【ウ・テジャニヤ長老の名言 第3集】気づきが体に浸透する珠玉のことば集

2021年5月15日土曜日

名言集

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 ウ・テジャニヤ長老の言葉をツイートした中から特に人気のあったことばを集めた第3弾です。


ウ・テジャニヤ長老は日常生活における気づきを忘れないようにするため、頻繁に『今、気づいているか?』と自問自答しながら生活する事を勧めています。 日常生活では、気づいては気づきを失い、また気づくといった事を繰り返ながら気づきを定着させるしかありません。 それを疲れないようにリラックスしてやるのがポイントです。

そして一旦気づきが勢いに乗って、心が安定した状態を味わってしまうと、もう気づき抜きの生活なんて考えられなくなります。 この方法はそこまで行くのを目的としています




ブルー枠は長老による単独のメッセージ。
(修行に迷うすべての瞑想者への助言)

オレンジ枠は、長老と修行者(ヨギ)とのインタビュー時の対話です。










苦を避ける事は出来ない。

苦から学ぶためには苦を体験しなければならない。

苦から解放されたければ何度も苦に直面する必要がある。

苦しむ理由はその苦が「私」「私の」と思うから。

それはただの執着であり「私」ではないと理解した時、苦から解放される。




不安を理解するとは、不安が生滅しているのを観察する事ではない。

不安は誰のものでもないし、不安になるものはいないという事をしっかり理解するという意味だ。

不安はあっていい。不安を消したら理解は出来なくなってしまう。




瞑想を修行する時は、まず物事の見方を正しいものに変えなければならない。

通常は身体のどの部分を見ても「私」と思う。それは心も同様。

だが知っているのは誰か?気づいているのは誰か?

心身について「私」「私の」と見ているうちは、誤った見方になっているのだ。




たとえ貪欲さや怒りを観察するのであれ、正しく行うならば心は善心になる。

同じものを観察するのでも、判断や解釈を加えたり「私の」と所有してしまったりすると心は動揺し、緊張し、落ち着かなくなる。

だから修行するうえで必要なのは、正見と正思惟だという事になる。




集中したり、何かを手に入れようと努力したりしている時は注意する。

それは不善な動機に押されての事かもしれない。

何事も素早く効率的にやりたいというのが私たちの習慣になっているが、そこにはどんな動機があるか気づく必要がある。




せっかちというのは貪欲さになる。直ぐにいい思いをしたいという欲張りな思いだ。

そしてそれが達成出来ないのではないかと心配し、不安になる。

これらは全て不善な思いで、これによって一生懸命努力するように仕向けられる。

そしてその不善な思いの結果は?










家で修行する時は心が大切なパートナーになる。

心が混乱している時、それを明晰な状態に戻すのにどれだけ熟練しているか?

また、その明晰さをどれだけ維持出来るか?明晰さの維持とはつまりサマディを達成するという事。

不善な心に囚われなくなるという事。





サマディ(三昧)とは不善な心が表面化せず、それに圧倒される事もなくなり、心が明晰で安定している状態を維持出来る事。

だから私たちが家で修行する時にまず学ぶ事は、混乱した心を明晰な状態に戻す方法になる。





修行者

心が傷つけられたので「彼が私を叱責した。だから私は悲しい」と因果関係を観ています。


長老

外にあるものは心を傷つけない。傷つけるのは内部の煩悩だ。その場合は概念的プロセスだけを観て、心が何を考えたからどんな感情が生じたかを観ていない。




修行するうえで「あるべき姿」というものはない。

今あるもの以上の何者かになるような事は期待すべきではない。

たとえ心が鈍っていたり気づけなかったりしたとしても、ただそれを認識するだけでいい。

良くなる事を期待しているのなら、そこには修行への不満がある。





私たちは、私たちの心の支配者である貪・瞋・痴を認識しなければならない。

彼らが力を発揮する時は、そのパワーをただ知るだけにしておく。

常にそれらを尊重し、放っておく事を心がけるのだ。

そうすれば彼らのパワーはどんどん弱まる。

しかしそれには時間と忍耐とが要る。









修行者

私にとって概念の世界は瞑想修行より現実的です。私は修行より現実を選びます。


長老

概念の世界は非常に重要だ。私たちはほとんどの場合、概念の世界に生きている。だが概念の世界でどうやって平和で有意義に生きるつもりなのか?苦しみの原因を知らずに?




私たちはよく、物事を自分の都合のいいように解釈し「善悪」と判断し、それを正しいと信じて思い込む。

だがこれは誤った物の見方だ。

煩悩は誤った見方をさせ、智慧は正見、正思惟をさせる。

価値判断もなく「私」「私の」という概念もない見方は、瞑想を進歩させる。





通常、人は苦しみを見たがらない。

目をそらしたり隠したりして苦しみから逃れようとする。

だが、それでは決して苦しみから自由になる事は出来ない。

執着したり抵抗したりするのは好き嫌いの煩悩の方法で、コントロールせず何度でも気づこうとするのが智慧の方法だ。





修行者

ネガティブな思考や感情が生じた時は、それを止める事が出来ます。


長老

それは止めないで観察しなければならない。それによって思考と感情との相関関係がわかる。止めてしまったら何も学べない。楽のみならず不快な事もちゃんと観察する事だ。





気分がいい時は、いつでも心をチェックする。

快適さには無意識のうちに執着してしまうからだ。

すると執着があると望むものが手に入らない時は動揺する事になる。

それは快適さを追い求める渇望から生じてくるのだから。

つまり万事OKで気づきがなければ苦の原因が既にある事になる。





対象に注意を向ける心、意志する心を観察すると、今度はその心が対象となる。

何かに注意を向ける度に自分で意図してやっている事を確認する。

その意志に気づけば、思考も身体の動作もみんな自分の意志でやっている事がわかってくる。

注意を向けた時と向けない時の違いもわかる。











気づくために気負う必要はない。

気づきとは座っているか?見ているか?聞いているか?身体が温かいか?冷たいか?を認識するぐらいの事だ。

それだけのエネルギーがあれば十分。

眼耳鼻舌身意に生じる感覚を認識すればいいだけの事だ。

それは難しい事か?疲れる事か?苦しい事か?





私たちが間違った決断を下した時は、自分を責めずに妄想を責めるべきだ。

心には智慧もあれば妄想もある。

そして心は妄想に操られている。

だから問題は妄想にあるのであって、本人にあるのではない事は明らかだ。





経験には8種類ある。4つは良い事で(賞賛、獲得、名声、幸福)4つは悪い事(喪失、非難、不名誉、痛み)だ。

私たちは経験を変える事は出来ないが、考え方を変える事は出来る。

智慧が強ければ、心は全ての条件を受け入れる。

これが万事OKの意味だ。






「万事OK」とは何でも望み通りになるという意味ではない。

どんな状況でも心が動揺しない事を意味する。

人々はいつも良い事ばかり起きて悪い事は起きないように願っている。

しかしそんな事が可能だろうか?

経験には良い事もあれば悪い事もある。しかしそれを変える事は出来ない。





修行していて人生が好転したら、それは状況が自分の気分や欲求に合うように変化したからではない。

自らの人生との関わり方、考え方、あるべき姿が変わったからだ。

やっている仕事は同じでも、心が変われば人生は変わる。生き方を改めるだけで人生が好転するのだ。





修行を始めたばかりの頃は、感情や呼吸など、ひとつの対象だけに焦点を合わせ、心を落ち着かせる事だけを目的にしているものだ。

しかし、心が落ち着いた時、煩悩が治まった時こそ智慧が現れるという事に気づいていない。

心が落ち着いてから本当の瞑想が始まるのだ。










あなたが見たり聞いたりする時は、自分がやっているのではなく、自然の現象が起こっていると理解する。

「私がいる」「私が見ている」という考えは既に誤っている。

「やっている者」はおらず「自然のプロセスが起こっている」と理解するのは難しい事ではない。





私たちは身体の事に気づくのは上手だが、心の中で起こっている事に気づくのは苦手だ。

最初のうちは後で「ああなってた」「こうなってた」と思うが、それも無理はない。

だが、後でわかった時から早くなり始める。そして修行によってどんどん早くなっていく。





病んでいる時は、気づきを諦めるとますます苦しむので、気づき続けた方がいい。

気づき続けた方が苦しみから解放される。

ヴィパッサナーが無理ならサマタでもいい。煩悩に圧倒されないように試み続けることだ。





私たちに正しい考え方があれば強い渇望、嫌悪感や眠気があったとしても修行を続ける。

そんな時は自問自答するといい。

「まだ気づく努力をしているか?」「修行に自信があるか?」「気づきは煩悩を妨げているか?」と。

すると心は励まされたように感じる。





日常生活の中で気づいていなければ、小さな事にも直ぐ腹を立てたりする。

しかしその怒りに気づけば、相手に反応する前にいくらか間があり、その間に怒るか慎むかを決める事が出来る。

心・口・意の三業が気づきと智慧によって導かれるたびに、心は守られる。











洗い物をする場合は、食器の持ち方や感触、動き、自分の気持ちの方に注意を向ける。

また、通常私たちは自分の行いについて、必要以上に考え過ぎているので、思考に囚われないように「今何をしているか?」と自問自答しながらシンプルにやると気づきを維持しやすくなる。





もし気づきながらの日常生活が上手くいかなかったら、集中しているかもしれない。

気づくとは、一挙手一投足に集中する事ではない。

集中していても気づけるが、他に何も考えられなくなるから日常の活動が出来なくなる。

集中していなければ、気づきながら上手く日常生活をおくれる。




修行者

正しい態度、考え方とはどういう事ですか?


長老

第一に智慧と共に考えるという事。第二に不善な心で考えると正しい思考は出来ないという事。怒っても、貪欲さがあっても、隠さず、正当化せず、いじらずにそのまま知るようにする。





修行者

瞑想の合宿中に外出して買い物に行ったのですが、外の世界は色んな事が起こっていても、心は心身の動きに気づいていようとしていました。


長老

通常は外の世界ばかり見ているから気づけないが、気づきを内側に向ける訓練をすると、心は外の世界に興味がなくなってくる。





修行者

坐る瞑想の時に目を開けてもいいですか?


長老

これはサマタ瞑想ではないのでOKだ。一点集中の場合は余計なものが見えないようにするため、目を閉じる必要があるが、ヴィパッサナー瞑想の場合はその必要がない。








食べる時の観察は、初日に何を見ているか、二日目に何を聞いているか、三日目に嗅いでいるもの、四日目に味わっている事、五日目に身体の動き、六日目に心の動きについて、それからその六つの感覚全てがそれぞれ一緒に機能しているのを観察する。




修行者

食べている時はどんな事に気づくのですか?ゆっくり食べなければなりませんか?


長老

あまりゆっくり食べる必要はない。食べている時は眼耳鼻舌身意のどの機能が働いているかを観察する。まず最初は別々に観て、慣れてから全部一緒に観る。





日常生活の中で智慧を磨くには、何かを行う前に「それは必要なのか?有益なのか?」と自問自答する事だ。家事からお茶、布団から出る時、スマホに夢中になる時、いつでもやってみる。無謀な考えをしている時はもちろんだ。その度に心が煩悩ではなく、智慧に従う。




修行者

怒りに気づいた時は嬉しかったのですが、同時に辛さも感じました。


長老

怒りと共に、その他の感情に気づくことはいいことだ。心は不快さを隠そうとする。例えば怒っている時でも笑みを浮かべたりする。何かを嫌っている時はそれを覆い隠そうとするから苦しく感じる訳だ。





修行者

現実と概念は別々に発生するのですか?


長老

概念は心が経験する現実に基づいて生じる。誰かを見ればその人の名前を思い出し、文字を見ればその意味を思い出す。だが、私たちは多くの場合、概念しか見ていない。現実を見れば怒りや貪欲さが生じる事はないのに。





ヴィパッサナーは対象の全体像を見て、その本質を理解するためのものだ。しかし凝視してしまうと視野が狭くなり、全体像が見えなくなってしまう。そのためには対象が見えるだけにしておくだけで十分。気づきがあればそれでいい。わざわざ見に行く必要はない。










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  最終更新日 2023.12.31

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