P氏 オーストラリア人 40代 男性
白人の中にあって「ワイルド」と言うか「野蛮人」と言うか、田舎者の雰囲気丸出しのP氏がオーストラリア西部の都市パースから、マインドフルネス瞑想のS瞑想センターまでやってきたのが2014年の12月。そして気がついたらいつの間にか私と同室になっていた。
「俺の地元はド田舎だよ。車で一日中走っていても、一度も対向車とスレ違わないなんてザラだね」
私がP氏の事を田舎者呼ばわりしていたのには理由がある。彼は私が変な英語、例えば GO TO TRAVEL などと間違った言葉の使い方をしたりすると「アハハ何だそりゃー?そんな英語聞いた事ねーぞ!」などと言ってゲラゲラ笑ったりしていたからだ。
本当に品のなさ丸出しで。
「アメリカ人なんかそんな時でも絶対笑わないぞ!彼らは変な英語を聞くと『今、何て言いたかった?』と聞いて正しい言い方に改めてくれるぞ!それが紳士的というものだ!この田舎者め!」
まあ、彼の場合は性格的にも少し問題があった。とにかく落着きがなくていつもソワソワしている。ちょっとの間でもじっとしている事がない。
私が部屋にいると退屈を持て余して直ぐ話しかけてくる。ちっともマインドフルになど過ごしていない。心に何らかの障害があると見做されてもおかしくないほどだ。
ある時私に「マラリアの薬いらないか?50ドルもしたんだけど?」と聞いてきた事がある。それで私が「高い!そんなのいいよ!自分で使えよ!」と断わったら「何だ、いらねーのか?」とゴミ箱に捨ててしまった。
驚いて思わず「なんちゅー勿体ない事を!」と叫ぶと「えっ!ああ、それもそうだな。じゃあ医務室に寄付してくるか」と薬をゴミ箱から拾い上げた。全く何も考えていない。
また彼は「ミャンマーの麦はアメリカやオーストラリアから買わされたものだから遺伝子が組み換えられている有害なものだ」と言って、食事の際にはパンや麺類が出てくると必ず必ず誰かに「小麦粉から出来たものか?米粉から出来たものか?」と聞いて、麦を食べる事を避けるようにしていた。
しかしある朝食時に、小麦粉から出来た麺類を米粉から出来たものと誤って教えられ、P氏はうっかり小麦製品を食べてしまった。
その誤りが発覚したのは次の日の午後だったののだが、その時のP氏は喉を抑えて「オエーッ、麦喰っちまったよ、気持ち悪くなってきた」といかにも苦しそうに言った。前日の朝食で食べたものなんかとっくに出てしまっているだろうに。本当に何も考えていない。
元々彼は所帯持ちのピアノ教師だったらしいが、そんな事だから奥さんにも逃げられ、男手ひとつで娘を育てていたらしい。
しかしそのうち子育ても放棄し、両親に娘を預け、自分は一人でタイやミャンマーへと修行の旅に出たのだという。「娘は今、高校生になっているけど、メールを送っても返事をよこさない」と言っていた。
心配・不安・切望に悩まされる
そんな彼は面接指導の時になると、いつも指導者のSUT(サヤドー・ウ・テジャニヤ)に心配や不安でいつも落ち着かない事、あるいは切望で苦しんでいる事を訴えていた。
心配とは日々の生活の事や将来の事。切望とは瞑想センターに来てからずっと禁煙しているので、煙草を吸う事を望んでしまって仕方ないのだという。なるほど、それであんなに落ち着かないのか?まあ禁煙苦ならそれも2、3週間ぐらいの辛抱だろう。
「それで心配や不安が胸をよぎると、心配や不安な妄想ばかりが頭に浮かび、それによってますます心配になります。また、煙草が吸いたくなると、煙草を吸う事のメリットばかりが頭に浮かび、ますます吸いたくなります」
そしてそのようなP氏の報告に対するSUTのアドバイスは
「それは全て自分でやっているんです。不安が出てくると自分で不安になるような事ばかりを考えて更に不安になり、煙草が吸いたくなると自分で煙草の美味しさばかりを考えてますます吸いたくなってしまう訳です」
というものだった。P氏は家族にも見放されて将来に悲観的になっているのか?煙草の誘惑に負けそうで落ち着かないのか?
本当のところは判らないが、いずれにしても彼の心中は怒り系の煩悩や貪欲さが渦巻いていて、とてもじゃないが穏やかで紳士的に振る舞うどころではなかったのだ。
考える者のない思考
「自分でやっているというのは判る。確かに不安とか貪欲さが出てくると考えたくて仕方なくなるんだ。それで我慢出来なくなって、ついつい心配な事とか煙草の美味しさとかを考えてしまう」
面接指導が終わって部屋に戻ったP氏は、SUTにアドバイスされた事をもう一度確認していた。そのように言われはしたものの、実際にはそれをどうやって実行に移したらいいのか判らないようだった。
「だからSUTは心配や不安が出てきたら、それについて考えてしまわずに、そこでストップしろと言っているんだ。渇望感も同様、煙草の事を考えてしまわずに、それに気づいて止めるんだよ」
ベッドの上に寝転がってずっと一人でブツブツ言っているP氏に私はそう言った。
「いや、しかし考えたくてしょうがなくなるんだが・・・・・」
意外な事だが、何も考えていない奴だとばかり思っていたP氏の口から「考えたくてしょうがない」なる言葉が飛び出した。それも考えるべき事は考えないくせに、要らない事ばかり考えたがる。まったく変な奴だ。
聞いたところによれば、どうもP氏は不安や渇望といった感情に執着してしまうタイプらしい。そういった感情が出てきても、触れないようにして放っておけばいいものを、逆に気にして構ってしまわずにはいられないタチのようだ。
そして「不安が出てきた。嫌だな、どうしよう」とアレコレ考えたり「渇望が出てきた、そうだよな、やっぱり煙草って美味しいよ」とアレコレ考えたりしては執着し、堂々巡りの悪循環にハマり込んでしまうのだ。
こういうのを粘着タイプとでも言うのだろうか?しかし私は指導者ではないのでP氏にそのように相談されても、どのように説明したらいいのか判らなかった。
「よし!判った!いい本があるからちょっと待ってろ!」
そこで私は一冊の本を求めて、S瞑想センター内の図書館へと向かった。こういう粘着タイプにはちょうどいい本がある事を知っていたのだ。
このS瞑想センターには図書館があって、ミャンマー語の本のみならず、英語や中国語、ベトナム語や韓国語、そしてわずかながら日本語の本もある。
そして私が選んだのはアメリカの心理療法家、マーク・エプスタイン著の「Thoughts without thinker」という本だった。
「考える者のいない思考」とでも訳したらいいだろうか?
別にこれは「感じる者のいない快感」でも「行為者のいない行い」でも何でもいいのだろうが、物事を行うのにその主体となる者はいないという意味のタイトルだ。
通常、人間というものは、何かを見たり聞いたり行なったりするのに、誰か行なう者、見る者聞く者がいると思っている。
今、この目の前にある文字と、それを読む者とがいると思っているのだ。しかしこの本では、その主体となる「読む者」など実際には存在しないと言うのだ。つまり妄想なのだという。
見たり聞いたり行なったりする「私」なるものが存在するのか?
それとも見たり聞いたり行なったりしているもの自体が「私」なのか?
「私」が歩いたり、食べたり飲んだりするのか?それとも歩いたり、食べたり飲んだりしているもの自体が「私」なのか?
つまりこのタイトルは、読者にそのような問題に目を向けて貰う事を目的としている。
私はこの本を井上ウィマラ師による日本語訳で読んだのだが、日本語版のタイトルは全然違う話になっているのでちょっと残念だ。
それで、この本がどうしたのかと言うと、この中にP氏が今抱えている問題、執着の手放し方が書いてあるから、それを参考にしてしっかり探求に励めという事で、借りて行って粘着男の彼に読ませてやろうと思ったのだ。
執着を超える
集中的な修行をしているときに仏教の先生から受ける指導は、常に個人的意思をその時の流れに委ねよ、「手放しなさい」というものです。
ジョセフ・ゴールドシュタインの言葉によれば、「しがみつかない」ということです。瞑想者が直接経験(経験そのもの)に心を開けば開くほど、執着は明け渡され続けます。
ブッダのサイコセラピーより
「心を開いて全てを受け入れるのと、貪欲に好きなものだけを追いかけるのとは似て非なる。また受け入れる事は、拒絶し、失くしてしまおうとする怒り・嫌悪の衝動とは対極にある。そしてこの寛容さは同時に、執着を手放している事にもなる」
例えば不安や恐怖心でいっぱいの時、そこから来る思考に巻き込まれると、どんどん感情が勢いづいてしまう。もしかしたらパニック状態にまで陥ってしまうかもしれない。不安や恐怖に執着してしまったため、火種を燃え広がらせてしまったのだ。だが、そんな時に不安や恐怖を「OK」と受け入れるならば、それに執着せず、それ以上火を燃え広がらせずに済む。
また、屈辱にさらされようが、羞恥心やら後悔やらに苛まれようが「OK」と受け入れてさえいれば、それについてアレコレ考えたりしないから、それ以上その感情を拡大させずに済む。
あるいは、何もこれは不安や恐怖のような怒り系の感情だけに適用出来るのではない。貪欲さのような楽しい感情にも適用出来る。例えば美味しいものを食べていても、ちゃんとその味を「OK」と受け入れていれば、貪欲さに煽られて食べ過ぎてしまう事はない。
このように、瞑想中に現れてくるものや、日常生活に起こってくる様々な出来事に心を開いて、それを「OK」と受け入れるならば、それ以上それらの事を判断したり解釈したりしなくなるから、いちいち怒ったり、欲しがったりのウザい反応をする事もなくなるのだ。
「判ったかいP氏?受け入れるんだってさ。感情や貪欲さに執着しないようにするにはその思いを受け入れればいいんだって。それが手放している事になるんだってさ」
「・・・・・・・・・・?」
だがP氏の方は禁煙苦にさらされているらしく、何を言ってもうわの空でしか聞いていない。「ちょっと外出して、近くの喫茶店で一服してこようかな?」などと言っている。
「ダメだこりゃ・・・・・」
だから私はそこで話を止めて、後はP氏のやる気に任せる事にした。借りてきた本を彼に渡し、あとは口出しをしないようにしていた。そしたら彼はベッドに寝転がったまま、つまらなそうにパラパラとその本をめくっていた。
「えっ!」
だが、そのうち彼は突然驚いたような声を発し、今度は180度変わった態度で、その本を喰い入るように読み始めた。
「おっ!何か瞑想の手がかりを見つけたな!シメシメ」
私はその時はそんな風に思っていた。そして彼の異変に気づいたのはそれから数日後の事だった。
六道を瞑想する
そんな事があってから4、5日もたった頃だろうか、また次の面接指導の日になり、私もP氏も前回同様、それに出席し、瞑想で体験した事をSUTに報告しようとしていた。
そしてP氏に報告する順番が回ってきた時の事だった。それまで例のごとく、何もかもがいつも通りに進行していたのだが、その時のP氏の報告だけはいつもと違って何やら奇妙なものだったのだ。
「私は六道輪廻を体験しています」
なぜなら彼は、突然そういう現実離れした事を言い出したからだ。その時その場には10人ほどの修行者がいたのだが、それを聞いた人々はみんな驚いたようで、誰もが唖然としていた。指導するSUTまでもが唖然とした顔をしていた。
「ろ、六道輪廻の体験?」
六道輪廻を体験するとはどういう事なのだろう?その時その場にいた全員は、てっきり彼が瞑想中におかしな幻覚か何かを見て、その事について話すのだろうと思っていた。そして固唾を呑んで彼の報告に耳を傾けていた。
「心に怒りや不安、恐怖などがある場合は地獄にいると思っています。渇望に苦しんでいる場合は餓鬼道に、飢えや性慾の本能にまとわりつかれている場合は畜生道に、競争心が出ている場合は修羅道に、歓びで陶酔している場合は天道に、そして慈悲や自己探求の気持ちがある場合は、人道にいると思っています」
だが、P氏が報告した事は、幻覚やら神秘体験やらの話しではなかった。単に自分の心理状態を六道の世界に当てはめただけの話に過ぎなかった。そしてそれを聞いた周囲の人々は、想像していた事とのあまりのギャップにみんな一斉に笑わずにはいられなくなった。
「プッ、な、何それ・・・・・?」
その報告を受けたSUTも一瞬呆れたような顔をしていたが、しかし直ぐP氏の言わんとする意図を見抜いたようで、その後、大きく頷いた。そして彼に
「それはつまり、単に怒ったら怒った事に気づく、喜んだら喜んだ事に気づくという意味ですね?同じ事でしょう?ああ、それだったらいいですよ別に、そういうやり方でも」
と言って、別に否定するでもなく、彼のやり方を認めたのだった。
「SUTが認めた・・・・・」
私はP氏が「なんちゅー事をやっているんだ」と思って一瞬呆れたが、指導者は彼の意図を汲み取ってそれでいいと言っている。またP氏の方も「このやり方でやると感情や貪欲さに巻き込まれずに済むんです」と満足げに話している。
「マジかよ!?何だそりゃあ?」
それで私も、後でそれを試してみようという気になった。怒りだとか貪欲さなどが出てきた時に「今は地獄にいる」とか「天界にいる」などと興味本位でやってみたのだ。
すると何とした事か!本当に怒りや貪欲さに巻き込まれて考えてしまう事はなかった。見事に執着をストップ出来たではないか。
「しかしまあ、本当に何も考えていないものだ。これもP氏らしいやり方と言うか、彼にしか出来ないと言うか、呆れるやら感心するやらで、何が何だかサッパリ判らない」
では、なぜP氏は突然そのような奇妙な事を言い出したのだろう?それには理由があったのだ。私はそれについて心当たりがあった。
輪廻を理解するための、もうひとつ方法があります。字義的な理解ではなく、心理学的な理解です。
仏教的実践の核心となる問いは、「私は誰か?」という心理学的な問いに集約されます。この問いを探求するためには、輪廻のすべての領域を探索しなければなりません。
各領域は特定の場所というより、異なる心理学的状態のメタファーとなります。そうだとすると、輪廻全体というのは、神経症的な苦しみの表現ということになります。
仏教によれば、苦しみを作り出す原因は、自分自身を直接体験することへの恐怖です。
ブッダのサイコセラピーより
私がP氏に渡した本の冒頭部分にはそのように前置きされ、日頃の心理状態を六道輪廻に当てはめた「神経症的な心についての仏教モデル」という、先程P氏が言った報告と同じ内容の文章が書かれていたのだ。
つまりP氏が興味を持って喰い入るように読んでいたのは、私が教えた執着の手放し方が書いてある部分ではなく、その部分だった訳だ。
そして瞑想する時も彼はその本に書いてある事に従って、そのまま自らの心理状態をその六道の状態に重ね合わせながら観察していたのだろう。
「お陰で感情に執着しなくなったよ。たとえ心配や不安が出てきたとしても、煙草を吸いたくなったとしても、その事について考えなくなったからそれ以上感情や欲求が大きくなる事はなくなった。ずいぶん楽になったよ」
そして彼はその方法で、怒りや貪欲さへの執着から脱してしまったのだ。
本当に信じられない話だが、P氏は私が提示した方法とは全然違う、放下著とは何の関係もない記述を読んで執着を手放すコツを掴んでしまったのだ。無茶苦茶な事をやると言うか、とにかくこんな何も考えていない奴は見た事がない。
「何も考えない事は、時としてまぐれ当たりを発生させる事もある」
まあ、こういう事は滅多にある事ではないので、あまりお勧めする気にはなれないのだが。
何も考えていない訳ではなかった
そんな彼も、それから一か月もするとS瞑想センターを離れる事になる。今度は他の瞑想センターに移って、他の方法も試してみたいと言い出したのだ。
「ここにいる間は中々いい瞑想が出来たよ。少し自信がついたんで、今度行く所では比丘になって修行してみようと思っているんだ。それからキミ、コーヒー好きだろ?これ飲んでくれよ。荷物になるから」
そう言って私にインスタントコーヒーを一瓶よこした。2、3日前にP氏が外出して買い物に行った時に買ってきたものだ。
開封したばかりで恐らくまだ5?6杯しか飲んでいないから、ほとんど丸ごと一瓶くれたようなものだ。
しかしどうせあと2、3日で瞑想センターから出ると決まっていたのに、何でこんなにたくさん買ってきたのか?
一杯分づつパック詰めにしてある奴を5、6パックだけ買ってくればいいものを。相変わらず何も考えていない。
「なあに、安いからたくさん買ってきたんだ。大瓶の方がお得だと思ってさ」
やっぱり彼は、その時も貪欲さの思考にハマってしまって、その事で頭が一杯になってしまって、肝心の事が見えなくなっていたのだろう。何も考えていない奴というのはつまりそのように貪欲さや怒りにハマって、その勢いで要らない事ばかり考えて、大事な事を見失ってしまっている奴だと言える。
それでもP氏は、修行によって貪欲さや怒りの思考に陥らない方法を見つけた。だから何とか救いはある。どう見ても最初にSセンターに現れた時よりはマシになっている。着実に成長を遂げているのだ。
最後にP氏とメールアドレスを交換した時、私のメモ帳にはマレーシア人女性のアドレスが書いてあった。
「Catherine」マレーシアの華僑は名前が英語で名字が中国語になっている。彼女は60代のオバサンで、瞑想センターで知り合い「マレーシアに来た時はお寄りなさい」と言って教えてくれたものだ。
だが、英語の女性の名前を見つけたP氏は「誰だこれは!ちょっと見せてみろ」とそのメモ帳を私から引ったくり「何なんだこの女は!」と、すっかり興奮してしまった。
相手がどんな人かなんて全然考えずに、速攻で自分の思い込みの世界に入ってしまったのだ。
「おいっ、P氏!それも貪欲さだぞ、しっかりしろよ!」
私はそう言って彼からメモ帳を奪い返した。しかし本当に最後の最後まで何も考えていない、いや、要らない事ばかり考えている奴だ。
要らない事ばかり考えるのは、何も考えていないのと同じ。また要らない事をやるのも、何もやらないのと同じ。
P氏からはつくづくこういう教訓を得させて貰った。必要な事をやる以外はみんなムダな事、単なる徒労に過ぎないのだ。人生を無意味なものにしないためにも、人間は必要な事だけをするようにしなければならない。
では、一体その人間に必要な事とは何だろう?人間が生きる上で必要なものとは何だ?それをやる以外は全て無意味という事になってしまうのだが?
そうだ!その必要な事をやらなければ、この人生は全て徒労なだけの無意味なものでしかないという事になる!
「では実際、人生ですべき事って何だ?」
そこまで考えてふと気がついた。私は人生で本当にすべき事は何なのかを知らなかったのだ。
「ゲーッ!人生を無意味に過ごしたくねー!一体人生に必要なものって何だ?この人生でやらなければならない事って何だ?それをやらないと人生は全部ムダという事になってしまう!誰か教えてくれ!」
そのようにうろたえる私を尻目に、P氏は去って行った。その答えは、次に会う時までに考えておけと言わんばかりに。本当に彼には色々と考えさせられた。今まで考えてもみなかった事まで考えさせられた。そしてそれこそが本当に考える必要があるものだった事にも気づかされた。
「もしかしたら要らない事ばかり考えていたのは私の方だったのかもしれない」
重そうなリュックサックを背負って歩いていく彼の後ろ姿を見ながら、私はどうもそう思わずにはいられなかった。
出典
冒頭の西オーストラリアの写真 photopoodleによる画像
最後のバックパッカーの写真 : https://unsplash.com/