このシリーズでは、各地の瞑想センターで実際に出会った特筆すべき修行者たちを紹介しています。一人一人の修行者から学ばせていただいたことも多く、敬意をもってここに綴らせていただきます。
K氏 日本人 40代 男性
エビスコとはプロレス用語で「食欲」という意味らしい。エビスコのエビスとは大黒様やら布袋様やらの「恵比寿」の事だと言う。元々は相撲取り用語らしいが、幸運を招くとか、そういう意味になるのだろうか?
良くは判らないが、これこそがK氏にピッタリの言葉に違いない。若い頃から総合格闘技で鍛え、ビルドアップされた堂々たる体格を持つK氏は、人の3倍のチャンコの量、いや食事量を誇った。
K氏がS瞑想センターを訪れたのは2014年3月。伝説の格闘家ヒクソン・グレイシーに憧れてヨガをするようになってから、少しずつ精神世界に興味が湧いてきたという。
格闘技ファンの私はK氏のような人と会って血が騒がない訳がない。
「腕ひしぎ逆十字固め」
「チキンウィング・アームロック」
「アキレス腱固め」
「チョーク・スリーパー」
僧院の中にいる事を忘れて、次々と技の手ほどきを受ける。
話す事と言えば往年の前田日明、藤原喜明、佐山聡らの事。
まさかK氏もミャンマーの僧院の中で、かつてUWFというプロレス団体の熱狂的なファンで、信者とも呼ばれた私と出逢う事になるとは夢にも思っていなかっただろう。
瞑想センターの中庭で、二人でコブラツイストを掛け合って記念写真を撮った。
私が猪木の顔真似をすると、写真を撮ってくれていたロシア人女性が「マジになってる」と驚いていた。
私の方も、まさか日本からこんな楽しい人が来てくれるとは、夢にも思わなかった。僧院の中にいる事を忘れて、すっかり二人で意気投合した。
常楽我浄
そんなK氏の太腿の内側には、くっきりと「常楽我浄」の文字があった。短パン姿で座法を組んで瞑想する時、いつも目に入るようにとタトゥーを入れたのだという。
「この言葉をいつも胸に刻んでいたいので」と、まるで悟りにかけるK氏の熱い情熱が伝わって来るようだ。
だが待てよ。
普通は入れるのであれば「無常、苦、無我、不浄」にするのではないか?
こういう現実を「常、楽、我、浄」と錯覚しているのが人間で、その錯覚を取り除くためにするのが瞑想なのだから。錯覚の方を心に刻んでどうするのだろう?
これは大変だ。
K氏は思いっきり勘違いしている。こんなものを他人に見られたら笑われてしまう。あまりにも間抜けだ。何とかしなければ。
しかしこれはサインペンで書いたものとはわけが違う。もう消しようがない。K氏は自分の身体に「私はアホだ」と刻印してしまったようなものではないか。
いや、こういう早トチリをする人の事をレスラー用語で「トンパチ」と言う。K氏は自らのボディにトンパチと刻んだのだ。
大変だ、早くK氏に知らせて何とかしないといけない。
だが、それについてK氏に指摘するとK氏は笑いながら
「アハハ、ヒロさん安心して下さい。間違ってないですから。この常楽我浄というのは大乗仏教では『四転倒』と言って、我々凡人にとっては錯覚ですが、悟った人にとってはそれが転じて『四徳波羅蜜』という崇高な境地に変わるという考え方があるんです。こちらのテーラワーダ仏教にはないから判らなかったですか?」と言うではないか。
「レレッ?」
四徳波羅蜜
常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
これが常楽我浄である。
何と、大乗仏教には四転倒が悟りによって四徳に転じるという教えがあったのだ。ちっとも知らなかった。
何だ、K氏は勘違いではなくて確信犯としてやっていた訳だったのか。そう言えば彼は禅をやっていたとか言ってたな。あちらにはそういう教えもあったのか。
だが、そう説明されてみると中々ひねりの効いた深い教えではないか。災い転じて福となすみたいで。違うか?
そんな感じで「いいな常楽我浄」思わず感心してしまった。
何の事はない、トンパチは私の方だった訳だ。
しかし安心した。一時はどうしようかと思った。このままではK氏が裸の王様みたいに笑い物になってしまうと本気で心配したのだから。
良かった良かった……
食事中もマインドフルネスを忘れてはならない
だがK氏は、昨日私が散々慌てふためかされてしまったとも知らず、今日も朝から凄いエビスコの強さを発揮している。ミャンマーを代表する麺料理「モヒンガー」の大盛3杯目をかき込んでいる。
昨日「瞑想修行者の運動量からすると、ここの普通の食事量では摂りすぎですね。抑えておいた方がいいですよ」と自分で言ったばかりなのに。