R氏 メキシコ人 40代 男性
私が最初にR氏に会ったのは2008年の4月、ミャンマー中央部の第二の都市マンダレーから車で1時間ほど東に向かったピンウーリンという町にあるマハーシ式のC瞑想センターの支部での事だった。
私とR氏はここで同室という巡り合わせになったのだ。
この時はR氏は30代半ばでまだ出家しておらず、奥さんのHさんと一緒に修行に訪れていた。R氏はメキシコシティ出身のミュージシャンで、楽器はピアノがメインだが、ギターでもベースでも何でもこなせるという器用な人だった。
その時点でミャンマーには奥さんと2人で4年以上いると言っていたが、という事は計算すると2004年の初めからずっと修行している事になる。すると2人でずっと瞑想センター内で別々に暮らしていたのか?
奥さんのHさんはマカオ出身の語学力に長けた人で、英語と広東語は勿論の事、おばあちゃんがポルトガル人だという事で、ポルトガル語もネイティヴなのだという。
また北京語とスペイン語はその後の努力でモノにし、更に京都のある大学で6年間国際政治について勉強した経験から、日本語もほぼ完璧に話す。
この奥さんは修行好きのR氏と一緒に、ずっとミャンマーで修行している。だからR氏の方はともかく、Hさんの方は帰りたくならないのだろうかと心配になってしまう。
ただ、見ているとイヤイヤながら付き合っている感じはしない。本人も仏教が好きでR氏の良きダンマフレンド(法友)でもあるようだ。サポーターと言ってもいいかもしれない。R氏の行く所にはどこにでも付いて行くといったかんじだ。
こういう奥さんがいるからR氏も妻帯の身でありながら存分に修行に打ち込めるのだろう。
また、R氏は凄く温厚で思いやりに溢れた人だ。絶対に他人の悪口や陰口を叩かないし、からかったり舐めた態度をとったりもしない。下ネタなんか絶対に話さない品の良さ、育ちの良さを漂わせている。
これは奥さんのHさんも同様で、いかにも上流階級といったタイプの人たちだ。
だが、私は一度だけR氏が怒ったのを見た事がある。
その瞑想センターには残飯を貰って生きている野良犬が数匹いたのだが、その中に一匹だけ野良猫を襲ったりするようなどう猛な奴がいた。
私はそのズングリした体型からそいつの事を「ブッチャー」と呼んでいたのだが、そのブッチャーが今度は隣の敷地から迷い込んできた子犬を噛み殺してしまったのだ。
何と!それを目の当たりにしたR氏が「なんて酷い事をするんだ」と怒り出した。
そしてブッチャーに向かって「このブッチャー(虐殺者)」と罵りながら石を投げつけたのだ。私はその時ブッチャーのした事よりもR氏が怒った事の方がよっぽどショッキングな出来事に感じられた。
それから今でも不思議なのは、私とR氏とが滞在していたコテージに、電線を伝ってナマケモノがやってきた事だ。
R氏はそのナマケモノがマハーシ式の瞑想センターでの修行者たちのようにゆっくり動くので「瞑想している」と言って笑っていた。
しかし後で調べると実際にはナマケモノの生息地は中南米なのだという。では、なぜあの時ミャンマーにナマケモノがいたのか?メキシコからR氏に会いに来たのか?
ミャンマーでナマケモノを見たなんて、後にも先にもこれ一回きりだ。
R氏は、そんな感じでその時はHさんと一緒に3か月ほど修行し、それがミャンマーでの最後の修行になったようで、その後はミャンマーの方は切り上げてマカオに修行の場を移したようだった。
R氏夫妻との再会
R氏と再会したのはそれから4年後、2011年の12月の事だった。場所はヤンゴンのS瞑想センター。
R氏とHさんは現在ではマカオでミャンマー人の長老から仏教を教わっているらしい。奥さんは知性派で、瞑想よりも学問の方が好きそうなタイプだが、今度はR氏の方が奥さんの意向に添うようにしているのだろうか?
「なるほど!そうやってお互いの意向を尊重し合っている訳か」
いつも二人で一緒にいて、全然喧嘩にも何にもならない姿を見せられると、彼らが何を考えているのかを知りたくてついついそんな妄想をしてしまう。
聞きづらい事なのでそうするしかないのだ。そして彼らは私にそのような妄想をされているなんて、夢にも思っていないだろう。
そして彼らが今教わっている先生のそのまた先生にあたる大長老が、毎年11月にまた例のピンウーリンの地で、2週間の合宿式短期集中仏教講座を開催するので、今回はそれに参加してきたとの事だった。
そして今度は2週間の瞑想修行をするためにSセンターに移ってきたのだという。
では、ここで彼らが教わってきたというその大長老について少し説明させて頂きたい。
この大長老はN大長老といって、ヤンゴンにある国際テーラワーダ仏教大学(ITBMU)の学長をやっている方でもあり、ミャンマー仏教の学問の分野での権威とも言える方だ。
ミャンマーという所は、喫茶店や食堂でもこのようにDVDを使ってBGM代わりに坊さんの法話を流している訳だが、どこの店でも見る事が出来るのがこのN大長老の姿だ。
そのぐらい彼の法話はミャンマー人たちの間で人気がある。
そしてこのN大長老というのは、未来のブッダを目指す方でもある。
と、言うのもこの大長老はヴィパッサナー瞑想の修行によってジャーナ(禅定)を達成し、洞察智を得たものの、預流果の直前で修行を止め、つまり涅槃に達する直前、解脱・悟りの直前で修行を止め、敢えて悟らずにいる方なのだ。
それはどういう事なのか?ではここでその洞察智について少し説明させて頂きたい。洞察智には全部で16段階あると言われている。
16段階の洞察智
瞑想修行によりジャーナ(禅定)を達成してから自己の観察に入ると、まず最初に名色分離智慧という智慧が生じる。次いで縁摂受智慧が。
そして3番目に思惟智、4・生滅智、5・壊滅智、6・怖畏智、7・過患智、8・厭離智、9・脱欲智、10・省察智、11・行捨智、12・随順智、13・種姓智、14・道智、15・果智、16・観察智という順に次々と洞察智が生じてくる。
この智慧の階梯を最後まで昇るとついには涅槃に達し、預流果の悟りを獲得する事になる。
洞察智について詳しく知りたい方は、こちらの御大の説明をどうぞ。
http://www.ne.jp/asahi/fogbound/journal/satiword53.html
そして更に悟りには4段階あって、1・預流果、2・一来果、3・不還果、4・阿羅漢果の順に悟りを深めていく事になる。
そして預流果まで悟れば7回天界あるいは人間界に生まれ変わって阿羅漢になって消滅し、一来果まで悟れば1度だけどこかに生まれ変わって阿羅漢になって消滅する。
また不還果まで悟れば梵天界から下位の世界に生まれ変わることはなく阿羅漢になって消滅し、阿羅漢果まで悟ればもう生まれ変わらず、死後は消滅すると言われている。
つまり一度、預流果であれ何であれ悟ってしまったら、もうブッダの境地、最高の悟りの境地には達する事が出来ない訳だ。阿羅漢が最高という事になる。
ではブッダの境地までいくにはどうしたらいいのだろう?ブッダは一体どうやってブッダになったのだろう?
実はミャンマー仏教には、そのブッダになる方法も伝えられている。前述した洞察智の2段階目までを得た人を、預流果の一歩手前という事で「小預流者」と呼ぶのだが、ここまで来た人は今生では悟れなくても次の世は人間に生まれ変わると言われている。しかしそれは一度だけで、その次はどうなるか判らない。
つまりこの小預流者になっておいて、次の世も人間に生まれ変わってからまた修行し、同様に悟りの手前で修行を止めて、また次の世に人間に生まれ変わって修行するという事を何生も繰り返してみっちり修行する事によって、ブッダになれるだけの徳を積み上げれば、いつの生にかブッダに成る事が出来るのだという。
そしてそのためには洞察智の11番目の行捨智あたりで修行を止めるのがいいらしい。だからR氏が仏教を教わっているN大長老は、ジャーナの入り方を知り、洞察智は持っているものの、完全には悟っていないから瞑想センターの指導者になる事は出来ない。
その代わりに仏教学の研究に励み、今ではその権威としてミャンマー仏教界のトップの座に君臨している。
ではここでついでに、ミャンマー仏教の仏教学の学位についても少し触れておきたい。
ミャンマー仏教には7段階の学位(試験)があって、最低でも5段階目の「ダンマチャリア」という学位を持っていなければ仏教の教義を教える事は出来ない。
ミャンマーでは勉強が出来て仏教が好きな子供がいれば10歳ぐらいで出家させて、民族の伝統維持のため、自分たちの良き指導者を育てるために、徹底的に仏教の英才教育を施す。
最初の試験に合格してから、一段づつレベルを上げていき、最初の試験から約10年をかけて5番目のダンマチャリアの学位(試験)に挑戦する。
しかしその難易度は高く、合格率は10人受けたら合格するのは3人ほどと言われている。
ミャンマーでのダンマチャリアの所持者は僧侶全体の約2%ほど、つまりミャンマーに来て100人のお坊さんに出会ったらそのうち2人がダンマチャリアの取得者と言う感じ。
また最高位の7段階目の試験に合格した人はそのN大長老を初めとして、国内に4名しかいない。
https://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/4b71ef775490132a46b8513714f66a13
つまりR氏が師と仰いでいる大長老は、そのような未来のブッダであり、行学を兼ね備えた凄い頭脳の持ち主な訳だ。
そしてR氏はそのようにして、毎年11月になるとN大長老の2週間の仏教学セミナーに参加し、それから2週間ほど瞑想センターで瞑想していくのが恒例となっていた。
仏教の普及センターの開設
それから数年経って2019年の末頃の事だった。私とR氏とは例によってまたS瞑想センターで再会していた。
だが今回はいつもと様子が違う。なぜならR氏は何と!比丘になっているではないか。
「でも短期間だけの一時出家だろう」などと思っているとそうではないのだと言う。
「俺、出家したんだよ。今はメキシコで僧院暮らししてるんだ」
「えっ!ウソでしょ?出家って!マジ?じゃあ奥さんはどうしたの?それよりも何よりもメキシコに僧院なんてあるの?仏教徒なんているの?何それ?」
そんな事を言われても私は、何だか信じられないような不思議な気持ちで一杯になった。
呆気とられている私を見て彼はスマホを取り出し、僧院の様子を写した写真を数十点も見せてくれた。
「何?この人たちはみんな、R氏が教えている仏教徒?あんたメキシコに仏教を植え付けようとしてるの?」
驚いた事にR氏は、キリスト教国のメキシコの地に、仏教を学んで瞑想するための施設を自分で開設したのだという。
そして比丘を養成して仏教を根付かせるために、奥さんを置いて自ら出家したと言うではないか。
「ハア何それ?そんな事して奥さんはどうなるの?それじゃ自分はよくても奥さんが可愛そうじゃないか?Hさんどこに行ったの?」
私はR氏のやった事が信じられないような気がした。いくら仏教を広めるにしても、犠牲になる人が出るのは良くないからだ。
だが実はそう思ったのは私の早トチリで、よく話を聞いてみるとそうではない。実際には二人は別れてはいない。Hさんもまたその仏教の布教センターで講師として働いているので、相変わらずいつも一緒にいるらしい。
「何だ!そうか!安心した!ただ寝食を共にしないというだけで、一緒に教えてるのか」
考えてみたらHさんもいつもR氏と一緒にミャンマーで瞑想し、仏教を学んでいたから、教えられない事はない。いや、優秀な頭脳の持ち主だから、もしかしたらR氏よりも詳しいかもしれない。
また、妻帯者が出家というのもミャンマーにおいてはおかしな事ではない。奥さんの許可を貰えば出家して僧院に入る事も認められているのだ。
しかし、こういう事は2人が同じ目的を持っていないと中々出来る事ではない。もし、どちらかが我慢して相手に合わせているとしたら、とっくの昔に爆発して終わってしまっているだろう。そして2人共、人間が出来ていなければこうはならない。特に奥さんが相当出来た人でなければ不可能だ。
「とにかく凄い。それだけやってよく二人の考えがぶつからないものだ。よく言い争いにも喧嘩にもならないものだ。一体どんな事をしたらそういう風な平和的なカップルでいられるのか?」
そういう事でまたアレコレと妄想させられてしまったが、それにしても本当に感心するやら呆れるやらで言葉がない。だから私はこの二人を見るたび奇跡的な確率で出会ったカップルであるような気がしてならないのだ。
R氏の目的
ではR氏は、なぜそこまでして仏教を広めようとするのだろう?
普通に家庭を持って自分だけ仏教を学んで瞑想していればそれでいいではないか。私ならそうするし、恐らく誰もがR氏とHさんがそのような幸せなカップルである事を望んでいる事と思う。
だがR氏には、実はしっかりとした目的があったのだ。
彼の尊敬する人は、ガンジーや現在のダライ・ラマ14世など非暴力を唱えた人々だ。そうだ、彼はメキシコを暴力のない国にするために、ブッダの教えを広める機会を通して、非暴力を訴えていたのであった。
私が聞いた所では、メキシコ人は因習深く、女性蔑視や暴力が蔓延しているらしい。
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陽気で楽しそうな人々だが、そういう陰の部分もあった訳だ。
彼はそのような人々に瞑想を教えて心を落ち着けさせ、貪欲さや怒りを見つめて不善な感情から脱却し、賢く楽しく生きる術を教えようとしているのかもしれない。
もしかしたらR氏は、これまでの人生で何か目に余るような暴力を見てきた事があるのだろうか?
彼の人生を変えるような衝撃的な出来事がなければ、中々そこまでの事は出来るものではない。まあ、これは私の想像に過ぎない事だが。
しかし、R氏が非暴力の教えと信じた仏教の国であり、彼が毎年訪れた平和な国の筈のミャンマーは、今や暴力が溢れかえっている。これは一体どういう事なのか?
あの軍人たちも仏教徒ではないのか?なぜ仏教徒たちがあんな残酷な無差別テロとも言える野蛮な行為を行っているんだ?
というと、たとえ仏教徒でも、一般の人々は宇宙の法則を悟っている訳ではないし、戒律厳守の坊さんとも違う。
そもそも仏教徒にも色んなレベルがあって、ブッダの教えは間違いないと確信して修行に励んでいる人から、ただの盲信的な人、あるいは単なる生活習慣として坊さんに頭を下げているだけの人まで様々な人がいる。
そのブッダの教えを確信している人が人口のどれだけの割合を占めるのだろうか?仏教国とはいえ、国民の大多数を占めるのはどういう人々なのか?
実際私の見たところでは、ミャンマー仏教徒よりも外国人の瞑想に興味がある人々の方が、よく教えを学んで修行し、それを実践していて、ずっと立派な仏教徒に見える。世の中がそういう人々ばかりなら本当に楽でいいと思えてならない。
また、いくら生まれた時から平和的な教えを叩き込まれているとは言え、欲や怒りに駆られれば、それらは全て一瞬で吹っ飛んでしまう。
人間はどうも煩悩がある限りは、お互いにぶつかり合い、傷つけ合うようになっているようだ。
高僧たちの指導
2月1日にミャンマーで国軍によるクーデターが発生した時、高僧たちは民衆たちに一斉に注意を呼びかけた。
例えばパオ瞑想センターの創始者のいわゆるパオ・サヤドーは「ブッダの時代にもこのような事件が起こった事が経典に記されている。そしてブッダは将軍に逆らわないようにと教えている。立ち向かうな、反抗するな」と言った。
これは私は最初、パオ・サヤドーが軍寄りの人で、軍事政権を認めろと言っているのだと思って驚いてしまった。だが、あるミャンマー人に聞いたら「サヤドーたちも我々と同じ考えだ。だからそれは暴力に暴力で立ち向かうなという意味だ」と言われた。
また、シュエウーミン瞑想センター管長のヨー・サヤドーは「軍幹部たちの利権にしがみつく貪欲さと、民衆の快適な生活にしがみつく貪欲さ、そしてそれらが邪魔された時の双方の怒りがぶつかり合っている。煩悩と煩悩とのぶつかり合いだ。ここは民衆が我慢するしかない」と言った。
これもパオ・サヤドーと同様に暴力に暴力で立ち向かうなという意味らしい。
そういう訳でミャンマーの仏教徒たちは、そのような高僧たちのアドバイスに従い、現在でも様々な形式で非暴力の抗議活動を行っている。
高僧たちの教えは、いずれも彼らが到達したダンマ(宇宙の法則)から来るものだ。だからそういう視点から見れば暴力に暴力で立ち向かう事は、愚かなやり方なのかもしれない。
非暴力の教え
では、その高僧たちの言う煩悩と煩悩のぶつかり合いとは一体どういう事なのだろう?
これをもっと詳しく言うと、人間は不還果や阿羅漢果に達さない限りは心地よいものを求めて止まない貪欲さや、不快なものを避けて失くしてしまいたいという瞋恚の衝動に苛まれて、操られてしまっているという事になる。
そしてそこから「もっと心地よいものがあればいいな」とか「嫌なものはなくなって欲しいな」とか「みんなも協力してくれればいいな」「そのためには世の中がこうなったらいいな、ああなったらいいな」などと望みや理想を形成していく事になる。
だが、その望みや理想(執着)は、みんな同じものを持っていればいいのだが、一人一人違うからややこしい事になっている。
そして人間は誰もがその望みや理想を叶えようとして生きている。
だから望みが叶えば快感を覚え、叶わなければ不快に思う。
そしてまた貪欲さや瞋恚が出てきて更なる望みや理想を形成する。
人間を動かす原動力は、この決して満足する事のない執着の堂々巡りだ。(渴愛)
だから人間同士はどうしても望みと望み、理想と理想がぶつかってしまうようにできている。執着心(エゴ)の強い人になると、他人のやる事に口を出して、自分の都合のいいようにコントロールしようとしたり、強引に自分の都合を押し付けて支配しようとしたりする。
そのため、人間の世界はその衝突を避けるために様々な制度が生み出される。みんなを平等に扱おうという考え方や、強い者が暴力的に民衆を自分の理想通りにコントロールするという考え方など、数え上げればキリがない。
仏教では基本的に、望みや理想を捨てて全てを受け入れ、なるがままに、生かされるがままに生きる事で不満の悪循環から脱却する事を勧める。
しかし、この教えは他人を支配しようとする者には随分都合がいいようで、中にはこのような教えを利用して民衆をおとなしくさせてから、自分の理想通りの世の中を築こうとする者すらいる。そのためにいつも高僧を持ち上げておく。誰とは言わないが。
だから人間関係を改善し、争いのない、暴力のない世界をつくるには、そういった心の中の貪欲さや怒り、嫌悪感、不安、悲しみといった、望みや理想を形成する要因を見つめ、ぶつかり合いの原因となるものをこれ以上心の中に蓄積しないようにするしかない。
そうやって望みや理想のなくなった人々同士の人間関係は最高だ。なるがままに全てを受け入れて、お互いに全然相手に不満を持つ事がない。
そして、その執着のない心こそが慈・悲・喜・捨の四無量心だという事になる。
「ん!?」
やっと彼らの事が理解出来た
そんな感じで非暴力の教えについてアレコレ考えていたら、今度はなぜR氏とHさんが壊れずに上手くいっているのかその理由がよく判ってきた。そして彼らが訴えたい事がハッキリと理解出来た。
「なるほど、つまりあのカップルはそういう事を人々に伝えたかったのだ。そしてその教えを、実際に二人で実践して見せてくれていたのだ」
私もよく壊れない仲だと思っていたが、そんな彼らのあり方自体が仏教の教えを体現した姿だったとは。
彼らがぶつかり合わない秘訣は望みや理想を持たずに、全てを受け入れるという事だった訳だ。
やっぱりぶつかり合う原因になるものは持たない方がいい。その方がずっと幸せに生きられるのかもしれない。
そうやって私は、R氏とHさんからまたひとついい事を教えて貰った。
彼らは間違いなくいい先生たちだ。これからもまた何か気づかせて貰えれば有り難い。
しかも嬉しい事に、Hさんは日本語ペラペラだ。こんなに都合のいい事はない。これも何かの縁だろう。
という事で、私にも出来る事があれば、このメキシコの二人のために何か力になりたくて仕方ない。仏教の普及活動が上手くいくように、こうやって宣伝でもさせて貰うか。
そういう訳でこの二人を見ていると、私もついついそんな風に陰ながら応援せずにはいられなくなる。
そしてまた同時に、早くミャンマーにも再び平和が訪れるようにと願って止まない。
それにしてもこの非暴力の教えは学ぶ事が多い。こんないい事を知らないなんて、まったく暴力でエゴを通そうと考えている人々はなんて可愛そうな人々なんだ。