M氏 日本人 30代 男性
先日、横浜で3メートル以上もある大きな蛇が飼い主の元から逃げ出したというニュースを見かけた。あの蛇はもう捕獲されたのだろうか?実は私はあの蛇の写真を見て、15年も前のある体験を思い出してしまった。
それは2006年の5月頃の体験になるが、ミャンマーの中央部にある国内第ニの都市、マンダレーから東に車で2時間ほど行った、ピンウーリンという町にある、マハーシ式のC瞑想センターの地方支部での事だった。
私は当時は昼食後、自分が滞在していたコテージの裏で、椅子に腰掛けて日向ぼっこをしながら、15分ぐらい本を読むのを日課にしていた。そんなある日、その目の前の草むらから、何やら黄色い棒状のものが音もなくニュッと起き上がってきたのだ。
「何だこりゃ?」
その棒状のものが立ち上がっているのは私から2メートルほど先で、高さは7〜80センチぐらいだった。最初はよく判らなかったが、目を凝らして見てみると、何と!棒だとばかり思っていたのは目や口のある生き物、蛇ではないか。蛇が鎌首を持ち上げて私の方をじっと見ているのだ。
「うわっ!!」
私がそうやって驚くと、その蛇もその声に驚いてしまったようで、その場からニョロニョロとばかりに素早く逃げ去ってしまった。どうやらあまり攻撃的な蛇ではなかったようだ。その蛇の逃げる姿からすると体長は2メートルほどで、色が鮮やかな黄色だった事を憶えている。
後でその事件をミャンマー人たちに話すと、黄色の蛇なら毒はないという話だった。
ミャンマーでは黒や緑の蛇が危ないのだという。だが黄色い蛇は無毒でも、飼っている鶏を食べたり、大きいのになると犬や猫までをも食べたりする事があるので、やはり注意が必要らしい。
蛇の件は別にどうでもいい事なのだが、実はそのエピソードと共に思い出した修行者がいる。
私がそんな体験をしていた頃、そのC瞑想センターには、ちょうどM氏という日本人が滞在していたのだ。
蛇のついでで申し訳ないが、その人も印象深い修行者だったので、せっかくだから今回は彼の事を紹介させて頂きたい。
脱サラのバックパッカー
そのM氏は特に予定は立てず、安宿に泊まりながら徒歩やバスの旅で交通費を切り詰め、できるだけ食費をかけないように倹約旅行をする、いわゆるバックパッカーというスタイルをとる旅人だった。
M氏はそのC瞑想センターを旅の途中に1週間だけ瞑想修行を体験したいという事で訪れていた。
彼はこの旅に出るためにわざわざ10年勤めた会社を辞めてきたのだという。ずいぶん気合いの入った旅をしている人だ。
私はこれまでも瞑想センターにおいて、数人の同じようなバックパッカーたちに会ってきている。彼らの旅の話は面白く、とても興味をそそられる内容ばかりだ。
だから彼がCセンターに滞在している間は、毎朝朝食後のひとときに、瞑想センターの敷地内を一緒に散歩しながら話を聞かせて貰っていた。
「シリアに行った時の事ですが、僕が泊まっていたホテルにサウジアラビアから狩猟を楽しみに来ていた一行がいました。
それで向こうが僕を見かけて『オマエはどこから来たんだ?』などと珍しいものでも見るような顔つきで話しかけてきました。
『日本人だ』と答えると『そうか、日本人は初めて見るな』と喜んでいました。
夕食の時に僕が食堂に行くと、今度は隣のテーブルで彼らが炊き込みご飯を食べていたのです。そして僕がサンドイッチを注文すると、突然彼らは笑い始めました。さらに僕に向かって」
『アハハ、日本人はまだパンなんか食べてるのか?パンはもう古いぞ』
「と言いました。何の事かサッパリ判らず黙っていると、彼らの食べている炊き込みご飯を小皿に少量とって僕に『これ食べてみろ』と渡しました。言われるがままに口にすると彼らは『これ米って言うんだ!食べた事ないだろ?』と言うのです。
ますます意味が判らず唖然としていると『パンはもう古い!これからは米の時代だ!日本に帰ったらみんなに教えてやれ!』と言うではありませんか。これって一体どういう事なのか判りますか?」
いや、私も話を聞いただけでは全く意味が判らない。一体どういう事なのだろう?というとこれは、これまで米を主食とする習慣は東アジアから東南アジアの人々だけのものだったのが、今や世界中に広まり、中近東の人々までもが米を主食とするようになったという意味だったのだ。
だからアラブの人々は米を食べる事は、何やら最新の食べ物を食べるような気分になっていた訳だ。しかしその米食がどこから来たのかを知らないから、M氏がパンを食べているのを見て『ダサい』と笑ったという事になる。
M氏の旅の話には、有名な観光地に行って、洒落たホテルに泊まって、名物料理を食べて、カワイイ娘に会って、地元のダンス踊って、知り合った人の家に招かれて、美味しい酒を呑んで、などという、誰もが羨むようなエピソードが何ひとつ出て来ない。
逆に何の変哲もない地味な場所に行った話しかしない。それでそんな所にばかり出向いて何をするのかと言うと。
「パキスタンの保守的イスラム教徒がいる地域ではお金が要りません。コーランに『旅人には親切にしろ』という教えがあるから食事もバス代もみんな奢って貰えますから」とか
「インドの田舎には一泊15円とかの安宿があって、そこに年間1万円ぐらいの生活費で住みついている日本人がいました。半年に一度ネパールまで行ってビザをとって来なければならないのですが、その費用も入れて1万です」
などと、普通の人々には何が面白いのか判らないような、変わった人々との出逢いの話ばかりをする。つまりこういう色気も娯楽っ気も何もない、本当に他愛ない出逢いを求めて地味な場所を訪れるのがM氏の旅のスタイルなのだ。
そしてM氏はそれまで出逢った人々の事をよく憶えていて、そんな変わった人々とのやりとりを、まるでテレビのドキュメンタリー番組でも見るかのように面白く紹介してくれる。そういうシリーズものの企画のために、わざとそのような人々がいる所ばかり訪れているかのようだ。
そんな彼の話を聞いていると、私までそんな他愛もない出逢いを体験してみたくなる。
「オマエ米喰った事あるか?って自慢されてみてー」とか「年間1万で生活してる人って何を食べているんだ?」とか、他愛もない出逢いが、凄く楽しそうに思えてくる。
それは恐らく彼の鋭い観察眼が、一見他愛もない話の中に、相手の性格や生き様というものを見事に浮かび上がらせているからだ。
具体的に言うと、もしシリアで米食を勧めた人々が日本人が米ばかり食べている姿を見たら何と言うのだろう?
あのタイプの人々ならきっと「あの時俺が教えたから日本に米食が広まった」と思うに違いないとか、インドの超安宿にいるという日本人は、たとえそんな生活でも、働かずに生きていける道を見つけて喜んでいるに違いないとか、M氏はしっかりとその人々の性格を見抜き、その時の状況を心理描写を交えて話すので、聞いている方はついついその場面を想像してしまうのだ。
だが、私がそんな風に面白がるとM氏は「ヒロさんも変わった人ですね。僕はこんな性格ですから日本にいる間は周囲から浮いていたんです。だってこんな話を面白がる人なんて誰もいないじゃないですか?だから僕は世間から離れて旅に出たんです」などと言う。
どうやら彼は日本で気の合わない人々に囲まれて過ごし、その人たちの価値観に合わせて生きなければならなかったのが苦痛だったようだ。
「世俗のしがらみや自分の欲望から解放されると自由になれるんです。旅をするというより、その自由さを感じるのが目的だから、旅先なんてどこでもいい訳です。そして一人で旅をする事は、とても孤独な事でもあります。するとそれまで他人の様子ばかり見ていたのが、自分しか見るものがなくなって、自分を客観視するようになる。すると今まで気づかなかった自分が判ってくる。いつも金の計算ばかりして『俺ってセコい奴だな』と思わされたり、詐欺に遭った時などは逆に、凄く勇敢に犯人グループに立ち向かって行って自分を見直しました。そして『俺はここまで出来るんだ』と感心すらしました。単に貪欲だっただけかもしれませんが」
何と!孤独な一人旅は、自分探しの旅だった訳だ。そしてそれは瞑想修行ともよく似ていた。
何があっても、どんな目に遭っても、いつでもどこでも自分のままであろうとするM氏。どんな時でも見つめるのは自分の心の方なのだという。
「そうなんですよ。実は僕がチェンマイのゲストハウスにいた時にある日本人に会って、その人からこの瞑想センターの話を聞いたんです。その時僕も瞑想って旅に似ていると思いました。それで瞑想やってみる気になってここに立ち寄ったんですよ」
「なるほど、彼が教えたか」M氏がチェンマイで会ったその日本人というのも、かつて私と一緒にヤンゴンのC瞑想センター本部で修行した事のある人物だった。
そういう訳で私はそんなM氏との出逢いに、何やら縁のようなものを感じた。
チェンマイ
自分とは何か?
「僕は昔から何だか自分が自分じゃないような気がするんです。何をやっていても何かが違うような気がして」
M氏によれば、彼が周囲の人々から浮いていたのは、子供の頃から心の中に「自分とは何か?」という疑問が潜んでいて頭の中がスッキリせず、その答を求める事が人生の第一目標だったため、考える事がみんなと全然合わなかったからだという。
「なるほど!彼は『本当の自分探しの旅』をしている人だったのか!」
うむ、だんだんとM氏という人の人物像が見えてきた。
しかしその「自分が自分じゃないような」ってのは一体何なんだ?本当の自分というのがあるのに違うものを自分だと思っているという事か?という事は偽物の自分を手放して、本当の自分を手に入れればスッキリするとでも言うのか?
そもそも瞑想する時は「自分」や「他人」というのも概念であって実際には存在しないものだから、そのような「自他分別」をしないように指導されるのだが、何で本当の自分なるものがあるんだ?
何だか混乱して訳が判らなくなる。
まあ、それは後で考えるとして、では我々は一体私は何を「自分」と見なして生きているのだろう?少しその事について考えてみたい。
「僕の場合は顔を自分だと思っていたんですよ。あとは周囲の評価ですね。というのも僕は他人を顔で覚えていて、更に『あの人はコレコレこんなキャラで』と評価していて、それらの事をその人だと思っていたんです。だからその見方を自分にも適用していた訳です」
なるほど、M氏の場合は顔か。確かに他人を見る時は、顔をその人だと思って記憶している。だが、周囲の評価を自分だと思うと、人間関係が変わると自分も変わる事になる。
例えば最初、向いていない仕事に就いてしまってトロ臭さ丸出しで失敗ばかりし「ダメ人間」のレッテルを貼られていたのが、自分に適した仕事を見つけ、転職してからはバリバリ能力を発揮し、出世したとする。
そうなると自分とは一体ダメな奴なのか偉い奴なのか訳が判らなくなってしまう。
そしてそれもよく考えたら評価というものは、他人が勝手に自分の事を価値判断したり、解釈したりした妄想、幻想の類いだから自分ではない事は明白だ。こんな事に引っかかっていては本当の自分の事など知る由もない。
また、M氏は顔を自分だと思っていたと言ったが、自分の顔というのは見えないから、やはりそれだって想像、幻想の域を出ない。それも同様に自分ではない事は明白。存在すると言うからには、実際に見たり聞いたり感じたり出来るものでなければならない。
「ではヒロさんは自分とは何だと思っていますか?」
まあ、M氏の場合は瞑想を始めたばかりだからそんな風に思うのも無理はない。別に心の中を探って「自分」なる感覚はどこから来るのかを探求して言っているのではないのだから。
私も瞑想を始める前は漠然とそんな風に思っていた。
だが、私の考えは、瞑想を始めてから変わった。今では瞑想体験から、自分とは心の注意点の事のように感じられる。注意点こそが物事を判断したり解釈したりする時の基準点なのだから。
判断や解釈というのは人それぞれ違う。みんな何を基準にしているのかは判らないが、いずれにしてもその機能を持つ部分が自分と見て間違いないだろう。
しかし疑問もある。この心の注意点は、慈悲の瞑想をやると消えてしまうのだ。だから慈悲の瞑想をしている間は自分というものがなくなっている。そういう事もあってこれが自分と言うか、つまり偽我なのではないかと思うようになった。偽物を掴まされているからこそ、本当の自分を探さなければならないのだ。
仏教の「自分」観
では仏教では「自分」というものについて、どう言っているのだろう?
仏教では実はこれについては「自分という主体はない」と言っている。
つまりこの心身を操作している霊とか魂みたいなものは無くて、心と身体だけがあると言っている。心と身体とは、色受想行識の五蘊という事。つまり五蘊の機能が独自でそれぞれの働きをしているだけで、それを操作する者はいないと言っている訳だ。
これはどういう事かというと、通常我々は、この心身の他に、この心身を動かすオペレーターがいると思っている。この心身の操縦者たる「自分」なる者がいると信じている訳だ。
しかし仏教ではそのような操縦者はおらず、五蘊の機能がそれぞれ、それ自体で働いているだけだと言う。
だが、それは通常の概念まみれの思考によっては絶対に知る事が出来ない。その状態を体験するには自他の判断が働かない、ジャーナ(禅定)、またはカニカ・サマディなどという、対象と見る者とが一体化した境地に至らなければならない。そのような状態に至って初めてブッダの教えを直に体験する事が出来るのだ。
そして、そのようなジャーナやカニカ・サマディに至る方法は無数にある。瞑想法の数だけある事になる。
つまり世の中に色んなスタイルの瞑想法があるのは、その状態に至るための方法がそれだけバラエティーに富んでいるという事でもある。
だが、難しいのはこの場合、一方では「自他なるものは概念上だけのものにすぎない」と言いながら、もう一方では「自分」に正直である事を説く事だ。
実に自己は自分の主である。自己は自分のよるべである。故に自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように。
ダンマパダ380(中村元訳)
こちらで言っている自己とは良心みたいなものか?という事は、これは偽我ではなく、良心に従えという教えになるのだろうか?
実はこの「自分」の探求は結構ややこしい。「自分は概念」と言ったり「自己に従え」と言ったり、意味をちゃんと理解せず、言葉のうわべだけしか捉えていないと混乱する。
また「自分という幻想がなければ他者への慈悲は持てない」と言ったりもする。自他分別がなければ慈悲心も持てないのだ。
だからこれを探求する人は、自分というのは概念にすぎないが、生活する上では概念も大切なものだという事を心に留めて、混乱しないよう注意しながら修行を進めて頂きたい。
指導者の方もこの辺りの事を指導する際には「混乱してないか?大丈夫か?」と修行者に何度も確認しながら慎重に探求させる。
他愛もない出逢い
M氏の旅の話から、ずいぶん硬い話になってしまったが、私などはこういう難しい話を聞くと何がなんだかサッパリ判らなくなってしまう。誰か「自分」についてもう少し判りやすく簡単に説明してくれるといいのだが。
まあそんな感じで、M氏の「何の変哲もない場所に赴いて他愛もない出逢いをする旅のミャンマー編」も、あっという間に時間が過ぎてしまい、彼はまた次の目的地へと旅立つ事になった。
次は一旦タイに戻ってから、ラオスやカンボジア方面に行く事を計画しているという。
「自分について掘り下げて考える事ができてよかったです。仏教ってこういうものだったとは思いませんでした。それで早朝に最後の瞑想をやっていて思ったのですが、坐っている自分と、それを見ている自分とがあったんです。また、音が聞こえてきたら音と聞いている自分とがあったんです。この場合は見たり聞いたりしている方が自分なんですよね」
M氏は最後に気になった事があったらしく、私に聞いてきた。対象と見たり聞いたりしている自分がある事に気がついたらしい。それはいい事だ。さすが観察力の鋭いM氏だ。自分探しをする上での大切なポイントのひとつに気がついた。しかし、この場合、見たり聞いたりしている方を自分と思ってしまうと、ちょっと問題がある。つまりそれが「オペレーター」を創ってしまう原因になるのだ。
「それは私も同じ事を指導者に聞いた事があるが、どちらが自分かなんて考えるなと言われた。この瞑想は身体を感じたら身体だけになり、音が聞こえたら音だけになるのが目的だ。しかし最初のうちは見る者、聞く者がいても構わない。対象をコントロールせずに受け入れていれば、そのうち一体化するそうだから」
「あっ!なるほど、一体化ってそういう意味だったんですね!見る者、聞く者と景色や音とがひとつになるという事。判りました。ではこれからそれを目指しながら旅します!」
M氏はそう言って去って行った。私との他愛もない出逢いを終えて。
彼の場合、旅とは本当の自分を探すためのものだと言った。
世界のあちこちに出没するものの、見ているのは外側の景色ではなく自己の内面なのだと。
それならば同様に、瞑想も旅だと言える。
自分の内面をあちこち彷徨っては他愛もない出逢いをして回るのだから。
M氏は世界中を巡り巡って、いつの日にか自己の内面にたどり着く事が出来るだろうか?
それはいいとして、もしかして私がM氏の旅の途中で出逢ってしまったという事は、これからは彼の「シリーズ他愛もない出逢い」の登場人物の一人にされてしまうのだろうか?
ミャンマーの田舎の瞑想センターにいる男なんて、インドの田舎で1年を1万円で暮らす男以上にキワモノ扱いされるに違いない(w)
他人の事を他愛のない変な人などと呼んでいたが、実は自分だって他人の事を変人呼ばわりできる身分ではなかったのだ。
「ガ~ン!気づかなかった」
まったく自分を知る事は難しい。自分の事はいつも棚に上げて勘違いばかりしてしまう。そもそもいくら考えても自分がどんな奴なのか判らない。自分なんて全然見えないし、気がついたらいつも思い上がって過大評価してしまっている。
本当に至難の業だ。一体自分なんてどこにあるのか?心身のどの部分を自分と言っているのか?全く判らない。
「という事は、やっぱり自分なんてないんだな」
無いからこそいくら考えても判らない。無いからこそ誰もが勘違いしてしまう。
しかし、やはりこの世界で生きるためには、便宜上「自分」という概念がないとやっていけない。
自分という幻想は必要なのだ。
だからややこしくなる。
そんな事だから自分なんてものは、その程度のものにすぎないと思って、これからはあまり「自分はコレコレこういう奴だ」などと考えるのはやめよう。
無いものの事を必死で考えると疲弊するし、そもそもいくら考えても結論など出るはずなどないのだから。それが今の時点で得られる教訓だ。
そんな風に、先日のニュースで黄色い蛇を見た私の心には、一瞬にしてそんな記憶が甦っては消えていったのであった。