【ウ・テジャニヤ長老の名言 第2集】瞑想脳が開かれる珠玉のことば集

2021年3月6日土曜日

名言集

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 ウ・テジャニヤ長老の言葉をツイートした中から特に人気のあったことばを集めた第2弾です。


なにげなく読んでいくうちに「マインドフルネス瞑想を前進させる智慧」が体にしみこんでいき、繰り返し読むことで「瞑想脳が築かれて」ていくでしょう。


テーマは look a nice(長老の決めセリフでローカナイスと発音)ありのままを見るです。







ブルー枠は長老による単独のメッセージ。
(修行に迷うすべての瞑想者への助言)

オレンジ枠は、長老と修行者(ヨギ)とのインタビュー時の対話です。



look a nice 名言集



日常生活において気づきを継続させるには、緊張感やリラックスしている事をメインに観察する事を勧める。

他人に会っている時や、話している時は気づきが失われやすいが、心身の緊張感を観察すれば、思考も感情も見えてくる。興奮しても直ぐ対処出来る。




修行者

物事は全て自然の中で起こっていることであり、人間が体験出来ることも全て自然のことであり、個人的なことではないと考えていいのですか?


長老

その通り。心と身体で起こることは全て自然に属することになる。




体験はこの一瞬だけあり、次の瞬間には全て消えてしまう。だから実際には私たちの寿命は常に一瞬だけだ。

ではどうすれば多くの瞬間に気づいていられるか?

私たちは決して満足する事のない、楽や幸福を求めて止まない衝動に従うより、それに気づいている方が簡単に楽に幸福になれる。




気づきを継続させれば智慧も継続する。煩悩は注意を概念に向けさせ、体験を大げさに捉えさせてしまう。

しかし智慧は注意を実際の感覚に向けさせるので、心を落ち着かせる。

だから気づかなければ煩悩に惑わされっぱなしで、妄想から逃れられなくなる。




修行者

心が外部のものに影響されてしまいます。特に群衆の中にいると動揺します。


長老

外のものばかりに注意を向けていると圧倒されて動揺してしまう。そんな時は心を内側に向け、生じている感覚や行っている動き、心の状態などに注意を向けるべきだ。







瞑想の対象となるのは心と身体で起こっている事であって、外部のものではない。

外部の対象に心身がどう反応しているかを観るのだ。

人々に注意を向けると「群衆」などと考えてしまい、その概念によって動揺が生じる。

しかし自らの心身の現象の方を観れば落ち着く事になる。




修行者

食事中音楽が聞こえてきたので、心がそれに合わせて歌を歌い始めました。そして歌を止めようとすると止まり、止めなければ続けてしまう事に気づきました


長老

そこには好みがあり、意志があったから心の中で歌ったわけだ。そういう時は止めないで、意志を観察した方がいい




瞑想中は何があっても起こっている事を止めない。

止めたら行おうとする意志が確認出来なくなる。

歌おうとする時は歌おうとする意志を、踊ろうとする時は踊ろうとする意志を観察する事が大切だ。

意志がわからない時は、好みの気持ちや心の中の歌を観察する。




修行者

病気に罹った時は修行を止めていいのですか?


長老

病気の時は尚更修行する必要がある。なぜなら病気の時に気づいていないとどうなるか?病気の時や問題のある時にこそ気づいていなければ、より多くの不満と抵抗によって、多くの煩悩が生じる。




状況が良くない時に気づいていないと、余計に不満や怒り、嫌悪感を生じさせ、苦しみを増大させる。

良くないに時こそ、修行する必要があるのだ。

良くない時にこそ、目を覚まして警戒する必要がある。

そうしないと怒り、嫌悪感から来る思考に悩まされる事になる。




それから何が起こってもそれは自然の現象であるという事。

心身に起こる事は全てそれ自体で起こっていて、誰が起こすのでも誰のものでもない。

「私」「私の」と所有してしまわないようにする。

それを様々な角度から検証してもいいし、わかりやすく自分だけの言い方にしてもいい。







気づきは対象にくっついてしまい認識し難い。

だから気づきを観察したい時は、注意を向けるプロセスを観察した方がわかりやすい。

こちらの対象や、あちらの対象に注意を向ける事はわかるだろうか?それらの感覚と注意を向ける心の活動とは分離しているのが明らかだ。




気づきは眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官の上で起こっている事を認識する。

この六門からの刺激を観察していれば、それが気づいているという事になる。

時々貪欲さや怒り、妄想の体験をするが、それらは不快、苦に感じられる。

だが瞑想する心は、落ち着きと安定に残る事が出来る。




気づきには価値があるが、体験する事はどうでもいい。

大切な事は瞑想する心がしっかり安定しているかどうかだ。

もし瞬間瞬間ごとに安定していれば、更に安定が増す。

体験よりも大切なのは気づく事であり、更に大切なのは瞑想する心が安定している事だ。




雑念・妄想を観察する時は、心が思考の筋にハマっているか、性質の方に注意を向けているかを観る。

思考の筋は概念に過ぎないが、思考している事については知る必要がある。

心の性質とは生じては滅していく事。

考えたり知ったりするものの事を、私たちは心と呼んでいる。




全ての修行者はブッダの教えと宇宙の法則を信じている。

そしてそれを行う事が有益であると信じている。

だからみんな修行しようとする。

それは仏法への信だ。

修行しなければ人生は厄介で複雑で苦しい事ばかりだが、修行によって心の質が向上し、生活も向上する。







修行者

対象となるものをはっきり観ようとすると、心が緊張してしまいます。


長老

都合の悪い事はあまりはっきりと観たくはない。まず観れるところから観ればいい。ただし気づきは維持するように。対象は明確でなくても問題ないが、気づきが維持できないとなると問題だ。




気づきが強くなれば観ようとしている対象は自ずと明確になってくる。

だから無理に観ようとするのではなく、気づきを維持する事に重点を置く。

物事をはっきり観察しようと思うと心が緊張するので、決して自らに強いる事のないように。




心が対象となるものの事を受け入れれば、その対象に執着する事はない。

修行者は快いものも不快なものも、共に等しいものであると学ぶ必要がある。

煩悩は対象が良いか悪いか考えたがるが、智慧は対象が自然のものであり、単なる対象に過ぎない事を知っている。




修行者

不安や恐怖を観るのに十分な技量がないと、不安や恐怖は大きくなりますか?


長老

私たちは弱いので強い敵と対峙する前にパワーアップする必要がある。感情を処理出来ない時は呼吸を観察し、心を落ち着かせてからもう一度感情と向き合う。そうしないと煩悩に負けてしまう。




修行者

何が起こっているのか気づく事は出来ますが、それで苦しまなくてはならないのが辛いのです。


長老

対象に判断や解釈を加えると、対象と悪しき関係を築く事になる。だが、ありのままに観察すれば、何度起こってもその体験は学びの機会になる。




過去の記憶にしがみつかず、それを観察する。

たとえ辛い思い出であっても、その感受は条件が揃う事で生じてくるものだ。

理解してきた事を適用してみる。

原因は結果を導くと。

そうすればその体験は誰が起こすのでもなく、体験自体のプロセスだという事がわかってくる。







このマインドフルネス瞑想に於いては、心をひとつの対象に留めず、心に行き先を選ばせるようにする。

しかし激しい怒りや貪欲さに負けてしまいそうな時だけ、呼吸などの中性の感覚の上に心を留めて、煩悩をやり過ごす。

直接対決を避けてパワーアップしながら気づきを維持するのだ。




修行者の目標は「私がいる」「私のもの」といった妄想を打破する事にある。

心を苦しめ、苦しみを永続させるのは、この無明だからだ。

そして私たちがすべき事は心身に生じる感覚に気づく事だけだ。

気づきがあれば思考は継続できず、固定観念や実体幻想、所有幻想を崩壊させていく。




対象に気づく時はいつでも智慧が成長する。

それは気づきと対象とが分離しているのを観る事になるからだ。

心が気づきと対象との分離を観れば観るほど智慧は育っていく。

洞察の智慧が育つほど、心の平穏さも大きくなっていく。

つまりそれは経験を積み重ねていくという事だ。




修行者

エネルギーのレベルが低い時、自分の努力で対象を観察するのが大変に感じられます。しかし、自然の努力であれば自力を必要としません。


長老

智慧があれば自力は要らない。通常「自分の努力」と言っているものは、自分のではない。努力がそれ自体で働いているだけだ。




私たちは物事を「私が」「自分で」やっているように思っている。

煩悩があって智慧が育っていない時はそう思えるのだ。

だが智慧が育つと努力がそれ自体の仕事をしているように感じられてくる。

実際にそれは個人的なものではない。

実際に「私」に出来る事ではないのだ。




気づきが弱まったら気づきのバッテリーを充電する必要がある。

それには2つの方法がある。

まず、5~15分の短い時間でいいから、1日3~4回は坐る瞑想をするようにする。

あとは日常生活の繰り返しを伴う動きを利用して気づきを継続させ、気づきに勢いをつける。




時々、自然の気づきが高まっている事に目を向ける。

私たちは自然のエネルギー、つまり繰り返しのエネルギーを使って気づきを高めているのだ。

気づきを繰り返す事で自然のエネルギーが高まる。

だから気づきを止めると自然の気づきが育たなくなり、智慧が追いつかなくなる訳だ。







貪欲さや怒り・嫌悪感といった煩悩は、対象を判断や解釈することなしに生じることはない。

無痴なしに貪、瞋は生じないのだ。

判断や解釈を止めて、ありのままの現実を見ると苦しみは止まる。

煩悩は概念を対象にとるが、智慧は現実を対象にとる。




気づきがない時は貪欲さと怒りと妄想とが心に蓄積される。

しかし気づきがあれば、それらが新たに蓄えられることがないので、煩悩は成長しない。

そして私たちはこの真理に触発され、体験し、理解出来るので、揺るぎない信を確立することになる。




心が気づく度に不善心は成長できず、新しい善業の種を蒔くことになる。

心が気づく度、点が線になっていくように、悟るための情報を収集する。

通常、私たちは煩悩に抵抗せず、心に二重の痛みを引き起こすが、気づく事で体験をありのままに観察し、2本目の矢を放つ事を止める。




人生の問題が発生した時、私たちは最初にまず頭の中で解決しようとする。

だが、悩んでいると思考が一方向に偏ってしまう。

貪欲さや怒りがあると心が動揺している時に解決しようとしてしまうが、智慧があれば心が穏やかな時に解決しようとする。




私が森で瞑想していた時、蝉がとても賑やかだった。

最初はその音だけが存在すると思っていたが、それ以外はとても静かな事に気づいた。

だからそのうち、音も静けさも両方対象にとるようになった。

観察を続け、気づきが高まり、智慧が入ってくると、沈黙も存在すると理解した。




「ありのままに見る」とは「怒りや不安、悲しみ、貪欲さがあってはならない」ではなく、それらがあるのを認める事。

純粋な心を育てるには、行動を動機づけている思いを観察する事だ。

怒りや不安、悲しみや渇望を押しのける思いは瞋恚だ。

瞋恚で心を育てる事は出来ない。




心が機嫌悪い時、つまり煩悩に支配されている時に心の質を変える簡単な方法は、考える事よりも機械的に気づく事だ。

智慧も煩悩も思考を通して心に現れる。

煩悩のパワーは強いので、智慧による思考をするのは困難になる。

だから理解よりも気づくようにする。






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  最終更新日 2023.12.31

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