J氏 アメリカ人 80代 男性
J氏が最初にマインドフルネスのS瞑想センターに現れたのは2014年12月。しかしJ氏はこの時既にミャンマーの民族衣装のロンジーという腰巻きを着用し慣れていた。それは何故か?
J氏が生まれたのは第二次世界大戦中のポーランド。彼はユダヤ系で、しかも当時のポーランドはナチスドイツの占領下にあったという。
だから彼は幼少時には、相当恐ろしい思いをしながらアメリカに移住したようだ。アメリカではカリフォルニア州のオークランドで育ったという。
J氏が仏教に興味を持つようになったのは1970年代初頭。ちょうどその頃、現在のアメリカのヴィパッサナー瞑想の草分け的存在であるジャック・コーンフィールドやジョセフ・ゴールドシュタインなどが、タイのアーチャン・チャーの元やミャンマーのマハーシ瞑想センターなどで修行していた。だからJ氏も彼らと同世代の修行者だという事になる。
しかしJ氏が最初に興味を持ったのはヴィパッサナー瞑想ではなく、日本の禅だった。特に公案禅に興味を持ったという。
だから彼は禅の第一関門である「趙州狗子」つまり「無ーっ!」とやる公案の事をよく知っている。だがそれは知識で知っているというだけで、別に見性したという意味ではない。
そんな事もあってJ氏は日本文化にも興味を持つようになり、1980年代の半ばには家族を残して単身赴任という形で来日し、東京のとある英会話学校に勤務している。
東京では最初新宿に住んだが、家賃が高いので中央線の三鷹にある風呂なしアパートに移ったという。
「ミタカ、ロクジョー、セントウ」
だからJ氏は日本人を見るとそんなカタコトの日本語を口にする。銭湯の事がよっぽど思い出深かったのだろう。彼は日本には5年ほど滞在し、次はタイに移ってまたもや英会話学校に勤めた。これもまた仏教への興味からだ。
タイではやがて学校を任されるようになり、アメリカから家族を呼び寄せ、家族で英会話学校を運営するようになる。
J氏はタイでの学校経営に成功すると今度はミャンマーでのコーヒー園の経営にも乗り出す。
ミャンマー中部のシャン高原という山岳地帯は、コーヒー栽培に適した気候をしているため、名産地としても有名だ。彼はここに知人と一緒にコーヒー園を設立したのだ。
更に採れたコーヒー豆は、その場で焙煎され細かく挽かれてパッキングされ、アメリカに送られて、コーヒー専門店などの店頭に並べられる。J氏はそのための工場まで設立したという。
そういう訳でJ氏が民族衣装のロンジーを着用し慣れていたのは、そんな風にミャンマーに滞在し慣れていたからだった。
だから彼はミャンマーに来て自分のコーヒー園を視察した後、S瞑想センターに移って2〜3週間ほど瞑想修行していくのが毎年12月の恒例行事となっていった。
S瞑想センターの2種類の修行者
ところでJ氏がミャンマーで主戦場としているS瞑想センターだが、ここには本館のほか、隣接して直ぐ横に別館というのもある。ではこの本館と別館とは何が違うのだろう?
S瞑想センターの本館では基本的に、年間を通してずっとミャンマー人たちが修行している。それも時間割に合わせて一日中休む暇もなく、ずっと歩いては坐っての瞑想を繰り返している。
瞑想ホールには監視役の尼さんたちが常駐していて、いつも修行者たちの出欠を確認しているので、決して修行をサボる事は出来ない。もし一度でもサボったら即、追い出される。だから本館の方はみんな真面目に修行している。
外人たちはそんな状態の瞑想センターを訪れる訳だが、Sセンターでは外人の滞在期間が限られていて、夏場は7月から10月までと、冬場は12月から2月までの間に、最長3か月間までと定められている。
あくまでも外人はお客様扱いで、ミャンマー人たちと違って時間割通りにきっちりと修行しなくてもいい事になっている。マイペースが許されている訳だ。
しかし尼さんたちは何も言わないまでもちゃんと見張っているので、あまりサボりが目立つとやはり追い出される事になるから、修行は自己管理でしっかりやらなければならない。そういうのが本館の修行者の在り方だ。
一方の別館の方は修行者は外人しかいない。監視員の尼さんもいない。外人専用のスペースになっている。
だが、そこに問題がある。マイペースで呑気にやっていいので、どうしてもダラけた雰囲気が漂ってしまうのだ。
実際ほとんどの修行者は1日3〜4時間ぐらいしか修行せず、ダベってばかりいる。
だから別館の方へ行くと明らかに本館とは異質の空気が流れていて、うっかりすると
「修行なんてそんなに一生懸命やるもんじゃないよ!人生をもっと楽しまなきゃ!」
などという風に思えてきたりもする。下手に糞真面目にやったりすると
「何でそんなに修行するの?キミは修行が好きなのか?」
などとわけのわからない事を言われてしまう。
また、別館の方は食事が美味しい。
ここで食事係をやっているのは韓国人女性だが、料理が上手いばかりではなく、ドイツに6年、インドに2年滞在した経験があり、ヨーロッパ風からアジア風まで幅広いジャンルをこなせる。
特にカレーは抜群だ。
更に年末年始には、毎年日系アメリカ人の寿司職人が修行に訪れて食事係を手伝うので、一層メニューが増えてしまう。
こんな光景を見ただけでも修行とはほど遠い雰囲気である事がよく判る。
そしてここの修行者たちはしょっちゅうみんなで遠足に出かけている。美味しい料理を楽しんで、気の合う仲間たちとの交流を楽しんで、そしてミャンマーの思い出を沢山作って帰っていく。そんなコミュニティサロンのようなスペースがこの別館という訳だ。
別館嫌いの人々
そんな訳で、S瞑想センターに来る外人修行者は、必ず別館好きと別館嫌いとに別れてしまう。
また、別館嫌いは修行者のみならず、その代表格は何と言ってもここの指導者部長の通称SUTことウ・テジャニヤ長老(Sayadow U Tejyaniya )だ。
SUTはやはり熱心な修行者が好きなので、いつも「私は別館が嫌いだ」と言っている。
しかし外人の中には修行の進歩の度合などもあって「本館の厳しいペースにはとてもじゃないがついていけない」という人々もいる。だからそういう人々にだけは別館の滞在を許している。
また、欧米人はミャンマーの辛くて油っこい料理が苦手な人が多いため、そういう人々にも別館の滞在が許される。
だが、勤勉さで定評のある日本人は、大概の人は真面目に修行出来るので、別館でやりたいと頼んでも許可されない。「あなたは本館の方がいい」と一蹴されてしまう。
日本人だけではない。韓国人やマレーシア人なども真面目に出来るので、別館行きは許されない。アジア人で別館行きが許されるのは中国人やベトナム人といった、あまり勤勉ではない人々に限られる。
だから別館行きが許されるのは、あまり名誉な事ではないのかもしれない。しかしいつも別館で修行している人々は私に「アンタも別館に来ればいいのに。何で本館なんかでやってんの?」と聞いてくる。
彼らには別館が天国のように思えているのだ。
まあ、それはそうだろう。そして「SUTが許可してくれない」と言うと不思議そうな顔をされる。
SUTは、別館の修行者たちは彼らなりに一生懸命やっていると思っているから、決して彼らの態度を責めたりはしない。だから彼らはSUTが日本人や韓国人、マレーシア人たちにそのように言っている事を知らない。
また、欧米人であっても別館の雰囲気が嫌いだと言う人々もいる。「あれは修行する所ではない、コミュニティサロンだ」と批判的な人々もいるのだ。
実はJ氏もそんな別館が嫌いな欧米人の一人だった。
イビられるJ氏
J氏は80代という高齢のため、瞑想センターでは若い者たちのペースには到底ついていけない。いつも朝は3時半起床のところを5時まで寝ている。また夜は9時まで修行のところを8時前には上がってしまってとっとと寝ている。
無理せず自分のペースで修行しているという訳だ。まあ、トシだからダウンしないように気をつけながらやるに越した事はない。
だがJ氏には天敵がいた。彼がSセンターに来ると必ずイビる人物がいたのだ。それはベトナム人の尼さんで、外人の世話係をやっているCという、心のどこかに問題を抱えているような女性だった。
この尼さんは物事の考え方が普通ではなく、かなり融通の利かないガチガチの固い頭の持ち主だった。
何しろ高齢で時間割通りに修行出来ないJ氏を「サボリ過ぎ」と叱責するのだから信じられない。
私や他の修行者たちはJ氏は真面目にやりたくても身体がいう事を聞かないという事情を知っているので「まあまあ尼さん、彼はトシだから」となだめるのだが、全然話にならない。
だからみんなJ氏に「本館にいるとイビられるから別館の方へ行ったら?」と勧めるのだが、彼は決して移ろうとはしない。
「俺は別館のあの雰囲気が嫌いだ!」
彼にとっては別館に移る事は、一軍から二軍に降格させられるような屈辱的な事なのだ。
そしてC比丘尼にガミガミ言われながらも本館でマイペースを通そうとする。傍から見ればどうにも見ていられない無茶苦茶な光景に違いない。
だが、それはおそらくJ氏の50年にも及ぶ修行歴から来るプライドだろう。
「俺は歳をとっても、まだあそこまで落ちぶれちゃいねえ!」
生涯現役。J氏は英会話教師もビジネスも瞑想も、いずれも引退するつもりはない。どんなに歳をとっても、身体が動く限りはずっと現役でやり続けるつもりなのだ。
J氏が修行に目覚めた理由
しかし、80歳になってそれだけ意地を張れるというのも大したものだ。普通はそこまでいったら素直に楽な方向に行くはずだが、J氏はまだまだ自分を磨こうとする気持ちを持ち続けている。生涯を修行者として貫こうとしているのだ。一体何が彼をそこまでさせるのか?
「いや、実は俺もここまで瞑想にのめり込むようになったのは最近なんだ。2014年に74歳で初めてここを訪れてからだ。その時SUTに所有格についてアドバイスされて、いっぺんに心が楽になってしまった。それ以来マインドフルネス瞑想にハマるようになったんだ。タイでも色んなお寺に行ったが、SUTの話が一番良かった」
なるほど、J氏は長い間瞑想をやってきたが、本当にハマり出したのはここ5〜6年の事だった訳だ。そのきっかけというのがSUTの「所有格の話」だったのだという。つまりキャリアは長かったが、本格的にはやっていなかったのだ。
そして70代半ばになってやっと目覚めさせられてマインドフルネス瞑想に狂い始めたらしい。
それじゃ確かに呑気にやっている訳にはいかない。先行き短いと言っては失礼だが、やっと求めていた教えに出逢ったのだから、死ぬ前に何としてでもマスターしておきたいと必死になるのも当然。
「やっと判ったよ!」
それで、それまで変な爺さんだと思っていたJ氏が理解出来た。それにしてもその歳になった人間をそこまで変えてしまったSUTのその話というのも凄い。
それによって周囲にいくらでもお寺がある環境にいるはずの高齢者が、わざわざ荷物を担いでここまでやって来るのだから。
では彼をそこまでさせる「所有格の話」とはどういうものだったのか?
「この老いゆく心身、病みゆく心身、死にゆく心身に『俺』『俺の』としがみついた時と、そう思わなかった時との反応の違いを観察してみてはどうでしょう?」
J氏は初めてSUTの指導を受けた時、そのようにアドバイスされた。まあJ氏だけではない。Sセンターでは歳がいった人は大体そういう風に言われるものだ。定番メニューみたいなものかもしれない。だが、言われるがままにその反応の違いを観察した彼は、それまで感じていた迫りくる老、病、死への不安が薄らぎ、驚いた。
そればかりではない。この所有格は何をやっている時にでも観察出来て、様々な発見があった。
例えばテレビで自分の好きな歌手を見ても、その歌手が貶(けな)された時はどんな思いがするか?
そしてその歌手を貶されても「俺の」と思わなかったらどんな思いがするか?
あるいは自分の家や家族の事を口の悪い奴に貶された時はどんな思いがするか?そして貶されても「俺の家」「俺の家族」と思わなかったらどんな思いがするか?
そんな感じでこの命題の観察は、いくらでも応用が効いた。
「凄い!これさえ判ればもう怖いものはない!この所有格こそが苦だったんだ!」
だからJ氏は、それまでの心の苦悩がほとんどなくなり、すっかり気が大きくなってしまった。そしていつでも、何をやっている時でもそれにハマって観察するようになった。
もう生涯に渡って死ぬまでこれを観察しようと思った。死ぬ寸前も当然これを観察する。
J氏から元気を貰う
なるほど。確かにそんな体験があれば、歳の事なんか言っていられずに修行するはずだ。「別館の奴らとは違う」と思うのも当然。そしてその熱い思いは心身を若返らせる。
J氏の人生は80代になって本当に充実したものになった。それはいい事だ。
そんな感じでJ氏は、現在は修行すればするほど元気になるようなハツラツとした日々を送っている。まだまだ気力が衰える気配はない。何しろ観察すればするほど新しい発見が出てきて一層やる気になるのだから。
「瞑想で智慧を得るという事は、こんなにも心身を甦らせるものだ」
私の方もJ氏を見ていて、いい事を覚えたような気になって、すっかり嬉しくなってしまった。
一方のJ氏は逆に「まさかこの歳になってハマるものが出来るとは思わなかったよ。この事はもっと若いうちに覚えておけばよかった。俺はあんたの方が羨ましいよ」と言う。
いずれにしてもこの瞑想修行は、人生を充実させるものになるのは間違いない。その事が確信出来て以来、私はますますこの道を行く事に自信を深めた。
そんな訳で年に一度のJ氏との再会は、私にとってなくてはならない年中行事のひとつとなった。毎年12月にJ氏に会うのがとても楽しみで仕方ないのだ。
天敵とされるC比丘尼も、きっとそんなJ氏にはいつまでも現役でいて貰いたいと思っているに違いない。
「あんた絶対衰えちゃダメよ」
そういう気持ちがああいう態度になって表れているのではないか?
そう思えばこの2人のいがみ合いを見るのも、年に一度の楽しみのひとつになる。
だからJ氏は修行しているだけで、他の修行者たちを元気づけている事になる。
私もたくさんの元気を貰ってしまった。
そんな訳でこのJ氏には「生涯現役でいて下さい」と、心から願わずにはいられない。