好きな人もいれば嫌いな人もいる。どちらが好きか?と聞けば人それぞれ答えが違う。何でそんなに千差万別なのか?
セクシー系修行者
純朴系修行者
それでこの好き嫌い、やはり瞑想する時にもしっかり確認するようにしておく。自分がそのように感じているという事を心に留めておくのだ。更にこの好き嫌いは身体活動にも影響を与えている。一番好き嫌いが出るのが食事の時で、機会があったら一度好きなものを食べている時と、嫌いなものを食べている時との手の動きの速度の違いを比べてみて頂きたい。
しかもこの好き嫌いというのは固定されてなくて流動的で、例えば友人の家へ行って水を出された時には「何だよ?コーヒーじゃないのかよ・・・」などと不満を言ってしまうのに、マラソンで10キロぐらい走って喉がカラカラな時には「コーヒーと水とどっちがいい?」と聞かれても迷わず水を選ぶ。そして2リットルぐらい一気に飲み干してしまう。「こんな美味しいものない」ってね。凄い気まぐれ!一体何なんだ?この好き嫌いというものは?
仏教ではこの好き嫌いの事を「煩悩」という。日本人の多くは煩悩と聞くと「性欲」の事だと思って「煩悩がないと人生ツマラン」などと言い出すが、煩悩=性欲ではないので誤解のないように。
詳しく言えば好きが「貪」(貪り)という心的エネルギーで、嫌いが「瞋」(怒り)というエネルギーになる。それからもうひとつ、妄想やら気づかないやらの好き嫌いを発生させる原因となる「痴」(愚かさ)というエネルギーもある。
この貪、瞋、痴の3つの性質の心的エネルーが、眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官に働くから3✕6=18。そしてその18種の煩悩には過去のものと未来のものと現在のものとがあるからさらに18✕3=54。他人の感情が自分にも伝染るものなのかどうかは定かではないが、54に自他の2をかけて108と、全部で煩悩にはこの108種類があると言われている。
そしてこの煩悩は、我々生き物の心を幻惑し、現実を知る事から遠ざける働きをする。日本で言う「アバタもエクボ」とは貪の働きを示している訳だし「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とは瞋の働きを示している。人間はこれらの働きで、どんなものでも美しいと思って見る事もできるし、美味しいと言って食べる事も出来る。また、憎んだり嫌ったりする事も出来る。
幸せ一杯の人がミャンマーのこの南国の青空を見れば「わあっ!まっ青」と喜ぶが、前ページのドン・キホーテ親父が見ても「あまりにも蒼過ぎて哀しい」という事になる。その私から見た○○親父は「デブ専、熊毛好き」から見たら「超セクシー」という事になるし、一旦そういう事になったら髪型についても「人生経験を感じさせるカッコイイもの」という事になる。
これらはみんな貪、瞋の働きだ。貪のエネルギーは対象をいかにも素晴らしいもののように見せるし、瞋のエネルギーは逆に対象を醜い、汚い、憎たらしい、気色悪いもののように見せる。そして痴によって自分がそう見ているにも拘わらず、対象の方がそうなっていると錯覚する。
そしてこれらの煩悩の幻惑から逃れてありのままに現実を知るために行っているのが、このマインドフルネス瞑想というものだ。だから、判断・解釈をせず、好き嫌いをちゃんと確認しながら瞑想するという修行は、そのためにこそやっているものだという事をよくわきまえておいて頂きたい。
それでこの煩悩というものは、何処にあるのか?何処から出てくるものなのか?といった疑問もあるが、これらはまた今後の探求の課題にしよう。しかし何故かは判らないが、いつでも今の瞬間に留まり対象を受け入れると、あまり好き嫌いが出て来なくなるのだがどうしてなのか?ウム、ではこれもまた次の課題だ。
そんな感じで課題ばかり増えてしまうが、好き嫌いが少なくなるというのはいい事のような気がする。私の瞑想も少しは進歩しているのだろうか?それは定かではない。そういう事で私の修行はまだまだ続く。
では最後にこれは好きか嫌いか?(下の解剖動画)
仏教の修行のひとつでもあるので、じっくりと自分の煩悩を感じながらご覧ください。