D比丘 スリランカ 40代 男性
修行していない事を標榜する人物が瞑想センターに来てしまった。
果たしてこの人物の事を修行者と言っていいものなのかどうか迷ってしまう。だが全く修行していないという訳でもないようだ。だからこの際瞑想家の一人として修行者の部類に入れておくので何卒ご了承願いたい。
それにしてもこちらは通算20数年も修行して中盤で足踏み状態なのに対して(ついついここが気持ちよくて)、修行も何もしないで無我を悟ったという人がいるのだから呆れて物も言えない。
こんな事が世の中にあっていいのか?
しかもその人は、それまで頭の中はいつでも猥褻妄想がよぎっているような状態だったのに、たったの5時間法話を聞いただけで煩悩がゴッソリ落ちてしまい、すっかり別人になってしまったというのだから驚く。
ただしこの話を信じるか信じないかは読む人次第だが。
視察に現れた謎の比丘
その比丘がマハーシ式総本山のM瞑想センターに現れたのは2013年の暮れ。この時の彼の滞在予定日数は僅か4〜5日間。
その時Mセンターの外人男性用宿舎には私とこのシリーズの第5回「仏教徒を固まらせた比丘」に登場する、まだミャンマーに来て間もない頃のM比丘と、他に5〜6人の修行者がいた。
年の暮れと言ってもミャンマーでは正月は4月に祝うので、この時期は別に特別な行事はない。だが、一応他国の習慣に合わせて休暇の時期にはなっている。そのため指導する長老たちも休みに入っていて、修行者は法話も面接指導もして貰える事はない。
そんな時期にDというありふれた名前を持つ比丘がぶらりとMセンターを訪れ、気がついたら宿舎に滞在していた。来ても指導など受けられないのに、彼は一体何を考えていたのか?
だがこのD比丘、Mセンターを訪れた理由は修行ではなく「視察」だった。つまり彼は比丘としてのキャリアは短いものの、実は指導する立場の者であった訳だ。
それでも全く自分の素性を明かさず、たったキャリア3年の比丘にすぎないD比丘の事を、瞑想指導者と見なす者は誰もいなかった。またD比丘自身も新米比丘のように先輩比丘たちを立てて目立たなくしていたので、その事に気づく修行者もいなかった。ただみんなで寄ってたかって彼の事を「何考えてんだコイツ」という目で見ていただけだった。
智慧は隠せない
そのD比丘がMセンターに来て2日めのちょうど大晦日の事だった。私とM比丘とが宿舎のロビーにあるテーブルでお茶を飲んでいたところ、そこに偶然D比丘もやって来た。
その時私たちが話していた事は、ウ・テジャニヤ長老がよく言う「物事に『私』と付けた時と付けなかった時の違い」と「対象に焦点を合わせず、漠然と見えた状態にしている時と焦点を合わせてジッと見ている時とでは何が違うか?」という問題についてだった。
二人であれこれ考えてもよく判らないため、横で無言でお茶を飲んでいたD比丘に「あなたは判りますか?」と振ってみた。
すると彼はすかさず「例えば身内が死んだ時『私のお父さん』と思った時と、ただ『お父さん』と思った時とでは感情の生じ方が違ってくるでしょ?どっちが悲しい?」と答えたではないか!
また「見える」と「見る」の違いについても「対象についてあれこれ感情がかき立てられるのはどっちだ?」と逆に質問してきた。
そのほか、どんなことを聞いてもいちいち「濃密な智慧の息吹」を圧倒的に感じさせる返答が瞬時に返ってくる。
「あれ!この人は判ってるぞ!……… 只者じゃない!」
それで彼は自分からは素性を晒す事はなかったが、私とM比丘は彼の正体を何となく察する事が出来たのだった。
阿羅漢の弟子
「あなたはあっちの世界を見てきていますね?」
それで私は驚いてついそんな話を切り出してしまった。
だがD比丘は別にそれには答えず、なぜかM比丘の方にばかり注目していた。
そしてM比丘に向かっておもむろに「ジャーナ(集中による対象との一体化=禅定)を使って悟ると阿羅漢まで行けないから気をつけた方がいいよ」と言い出した。
「ジャーナを使って悟るのはヒンドゥー教のやり方だ。あれを使うと悟っても預流果や一来果で終わってしまって最後まで行けない」
???
突然の事に唖然とするM比丘と私。
なぜならここはジャーナを目指すための修行をするマハーシ式の瞑想センターだからだ。修行の仕方を否定してどうするのか?だが彼は話を止めない。そればかりかますます熱心にM比丘を説得しようとしてくる。
「仏教は阿羅漢の話を聞いただけで悟るのが本当だ。ブッダは法話を与えただけで多くの人々を悟らせた。それは彼が阿羅漢だったからだ。阿羅漢には人を悟らせる能力があるんだよ。だが今のパーリ経典はブッダゴーサというヒンドゥー教のバラモンによってヒンドゥー教風に書き替えれたものだ。奴は仏教にジャーナ瞑想を持ち込んでしまった。それで仏教でもジャーナを使うようになり、阿羅漢に達する人が出なくなってしまった」
何と!そればかりか彼は仏教徒が拠り所とするパーリ語経典の事まで否定し始めたではないか!比丘がパーリ語経典を否定してどうするつもりだ?一体彼は何者なんだ?
心の本性に到達する
D比丘の話によると、彼の師匠は阿羅漢で、彼は師匠に法話を授けられただけで無我を悟ったのだという。しかもその法話もたった5時間だけだったというから信じられない短さだ。
朝食を食べてから話を聞き始め、昼食前には悟っていたというのか?
そして彼が初めて瞑想をやったのは、そうやって無我を悟った後からだったという。それまでは瞑想など全く興味がなかったらしい。しかもその後修行に入って僅かに2〜3か月とかそんな短期の修行だけで涅槃を見て来たというから驚きだ。
だが待てよ。確かに経典には初転法輪経を始めとして、ブッダの法話を聞いただけで悟ってしまう人々の話がたくさん出てくる。とても信じられない話ではあるが、D比丘の言う事を信じるならば、それらも全て本当の話だったという事になる。
「でも、話しただけで悟るってどういう事なんですか?ジャーナに入る訳でもないんですよね?これだけの修行者が朝から晩まで必死で修行しても中々出来ない事なのに、そもそも無我を悟るなんて、そんな簡単に出来るものなんですか?」
私は思わずD比丘にそう聞いてしまった。すると彼は
「何、そんな難しい事じゃないよ。純粋な意識というか、心の清らかな本性というか、それに「気づく」だけなんだからさ」と言った。
「純粋な意識?何ですかそれ?」と私。
そしたら彼は「例えば何か欲しいものがあると、それはとても貴重に高価に思えるだろ?欲しがれば欲しがるほど高価に思える。一杯の水でも砂漠で喉がカラカラの時は、金よりもダイヤよりも高価に思える」
「嫌な事に付き合わされていると時間が長く感じるが、楽しくてしょうがない事だとあっと言う間に過ぎてしまう」
「いい事があった分だけ苦しむ事になるし、嫌な事があった分だけ楽しむ事になる」
何やらそのような例をいくつか挙げた。そしてハッキリとは覚えていないのだが
「世界はみんなこの純粋な意識で出来ているんだ。みんな純粋な意識による現象なんだ。そしてみんなこの純粋な意識に気づくために修行しているんだ。だからこれを得るのに別にジャーナを使う必要はないし、阿羅漢さえいれば修行する必要もないのさ」
というような内容の話をした。私には何が何だかよく判らなかったので、詳しくその話を聞こうとしたが、企業秘密なのか、彼はもうそれ以上その事について口を開く事はなかった。
妖怪サトリ
「何だ?その妖怪サトリのようなものは?」
その時D比丘からそんな話を聞いた私は、ふとそんな日本の昔話を思い出していた。
日本には確かに「妖怪サトリ」という化け物の話が伝わっている。そしてその物語に出てくる化け物とD比丘の言う心の本性とは何だか似ているような気がしたのだ。
昔ある所に木こりの男がいた。男は毎日斧を担いで山に入り、コツコツと木に斧を打ちつけては木を倒し、それを売って生計を立てていた。
ある日いつものように木をコツコツやっていると、そこに突然見た事もない化け物が現れた。毛むくじゃらの身体にギョロリとした大きな目。
男はそれを見て思った「これは珍しい生き物だ。捕まえて帰って見世物小屋に連れていけば高く売れるぞ」そして早速捕まえようとしたが化け物の方はすばしっこくて中々捕まえる事が出来ない。
右に行こうとすれば左に逃げるし、下から行こうとすれば上に逃げる。
走れば走るし、戻れば戻って来る。
何だかこちらの考えをみんな見透かしているようだ。そんな事をやっているうちに男はすっかり疲れてしまって、もう化け物を捕まえる事は諦めた。
そう思ったら思ったで化け物の方は近くに寄って来た。しかし追ってもどうせ逃げられると判っているからもう追ったりしない。
そして作業に戻ってまた斧でコツコツやっていると、突然木の破片が飛んで化け物の目に刺さった。「ギャーー」
そして男はついに化け物を捕まえる事が出来たのだった。
「うん!やっぱりそうだ!今のD比丘の話はこの昔話そっくりだ」
M比丘を執拗に誘う
だが、D比丘は私が興味を持った心の本性の話などどうでもいいようで、M比丘にばかり注目している。私の事などまるで眼中にないようだ。そしてM比丘に必死にジャーナに入らないよう警告している。
「しかし幾らジャーナの修行をしたところで必ずしもジャーナに入るなんて限らないのに、何をそんなに必死になって警告してるんだ?しかもM比丘はまだ来たばかりでジャーナ修行は始めてすらいないのに」その時私はそう思った。
それでもD比丘はM比丘に「阿羅漢まで行けなくなるぞ」を繰り返す。
そして「よかったらスリランカの私のお寺に来ないか?本当の修行をさせてやるから」と誘ったりしていた。そしてパスポートの身分証明書のコピーをとってくるように言った。スリランカ大使館に友達がいるので、M比丘が行ったら直ぐにビザを発行するように頼んでおくからだという。
凄い誘い方だ。ジャーナに入るかどうかも判らない人間に、どうしてそこまでする必要があるのかサッパリ判らない。
だがD比丘は戸惑うM比丘の気持ちなど全く考慮せずに「寺務所にコピー機があるからあそこでとるといい。俺が明日スリランカ大使館に持って行くから直ぐ行ってきてくれ」と勝手に決めてしまった。
それでM比丘もたまらず「ちょっと待って下さい!私はあなたの言う事がまだ信じられないんだ。あなたの師匠が阿羅漢だとか、ジャーナを使わないのが本当だとか、何か証拠があって言っているのですか?」と言った。
明かされたD比丘の素性
「スリランカの古い遺跡の地下から石版に刻まれたマガダ語という、ブッダが使っていた言葉による経典群が発掘された。その冒頭にはブッダ没後千年してインドからブッダゴーサというヒンドゥー教のバラモンの一行がやってきて、経典を全部パーリ語でヒンドゥー教風に書き替えていったと書いてある」
「ブッダゴーサだけではなく『アビダンマサンガッタハ』を書いたアヌルッダ長老もヒンドゥー教だ」
その話の中で明らかになった事は、何とD比丘は本国で「仏教の原点回帰運動」という活動をしている人だったという事だ。
実は彼は普通のパーリ語経典を学び、アビダンマ教学を学び、清浄道論を学んでいる「正統派」の比丘ではなかったのだ。それらを否定して、ブッダの本来の教えに戻ろうと主張する、非主流派グループの指導者の一人なのだという。
そして彼の主張の根拠となっているものは、法話を与えただけで他人に無我を悟らせる事が出来る、彼が「阿羅漢」と信じて止まない指導者の存在だった。
「阿羅漢は本当にいる!この私が修行をせずに法話だけで無我を悟ったのが何よりの証拠だ。私の他にももう2人同じような人々がいるんだよ」
D比丘がそれまで散々言っていた「ジャーナを使って悟ると阿羅漢まで達さずに終わってしまう」というのは、阿羅漢であるという、彼の師匠の教えだったのだ。そしてその師匠がパーリ経典群を批判し、マガダ語の教えに戻れと言っているのだそうだ。
こういう話になると素人の私などは、何が何だかサッパリ判らなくなって途方に暮れるしかない。誰の言う事ももっともらしく聞こえるから反論もできず、また信じていいのかも判らずお手上げ状態になるからだ。
「それじゃあ良かったらいつでもスリランカまで来てくれよ。絶対に待ってるからさ!」
そして言いたい事を全て話し、最後にそう付け加えたD比丘は、M比丘と握手をしてそのまま自分の部屋へと引き下がってしまった。
冬休みが終わって
しかし本当に奇妙と言えば奇妙だ。このD比丘はどこからともなく現れて、知り合ったばかりでどこの誰なのかも知らないM比丘の事を執拗に自分の寺へスカウトし、連れて行こうとしたのだから。
そして4〜5日したらまたいつの間にか宿舎から消えてしまった。彼は一体何者だったのだろう?本当に阿羅漢の弟子で法話だけで無我を悟った人だったのだろうか?それは判らない。しかし彼が言っていた純粋な意識とか心の本性という言葉は、鮮烈な印象と共に私の心の中にしっかりと刻まれていた。
それから1週間ほどして、そんな事があった我々の冬休みも終わり、長老たちがまた指導に戻り、いつものような修行の生活に戻る事になった。
M比丘の方はあれだけスリランカに誘われものの、まだミャンマーに来て間もない事だし、とてもではないが早急に移るなどという考えなど持てる筈もなかった。
平常に戻るや否や、今度はM比丘は面接指導で長老からジャーナへの入り方を伝授されていた。これこそがD比丘が反対していた修行だ。M比丘の反応や如何に!
だがM比丘は、その時はD比丘の言う事など本気にしていなかったので、必死でそれに取り組んでいた。それでご存知の方もおられるかもしれないが、それによってM比丘は天賦の才を発揮して、速攻でジャーナ入りしてしまったのだった。
D比丘の予言が的中した
「ゲーッ!あのD比丘が言ってた通りM比丘は本当にジャーナに入ってしまったぞ!彼は何で事前にこの事が判っていたんだ?」
全く驚くべき事が起こったものだ。D比丘がいる間は彼の言う事がサッパリ理解出来なかったが、その時になってやっと判ったのだ。
そうだ!M比丘はジャーナ瞑想の素質を持っている人だった訳だ。そしてD比丘はそれをひと目で見抜いていたのだ。
「それでM比丘を必死でスリランカに連れて行こうとしていたのか!それでああいう態度をとっていたのか!今になってやっと判ったよ!俺、あの人の事を変な人だとばかり思ってたが、実は凄い眼力の持ち主だったんだ」
阿羅漢というのは修行者の素質を見抜き、素質のある者は法話だけで悟りに導くという。
もしかしたらそれはそんな感じなのだろうか?私はM比丘のジャーナ入りを的中させたD比丘について、その時ふとそんな事を思っていた。
ではD比丘の言う事が本当だとすれば、M比丘はもう阿羅漢にはなれなくなったという事か?それはまだ定かではない。
風のように去ったD比丘
いずれにしてもD比丘は、どこからともなく風のように現れ、まるで存在感を感じさせないまま風のように去って行った。我々は話しかけたから彼の素性が判ったが、もしそうしなかったら、何も判らずじまいだった事だろう。瞑想センターにいた人々の中で彼の素性について気づいた人は、我々以外にいたのだろうか?
D比丘といる間は阿羅漢なる人とはどのような人なのか色々と想像させられてしまった。もしかしたらそんな感じで人々の中に紛れ込み、何気に人々の様子を見ていては、素質がある人は悟りに導く、そんな事をしているような気がする。
きっと我々が気づかないだけなのだ。
私はD比丘の日頃の態度から、阿羅漢についてそのようなイメージを持ってしまった。D比丘のそんな態度は絶対に阿羅漢の影響を受けている筈だという考えを元にして。
だが、この考えは私の妄想に過ぎない。