S氏 マレーシア人 60代 男性
マレーシア人修行者のS氏 (ペナン出身)が最初にミャンマーを訪れたのは何と、30年も前の1990年代初頭の事だった。
それ以来彼はミャンマーでの瞑想にハマり、毎年年末年始の休暇には必ず、どこかの瞑想センターを訪れては修行していくようになった。2000年代に入ると彼は、滞在先をマインドフルネス瞑想のS瞑想センター一本に絞り、ここで2〜3週間ほど瞑想して過ごすようになる。
S氏はアメリカのハーバード大学で、植物の生体や環境保全について学んだという知性派で、現在はマレーシアで果樹園やらゴム園やらの木の健康状態を見て回るのが仕事。
木の医者「樹医」というのだろうか?つまり果樹園や森林農業の栽培のアドバイザーをしているという人だ。
マレーシアは、樹木から採れる樹液や果物を使っての産業が栄えている。樹木によって生活が支えられている人々がたくさんいる訳だ。だから彼はマレーシア農業界では重要な知恵袋でもある。
私はこのS氏とは、2010年に初めてS瞑想センターを訪れて以来、ほぼ毎年会っていたのだが、彼がどんなタイプの修行者なのかは全く判らなかった。なぜなら私とマレーシアの華僑であるS氏とは、面接指導を受けるクラスが違っていたからだ。
S瞑想センターには、毎年年末年始の休暇中になると、世界中から100人以上の外人たちがやってくる。東南アジアの仏教徒はもちろん、韓国、中国、ベトナムなどの大乗仏教の国の人々や、欧米、中南米、中東、アフリカなどの国々からも修行者が集まってくる。
その外人たちが目的としているものは、仏教を体現した指導者から直々に指導を受ける事だ。そのための面接指導がS瞑想センターの場合は、英語、韓国語、中国語、ベトナム語の4クラスに分けられている。韓国語、中国語、ベトナム語のクラスは通訳がいるが、英語のクラスはいない。
だから日本人がSセンターに行くと、日本語の通訳はいないため、英語のクラスに入れられて、英語での指導を受ける事になる。そしてS氏の場合は中国系なので、中国語のクラスに入れられる。
クラスの分類法は使う言葉で分けるというよりも、どちらかと言えば民族や文化で分けているようだ。きっと同じような考え方をする同士を集めた方が、指導もしやすいのだろう。
つまり私とS氏とは、それまでは顔見知りであっても面接指導のクラスが違うため、お互いにどんな事をやっている人なのかは全然判らなかった訳だ。また、Sセンターには韓国人やベトナム人、マレーシア人たちがたくさんいるのにこのシリーズにはあまり出てこないのは、彼らともクラスが違うため、どんな事をやっている人なのか判らなくて、書きようがないためだ。
S氏と同室になる
そんなS氏と私が同室になったのが2019年の12月半ば。私は9年目にして初めて顔見知りの彼と同じ部屋で過ごす事になった。私が一人で滞在していた部屋に、彼が「この部屋を割り当てられた」とやってきたのだ。
「おおっ!今年も来たねっ!」
S氏は人間が凄く出来ている人で、彼が怒った姿は一度も見た事がない。また、大ベテランにもかかわらず、どんな修行者にも敬意を払い、温かい態度で接する。偉そうに他人のやる事にアレコレ指図したり口出ししたりするなんて絶対にない。どこでも誰とでも対等に平等に付き合おうとする謙虚な人だ。だから私は彼が来た事を心から喜んでいた。
S氏の思想
「この身体というのはカレーやラーメン、炒飯やスパゲッティ、コーヒーや紅茶、イチゴやバナナ、ケーキやビスケットやアイスクリームの成れの果ての姿だな」
そのS氏の探求テーマというものは、こういうマニアックなものだった。長い事彼を見てきたが、こんな事はここにきて初めて知った。まさかこんな探求をする人だったとは!
まあ彼の言う事は全くその通りで、反論の余地のない明白な事実だ。だが灯台元暗しというか、誰もがうっかりと見逃しがちな案件でもある。だからほとんどの人はそういう事を考えようとはしない。ではなぜS氏はそんな探求をしていたのか?
というと、これは日本ではあまり馴染みの無い思想だが、実はこういう事を大真面目に考え続けてきた民族がいるのだ。ご存知のように、彼の先祖の古代の中国人たちがそうだ。
だからS氏のような中国系で瞑想に興味があるようなタイプは、スピリチュアルな世界について学ぼうとすると、まず真っ先その思想に触れる事になるという。
「今日食べたものはどのように発生してきて、どうなっていくかをちゃんとイメージしているか?」
そんな訳で、私がS氏と同室になってからというもの、彼は食後になると必ず私にそのように聞いてきた。中国語のクラスではそのような事をやろうという話になっているのかもしれない。だが、英語のクラスの私はそんな事は知らない。
そもそも私は自分が食べているものの事など「料理」としか見ていない。味の事しか考えていないのだ。食材がどこから来たかなんて聞かれたら「スーパー○○」などと答えてしまいそうだ。食べた後どうなっていくかなんてあまり考えたくもない。
しかしS氏は私に、常にその流通経路から、食材の栽培者や育成者たちが種を蒔いたり肥料を与えたり、干し草を与えたりしているところまでを、全部思い浮かべてみろと言う。
また、自分から排泄されたものの行く末はどういうものなのか、ネットで調べてみろとまで言う。
「うむ・・・・・・・・・・・・・・」
それは判った。なるほど、古代の中国人の世界観というのはこういうものだったのか。ではなぜS氏はそのような思想に傾倒しているのか?そもそもS氏は仏教徒なんじゃないの?
「私は仏教を勉強する過程で、初めて中国に伝わっていた思想を知った。それは自分がそれまで学んできた生物の生態についての知識と全く一致するものだった。だから私はとても感激した。そのため、これこそが生涯をかけてやるべく私に与えられた唯一の探求のテーマだと思った」
「なるほど!納得!」
どうやら中国では本当にその伝統的な思想である「タオ=道」の思想と仏教とが結びついているようだ。そしてS氏が観察しようとしているものこそが、その「天地自然の流れ」なのだという。
そしてS氏はそれまで学んできた学問と合致する天地自然の流れの教えを知って、その流れに合わせてありのままに生きる道、自分をコントロールする事なく無為自然に生きるという、タオ的な生き方を目指していた訳だ。確かにそれは仏教とも通じるものがある。
「宇宙丸ごとみんな同じもの。そしてそれは大いなるバランスをとる働きで成り立っている。色んな個性のものたちが、それぞれの個性を発揮し合う事でバランスがとれている。古代の中国ではみんなそうやってものを考えた。農業でも医療でもみんなそうだ」
S氏の考えの土台となっているのがそのような教えであるとすれば、彼がどんな人の個性も尊重し、誰とでも対等に接しようとする理由が判るような気がする。
そしてまたその考え方は、あの自然農法で世界的に有名な人でもある、福岡正信氏の教えとも共通するものがある。
人類にとって大きな脅威となっている自然環境の悪化に伴う生態系のバランスの乱れは、飢餓や貧困の問題を引き起こしています。 それは、まさに人災が招いた結果とも言えるでしょう。それに立ち向かうべく、多種多様な植物の種子を粘土団子にして砂漠化や荒廃した大地へ撒き、再び自然がその息吹を取り戻すために尽力した活動は、正信の大きな功績の一つとして称えられています。
単一植物だけを使用しなかったのは、自然のバランスを軽視した現代的であり、かつ人間目線のエゴが優先されものであると考えたからです。
事実、生態系は多種多様な動植物の有機的な関係性で成り立っているため、偏重したバランスは自然の摂理に反するものだからです。
福岡正信自然農園ブログより
西洋の思想
では参考までに、中国語の人々ではなく、英語で指導を受けている西洋人たちは、自然に対してはどのような見解を持っているのだろう?つまり自然に対する考え方は、東洋と西洋とでは、どう違うのだろう。
と、いうと実は面白い事に西洋人たちも自然に対しては中国人たちと全く同じような事を考えていた。瞑想センターに来て修行していくようなタイプの人々は、同時にまた環境保護主義者でもあるのだから。
特にアメリカ人などは洗剤の使用量を控えめにする事や、プラスティック製品のリサイクルに熱心に取り組んでいる。
だからアメリカ人たちがいる間は、瞑想センターでもトイレ掃除の際に洗剤を使うのは3日に一回などと決められてしまう。これもまた土台となっている考え方は「今飲んでいる水はどこから来てどこへ行くのか?」「今吸っている酸素はどこから来てどこへ行くのか?」というものだ。
しかし西洋人たちには自然を大切にし、自然と共生しようという考えはあっても、自然の流れに合わせて生きるという考え方はない。
自分自身が自然だとは思っていないような気もする。自然はあくまでも人間のコントロール下に置くものなのだ。だから同じ自然の流れを見ても、中国人と東洋人とは全然正反対の態度をとっているようにも見える。
リアリティーを見る
では、そのS氏の天地自然の流れを探求する方法とは一体どのようなものなのか?というと、これは単に物事を見る時に概念に囚われずに、リアリティーの方に注意を向けるようにするというものだ。つまりそのリアリティーこそが天地自然なのだから。
通常、人間は物事を見る時に、その概念しか見ていない。
例えば誰かを見る時、性別やら年齢やら性格やら、その人から出来るだけのありとあらゆる連想をしている訳だが、その自分で考えている勝手な妄想や概念の事をその人の事だと思って見ている。
だからこのS氏のような謙虚な人を見ると「あまり高い地位にはいない人だ」とか「俺を持ち上げているという事は俺より下だ」などと勝手に決めつけてしまう。
そして舐めてかかっていると、後で意外な事実を知らされて驚く。
ちなみに水戸黄門は、人間のこのようないい加減な事実認識のあり方を利用して、世直しのために諸国漫遊をしている人でもある。
人間は「上」と見れば頭を下げ、「下」と見ればぞんざいな態度をとる
それ以外にも人間は、他の人々を見る時にはかつての印象を投影してしまう癖がある。昨日腹の立つ事を言われたからと、今日その人に会っても昨日の印象でその人を見てしまうのだ。今日は昨日とは違って機嫌がいいかもしれないのにもかかわらず。
いや、一日ぐらいならまだしも、三年経っても五年経っても、あるいは十年、二十年経っても人間というのものは、その人の事を過去の印象のままに見ようとしてしまう。
いや、問題なのは他人の事云々よりも、むしろ自分の事の方だろう。そもそも人間というのは一体何を自分だと思っているのだろう?自分が自分だと思っているものは、果たして本当に自分なのか?
人間というのものは自分を見る時にもありとあらゆる連想を駆使する。「今、俺はみんなからどう思われているか?」「成功したからみんな俺の事を偉い奴だと思っているだろうな」「失敗したからみんな俺をアホだと思っている」そうやって想像する以外に自分を知る術を知らないからだ。
そしてそんな妄想を真に受けてはおかしなセルフイメージを形成してしまう。完全に自分に騙されてしまっているのだ。
あるいは逆に、他人に言われた事を真に受けてしまったりもする。会社で営業成績が悪くて「ボケ、カス」呼ばわりされると、それを本気にして「俺はダメだ」と思ったりする事もある。
しかし呑みに行って店のママに「あなたは誠実だから他人を騙す事が出来ないだけよ」などと煽てられると今度は「そうだよな。俺は善人過ぎるんだよ」などと思ったりもする。
そうなると自分というものは、他人に言われるがまま、評価されるがままの他人次第のものになる。まったくタチの悪い認識機能を持っているものだ、人間というのものは。
だからそうならないようにするために、他人を見る時にも、自分を見る時にも、全てのものを見る時に、概念や妄想ではなくリアリティーの方を見る事が必要になってくるのだ。
概念に目を向けない
では、そのリアリティーとは何だろう?
実はそれは単に、今、実際に感じている感覚の事だ。
例えば目の前にあるそれは何だ?と聞かれて「スマホ!」と答えたら、それは既に概念の方を見てしまっている事になる。視覚に入っているもの、手に触れている感触の方を見ていなければならない。何か食べていてどんな味がする?と言われて「甘い!」などと答えたら、既に概念にハマっている。その味覚や感触の方に注意を向けていなければならない。
一番肝心なのは人間で、人間というものはどうしても人間を見る時は、肩書きやらステイタスやらの概念の方にばかり目が行ってしまう癖を持っている。
「人間」とか「男女」「自他」と思った時点で既に概念に引っかかってしまっているのだ。だから本当の姿なんて見ようにも見れない。
せめて自分の事ぐらい概念抜きでちゃんと見たいものだ。しかし「自分」というだけで既に概念なのだから困ってしまう。だからとにかく何をするにも実際に感じている感覚だけに目を向け、判断や解釈したものの方には目を向けない。
そういう事をやっているうちに、心が自然と「今ここ」に落ち着くようになる。「時間、空間」というのも概念なのだから。
また、気づきも自ずと継続するようになる。心が概念に引っかからないで済むからだ。一番気をつけなければならない概念が「俺」なのだが、何とか身体感覚に留まってそちらへいかないようにする。
これこそが今S氏がやっている、彼の長い間の修行でたどり着いた方法なのだという。
という事は、彼の修行は仕事と一体化していると言える。修行即仕事だ。修行ながら稼げる訳だ。何て羨ましい。悠久なる中国の教えの深さたるや恐るべし。
中国系の人々の性格
だが、そんなS氏にも悩みがあった。それは中国系の人々の性格だ。彼らには悠久なる中国の教えがあるからなのかどうかは判らないが、恥というものを知らない。そのため面接指導に時間がかかり過ぎるのだ。
英語で行う西洋人たちの面接指導の場合、大体20人ぐらい参加すれば1時間から1時間半ぐらいかかる。一人一人が瞑想体験を報告して、それに対するアドバイスを貰う訳だが、その所要時間は一人平均3分ほどだという事になる。
まあ、英語のクラスの場合は西洋人たちは恥ずかしがりやなので、アメリカ人たちが雄弁に話しているぐらいで、あとの人々は二言三言で終わってしまうから、全然時間なんてかからない。
だが中国語のクラスの場合は、恐ろしい事に20人参加すれば4時間以上もかかってしまう。
中国語のクラスと言っても、参加している中国人、マレーシア人、シンガポール人たちはみんな英語がペラペラなので、ほとんど通訳なしで行われている。だから一回の修行者と長老とのやりとりにかかる時間は英語のクラスと同じだ。それなのになぜそんなにかかるのか?
というとこれは中国人の性格に問題がある。西洋人と違って中国系の人々は、恥ずかしがるという事がないために、みんな話しまくってやりとりが多くなるのだ。その量たるや西洋人たちの4倍だ。
「みんなその場の思いつきでどうでもいい事ばかり聞いている。他の人々の事も考えて、もっと質問を練ってくるべきだ」
S氏は面接指導がある度に、そう言って嘆く。なぜなら夕方6時半から始まる面接指導が終わるのは、10時半になってしまうからだ。そうなると部屋に戻って寝るのは11時になる。翌朝は3時半起床なのに。
「次の日の瞑想は居眠りが多くなるんだ」
それは大変だ。まったく中国系の人々のツラの皮の厚さときたら信じられないほどだ。しかし待てよ、それを聞いてふと疑問が湧いてきた。
というのもS氏の日頃の言い分からすれば、恥知らずなのもそれはそれで中国人たちの個性という事になるような気がしたからだ。そしたらやっぱりそれだって尊重しなければならないのではないの?S氏の話を聞きながらそんな事を思った。すると彼は
「いや、それは違うよ。中国人たちのアレは貪欲さだからさ。みんな貪欲さ丸出しで時間がかかっているんだ。個性を発揮するにもちゃんと戒律守って、怒りや貪欲さ抜きでやらなければならないのにさ」
と言った。なるほど、それはつまり不善な心で行う言動は個性ではないという事か。
怒りや貪欲さ抜きでなければ個性は発揮出来ないと。そうだったのか。それで今まで引っかかっていた疑問が解けた。
じゃあ乱暴者が好き勝手に乱暴狼藉を働くのは、あれは個性を発揮している事にはならないし、貪欲な奴が「自分の欲望に忠実に」とか言いながら飽くなき欲望を追求するのも個性の発揮にはならない訳だ。
「そうだよ。間違えると大変な事になるよ」
それは、面白い話を聞かせて貰った。なんか無為自然とか言うと自然体で何でもやっていいように思えるが、本当の自然体とはそういう意味だったとは。これは私も参考になった。いい話が聞けた。これは大変有り難い。
S氏のお決まりのメニュー
そんなかんじでS氏は今年もまた3週間みっちりと修行し、充実した気分でリトリートを終える事が出来た。私も彼と同室にさせて貰い、たくさん学ぶ事が出来た。その収穫はここに書いた通りだが、中々聞けないようないい話が聞けた。
「じゃあねヒロさん、お世話になりました。また来年」
S氏は修行を終えて帰国する時は、毎年必ず瞑想センターの人々全員に朝食を寄付して行くのがお決まりになっている。
今回の最終日にももちろん寄付した。リクエストメニューはもちろんミャンマーを代表する麺料理の「モヒンガー」だ。これを出すのもS氏の例年のお決まりだ。
その様子は動画で配信されているので、瞑想センターというところの食事風景に興味のある方は是非ご覧頂きたい。S氏を手伝っているのは全員マレーシア人修行者たちだ。比丘に食事を寄付する儀式から、一般修行者に食事を寄付する光景まで珍しい場面が一杯!瞑想センターではこんな感じで食事をとる!
今年はS氏に本当にいい話を聞かせて貰った。だから彼にそんな事を言われてしまっては逆に恐縮してしまう。
「いえいえS氏こちらこそお世話になりました。また来年必ず会いましょう。ではそれまでお元気で」
そう言うとS氏は必ず「来年じゃなくて今年だよ。もう年が明けて1月になっているのだから」と答える。このやりとりもまた、我々の毎年恒例のご挨拶になっているのであった。
※次回はウ・テジャニヤ長老名言集になります。お楽しみに。