【実践!マインドフルネス瞑想10】トラウマを観察する  

2020年8月7日金曜日

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他者を傷つける人々 


 「いつも誰かに見られているような気がする」そう他人に打ち明けると必ず「誰もオマエの事なんか気にしてないよ」と一笑に附される。だが、こういう人々はあまりにもサイコパスについて無知な人々だ。世の中には信じられない事に、こういうツマラン人間の一挙手一投足を、いつでもジッと見つめ続けてつけ入る隙を覗ってる奴らがいるのだ。

 2016年に東京の小金井市で起きたアイドルストーカー殺人未遂事件は、異常性格者が罪のない女性に一方的に嫉妬したあげくにナイフで凶行に及んだ犯罪と言われている。だがこの手のタイプの異常性格者が人を傷つけるのにナイフを使用するのは稀なケースだ。通常は言葉や嫌がらせで「敵」をとっちめようとするのが異常性格者というもの。

 彼らにとって敵とは嫉妬した相手。普通の人は他人に嫉妬しても「ヒガんだら尚更自分が惨めになるだけ」と、相手を讃える方に気持ちを持って行く。その方が嫉妬の炎を燃やすよりずっと心が楽になるからだ。

 だが異常性格者は自分がヒガんでいる事に気がつけない。だからその相手が自分を苦しめているものと思ってしまう。それで「そんな悪い奴はとっちめていい」と攻撃を仕掛ける。他人を傷つける事に何ら良心の呵責を感じない彼らは、相手が傷ついて立ち上がれなくなるまで徹底的に苦しめてやろうとする。しかし狡猾な彼らは決して自分が捕まるような事はしない。

 彼らは人を傷つけるためにはどのような態度をとり、どのような言葉を浴びせればいいのか、必殺のテクニックを普段から研究し、磨いている。そして他人を上手く利用するために相手のプライドを突き、弱点を突く訓練をしている。合法的に他人を苦しめる方法をあみ出すためならどんな苦労も惜しまない。そのような危険な人間たちが今も世の中を堂々と歩き回っているにもかかわらず、多くの人々は全く彼らに対して無防備でいるのだ。






傷ついた事は忘れない 


 筆者の中では小学校時代の遠い昔の思い出など、既に忘却の彼方へ消え去ってしまっている。それなのに4年生の時の思い出だけはしっかり沢山残っている。それは何故か?それは担任の女教師がかなり攻撃的な人で、傷つけられてばかりいたからだ。

 当時は全く知る由もなかったが、今から思えばモロに発達障害者であり、いつもソワソワ落ち着かず、カッカカッカと苛立ってばかりいた彼女は、子供たちが何かヘマをするたび容赦なく怒りをぶちまけていた。人を傷つける事など全く厭わず、その形相は鬼のようであった。

 その他にも心の中に残っている傷の多くは心に障害のある人々から受けた心ない言動ばかりだ。高校時代、部活で先輩から顔面パンチを喰らった事など今ではすっかり忘れ去り、久しぶりにその先輩に会っても「お元気ですか?今度飲みましょう」などと挨拶したりするのだが、良識なき人々の心ない言動というのは何年経っても忘れない。


瞑想センターで会った異常性格者 


 ミャンマーに来て瞑想センターで修行している時にも、心に障害のある人や、異常性格者から攻撃された経験は数知れない。ある瞑想センターには日本人のサイコパスがいて、いつでも私の日常生活の一挙手一投足をジロジロ観察していた。勿論私を突っつくために粗さがしに余念がなかったのだ。そのサイコは私にライバル意識を抱いていた。

 彼は食事中はいつも10メートルも離れた場所から私の様子を覗っていた。麺料理を三杯食べたと言っては「がっついてますねえ」と嫌味を言い「日本での生活に困窮したから此処にいるんですよねえ」と「食い詰め者」のレッテルを貼った。

 昼休みに掃除をしていれば「何でそんな事やってんですか今頃?誰も見ていない早朝にやって下さいよ」と私を偽善者扱いし、暑くて汗ばんでいると「加齢臭と混ざって生ゴミのポリバケツみたいな臭いしてますよ」と悪臭呼ばわりした。瞑想中にウトウトしていたら「何寝てんスか」と背中を突っついた。自分は一日中寝てるくせに。

 そんな感じでそのサイコさんは一日中、何をしている時でも何処かで私の事を観察していて、粗を見つけると速攻で攻撃してきた。そんな事が1週間も続いたら私の方もすっかり参ってきた。何をするにも何処かで彼が覗いているような気がして落ち着かなくなったのだ。

 食事の時などは大勢集まっている大食堂で「今日はアイツどこにいるかな?」と周囲を見回すクセがついた。彼の居場所を確認しておかないと不安で仕方ないからだ。そしてヘタな姿を見られないようにしないと後でまた何か言われる。

 そんな事をしていたら今度は坊さんから「キョロキョロするな」と怒られてしまった。「そんな事言われてもアイツが見てたら」そう思った瞬間、彼が遠くで怒られた私を見てほくそ笑んでいる姿が見えた。「嗚呼まずい、また後で突っつかれる」そんな感じでサイコさんに付き纏われているうちに、私はいつしかすっかりノイローゼ気味になってしまった。


サイコ恐怖症に陥る  


 瞑想センター内を歩く時はいつでもサイコさんと会わないように、彼の寄りつきそうな場所は避けた。それでも同じ宿舎にいるのだから完全に避ける事は出来ない。姿を見られた時には「また何か言われそうだな」と恐ろしくなった。兎に角何をやっていても悪く受け取って攻撃してくるのだからたまらない。

 最初はサイコさんとは友人のような態度で付き合っていたのだが、話をしていると急に彼の態度が変わったのだ。どうやら私に嫉妬したらしい。しかし何に嫉妬したのかはサッパリ判らない。そもそも最初は彼は紳士的な態度で私に接していたので、ちっともサイコさんとは思っていなかった。敵とみなすや態度を豹変させたのだからたまらない。彼らは自慢話に敏感だというが、何かが自慢に聞こえたのだろうか?

 いずれにしても、ここまで来たらもう修行どころではない。私は早々にそのセンターを出て別の所に移ろうとした。それであちこち見学して次に行くセンターを決めた。そんな感じで私の方がドタバタやっているちょうどその頃、何とした事か、サイコさんも同じ事を言い出したのだ。サイコさんも他に移る事にしたのだという。どうしてだ?というと彼はそこの面接指導のやり方に不満があって、もう二度と受けたくなくなったらしい。

 サイコさんの言い分はこうだった。「俺は瞑想で凄い体験をし、悟っている。しかしその体験をミャンマー語に訳して長老に伝えてくれる通訳女性のレベルが低くて俺の話を理解出来ない。だから俺の体験が長老に伝わらずサッパリ認められない」と。

 「悟ってるって誰が?ハア・・まあいいか出てってくれるんだったら」それで私はそのセンターを出ていく必要がなくなってしまった。移動の手間が省けて楽になった。しかしあの手の人々の自己評価というものは凄い。全く自分が判っていない。「悟ってる訳ねーじゃねーかアホ」と腹の中で私。この辺が彼らの一番病的な所だ。脳のその部分が機能していないのだろう。欠陥脳になっている。

 サイコさんが他の瞑想センターに移って行ったのはそれから2日〜3日後の事だった。彼は最後は指導者に対しても批判的になっていて「アイツは悟ってない」と、まるで自分が悟りの鑑定士か何かでもあるかのような偉そうな態度で文句を言っていた。そして私にも「あんな人に瞑想教わっても何にもなりませんよ。あ、レベルの低い所で満足している人はそれでいいのか」と悪態をつきながら瞑想センターを後にしたのだった。


破壊された心  


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 ウザい奴がいなくなってホッとしたが、それも束の間、それでもまだアイツが何処かでジッとこちらを見ているような感覚はなくならなかった。やっぱり外を歩けば誰かに冷たい視線を浴びせられるような、傷つけられるような気がして恐ろしい。また、彼から体臭の事を「生ゴミの臭い」などと言われたので、みんな口には出さなくてもそう思っているような気になって、一日5〜6回ぐらいはシャワーを浴びて石鹸で体を洗わずにはいられなかった。 

 瞑想していても彼から言われた言葉が頻繁に頭をよぎった。そしてその度にまた傷つけられるような気がして恐ろしくなり、ついついシャワールームに駆け込んでしまう。ちょっとでも脇が汗ばんでいると不安になった。また体だけでなく、臭いタオルで体を拭いたら体まで臭くなるような気がして、タオルまで頻繁に洗うようになった。どうも私は何らかの強迫観念に囚われているようだ。しかし自分で判っていても、心は次々と私に恐怖の幻覚を見せた。いつでも彼の声が頭の中で響いて止まらないのだ。

 そんな事になってしまった私はもう瞑想どころではなくなってしまった。他人の視線や評価に怯えて瞑想ホールにも行けない状態になったのだ。どうしたらいいのか?しかしそんな時でも修行者は、やっぱりその状態を観察するしかない。


恐怖心の観察 


 そこで私はそのサイコパスから傷つけられる恐怖を観察する事にした。まず他人から見られているような気がしたり、彼から言われた事が頭をよぎったりした時は「不快である」と気づいた。そしてその後にこみあげてくる強烈な恐怖感がある事に気づいた。「もう二度と傷つけられたくない」という叫びだ。だからまず不快の感受を感じ、受け入れて、強烈な恐怖感をよく体感するようにした。そうする事が恐怖感を放電している事になるという。

 それ以来毎日毎日「不快」「うわーもうあんな事言われたくねー」そんな感じで人と会うたび、外を歩くたび気づくようにしていた。そんな事を3〜4日も続けた頃だろうか、今度は自分が恐れて止まなかった傷つけられる恐怖が、実は自分でやっている事が判ってきたのだ。「また何か言われそうだな」という思い、恐怖の感情に自分で執着しているのだ。早い話、実は単なる連想なのに、自分で執着して事を複雑にしていた訳だ。何という事だ。こんな事もうやってられない。では執着を手放すにはどうしたらいいのか?

 仏教では執着とよく似た心の性質として「メッター」つまり慈悲の心があると説く。他者の幸せを願う心だ。しかしメッターの性質には欲愛と違って執着がない。そうだ、その恐怖の思いに執着しないためにはメッターを持って恐怖の思いを受け入れるしかないのだ。そんな感じで私は壊された心の修復のため、アレコレ僧院内でやり始めた。
 
 余談になるが、よくパニック障害の発作が出そうな時は芳香を嗅いだりするといいと言うような話を聞いたりする。これも同じ原理を使っている。つまりパニック障害の人が「嗚呼またパニックの発作が」と思った時に、その思いに執着してしまわないように、他のもっと心が好んで執着しそうな対象を用意する訳だ。それによって心は芳香の方へ行ってしまい、恐怖の思いに執着せずに済む。

 この場合は芳香でなくても、チョコレートを口に入れるとか、恐怖の思いよりもっと好きなものを用意すれば、心はそちらに行ってしまうのでパニックに陥らずに済む。要は不安への執着さえ止める事が出来れば何でもいいわけだ。不安、心配、恐怖への執着こそが発作を誘発する事になる。


自分自身の首を締める願望  


 そうやっているうちに今度は恐怖を生み出す自分の願望が心の底に横たわっているのが判ってきた。「他人から嫌われたくない、ナメられたくない」そういう願いがあるから他人の顔色をうかがい、他人の反応に一喜一憂させられて踊らされるハメになるのだ。更に「俺は偉い、完璧だ、美しい」みたいな錯覚もある。何だこりゃ?こんな現実離れした事を考えていたら確かに苦しい訳だ。

 また、他人から嫌われたり、ナメられたりする事を嫌がっていたら喰っていけないし、好きな事をやって生きていけない。そんな事を願っていたら何も出来ない。これは明らかに自分自身の首を締める願望だ。それに私のような者がプライドなんか持っていたら世の中を渡っていけない。なるほど、今まで人生が厳しいように感じられていたのはこのためだ。これはなんとかして考えを改めなくてはならない。

 私は好きな事にハマって生きている時が一番充実していて幸福感を覚える。世間体やらプライドやらを捨ててバカになって生きていたいのだ。そうだ、私はバカになりたいのだ。この人のように。



 そんな事を考えていたらどうも何かが吹っ切れたようで、いっぺんに心が楽になってしまった。心の底には見栄や虚栄心が張り巡らされていて、自分自身を苦しめている。そういう事に気がついたら、そのうちサイコさんに言われた事を思い出しても何とも思わなくなったのだ。そしていつしか言われた事すら思い出さなくなっていき、外に出て人と会っても何ともなくなった。やがて心が病んだような状態になった事も記憶から薄れて行き、何もかも忘れてしまったのだった。


非難される事をバネにする 


 まあ、そんなのが私のトラウマの観察体験であった。私の場合は軽症で済んだからそのぐらいの修行で直ぐ回復出来たものの、もうひと月もあのサイコさんに付き纏われていたら、完全に障害を持つ所まで行っていたかもしれない。そうなってからでは観察も大変な作業となる。

 こんな風に瞑想センターという所は、心の病を持つ人もいれば、心の病の原因となる人もいる。言い忘れていたが、仏教の指導者の多くは心の病(不安障害の事だと思う)とは異常性格者から心を壊される事で発症するという考え方をしている。精神医学の方とは異なるかもしれないが、取り敢えず私も長老たちの考え方に倣ってそのように考えているので何卒ご了承願いたい。

 マレーシアやシンガポールでカリスマ的な指導者だったDrシュリーダンマナンダ長老などは「そのような異常な人々に突っつかれるのは自分を顧みるようになれるいい機会だ」と、むしろそのような出来事こそがバネになるような事を言っている。果たして我々はサイコさんの言動にヘコまずに、それをバネにする事が出来るだろうか?

 そういうわけで、マインドフルネス瞑想の実践は、今にいる事、対象を受け入れる事、心の注意点をコントロールせずに受けて立つ事、対象を判断したり解釈したりしない事、感受や好き嫌いが出てきたらよく感じる事といくつか肝心なポイントがあるので、ここまで取り敢えずそれに沿って修行してきた。あとはみっちり実践するだけでいい。そしてそれをやるとどうなるか?

 それではその結果は数カ月後にまたレポートさせて頂くとして、それまでの間、今度は違った情報をお知らせするように努めたい。次はマインドフルネス瞑想の修行に取り組んでいる修行者の方に目を向けて、ミャンマーの瞑想センターで会った世界各国から集まった修行者たちを紹介させて頂く事にする。

 私は今までミャンマーで日本、韓国、中国、台湾、ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、マレーシア、ブルネイ、シンガポール、インドネシア、バングラデシュ、インド、ネパール、ブータン、スリランカ、イスラエル、南アフリカ、ルワンダ、ロシア、エストニア、リトアニア、フィンランド、ポーランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、スイス、ドイツ、オーストリア、チェコ、スロバキア、ウクライナ、ハンガリー、ルーマニア、セルビア、イタリア、スペイン、フランス、イギリス、アイルランド、カナダ、アメリカ、メキシコ、コロンビア、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、ニュージーランド、オーストラリアの50カ国以上の修行者に会ってきた。

 ぜひともここで彼らと修行した時のエピソードについてお知らせしておきたい。世界には色んなタイプの修行者たちがいて、ミャンマーまで修行しに来ては他の修行者たちと意気投合する。ミャンマーの瞑想センターとは、そんなアウトサイダーたちの交流の場でもあったのだ。

 そしてマインドフルネス瞑想を正しく実践したらどうなるか?数カ月後の筆者のレポートを見て何なりと判断して頂ければ幸いだ。果たしてその効果の程はいかなるものか?お楽しみに!




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  最終更新日 2023.12.31

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