【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#35 】分かち合うのが好きな修行者

2021年4月17日土曜日

修行者列伝

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K氏 ドイツ人 50代 男性

フランクフルト



 氏がドイツ中部の都市フランクフルトからヤンゴンにあるマインドフルネス瞑想のS瞑想センターまでやってきたのが2017年1月。


冬休みを利用して2週間ほど集中的に修行するつもりなのだという。



「ガシャーン!!」



彼が宿舎に到着するなりガラスの割れる音が響き渡った。「どうした!」と私が部屋の外に飛び出すと、そこには箒とチリトリを持ったK氏がいた。



「やっと着いたんで嬉しくなってバッグを振り回したら、テーブルの上にあったグラスを叩き割ってしまったんだ」



それを聞いた私はずいぶん気合いの入った人だと思い、少し恐ろしくなった



彼は本国では旅行代理店に勤めていて、そこはよく日本人にも利用されるという事でかなり日本人慣れしていた。だから私が日本人だと判ると、直ぐにカタコトの日本語で話しかけてきた。それでこちらもカタコトのドイツ語で返答した。



「イッヒ・ギーへ・シュラーフン」



本当は「寝る」という意味なのだが、私はこれを「瞑想する」という意味で使っていた。そうすると何だか判らないがドイツ人たちにはウケて直ぐに親しくなれた。


実は私はその前年、このシリーズの第22話に出てくるドイツ人のJ氏と同室になっているし





その前々年にも第21話に出てくるドイツ人のAさんと知り合っている。





毎年のようにドイツ人と知り合って、少しづつドイツ語を教わっているうちに、いつの間にか挨拶程度は出来るようになっていた。


それで今年はこのK氏が隣人になった。何だか私の瞑想修行には、不思議とドイツ人がよく絡んでくる。



少ない日本人修行者 


 年末年始のS瞑想センターは、休暇を利用して修行しに来る120人ほどの外国人でごった返す。


一番多いのは韓国人で20人以上来る。あとはベトナム人も20人近く来る。次いでアメリカ人やマレーシア人が10人ぐらい来る。またチェコ人やスウエーデン人も10人近く来る。あとは中国、カナダ、ドイツ、フィンランドなどが必ず数人づついる。


ところが日本人はたいがい私一人とか、他にもう一人とか、そのぐらいしかいない。



「何で日本人は来ない?」



だから必ずこの時期は、みんなからそういう風に質問されてしまう。しかしそんな事を言われても、何と言って答えたらいいのか判らない。



「日本人は宗教嫌いなんだ。古臭い迷信みたいなものだと思っているし、瞑想は宗教の洗脳の手段みたいなものだと思っている」



K氏がそう聞いてきた時、私はそのように答えるしかなかった。自分がいつも言われている事だからだ。


「たぶん戦時中に狂信的になり過ぎたからじゃないのかな?戦後はその反動で宗教は危険だと考えるようになったのだと思う」


私は歴史に疎いので、あとはそんな事を言うぐらいの事しか出来なかった。



「戦争に負けて?」



そしたらK氏が不思議そうな顔をしてそう言った。その時ふと、彼も日本同様の敗戦国の人だった事に気づいた。



「そうだ!それでドイツの戦後はどうだったの?どうやってあのナチズムから立ち直ったの?」



そうやって瞑想の話をしていたのが、気がついたらいつの間にか、ドイツ人はいかにして戦後立ち直ったかという話に脱線していた。







良心に従う 


自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?

自己をよくととのえたならば、得難き主を得る


ダンマパダ160中村元訳




「ドイツ人と日本人って似てるんだよ。目の前の事に没頭して周囲の事が見えなくなるんだ。それで狂信的になりやすいんだ」



開口一番K氏はそう言った。



確かに私も似ていると思う。だが私が似ていると思うのは勤勉で糞真面目なところだけだが。戒律の守り方に関しては全然違っていて、日本人などは「12時以降は翌日の朝食まで一切食物を取ってはならない」というルールがあれば絶対に守るのだが、ドイツ人たちは結構隠れて食べている。日本人みたいなガチガチの民族は他にいない。


「戦後ドイツは分裂の危機に陥った。まず政治経済的な思想の違いで東西に分かれた。またドイツは北と南では宗教が違う。北はキリスト教の旧教で南は新教だ。宗教的にも対立している」


「更に地理的な問題で絶えず東ヨーロッパの社会主義と西ヨーロッパの資本主義との狭間にいて双方の影響を受けていた。そしてどちらにつくのか態度をハッキリさせなければならなかった。東につきたいと言う人もいれば西につきたいと言う人もいた。宗教に従うと分裂するし、政治経済的な思想に従っても分裂する」


「だが多くの人々は、ナチの失敗があったから、もう何かのイデオロギーに従うのは嫌だった。またアメリカ人は、食べる事とか着る物の事とかしか考えていないから、そっちにつくのも嫌だった」


「それで行き着いたところは『俺たちは外部のものに従うのではなく、内部のものに従おうぜ』という考え方だった」


そう言ってK氏は自分の胸に手を当てた。


なるほど!ちょっと難しい話だったが、簡潔明瞭に判りやすく話して貰った。あまりにも簡潔過ぎてどこかで言われている話なのではないかと思ってしまったが、それともこれはK氏の考え方なのだろうか?その辺りの事は定かではない。


だが私はその時「外部のものではなく、内部のものに従うっていいな」とすっかり感心してしまった。





ついでに言うと、ドイツではこんな感じのナチのシンボルやら衣装やらを身に付けたり、ヒトラーの真似をしたりする事は違法なのだという。


戦後はそうやってナチズムを払拭してきた訳だ。だからたとえ観光客でも、フザケて「ハイルヒトラー」などとやったら、罰金500ユーロ(約6万円)が課せられるというから、旅行の際などは気をつけた方がいい。




「そのドイツのナチズムにあたるのが日本の場合は宗教なんじゃないかな?」




そういう事で私がその様に言ったらK氏は納得してくれた。だがこの話は私もよく歴史を理解した上で言った訳ではない。あくまでも下手な推測に過ぎない。検討違いも甚だしい場合は何卒ご容赦のほどを。


だが、日本には宗教やイデオロギーではなく良心に従うという考え方はない。



例のアレの探求 


 K氏がS瞑想センターを訪れるのはこれが二回目で、4年ぶりなのだという。4年前は私はCM瞑想センターにいて、また他のドイツ人と何やらやっていたので会えなかった。


そして実は今回は奥さんも一緒に来ているらしい。しかしK氏がマインドフルネス好きなのに対して、奥さんはサマタ好きなので意見が分かれてしまって、それぞれが別々の瞑想センターに滞在する事になったのだという。修行が終わったら合流してまた一緒に帰るとの事だった。


では、なぜK氏が奥さんと離ればなれになってまでマインドフルネス瞑想をやりたいのかというと「彼は悟りへの近道」と言われる例のアレの観察、探求に専念したいのだという。


例のアレというのは『目の前のものを見る時に、ただ受動的に見えているままにしているのと、見ようと意図して対象に焦点を合わせた時とでは何が違うか?』という「見えると見るとの違いについて」という命題だ。


マインドフルネス瞑想の奥義と言ってもいいかもしれない。







K氏は4年前にS瞑想センターを訪れた際に、初めてその命題について耳にし、悟りへの近道という話を聞いて探求心を掻き立てられた。







彼はいつも瞑想用のメモをつけていて、ノートにはびっしりと探求した事柄が書き込んである。何を書いているのかは読めないが、恐らくその「見えると見るの違いについて」書いてあるのだろう。凄い執念で心の中を探求している事が判る。気合い満々だった訳だ。



「まず目を閉じて、それから開ける。それが『見える』だけの状態。それから何かの対象に焦点を合わせる。それが『見る』の状態。何が違うか判るか?」



うーむ、一体何が違うのだろう?その時は宿舎内の廊下とか窓とかに注意を向けてみたが、何ら変わったところはみられない。


「食事の時やってみるとよく判るよ。あと綺麗な女性とか、汚い便器とかでやっても判りやすい」


何だろう?欲望や嫌悪感を生じさせるようなところでやった方がいいという事か?


すると対象に注意を向ける事で欲望や感情がどうにかなるという事だな?まあいい、そういう事で私は次の面接指導集会でK氏がどういう事を報告するのかじっくりと聞かせて貰う事にした。



K氏の探求の成果 


 通常はどこの瞑想センターでも面接指導を受ける時は個別指導になるが、S瞑想センターの場合はシェアリング方式と言って、集団で参加して一人一人の体験をみんなで分かち合うスタイルで行われる。







だから何かいい体験をした人がいると、その人の体験談とそれについてのアドバイスをみんなで聞いて参考にする事が出来る。


「見えると見るの違いを探求しています。まず見えるだけにしておくと、対象に反応する事はありません。しかし注意を向けて見たとたんに、貪欲さや怒りの反応が起こります」


だから私はK氏の体験談を楽しみにしていた。そして案の定、彼はそのような報告をしていた。やはり予想した通り、対象に注意を向けると反応が現われてくるようだ。



「あとは他に何か気づきませんか?」



それについての指導するSUTからの質問だ。まだ他に何かあるのだろうか?



「しかし気づきながらであれば注意を向けて見ても、反応は起こりません」



「はい!いいでしょう!そのまま探求を続けて下さい」



何?気づきながらであれば反応は生じない?



つまり貪欲さや怒りの感情は出てこないという事か?それに対してSUTはOKを出していた。


よし!いい事を聞いた。面白い、ちょっと試してみよう。そんな感じで私は二人のやり取りに、ついつい耳を傾けてしまった。これがシェアリング方式の指導のいいところだ。いい話が聞けた時は儲かったような気がしてしまう。


その後私は早速瞑想ホールへ行って、その時聞いた事を実行に移してみた。座る瞑想の時に、次々と湧き上がってくる雑念で「見えると見るの違い」を確認してみようと思ったのだ。







まず色んな想念が次から次へと浮かんできても相手にしなければ別に反応する事はない。


子供の頃の恥ずかしい思い出。中学時代の嫌いだった教師の事。ライバルに嫉妬されて罵詈雑言を浴びせられた事。他人に口出しをして自分の都合のいいようにコントロールしようとしてくる奴。職場の口の悪い同僚。嫌味な上司。通い詰めたキャバ嬢。パチスロの連チャン。松屋のカレギュウ。それらの姿が次々と生じては滅していく。


だが、それに注意を向けたとたんに様々な感情に襲われる。恥ずかしくて自己嫌悪に陥ったり、怨念に包まれたり、また行きたいと思ったり、煩悩の固まりのようになった。


それでも注意を向けている事に気づいていると、あら不思議、本当だ!注意を向けていない時と同じように感情が生じずに想念が次々と消えていく。



「やった!これはいい事をおぼえた。これでいちいち想念に引っかからずに済む!」



そうやって私は貪欲に、今までK氏がコツコツとノートにメモしながら探求して積み上げてきた成果を、あっさりと5分で自分のものにしてしまったのだ。



「しかし何で注意を向けたとたんに反応が出てくるんだろう?」



そして今度はその疑問が新たなる自分の探求テーマになっていった。



K氏とのコラボレーション 


 それから1週間ほどたった時の事だった。私はその間ずっと対象に反応して感情が発生してくるメカニズムについて観察していたのだが、やはり対象を「良い、悪い」と判断したり、何やら勝手に解釈したりしなければ、感情が生じてくる事はないような気がした。


つまり同じものを見ても人それぞれ反応が異なるのだが、それは人それぞれ判断の仕方や解釈の仕方が異なるからではないかと思ったのだ。


例えば同じ女性アイドルを見ても、10代の若者と中年オヤジとLGBTIQの人とでは反応が異なる。


それは判断や解釈の仕方が違うからだ。また、日本人の好きなトロだとかウニだとかイクラだとかを外人が見ても、旨そうだとは思わない。それはやはり判断や解釈の仕方が異なるからだ。






人それぞれ解釈の仕方が異なる。



「対象を判断や解釈する事がなければ、その対象についての反応が出てくる事はありません」



それで私は次の面接指導の時に、そのような探求の結果を報告した。そしたらSUTは



「そうだ、そうだ。それをもっと続けて探求するといいでしょう」



と、どんどんそれを深めていく事を勧めてくれた。そして次にK氏が探求の結果を報告したのだが、何と!同じ事を探求しているはずの彼の方は私の報告と少し違っていて



「対象を見えているままにしているうちは何も感じないが、注意を向けて『見る』状態にした途端に『自分』という感覚が出てくる」



などという事を言っていた。自分という感覚?


しかし同じものを探求しても、人によって発見するものが違うとは、面白い事もあるものだ。そして、それについてSUTは


「その通りです!でもそれだけですか?それだけじゃないでしょう?もっと何か判りませんか?」


と、やはり探求を続けるように言っていた。



瞑想体験の共有 


 それで私はまた瞑想ホールに戻って探求の続きに入った。


これまでのところを総合すると「対象に注意を向けて『見る』の状態にするとそれについて判断したり解釈したりと、何やらゴチャゴチャ始まる。それによって感情が発生してくる。だが、注意を向ける事に気づいていると判断も解釈もせず、感情も生じてこない」という事になる。そこから今度はK氏の言う『自分という感覚』について観察してみる事にした。


すると確かにただ対象に注意を向けて煩悩まみれになっている時と、気づきながら注意を向けて判断も解釈もせず、対象をありのままに見ている時とでは感じ方も違う。


気づきがないと「自分」がいてプライドがあって鉛のように重い感覚があるが、気づきがあれば気分はスッキリ晴ればれとして心も軽い。



「判った!気づかないまま対象に注意を向けると自分を感じて『俺』を基準に判断,解釈してしまうんだ。そしてそれによって感情が発生してくる。しかし気づいていると自分を感じず、判断も解釈もしない」



そして大体そのような事に気づき、それをまたそのまま次の面接指導の時に報告した。





 するとK氏も同じような事に気づいていたようで、私が報告し終わった後に続けて「今、ヒロが言った事に補足して言いますが、対象に注意を向けて、心がそれに執着した時に自分を感じるのではないでしょうか?しかし気づいていると心が執着しないから自分を感じない」と、私の言った事を更に詳しくSUTに説明してくれた。


この時期、私はずっとK氏の報告を参考に探求を進めていたが、彼は彼で私の報告を参考に進めていたのだ。そしてとうとうここに来て二人の探求結果が一致した。



「その通り!もっとそれを深められるぞ!ヒントを出せばその時、意識の注意点はどうなっている?」



そしてその報告に対するSUTの答えはそんな感じだった。なるほど、まだまだこの探求は深められる訳だ。


凄く深い命題だ。もしかしたら本当に悟りまで繋がっているのかもしれない。それにしてもこのシェアリング方式の指導は、修行者同士に体験を共有させる事で、複数の人々を一度に引き上げる事が出来る。


そういう訳で私とK氏とはこの方法によってお互いの体験を共有し、一緒に瞑想の進歩を遂げる事が出来たのだった。



この道30年 


 だが残念な事に、4年ぶりのK氏の滞在予定は、たったの2週間だけだった。せっかくいいところまで探求したのに、早くも時間が来てしまい、途中で修行を切り上げて帰国せざるを得なくなってしまったのだ。



「お陰でいい瞑想出来たよ。また来年も来たいな。キミも来るだろう?」



勿論私も来る。実は私は長い事シェアリング式の指導を受けてきたが、今回のように他者と瞑想体験を共有しながら引っ張り上げられたのは初めてだった。とても面白く、充実出来た。来年ももう一度やりたい。


K氏がそうやって私の部屋に帰国の挨拶に来た時、ベッドの上には一冊のアメリカのスピリチュアル系の雑誌が置いてあった。私がスウエーデン人修行者から貰ったものだった。



「シャンバラ・サン?」









Shambala Sunは、現在はLion's Roarに誌名が変わっている

https://www.lionsroar.com/




K氏はその雑誌を手に取ってパラパラめくると突然「ターラー・ブラッシュ?これが彼女なのか!」と驚いたように言った。そこにはサンフランシスコ郊外にある瞑想センター「スピリット・ロック」の広告が。






「30年ぐらい前、独り者だった頃はよくアメリカまで修行しに行ってたんだ。IMS(洞察瞑想協会)とかにさ。ヨーロッパには瞑想センターがなかったから。


ターラー・ブラッシュにも色々と教えて貰ったものだよ。彼女もずいぶん歳とったなあ」





何と!驚いた事にK氏は1980年代半ばからマインドフルネス瞑想をやっている、この道30年の大ベテランだったのだ。知らなかったとはいえこんな人と体験を共有し合っていただなんてずいぶん厚かましい事をしてしまった。だがやはり集団にそういう人が一人いると、他の修行者たちまで影響されて引き上げられる。



「また来年一緒にやろう。連絡取り合って、日程合わせて、また絶対に再会しよう」



そのようにして翌年の再会を約束して去って行ったK氏であったが、実は翌年は再会を果たせていない。というのもSUTが体調を崩してしまい、人数が多いと十分に指導出来ないという事で、外人は限定30人までの早いもの勝ちみたいな事になってしまったからだ。私の方は何とか潜り込めたものの、K氏の方は入れなかった。


その後もK氏は、中々ミャンマーまで来て瞑想する時間がとれず、ずっとドイツ国内の10日間リトリートだけで我慢しているという。だからあの日あのように約束はしたものの、彼と一緒に修行する機会はそれ以降は持てていないというのが実情だ。


それでも働きながら、日々の生活をしながらあそこまで探求してきたというのは称賛に値する。彼は相当な努力家で、どこにいても必ずマインドフルに過ごしているに違いない。


私もまたいつか彼と体験を共有出来る日を楽しみにしている。いつになるのかは全く判らないのだが。だからその時に彼に差をつけられていられないよう、私もさらなる探求をしておかなければならない。


再び彼とあのような充実した修行の日々を送るためにも、私は今日もしっかりとマインドフルに過ごさなければならない訳だ。


私はそのようにK氏と再会した時のために、それ以後いつでも気づいている事を念頭に行動するようになったのであった。



画像出典 : フランクフルト Cornelia Schneider-Frank




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  最終更新日 2023.12.31

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