M氏 台湾人 40代 男性
ミャンマーの中央部は標高1500メートル級の山岳地帯になっている。この一帯はシャン高原と言って、暑いミャンマーの中においては唯一快適に過ごせる涼しいエリアでもある。
観光地としても有名で、ホテルやゲストハウスが乱立し「その数は観光客1人につき一軒割り当てられるほどだ」と言われるぐらいの状態になっている。
この高原にある瞑想センターは暑さに弱い外人たちには人気があって、マハーシ式、パオ式、シュエウーミン式と、外人が多く訪れるところは大抵このエリアに避暑地の支部を持っている。
M氏がその中のマハーシ式の瞑想センターである、M瞑想センターカロー支部までやって来たのが2018年7月。
M氏というのは変わった人で、仕事もせずにお寺に行ってお経をあげたり、法話を聞いたり、仏教の勉強ばかりしている人だ。そして本人は「俺は前世でチベットの僧侶だった」と主張する。
理由はチベットのお経なら一度聞けば直ぐに完ぺきに覚え、唱える事が出来るからだという。
仕事もせずにと言うのは、別に働かなくてもお金はたくさん持っているから生活の心配などしなくてもいいという意味だ。
なぜそんな事が出来るのかと言えば、彼の場合はかなり恵まれた家庭環境にいるからだ。
何でも、彼の父親はビジネスで大成功した人で、多くの社員を抱える会社の社長なのだという。そのため息子であるM氏には別にそこで働いている訳ではないのに、口座には毎月必ず社員同様の給料が振り込まれるらしい。
役員報酬みたいなものか?早い話が毎月の小遣いが社員の給料と同じぐらい貰える立場にあるという訳だ。
だから彼はそれを持っていつでもタイやインド、ミャンマーやチベットなどを訪れてはお寺巡りばかりしている。
本当は出家(永久出家)したいらしいのだが、そればかりは父親が頑として許さないのだという。二代目社長の座よりも悟りの方がいいと言うのだから、本当に変わった人だ。
だが彼に言わせれば
「世の中で一番偉いのは坊さんだ!」
という事になる。彼は自分では社長なんかより、坊さんの方がずっと偉いと信じている。彼から見たら世俗の喜びなど、ちゃちなつまらない遊びのようなものでしかないのだ。
だからミャンマーに来るといつも短期間の出家をして、坊さんの生活を楽しんでいる。
だが、それはM氏が言っても負け惜しみにしか聞こえなかった。なぜなら彼の修行態度は真面目な瞑想修行者のものからはほど遠かったからだ。
彼は瞑想センターには毎年のように訪れるものの、瞑想はほとんどせずに、いつもベッドに寝転がってスマホでツイッターやらフェイスブックやらSNSばかりやっていた。
また、町まで買い物に出かけたと思ったらカセットコンロやらジャガイモやらを買ってきて何やら料理したりしていた。そして「マッシュポテトが出来たんだ。食べないか?」と、他の修行者たちに振る舞ったりもしていた。
更に「トマトやタマネギも買ってきたから明日はスパゲッティーを作ってやる」などと言っていた。
全く瞑想センターでこんな事をやっている比丘というのは初めて見た。本当に瞑想する気なんて微塵もない事が良く判る。
彼が真剣に修行していたのは瞑想よりもむしろ倍音声明という、チベット式の低音でお経を読む時の、独特の発声方法だった。
彼は暇さえあれば「アー」とか「オー」とか、超低音による発声の仕方を練習していたのだ。そんな事ならチベットに行けばいいと誰もが思うのだが、M氏に言わせれば「チベットに行くとまず五体投地を何万回もしなければならないから嫌」なのだという。
では一体彼は何をやりたいのだろう?修行しないならば父親の会社で働けばいいものを、それもしたくないし修行もしたくないしでは何もしたくないと言う事か?
そんなM氏の煮えきらない態度には、本当に見ていてじれったい思いをさせられた。
彼の仏教が好きな気持ちは判るが、こんな事では何のために瞑想センターにいるのかサッパリ判らないではないか。
「まあ修行なんてのは基本的に、心に巣食う子供の頃からのトラウマとか、逆に傷つけてしまった罪悪感とか、人間関係の苦悩とか、挫折感とか、そういった訳の判らないドロドロした思いを取り除こうとしてやるものだからな」
そんな風に思っている私は、あまりにも恵まれた環境にいるM氏には、真剣に修行するための動機がないのも当然だと思っていた。
孤児院を発見するM氏
そのM氏がカローのMセンターに来てからひと月ほど経った頃だったろうか、ある日私と二人で外出した時の事だった。彼は丘の上に何やら古い洋館のようなものが建っているのを見つけたのだ。
「あーっ!何だ、あの建物は?」
そして思わず指をさして叫んでしまった。近づいてみると門の扉には十字架のマークがあり「聖フランシスコ・ザビエル孤児院」と書いてある。
「おおっ!孤児院!しかもキリスト教の!」
何と彼は人口の85パーセントが仏教徒と言われるミャンマーにおいて、珍しくキリスト教の施設があるのを見つけて驚いてしまったのだ。しかもそれは築何年経っているか判らないような貫禄のある佇まいをしていた。
「凄い外観だな。入ってみたいよ。何か凄いエネルギーみたいなものを感じる」
何を感じるのかは良く判らないが、M氏は何やらその建物から感じとったようだ。しかし確かに凄い迫力が漂っていて、得体の知れないパワーだけは伝わってくるのが判る。そんな事で我々は何の承諾もないまま、突然思いつきでその孤児院を訪問する事にしてしまったのだ。
シスターの人柄に魅了される
「この孤児院では2歳から17歳までの子供たちおよそ100人が暮らしています。そしてシスターが3人いて、子供たちの世話をしながら勉強を教えています。ここは孤児院と女子修道院と幼稚園と小学校とを兼ねているのです」
するとその施設に居住すると思われる一人のシスターが出てきて、突然の訪問者の我々の事を嫌な顔ひとつせずに応対してくれた。しかもお茶でもてなしながら気さくな感じでそのように説明してくれたではないか。どうやら彼女はここの園長先生のようだ。
「ここの小学生以下の子供たちはこの施設内でシスターたちから勉強を教わりますが、中学生以上の子供たちは歩いて20分の所にあるミッションスクールへ行きます。大学まで行きたい人は他の町の全寮制のミッション系の大学まで行かせて貰えます。就職したらここを出て行きますが、そのままキリスト教徒を続けるのは3割ほどで、あとは仏教徒に戻ってしまいます」
何と!シスターの話では、この孤児院はキリスト教の布教を目的として設立されたのだという。そして孤児がいるという話を聞けば、このシスターはミャンマー中どこへでも飛んで行ってその子を連れて来るらしい。そして子供たちをキリスト教徒として教育するのだという。なるほど、仏教の強い国でキリスト教徒を増やしていくには、そのようにするしかないのか?
しかもこの施設は全て信者たちからの寄付で成り立っていて公的な援助は一切無いのだと言う。それで子供たちを無償で社会人になるまで育て、しっかり教育を施すのだ。かかる費用も相当なものになるはず。
しかし国民のほとんどが仏教徒であるミャンマーにおいて、キリスト教徒はごく僅かしかいない。恐らく1パーセントぐらいのものだろう。信者たちからの寄付と言ってもたかが知れているのではないか?そのあたりの台所事情をシスターに聞いてみると
「ハッキリ言って苦しいです!いつも日々の糧ために祈っています」
という答えが返って来た。
祈りながら生きる綱渡りのような生活なんてまるでボン・ジョヴィの歌みたいだな。Livin' On A Prayer
だが、それは一目瞭然。見るからにボロ施設なのだから。
しかしどうでもいいがこのシスターは人間が出来ているぞ。突然訪れてそのような無礼な事までズケズケと質問する我々(しかも片方は袈裟を着てる)に対して、いつでもスマイルを崩さず誠実そのものの態度で応対してくれたのだから。
M氏の心境の変化
そんな事があって数日後の事だった。その後もM氏は相変わらずフェイスブックをやりながらゴロゴロしていた。私も相変わらずそんなM氏を「しょーもない奴」と思いながら過ごしていた。そんな時M氏が突然またあの孤児院へ行くと言い出したのだ。
「俺があの時撮った孤児院の写真に記事をつけてフェイスブックに載せたら、寄付金が集まったよ。信じられない事に500ドル(約5万5千円)も来たんだ。それを俺が立て替えて出しておこうと思ってさ。それで俺も先日のお礼に500ドルそれに加えようと思うんだ。そしたら合計1000ドル(約11万円)の寄付になる。あのシスターきっと喜ぶぞ」
驚いた事にM氏は今度はSNSでそんな事をして遊んでいたのだ。彼はフェイスブックで数百人の友達を持っているらしい。その人々に寄付を訴えたのだという。
しかしほんの数日でそれだけ集めてしまったのだから大したものだ。一体何て書けばそれだけ集まるのだろう?彼はどうも、そういう営業戦略みたいなものを立てる術には長けているようだ。
そういう行動に出たのはやはり、恵まれた育ちをしたM氏が、恵まれない子供たちを見て何か思うところがあったからなのだろうか?M氏にその事を確認してみると
「あそこのシスターが凄く気持ちのいい人だからサポートしてやりたくなったんだ」
という事だった。
それで「比丘はお金に触れてはならない」という戒律があるため、私もその寄付金を持ってM氏に同行し、再び孤児院を訪れる事にした。それもまた例によってアポ無しで突然押しかけるという形で。無礼な事は百も承知だが、連絡先が判らないのだから仕方ない。
ポンと寄付をするM氏
「えっ!1000ドル(約11万円)も!」
そして孤児院を訪れるなり、いきなり「先日はどうもご馳走さまでした!ところで今日は寄付を持って来たのですが」と言って1000ドル分のミャンマー紙幣(ミャンマーの通貨はチャットと言う)を見せたものだから、シスターはすっかり驚いてしまった。
「あらぁ!ありがとうございます!」
そして驚くシスターに間髪を入れずにM氏は
「あの、お忙しいところすいません!ちょっと施設内を見せて貰えませんか!できれば俺、少しサポートさせて貰いたいんですよ、出来る範囲でだけなんですけど」
と言って今度は孤児院の中を見学させて貰ったのであった。
施設内にはその時、小学生以下の子供たちが50〜60人ぐらいいて、先生のシスターから勉強を教えて貰っていた。低学年と高学年と2クラスある。
食事の時は教室がそのまま食堂になるらしい。教室の隣の部屋は寝室になっていてベッドがたくさん並んでいる。
案内をしながら、我々の質問に嫌な顔ひとつせずにちゃんと答えてくれるシスター。そしてそれらの写真をひとつひとつ撮っていくM氏。
台所を見せて貰うと数名の少女たちが巨大な鍋でご飯を炊いていた。100人分だから1回炊く量も凄いものになる。働いているのはみんなここの子供たちだと言う。それらの光景をM氏は全てスマホの中に収めていた。
そして施設の裏には自家製の農園があり、中、高生ぐらいの子供たちが、みんなで農作業をしていた。相当食費がかかるのだろう、食費を切り詰めるためにも、作れるものは自分たちで作らなければならないのだ。
建物も随分ボロボロだし、洗面所などはどう見ても数が足りない。これを全て改修するとしたら幾らかかるのだろう?これでは確かにミャンマーにいるキリスト教徒だけでは賄いきれない。外人のサポートも必要だ。
やる気が出たM氏
「よし、この写真をまたフェイスブックに載せて寄付を募るぞ。雨漏りがしたり、子供たちが飢えるような事があったりしたら可哀想だからな」
帰りの道すがら、M氏はそのように呟いた。
その時のM氏の顔はとても活き活きとしていた。今まで見た事がないようなハツラツとした態度で何やら情熱のようなものを感じた。これまで煮えきらない態度ばかり見せられていたのに、この執念みたいなものは一体どこから出てきたものなのか?
「俺は仏教徒だからさ、やっぱり競争でライバルを蹴落としたりする事に抵抗があるんだ。だから父親の会社を手伝う気にはなれなかったんだ。でも、こんな風にお互いに支え合ったりする仕事になれば、俺だって本気出して働くよ」
私の疑問に対するM氏の答えはそういうものだった。やはり人間は働くにも修行するにも目的が大切と言う事か?ちゃんとした目的がないとやる気も出ないものなのだ。
「しかし気持ちいいな。やっぱり仏教は実践だな。宇宙の法則に沿った事をすると人は気持ち良くなれるように出来ているんだな」
そう言ってM氏は、今度は孤児院の近くのゲストハウスから出てきた白人さんのカップルを捕まえて「やあキミたち、あそこにキリスト教の孤児院があるんだが寄付してみないか?仏教の国だから寄付する人が少なくて困っているんだよ」などと言っている。
本当に気持ち良さそうだ。見ているだけでそれが伝わってくる。
瞑想をするM氏
そしてその気持ち良さは瞑想センターに戻ってからも続いていた。M氏はどうしてもその気分を失いたくないらしく、珍しく瞑想をしていたからだ。当然やるのは慈悲の瞑想だ。こんなに真剣に瞑想しているM氏は勿論初めて見た。
「やっぱり妄想に耽ったり、貪り、怒りが出たりすると、この気持ち良さが消されてしまうんだよ。だからいつも気づいて煩悩が出ないようにしないと」
そして何とM氏はヴィパッサナー瞑想まで始めてしまったではないか。しかもよっぽど気持ち良さを失いたくないようで、超真剣に細心の注意を払って気づくようにしている。しかし気持ち良さを追って修行するなどとは、動機が不純なような気がするのだが、どうなのだろう?
だが、確かに慈悲の瞑想をやって、その気持ち良さを失わないようにヴィパッサナーをやると、ついつい気づきを失わないように必死になる。と言うか、気づき自体が気持ち良く感じられるのだ。
「そうだ!確かにこの気持ち良さは、貪欲さから来るものとは違う!うっかり貪欲さが出ると消えてなくなってしまうのだから!M氏は面白い事を発見したな!」
意外や意外!こんないい話をM氏の口から聞く事になろうとは、夢にも思っていなかった。彼は本当にいいものを見つけてくれた。あの煮えきらない態度のM氏は実はこんなにもいい修行者だったのだ。
恵まれた人とは?
そんな感じでⅯ氏はやっと修行の目的を見つけて立ち直る事が出来た訳だが、こうして見ると恵まれた育ちの人というのは、修行の世界に入ってみると一転して修行の動機に恵まれない不幸な人になってしまう事がわかる。
一方で、恵まれない人生を送ってきた人こそが、修行の世界ではバネにするものが多く、大きくジャンプするためのチャンスを得るのだ。これこそが本当に恵まれた幸せな人だと言える。(より高くジャンプするためにはより深いしゃがみ込みが必要)
Ⅿ氏は長い旅を経て、ようやく修行のスタートラインにたどり着けた。思えば恵まれない育ちをした不幸な奴だったが、やっと幸福な人生の入口に立てたのだ。
本当にずっと何の心配も要らない恵まれた人生を送ってきたなんて、何という不幸な奴だ。あまりにも不憫すぎて同情・・・・なんかできない。
「これが恐らく自他の境界がない時の気分って奴じゃないかな?初めて実感出来たよ!これを日常生活でもキープしようと思うんだ」
私がⅯ氏の不幸な人生を憐れんでいるとも知らず、彼はそうやって初めて知る瞑想の気持ち良さに、すっかり舞い上がって大ハシャギだ。
そうやって彼は「台湾で寄付金を集めてからまた数か月後に戻って来る」と言い残してして今回の旅を終え、帰国の途についた。
この時の修行が彼の今までの旅の中で、一番充実したものになったという。