Cさん 中国人 30代 女性
Cさん(上海近郊在住)が最初にマインドフルネスのS瞑想センターにやって来たのは2011年の暮れ。この時は10日ほど修行して行ったのだが、以来すっかり瞑想が病みつきになって、年末になると毎年のようにSセンターを訪れるようになっていた。
Sセンターにはこのようなワンフロア10室の2階建ての宿舎が8つある。内訳は男性用が3棟で女性用が5棟だ。
そして宿舎内には各フロア毎に洗面所とトイレ、シャワー室がついている。
各部屋にはベッドが2台づつ備えつけられていて、基本的に2人部屋という事になるが、夏休みと年末年始の混雑時を除いては部屋が余っているため、修行者は通常は1人1部屋づつ与えられる事になる。
Cさんは毎年のようにここを訪れていて、Sセンターの事は熟知していたが、実はまだ知らない部分もあった。
2017年の暮れ、Cさんは女性用宿舎の△棟という建物に通された。毎年違う建物と部屋に泊まるので、常連さんになると色んな部屋の事情を知る。
日当たりのいい部屋悪い部屋、景色のいい部屋悪い部屋。色々知っていて自分の泊まりたい部屋というのも出てくるが、そこはホテルと違って修行者は自分で好きな部屋を選ぶ事は出来ない。
誰もいない部屋から人の声が
Cさんは△棟に泊まるのは初めてだったが、建物自体はどこも同じ造りになっているので、いつもの泊まり慣れた部屋にいるような気持ちになっていた。
Sセンターでは修行は夜の9時まで行われ、それが終わると直ぐ9時半には消灯になってしまう。瞑想センターでは、修行者同士が話したり、寛いだりする時間というのはとっておらず、次の朝は3時半起きだからとっとと寝ろみたいな感じでとっとと灯りを消してしまうのだ。
Cさんがその部屋に来て2〜3日した頃だったろうか、そんな感じで一日の修行を終えて眠りに就いたある深夜、突然誰かの話し声で起こされた。時計を見るとまだ12時頃だ。「こんな夜中に誰なの?」と耳をやると声は隣室から聞こえる。
Cさんによると、この時の声は20代前半ぐらいの若い女性の声で、言葉は恐らくミャンマー語であったという。声の主は一人だけで、Cさんは誰かが携帯で話をしていると思ったそうだ。
瞑想センターにいる修行者同士というのは、お互いに無言で通すのが原則なので、同じ宿舎でいつも顔を合わせている人が、どこの誰なのか知らない場合が多い。隣の部屋に誰がいるのかを知らない事もある。
「誰なのか知らないけど全く非常識」とCさんはこの時壁をコンコンと軽くノックして相手に意志表示をした。すると声は止み、Cさんは電話を切ったと思って再び眠りに就いたという。
翌朝になって、4時からの瞑想が終わって5時半からの朝食が始まる間の30分間の掃除の時間に、昨夜の声の主が誰なのか一目見ておこうと思った。別に何も言わないまでも、今後のためにも知っておいた方がいいような気がしたのだ。
だが同じフロアを掃除している人の中に隣室の人はいなかった。そればかりではない。何と!昨夜声が聞こえた筈の隣室は空室になっているではないか。
誰も泊まっている人などいなかったのだ。更に驚いた事には信じられない事に、その部屋には誰も入れないように鍵まで掛かっているではないか。
「あれえ?確かに昨日誰か話してたのに」どうもその状況に納得がいかないCさんは、隣室のそのまた向こうの部屋の人にも昨夜の事について聞いてみた。すると確かに向こう側の人も深夜12時頃に隣室からの声で目が覚めたと言っていた。Cさんだけの幻聴ではなかったのだ。
部屋をノックする者
また朝から修行が始まり、瞑想に打ち込みながら昼となり、昼食を摂っている頃には、Cさんも忙しくて前夜にそんな奇妙な事があった事もすっかり忘れかけていた。昼食後に午後からの修行に備えて、部屋で椅子に座って寛ぎながら少しウトウトしていた。そんな時だった。誰かが突然Cさんの部屋のドアをノックしたのだ。
「ハ、ハイどなたでしょう?」眠りかけたところでハッと我に還ったCさん。
するとドアの向こうからは「あのう昨夜はすみませんでした」と聞き覚えのある若い女性の声が。この時の言葉はやはりミャンマー訛りの英語だったと言う。
「えっ!まさか」慌てて入口に駆け寄り急いでドアを開けたCさん。しかしたった今誰かがいた筈のドアの向こうには何の姿も見えなかったのであった。
「あれ・・・どうなってるの?」廊下を見渡しても誰もいない。階段から降りて行ったかと階段の方を見ても誰もいない。洗面所の方へ行くと知人のベトナム人女性がいた。
その女性に理由を話し、その若い女性の事を尋ねたものの、廊下を歩いていた人は誰もいなかったという。「どういう事なの一体」Cさんが途方に暮れているとそのベトナム人女性が事情を察したらしく、頷きながらCさんに近づいて来て「あれえ?もしかしてあなたの所にも来たの?」と言った。
彼女の話によると、やはり彼女も数週間前に同じ様な体験をしているのだという。彼女の場合は夜中にシャワーの音で目が覚めたらしい。夜中なのに誰かがシャワーを使って水を出しっぱなしにしていたので、そのベトナム人女性がわざわざ起きて止めて、また寝たのだという。そしたら翌日の昼に同じ様に・・・・
「何なの?これって?もしかしてオバケ?」Cさんの頭にそのような考えがよぎった。しかし断定するのはまだ早い。Cさんがその何者かの声を聞いた時はいずれも夢うつつ状態の時で、通常の鮮明な意識状態とは言い難い時ばかりだ。自分でも夢か現実かよく判らない。全く確信が持てない出来事でもある。
そういう訳でCさんは、別にその問題にそれ以上関わる気にはならなかった。そしていつしかそんな事があった事も忘れるようになっていった。
面接指導で質問する
S瞑想センターでは毎日決まった時間に、修行者への直接の面接指導の時間が設けられている。
毎朝9時半から1時間は英語での指導の時間。
夕方4時半からはミャンマー語での指導の時間。
それ以外にも中国語、韓国語、ベトナム語の時間が週イチペースぐらいで設けられているので、修行者は逐一自分の瞑想体験を報告し、指導の長老から具体的なアドバイスを貰う事が出来る。
Cさんは中国語の時間には勿論の事、英語もペラペラだったので、毎朝の英語の時間にも出席していた。そんなある日、面接指導に新参者のアメリカ人男性が出席していた。この修行者が長老に奇妙な体験を報告するのを目の当たりにしてしまったのだ。
そのアメリカ人男性は自分の番が回ってくると長老に、何と「瞑想が深まるとオバケ(ゾンビ)が見えてきます」と言ったのだ。
それを聞いてフト数日前のあの出来事を思い出したCさん。思わずその男性への指導に聞き入ってしまった。
すると指導のT長老は「アハハ、だからそういうのはみんな心が作っているんです」と笑ってしまった。T長老の話だと、集中力がついてくると、心はそのような幻覚を作り出すものなのだという。
基本的にマインドフルネス瞑想では集中力を使わないから、あまりそのような幻覚を見る人はいないのだが、そのアメリカ人男性は、以前に集中没頭型の瞑想センターでしばらく修行していたので、ついついSセンターに移って来てまで、一点集中でやってしまったとの事だった。
幻覚は集中力がついた証拠
これと似たような話は他の瞑想センターに行けばいくらでも耳にする。私もマハーシ式のセンターにいた時は、修行者が「黄金のブッダを見た」とか「ヴァジュラサットヴァから光を送って貰った」などと報告している姿を何度か見かけた事がある。
そしてそれについても指導者はT長老と同じ事を言っていた。中にはその報告を受けて笑ってしまった指導者もいた。なぜなら修行者が幻覚とは知らず、その体験を得意満面で語っていたからだ。
そちらは本物のオバケ
その時のアメリカ人男性へのアドバイスを聞いていたCさんは「あれ?じゃあ私のあの体験も幻覚なの?」と思った。あの出来事も同じように心が作ったものではないかと思ったからだ。そして長老の話が終わるや否や質問を繰り出した。
「長老!では私の体験はどういう事なのでしょう?」
そしてCさんはT長老にその時の出来事を全て話した。「あれはやはり心理現象だったのかもしれない」その時Cさんはあの時の事がどういう現象だったのか知りたい一心だったのだ。
それに対してT長老の答えはどういうものであったか?その時長老は何と、Cさんの話を聞いて「何?宿舎って何号棟?」と聞いた。Cさんはすかさず「△棟です」と答えた。すると長老は何と!
「あっ!あそこは出るぞ!」と言ったのであった。
と驚くCさん。
いや、この場合、オバケうんぬんよりも「長老ともあろう方がオバケを信じている」という意外な事実が発覚した事の方がもっとショッキングに感じられたと言った方がいいだろう。これは一体どういう事なのか?
六道輪廻を説く仏教
仏教では生き物の世界を六道輪廻という考え方で説く。生き物の世界にも色々あって、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道と6種類に分けられるのだという。そして生き物というのはこれらの世界をアチコチ生まれ変わりながら堂々巡りしていると説く。
私には人間と畜生以外は何の事やらサッパリ判らないが、他の世界というのは一体どういう世界なのか?天とは?修羅とは?餓鬼とは?どういう生き物の話をしていると言うのか?
実はこのミャンマーの仏教では餓鬼というのはオバケの世界だと言っている。英語でハングリーゴーストと言う。仏教のテキストには「餓鬼とは人の吐いたものや排泄物、腐ったものを食べるしかない生き物」とあるのだと言う。
オバケが腐ったものを食べるなんて話は聞いた事がないが、ミャンマーの人々は仏教でそう教えているからと言って誰もが信じている話でもある。長老たちとて例外ではない。だからT長老はCさんがそう言うと、仏教の解釈に従ってそのように反応したのだ。
ただこれはテーラワーダ仏教の方の解釈の仕方であって、大乗仏教や西洋仏教では違っていたりもする。「いつも飢えていて、腐ったものを食べるしかない生き物ならば微生物の事ではないか?」と見る向きもあるし、心理療法の世界では餓鬼道とは摂食障害の事だとも言う。結局ブッダ以外には判らない世界の事なのだ。
再びノックの音が
「でもあれって本当にオバケ?」一度は長老の言う事を信じかけたものの、生まれながらの仏教徒ではないCさんには、オバケの存在は中々納得できるものではない。しかし自分でもどういう事だったのかサッパリ判らない。
そんな事もあってCさんはその後も時々あの時の事を思い出しては「あれって一体何だったのか?」と知りたくてたまらなくなった。そんな事を考えていたある日、また部屋のドアをコンコンとノックする音がした。「ハイ」とCさんが応えるとまた「お久しぶり」と若い女性の声が。
「えっ!久しぶり」と驚くCさん。心臓がドキドキして汗がタラタラ流れてきた。「い、一体誰が?」恐る恐るドアの方に向かい、ノブに手をかけた。そして震える手でそのままノブを回した。
「ハロー!Cさんお元気?」するとそこに立っていたのは、何と!やはり毎年年末近くなるとミャンマーまで修行に来る、Sセンターの常連仲間のカナダ人女性Bさんではないか。「寺務所に聞いたらここだって言うから来たのよ。私◯棟にいるから遊びに来てね」
CさんとBさんとは毎年ここで会って一緒にひと月ほど修行する仲だ。11か月ぶりの再会に思わず今までの事など忘れてしまうほど喜んだ。
Sセンターにはこのような常連さんたちが20人はいるだろうか?そしてみんなお互いに、このような年に一度の再会を楽しみにしてやってくる。
Cさんは仲間の登場にすっかり心強くなったようで、あの出来事の事はもう気にしなくなっていた。そして「判らないなら判らないでいい。下手に解釈せずにそういう出来事があったという事だけ心に留めておこう」という修行者らしい考えに変わっていた。
そしてまた何事もなかったように修行に戻っていったのであった。