Cさん 日本人 30代 女性
前回のエピソード「修行していない修行者」では、2013年の暮れにマハーシ式ヴィパッサナー瞑想の本家本元であるM瞑想センターに現れた謎のスリランカ人、D比丘の件について触れた訳だが、今回もまたそのD比丘にまつわるエピソードの続きになるので、読んでおられない方は前回のものもあらかじめ読んでおいて頂けれると、話がスムーズに伝わりやすいので何卒ご了承願いたい。
前回お伝えした、修行をせずに阿羅漢の法話だけで無我を悟り、そこから瞑想修行を始めて短期間のうちに解脱やら涅槃やら、高度な境地まで達してしまったというD比丘が、Mセンターの外人用男性宿舎に滞在していたちょうどその頃、女性用宿舎の方にはCさんという日本人女性が滞在していた。
Cさんは心が綺麗で性格が抜群の、いわゆる純粋な心を持つ女性だ。汚れを知らない天使のようなタイプと言っても過言ではない。
そんなCさんが仏教を学び、瞑想修行をして、智慧を身につけ、本当の慈悲心を身につけたなら、この世にもう怖いものはない。
本人もそれを意識しての事かどうかは定かではないが、日本では東京の外れにある某スリランカ寺の近くに住んでいて、頻繁にその寺で開催される瞑想会や法話会などの行事に参加して、日々熱心に修行しているのだという。
当然仏教の教義にも詳しく、専門の仏教用語が出てきても難なく対応出来るほどの知識を持ち、それだけではなくちゃんと実践もしている、まるで仏教徒の模範みたいな人だ。
しかもそれだけでは物足りず、まだまだ仏教について知りたいという学究心旺盛な人でもある。
そんなCさんを見たら、仏教好きの男であれば誰でもシビレてしまわない訳がない。私はある時Cさんよりも10歳も年下のマレーシア人の若い男に「おい、俺はあの日本人女性と話したいんだよ。協力してくれないか?」と頼まれた事がある。彼は法話会や瞑想指導の時に見かけるCさんにすっかり魅了されてしまったのだ。
「何言ってんだ!ここは瞑想センターなんだぞ!真面目に修行しているんだぞ彼女は!邪魔するなよ!」
だが私はそう言って突き放した。そんな熱心な修行者の事をどうのこうのしようなどと考えるこのマレーシア人は、ロクな者ではないと思った。
しかし奴の方も必死で私に喰らいついてくる。よっぽど話したい事があるようだ。
にもかかわらず意外と恥ずかしがりやでもある。そんな事でそれ以来そのマレーシア人は、私を見るといつも胡麻をするようになってきた。
奴は食事の時は私と同じテーブルで食べていたのだが、奴は自分のデザートのエクレアやアイスクリームを自分で食べずに私の方に回してくるのだ。
「オマエそれは何のつもりだ?」
そう言いながらもエクレア好きの私は簡単に奴の策略に引っ掛かってしまった。そしてとうとうCさんとマレーシア人との出会いの場をセッティングするハメに陥った。エクレア2,3個でCさんの事を売ったのだ。
「判った。じゃあ食後に彼女を連れて行くからあの辺で待っとけ。でも俺がセッティングした事は黙ってろよ」
そう言って奴が待つ場所に何気にCさんを連れて行って、奴の望みを叶えてやった事がある。それで奴が何を話すか聞いていたら「日本に遊びに行きたい。温泉に入りたい」などというつまらない事しか言わなかった。話したいと言うから何か重大な発言でもするのかと思ったら、何も気の効いた事は言わなかったのだ。
しかし純粋な心を持つ優しいCさんは、嫌な顔ひとつせず、そんなマレーシア人の話を聞いて笑いながら相手をしてやっていた。まったく何ていい人なのか。
普通は「何あの男?露天風呂の話なんかしていやらしい」ぐらいの事は言うものだが、ずっと慈しみの姿勢を崩さなかったように見えた。
また彼女は瞑想センターにいる間は、様々な所に惜しまずに寄付をしていた。
貧しい村の子供たちへの協力基金をはじめとして、見知らぬおばあちゃんの葬式まで、困っている人がいれば一万円札を気前よくバラ撒いていたのだ。
憐れみの方もしっかりしている。
だがもしCさんの行いを擦れた人々が見たらどう思うのだろう?勿論「宗教家に利用されて搾取されているバカ」にしか見えない。実は実際にそう言う人もいたのだが、Cさんはそんな他人の言う事など全く気にせず、純粋な生き方を貫いたのだから立派なものだった。
そんな感じで純粋な心を持つCさんは、Mセンターにいる間はずっと周囲の人々を癒やすためのキャラクターとして、各国の修行者たちにその存在感を示していたのだった。
マハーシ祭
それでもCさんがわざわざ仕事を休んで修行に訪れた年末年始は、M瞑想センターでは恒例の「マハーシ祭」が行われる慌ただしい時期でもあった。
マハーシ祭とは、このM瞑想センターは全国に500近い支部を持っている訳だが、そこの支部長をはじめとする全ての比丘たちが年に一度総本山にて一堂に介し、総会を開催する、マハーシの一年を締め括る最大のイベントの事を言う。
つまりMセンター所属の全ての比丘たちのみならず、その支援者たちも全国各地から集まり、交流を深める事にもなるので、全部で3〜4000人もの人々が結集する、大親睦会の開催が待っていたのだ。
従ってこの時期は、指導者たちも忙しく、指導したり法話を与えたりする暇がない。また、そのイベントが終わると今度は正月休みになるので、この時期にMセンターに行った人は全然指導してもらえる機会がない。Cさんが訪れたのはちょうどそんな時期だった。
D比丘に衝撃を与えた質問
「面白い話をするスリランカの比丘がいますよ。何か質問があればどうぞ。何でも答えてくれますよ」
だから私はそんな事でCさんに、前回取り上げたスリランカ人のD比丘の事を伝えた。聞けばCさんはもう翌日には帰るのだという。せっかくミャンマーまで来ておきながら十分に指導を受けられないまま帰るのも気の毒な話だ。せっかく高い境地まで行った人がいるのだから、何かひとつぐらい「来て良かった」と思える体験が欲しいではないか。
前回も書いたが、私はこのD比丘から、彼が阿羅漢という最高の悟りの境地に達した人から法話を与えられたら、修行をしなくても無我に気づかされ、いっぺんに洞察智のある境地まで引っ張り上げられたという話を聞かされていた。
人の心の中には心の本性とも言うべき純粋な意識があって、それに気づきさえすれば、別に瞑想をしなくてもそういう境地に到る事が可能なのだという話を聞かされていたのだ。
それで、別にその話はCさんにはしなかったものの、通常の法話をして貰ったり、判らない事を教えて貰ったりする事が出来る旨だけを伝えた。それはやはり自分でも完全にD比丘の話をその時点では信じている訳ではなかったからだ。
そしたらCさんはやはり指導者に色々聞きたかった事があったようで早速質問を紙に書いてきて私に手渡した。そして私はそれを見て驚いた。なぜならそこには
「私は瞑想よりも法話の方が好きです。瞑想しなくても、純粋な心さえあれば高い境地に到れると信じています」
と書いてあったからだ。
「えーっ?何で知っているんだこの人は?」
勿論彼女の言う「純粋な心」とは、D比丘の言う純粋意識とは別物だ。D比丘の方は万物の根源であり、個というものを離れた心の本性の事を言っている。だが、Cさんは一般的に言う擦れていない心、疑う事を知らないイノセントな心という意味で言っているのだから。
しかし私はそこに偶然とは思えないような奇妙な一致を見た。それでその質問状を早速D比丘に手渡したところ、やはりD比丘の方も
「何これ?誰が書いたの?いい話だな!その人に会ってみたいよ!」
と言って驚いたのだった。
「それなら直ぐ会ってやって貰えませんか?彼女は明日帰ると言っていますから」
「何!明日帰るのその人!判った!それでは直ぐ会おう」
という事でD比丘とCさんとはその後直ぐに対面する事になった。それはちょうど2014年の元日の事だった。
Cさんとの縁を感じたD比丘
「勿論法話を聞いただけでも高い境地に到る事は出来る。それが本来の仏教だ」
そして例によってD比丘はCさんに会うなりそう切り出した。決して自分がそうだとは言わずに。
また「ブッダがいた時は法話だけで悟った人もたくさんいたんだ。阿羅漢になれば修行者の素質を見抜いて、素質のある人を法話だけで悟らせる事が出来るんだ」
「ブッダの時代の修行者たちは、まず法話だけで無我を悟って洞察智を得て、それから瞑想修行に入っていたんだ」などと説明していた。
だが、D比丘はCさんとの出会いに不思議な縁を感じていたようで、Cさんがなぜそんな事を思うようになったのか色々聞いていた。
私もその時はD比丘の話よりも、なぜCさんが突然そんなタイムリーな事を言い出したのかに興味があってその事ばかり聞いていた。
「ですから私はスリランカ寺の近所に住んでいて、頻繁にその寺に赴いて法話を聞いたり瞑想したりしているのです」
確かに経典にはブッダの話を聞いただけで悟った人のエピソードがたくさん出てくる。でもそういうのは普通の人はあまり実話だとは思っていない。
私などは性根が腐っているから、そういうのはブッダを神格化するための作り話のように思っていた。だが心の綺麗なCさんは、長老たちが話すそのようなエピソードを聞いても少しも疑いを抱く事がなく、そのまま信じていたのだ。
だが、Cさんのその話を聞いて今度はD比丘が驚いた。
「何?あなたの家の近所にはスリランカ寺があるのか?あなたはもう只者ではない!あなたには何かあるぞ!もしあなたが望めば、私はそのスリランカ寺に行って毎日あなたの家に教えに行ってもいいぞ!」
そしてそこまで言った。
「えっ!?なぜそんなに私に入れ込むの?」
しかしCさんは私から事前に「奇妙な一致」の事を知らされていなかったので、D比丘の得体の知れないあまりの熱意に唖然とするしかなかったのだ。
帰国したCさん
「本当は時間をかけてもっとじっくり話したいのだが、あなたは明日帰ってしまうという事だから仕方ない。では日本まで法話のCDを送ろう。あなたの住所を教えてくれないか?それで私たちがやっている事に興味があれば連絡して欲しい」
そしてD比丘はそう言って2人の対談を小一時間ほどで切り上げた。Cさんは早速その場でD比丘に住所やメールアドレスなどを渡していた。私はその場に立ち会ってその一部始終を聞かせて貰ったのだが、期待していたD比丘の「心の本性」の話の方は、前回に続いてまたしても聞く事は出来なかった。
またCさんが送って貰う事になったCDはD比丘の師である阿羅漢のものなのだろうか?
だとしたら、ぜひ私も聞かせて貰いたいと思った。だが果たしてCさんはそれを本当にそれを受け取る事が出来るのだろうか?私はまた出てきた新しい展開に興味をそそられずにはいられなかった。
純粋な心
そういう事があって、Cさんは翌日には瞑想センターを去ってしまった。少し心配になったのが、仕事を休んでわざわざミャンマーまで来て修行しても、十分に指導を受けられる事もなく、果たして割に合うだけの収穫を得る事が出来たのだろうか?という事だった。
だが、考えてみたらそういう損得勘定は計算高い擦れた考え方だ。純粋な人はそういう考え方はしない。また、純粋な人には善悪も優劣もない。おかしな固定観念や先入観で人を見る事もない。
純粋な人というのは子供の頃の無邪気なままの心をそのまま持っている。子供の頃は誰でも物事を価値判断したり、偏見を持って見たりする事はなかった。子供の頃は誰でもありのままに物事を見ていたのだ。
という事は瞑想修行とはやはり心を純粋にしていく事、子供の頃の純真無垢な心に戻ってありのままに物事を見ていく作業という事になる。
Cさんの考えていた事とはつまりそういう意味だった訳だ。
言い換えれば、心の本性に達するには純粋な心で修行しなければならないという事になる。人間は気づかずに生きている限りは心の中に不純物を蓄えて物事をありのままに見えなくさせてしまっているからだ。
考えてみれば悟った人たちというのは子供のままの心の持ち主だ。プライドも自意識もないし、嫌な事も直ぐ忘れ、さっき泣いたと思ったら直ぐ笑っている。全然心に留めない。
だが人間は成長の過程において自我なるものを形成し、自他の比較や価値判断によって全く事実を見失ってしまう。そして優越感やら劣等感やら、ありもしない「私」の事についてあれこれ考え、苦しんでしまう。
「そうか!それだったらD比丘の言っていた『純粋』もCさんの言っていた『純粋』も実は同じ意味だったんだ」
私がそれに気づいたのは、二人が既に去ってしまった後の事だった。
Cさんからのメッセージ
「こころみ」
それからしばらくして、日本にいるCさんから毎月定期的にそのようなタイトルのメッセージが送られてくるようになった。
文面によれば、どうやらCさんは日本の禅宗で出家して尼さんになったらしい。そして現在は宗派を超えて一般の人々と仏教を学び合う機会を得ているという。
その話を聞いて私はCさんらしい選択をしたと思った。彼女は従来の仕事を辞めて、人々の心の悩み苦しみに寄り添いながら生きる道を選んだのだから。
「世知辛い世の中にはこういう人が絶対に必要なのだ!」
私は送られてくる文面を見るたびに、そう思わざるを得なくなった。
では、肝心のスリランカの方はどうなったのか?と言うと、今のところは向こうに行く様子は全く見えないのであった。