【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#12】無になった修行者

2020年10月31日土曜日

修行者列伝

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このシリーズでは、各地の瞑想センターで実際に出会った特筆すべき修行者たちを紹介しています。一人一人の修行者から学ばせていただいたことも多く、敬意をもってここに綴らせていただきます。



J氏 ドイツ人 40代 男性


リューベック市


 禅の居士(こじ)である氏が、北ドイツのリューベックからはるばるマインドフルネス瞑想のS瞑想センターにやってきたのは2014年の暮れ。彼はこの冬は休暇を利用して、ミャンマーや日本の様々な瞑想道場で修行するつもりなのだという。



居士(こじ)とは、出家せずに、家庭で修行をする仏教徒。男性の在家仏教徒という意味。



 氏はミャンマーに来て、まずサマタ瞑想のP瞑想センターを訪れた。そこで10日ほど修行してから、今度はSセンターに移ってきた。しかしSセンターへの滞在予定も僅か1週間か10日ほどの短期のもの。これはもう修行というよりは視察に近いのかもしれない。



ベテラン居士のJ氏 


 それもそのはずJ氏は禅の居士としての自覚は何処に行っても失わなかった。Sセンターでは試しにマインドフルネス瞑想をやってはいても、心はしっかりと禅の修行者のままでいたのだ。


ミャンマーに3週間ほど滞在したら、次は日本に行って禅をやるのだという。


「カマクラ」J氏の口からはそんな地名も聞こえてくる。そんな事だから私が日本人とわかるとどんどん話しかけてきた。





だが一方の私は禅の方は全く詳しくない。未経験という訳ではないが、修行したと言える程の経験は積んでいない。


ミャンマーに来る前に近所の図書館にあった鈴木大拙全集や岩波文庫の禅関係の本を読んだぐらいで、長年やっている彼と話を合わせる程の知識は持っていない。日本人なのに禅の事を知らなくて何やら恥ずかしい気もしてくる。




禅修行の第一関門 


 「ムー」氏は私と話ながら得意の「無字の公案」というのを拈堤(ねんてい)してみせた。ベテラン居士の彼は何と!この公案で「見性(けんしょう)」なる体験をしているのだという。


これはどういう体験かというと、J氏が修行している禅道場では、坐禅の前にまず修行者に「公案」なるクイズみたいなものを与えるのだそうだ。探究のテーマみたいなものか?そしてJ氏が与えられたのがその「厶ー」と唸る公案、つまり「無字」(正式には趙州狗子)という公案だった訳だ。


ではこの「無字」なるクイズとはどういうものかと言うと


「坐禅で『無』を見て来なさい。この『無』とは『有る・無い』の無ではないぞ。そのような相対的なものではなく絶対という意味での『無』だ。『無』とはつまり比較して出てきた概念ではなく、何ものとも比べようのないものなのだ。ヒントを出せばオマエ自身が『無』だ。これを解明してきなさい」


という内容のものになる。禅の修行ではこういう探究のテーマを坐る前に指導者から与えられる訳だ。そしてこれを解明するのが修行の第一関門と言われている。


そしてその絶対を見るためには「時間・空間」とか「過去・未来」とか「生・死」「善・悪」「優・劣」「長・短」「早い・遅い」「勝・負」「縦・横」「上・下」等々の相対的概念を超えなければならない。


そのためには丹田に集中し、心に雑念が浮かんだら「無ーッ」と唸って雑念を消す。そして概念抜きのありのままの対象を見ようとするのがJ氏がやっている公案禅という修行方法という訳だ。



「無」とは何か? 


 つまりこの「無」というのは「概念抜きのありのままの対象」という意味になる。マインドフルネス瞑想で「ありのままを見てきなさい」と言うのと同じ意味で、禅ではそれを「無を見てきなさい」と言っている訳だ。そしてJ氏はそれを「見性」した人、つまり解明した人だったのだ


もっと詳しく言うと、この「無」とは仏教で言う色蘊、パーリ語で言うルーパーという事になる。つまり物質だ。地水火風の四大要素と言ってもいい。


しかしここで言っている色蘊とは実体のない、機能としての物質、つまり「物質という働き」の事を言っているのであって、通常我々が思っている物質とはちょっと違う。我々は普段は物質という概念の方しか見ていないのだから。


どうだろう?この「無」について何か気づいた事があるだろうか?ここだけの話、内緒で答えをバラしてしまえばこの「無」とは


「宇宙丸ごとみんな同じもの。それが無だ」


と言う事になる。


自らの身体も、立っている地面も、ビルも木も人も車も空も雲も月も太陽も、実はみんな同じものなのだ。


このように、目の前に剥き出しになっている光景ではあっても、我々は何も見ていない。それは我々の目がいつでも概念の方にばかり向かい、ちっとも世界のありのままの姿である「無」の事など見ていないからだ。これが人間に瞑想修行が必要な所以でもある。




禅とマインドフルネス瞑想との違い 


食事中も気づきを絶やさず、ゆっくり食べる



 「禅は一瞬で『無』を見る事が出来るが、マインドフルネスのやり方では『ありのまま』に達するまでには時間がかかるね」


いつしか私とJ氏は、いつも食事の時は向かい合わせの席に座り、食後にお茶を飲みながらしばしの間、禅談義をするのが日課となっていた。


確かに禅の気合いもろとも「ムーッ」とやって思考、概念を吹っ飛ばす方法ならば、マインドフルネス瞑想のコツコツと概念とリアリティとを見分けていく方法に比べたらずっと早いだろう。


だが


成功する確率から見たら禅のギャンブル的な方法より、地道な貯蓄型のマインドフルネス瞑想の方がずっと確実なのではないか?どちらの方法を選ぶかは修行者の性格次第だが。



「なぜ禅をやらない?日本で出来るだろう?」


J氏が聞いてきた。


彼から見れば禅の国の修行者がわざわざ外国でマインドフルネス瞑想をやっている事が理解出来ないのだ。


しかし彼の思い込みとは裏腹に、日本人で禅をやっている人というのはどれだけの割合で存在しているものなのか?


実際には日本は彼が思っているような誰もが禅をやっている国ではない


外人にこれを説明するのは中々難しい。私は答えに窮してしまった。





 そんな時、隣で食べていたマレーシア人が私たちに「これ良かったら食べて」とワッフルを差し出した。食後のデザートに10個パックのものを買ってきたらしい。


「頂きます」ワッフル好きの私は遠慮なくひとつつまんだ。


ミャンマー人はワッフル好きで、どこの店でも大概ワッフルが売っている。1個10円もしないから私もよく買って食べる。


「旨い!Jさんも食べたら?美味しいよ」私も食べながら彼に勧めた。せっかくご馳走してくれるのだから食べないと。


だがJ氏は手をつけない


「何で食べないの?ドイツのお菓子でしょう?変わってるね」私が不思議に思って聞くと、J氏は何と


「俺ワッフル食わねんだ。ドイツ人だからってみんなワッフル食うとは限らねえじゃねえか。それは先入観(ステレオタイプ)だ。ドイツ人の中にも食べる奴と食べない奴とがいるんだよ」と言った。


「えっ?」それを聞いて仰天した私。そして次の瞬間「あっははは、そうだ先入観(ステレオタイプ)だ。その言葉がパッと出てこなかったんだ」と頭の中を一陣のミントな風が駆け抜けて行った。


「そうだJ氏!あんたの疑問も同じ事なんだよ!」


「!!!OHHHHHHHHHHH」


全部自分で言ったため、スンナリと納得してしまったJ氏。





短期間であったがSセンターでの修行を終えて日本へ向かう事になったJ氏。


農村部にあるこの瞑想センターから去る時は、大体みんなタクシーを呼ぶものだが、彼は歩いて10分程のバス停まで、荷物を担いで歩いて行くという。


「タクシーなんか使わないよ!」


白人さんにしては珍しい、人生の全てを修行とみなし、ひたすらストイックに自己の向上を目指すタイプのJ氏。私は何やら彼のその辺りに禅の修行者としての風格を感じずにはいられなかった。


Image source
リューベック市 :  chim Scholty
大仏 :  Dylan Gonzales
ワッフル : Lebensmittelfotos
歩行旅人 : TheDigitalWay




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  最終更新日 2023.12.31

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