B氏 スペイン人 30代 男性
「やあ5年ぶりだね!」
「俺の事憶えてる?...アミーゴ!」
スペインの瞑想指導者B氏がS瞑想センターを訪れたのが2018年12月。そして彼は私を見るなりそう言った。アミーゴって言われても………
???
実は、彼は2013年にもSセンターでひと月ほど修行していて、今度が二回目になるのだという。そして前回訪れた時にも私と会っていると言った。
「ハア?」
しかし私はサッパリ彼の事を思いだせなかった。なぜならその時会ったB氏はこんな容貌をしていたからだ。
だが、確かに私はその5年前にBという名前のスペイン人に会っている。
その事はよく憶えている。しかし私の記憶にあるその人物はこんな感じの人だった。
その後、フッと何が起こったのか事情が掴めた。そしたら怒りにも似た感情がこみ上げてきた。
「なんちゅー太え野郎だ!前回会った時から20キロ以上も肥って別人のように膨れ上がってるくせに『憶えているか?』だと!しかも髭にメガネまでつけてるし、こんなの判るわけねー!」
私はB氏のあまりの図々しさに、そんな風に憤りをおぼえずにはいられないかった。どうも彼は体型のみならず、神経の方も図太い奴になったようだ。
一体この5年の間に彼の心身にどのような変化が起こったというのか?
アジア各地で修行したB氏
B氏が前回ミャンマーを訪れた時は、まだ彼は修行の旅の途中にいた。
彼は中学時代に瞑想に興味を持ち始め、高校時代はチベット仏教に傾倒し、大学時代は修行関連の本を読み漁っていたという。そして仏教についての研究を深め、博士号まで取得した。
その後、彼はそれまで学んだ教えを実践すべく、アジアの仏教の国を目指して修行の旅に出た。
彼はインドを皮切りに、まずネパール、チベットで修行を積む。B氏の修行の土台となっているものは、あくまでもチベット式の瞑想法だ。そしてチベットではある程度集中力をつけると、今度は自己観察瞑想、つまりヴィパッサナー瞑想の修行に移るのだという。
これはゾクチェンとかマハームドラーと言われる瞑想法がそうだが、それらはテーラワーダー仏教でやっているマインドフルネス瞑想とほとんど同じものらしい。
だからB氏は今度はいい師を求めてタイ、そしてミャンマーに移り、またしても数年に渡って修行を積んだ。
そしてその旅の途中で様々な人々に出逢った訳だが、私もその一人だった事になる。
それから修行の旅を終えて帰国したB氏は現在、スペイン国内のみならず、イギリスやアメリカの様々なマインドフルネス瞑想団体において仏教を教えている。
・オックスフォードマインドフルネスセンター
・IMS(洞察瞑想協会)
つまりあれから5年、今回はB氏は単なる修行者から、教える立場に変わっての再訪問となった訳だ。
だからそんなに肥ったのかどうかは判らないが、彼はとにかく前回とは立場も体型もメンタルの方も、驚くほど変わってしまっていたのだ。
B氏のもうひとつの顔
また、B氏にはもうひとつの顔があった。実は彼はジャズピアニストでもあった。
自分のバンドを持っていて、定期的にライヴも開催しているし、何かのイベントに呼ばれれば、そこに出向いて演奏する事もあるという。
そしてそのピアノの演奏は、彼にとって大事な瞑想修行のひとつでもあった。
「マインドフルに弾くと自分を感じなくなって身体が勝手に動いているように感じられて面白い。まるでロボットになったみたいだ。だから俺はみんなに勧めてんだよこれを」
何と!身体が勝手に動くだって!?
B氏は突然おかしな事を言い出したぞ!
それは一体どういう事なんだ?
などと一瞬B氏に驚かされてしまったが、よく考えれば別にこれは変な事を言っているのではない。日常生活の動作を気づきながらやっていれば誰でも経験する事だ。
例えば自転車を運転する時などが判りやすいかもしれないが、その時はハンドルを持ってペダルを漕ぎながら倒れないようにバランスをとっている。しかもそれらの動作を全て同時にやっている。更に進行方向を見て障害物を避けながら、なおかつ横を通る人々にも気をつけている。これらもみんな同時にやっている。
そんな時に「私が乗っている」などと思ったらどういう事になるか?「私とは一体何をやっているものの事を言うのか?ハンドルを操作している者か?ペダルを漕いでいる者か?前を見ている者か?後ろに気をつけている者か?ブレーキをかけようとしている者か?」
と、訳が判らなくなってしまう。
しかし運転操作をマインドフルに「私」抜きでただやっている事に気づくだけにしておくと、B氏が言ったように身体が勝手に動いているような、つまり心身の機能、身体、感受、想念、意志、認識の機能が操作する者なく、それ自体で、つまり因縁だけで働いている事が実感出来るという訳だ。
恐らくこの程度のぞんざいな説明でB氏の言った事が理解出来る人というのは相当な瞑想マニアだ。また、B氏もこんな訳の判らないマニアックな事を楽しんでいるなんて相当変わった人だ。
だが、それを聞く事で彼がそうやって工夫しながら、いつでも気づきを切らさずに生活している修行熱心な人である事が判る。また、彼はそれを「修行」という風に堅苦しく捉えず、遊び感覚で楽しんでやっている事も判る。
だから私も彼に勧められるがままにそれを遊びとしてやってみた。修行ではない。いわば「ロボットごっこ」だ。
「いつでも気づきを切らさないようにしていると、自分という感覚が消えて、心身が勝手に動くロボットみたいに思えてきて楽しいんだってさ」
そうやって自分に言い聞かせながら日々の生活をマインドフルに過ごしてみた。そしたら何と!気づきが継続し、心がどっしりと安定するようになったのだ。
「なるほど、彼が太え奴になったのはこんな事をやっていたからか!」
そして彼の心身の大きな変化の原因が少し判ったような気がした。
B氏の趣味
B氏は5年前の修行の旅でアジア各地を回って、すっかりアジアびいきになった。
特にアジアの芸術や食べ物はお気に入りで、ヨーロッパの街角でも何かアジアのものを見つけると直ぐに購入してしまうという。
また、B氏は日本は訪れた事はないが、当然日本文化や食べ物にも興味を持っている。
実際、彼の愛読書は三島由紀夫と村上春樹なのだという。
更に彼の好きなお菓子はイチゴ大福らしい。
イチゴ大福はどこで手に入れるのかと思ったら、マドリッド市内のお菓子屋で手作りイチゴ大福を売っている店があるのだという。しかもそこの菓子職人はスペイン人だというから驚きだ。
また海老天も好きでよく日本料理店に食べに行くらしい。だが彼に言わせれば、天ぷらというのは元々は南スペインの料理なのだという。500年ほど前にポルトガル人が日本に持って行ったという事だった。という事はスペインの天ぷらは、逆輸入という事になるのか?
それだけではない。パンも同様にポルトガルから伝わったものらしい。
そもそも「パン」という単語はスペインとかポルトガルとかイタリアあたりの言葉、つまりラテン語なのだという。
歴史に疎い私はB氏と話していてこんな風に色々学ばされ、思わず心が大航海時代に飛んだ。B氏は仏教のみならず、こういう雑学的知識も豊富な人だ。
どうでもいいが、彼は海老天とかイチゴ大福とかが大好物なのであれば、そりゃあ20キロ以上も肥るのも当然だわな。B氏の急激な体型の変化の裏にはそのような事情が隠されていたのだと思わず納得した。
B氏の課題
そんなB氏にはひとつ課題があった。それはアジア人たちをちゃんと見分けられるようになる事だった。今まで色んな国に行ったにもかかわらず、アジア人たちを見ても誰がどこの国の人なのかサッパリ見分けがつかない。だからそれをちゃんと見分けられるようになりたいのだ。
「俺はヨーロッパ人だから白人なら見ただけで『あれはロシア』『あれは北欧』『あれはラテン』と判るのだが、アジア人についてもそれだけ判るようになりたいんだ。というのも仏教って国によって違うけど、それは民族性によって解釈が違ってくるからだと思うんだ」
なるほど。B氏はどうやら今度はそういう視点から仏教を研究してみたいらしい。確かに民族性と修行方法というのは関係がある。
例えば中国人はジッとしていられないタイプの修行者が多いが、彼らにマインドフルネス瞑想などという、コツコツと長い年月をかけて修行を積み上げていくような修行が向いているとは到底思えない。
また、中国人は一挙手一投足にラベリングを入れるマハーシ式のような方法も嫌がる。彼らに大人気なのはスンルン式という、痛いけど即効で禅定(対象との一体化)を得る事の出来る、じれったくない方法だ。
いかにもという感じがする。
そしてそういう所から修行についての考え方が変わってきてもおかしくない。そういうタイプの人々は禅定至上主義者になって、マインドフルネス瞑想などという、いかにももどかしい方法を嫌がり、見下す傾向にあるからだ。
チベットには観察の瞑想は伝わったものの、中国には集中の瞑想しか伝わっていないのは、そんな民族性が関係あるのかもしれない。
また、中国に行くと本来リラックスしてやるスタイルの瞑想が、棒を持った指導者に叩かれながら緊張してやるスタイルに変わる。
これは一体どういう訳なのか?
やはり中国人というのはジッとしていられないから、そうやって無理矢理やらせないといけないのか?
そしてその禅がアメリカに渡ると、今度は棒がなくなる。アメリカ人はたとえ修行であれ、他人を叩くという行為を肯定したがらないからだ。つまり修行が民主化される訳だ。
「するとB氏のように修行を楽しく遊び感覚でやってしまうというのは、ラテン系の人々の性質から来ているのか?」
そのあたりの事からも、私はなんとなくB氏の言いたい事は判った。
それでB氏はアジア人修行者を見かける度、私に「彼は何人だ?」「彼女は何人だ?」と聞いてくる。
しかし考えてみたら私も、外見だけ見てもアジア人は全然区別がつかない。
中国人も韓国人も台湾人、マレーシア人、ベトナム人、日本人も、どれも同じようなものだ。
普段着を着ているのならともかく、瞑想センターという所はどこの国の人もみんなミャンマーの民族衣装を身につけているのだ。同じような格好で同じような顔をしていたら全く誰が何人なのか判らなくなってしまう。
そもそも私自身が日本人に見られない。インドやスリランカの人々からは「あんたインド人か?」と言われるし、中南米の人々からは「スペイン語出来るか?」などと聞かれたりする。「日本人です」と言おうものなら必ず「お父さんもお母さんも日本人か?」と疑われてしまう。
「それはちょっと難しいな!」
だから今まで考えた事もなかった事を言われて、私も頭を抱えてしまった。
この人々がどこの国の人なのかを当てろだって!そんな事出来ない!
常識感覚に見る民族性
「でも外見ではなく、生活態度の方を見るのであれば簡単にアジア人を区別出来るよ!」
だが、よく考えれば私はいつもアジア人たちを大体見分ける事が出来ている。
白人と違って黄色人種は外見上の差異は少ないが、気質とかモラルとかマナーとかは民族によってずいぶんと違っているからだ。私はとっさにそんな事を思いついた。
「外見ではアジア人を見分ける事が出来なくても、確実に民族性が表れて、簡単にどこの民族かが判ってしまうものがある。それは食事の作法だ。こればっかりは生まれた時からの習慣でしっかり身についてしまっていて、変えようにも中々変えられない。しかもこれは民族によってずいぶん違っているからこれを見れば一発で見分けられる!」
私は直ぐB氏にそう提案した。
例えば中国人というのは、自分に割り当てられたものは何でもゴチャ混ぜにして食べる。ご飯があっておかずに肉と野菜があって、スープがあって、デザートにアイスクリームとビスケットがついていたとする。すると彼らはアイスクリームをおかずにご飯を食べて、ビスケットをスープに浸して食べて、とにかく味なんて関係なく、そこにあるものは全部混ぜこぜにして食べるのだ。
また、韓国人や中国人の魚の食べ方は凄い。頭から尻尾から思いっきりかぶりついておいて、口の中でガツガツ咀嚼しておいてから思いっきり骨を「ペッ!ペッ!」と唾を飛ばしながら吐き出すのだ。
韓国人はまだ自分の皿の上に吐き出すが、中国人はテーブルの上に吐き出す。豪快と言ったらいいのか、品が無いと言ったらいいのか判らないが、それを見せられている方はたまったものではない。
だから欧米人の中には、魚が出る日は彼らとの食事の同席を避ける人も多い。
また中国人たちは庭を歩いていても、ゴミ箱があったり植え込みがあったりすると、直ぐそこに唾を吐く。それも男女関係なく、みんなでペッペッとやっている。決して他の民族はやらない。これは中国人だけの専売特許だ。
「なっ!そういう所を見ればいいんだよ!」
それだけではない。瞑想センターにいると毎朝の掃除が日課となっているのだが、これは任意であって別に当番制で義務付けられているものではない。だから参加は個人の自由に任されている。
だが、義理固い日本人や韓国人はこういう事には絶対参加する。マレーシア人もする。ドイツ人もする。アメリカ人はする人もいればしない人もいる。
だからそのあたりで責任感の強さが判る訳だ。しかしベトナム人や中国人は絶対に参加しない。
ミャンマー人たちはそれを「彼らには感謝の気持ちがないからだ」と言う。しかし真偽のほどは判らない。
「やっぱり棒で叩かなければダメなんだな。あの人たちは」
そういう訳で中国人たちを見ていると、瞑想が中国に渡ってあのように変化した理由が判るような気がするのだ。
それはそういう気がするだけで本当かどうかは判らないのだが。しかし我々と同じ人種でありながら、どうしてこんなに違うのか?
B氏をテストする
それから数日後の事だった。食堂でちょうどB氏と同じテーブルに私と中国人2人がついていたので、食後に何気なく彼がどれだけ黄色人種を見分けられるようになっているかをテストしてみた事があった。
「B氏、彼らがどこの人なのか判るかい?」
その時私が指差した2人は、どこからどう見ても中国人にしか見えない人々だったので、少し簡単過ぎるかと思っていた。
だがB氏の方は首をかしげて「うーん」と考え込んでしまい、挙げ句に「キミはどこから来たの?」と聞き始めた。
「ダメだよ聞いたら!テストにならない!」
私がそれを制止するとB氏は「いや、俺もうそんなのどうでも良くなってんだよ今」と言う。
「『中国人』とか『韓国人』とかみんな概念じゃないか。『白人』も『黄色人種』もみんな概念だよ。キミいい事言ったよ。
キミは先日概念の方じゃなくて行いの方を見ろって言っただろ?だから俺は今、行いの方ばかり見るようにしてるんだ。
ついでに言えば『俺』ってのも概念だ。だから自分を見る時も他人を見る時も行いしか見ないんだよ。凄くいいよこれ」
私が数日前に言ったのはそういう意味ではなかったのだが、どうもB氏は勘違いして早くも違う方向に行ってしまったようだった。
しかし言われてみれば確かにそうだ。『白人』も『黄色人種』もみんな概念だ。あとは『社長』とか『従業員』とか『学歴』とか『社会的地位』とか『成功者』とか『失敗者』とか『偉い』とか『カス』とかみんな概念だ。
ついでに言えば『今どきの人』とか『古臭い人』とか『優・劣』とか『善・悪』とか『老・若』とか『男・女』とか『上・下』『左・右』『美・醜』『賢・愚』『大・小』『長・短』狂、腐、珍、鈍、汚、吐辱瘡魑糟糞臭叫凶堕難呆塵垢陰迷獄暗非魔奴怪穢卑酷辛沈禍喪棺膿廃眩倒損惨・・・
と、数え上げればキリがないが、こんな概念ばかり見ていてはおかしな事になってしまう。
簡単に肩書きに惑わされて騙されてしまうではないか。実際騙されやすい人とは、肩書きだけ見て直ぐ信用してしまう人だ。
「そうだ!人を見る時はそういう概念の方ばかり見ていてはいけないのだ。行いの方を見なければその人の本当の性格は見えてこない」
そしたら私の方もそうやってB氏の言う事にすっかり感心させられてしまった。それはいい事だ。そして一番騙されてしまう肩書きとは『私』だ。
「私はどんな奴なのか?」と考えたり「俺はコレコレこういう奴だ」と考えたりする事は、概念上でしか存在しない架空のものの事にアレコレ考えを巡らせる無意味な行いだ。それなのにいつも「私」という概念について考えを巡らせて疲弊してしまう。
だからそんな妄想を見てもどうなる訳でもない。そしてそんな愚行を止めるには、やはり実際の行いの方を見るようにするしかないのだ。
これはもう『私』という肩書きに騙されて詐欺被害に遭っているのと同じ事だろう。
私はこの人生、ずっと肩書きを振りかざして巧妙に丸め込もうとする「俺、俺」詐欺に引っ掛かっていたのだ。
次はどうなっているか
黄色人種の見分け方の話が、どういう訳かそういう話になってしまった訳だが、そういう訳で私の方も、B氏とやりとりしているうちにいつのまにか彼と体験を共有し、引っ張り上げられてしまっていた。こういう事があるからやはり瞑想センターにいる間は、真面目にやってる人と付き合った方がいい。サボり組と付き合うと逆に足を引っ張られる事になる。
そんな感じでB氏は、今回も3週間ほどのSセンターでの修行を終えて帰国していった。
5年振りの再会は全ての面での彼の進歩を見る事が出来た。彼は何もかもが一回り大きくなっていたのだ。まさかこんなになっているとは思わなかった。
次に会うのはまた5年後になるのだろうか?そしたら単純計算で彼の体重は120キロぐらいになっているはずだ。それに伴ってメンタルの方もそのぐらい膨れ上がっている事だろう。
B氏にはラテン系のノリで、修行を楽しくやる事を教えて貰った。
これは本当にいい事を覚えたと思っている。私の一生の財産にしたい。彼には感謝という事で、では最後にB氏のピアノ演奏を紹介したい。
まだ痩せていた頃のB氏のマインドフルな演奏とは果たしてどんなものか?最後までごゆっくりお楽しみ頂きたい。