【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#43】幸せ一杯の修行者

2021年6月19日土曜日

修行者列伝

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V氏 フィンランド人 40代 男性

冬場は−30℃以下になるフィンランド



 想センターにいてよく言われるのは「日本人なのになぜ日本で禅をやらないでミャンマーまで来るの?」という素朴な疑問だ。


外人の多くは「日本というのは大乗仏教の国で、日本人はみんな禅をやっている」と思っている。


これは海外に日本を紹介する際に必ず使われるのが、京都のお寺や仏像の写真であるという事と無関係ではないだろう。つまり外人さんたちは「日本」と聞くと真っ先にお寺や仏像を思い出すように仕向けられているのだ。


だが、実際に禅をやっている人は、日本人の中でどれぐらいの割合で存在するのだろう?


1万人に一人とか、そのぐらいのごく僅かなものではないのか?


幸福度数世界一と言われる国フィンランドからやってきたV氏も禅に興味があり、また同時に日本人に対してそのような先入観を持っていた一人だった。そしてその事に気づかないまま、初めて日本人に遭った時に、嬉しくなってつい禅についての質問をしてしまう。



「日本で禅を修行したいのだが、どこへ行ったらいいんだい?」



V氏が初めて日本人と会ったのは2016年のクリスマス。場所はタイのビーチでの事だった。彼はミャンマーの瞑想センターに行く前に、ビーチで2〜3日身体を慣らしておこうと思ったという。それは、今までマイナス30℃の世界にいたので、急に修行に入ってもスンナリとは適応できないからだそうだ。そしてその時のビーチには、休暇を利用して訪れた日本人たちが数名いたらしい。







「お寺で禅やるのって坊さんの息子たちだけじゃないの?一般人もやらせて貰えるの?」



だが、予想外の答えにV氏は唖然とする。



「坊さんの息子?何で出家している人に息子がいるの?サッパリ訳が判らない?」



そんな感じで頭が混乱してしまったV氏は、そのような疑問を抱えたままミャンマーのS瞑想センターを訪れていた。



V氏へのプレゼント 



「それでビーチで会った日本人たちに聞いたら、誰も禅の事なんか知らなくてさ」



V氏がS瞑想センターを訪れたのはそんな事があってから3日後の、暮れも押し迫った28か29日の事だった。


私が日本人だと判ると堪えていたものを吐き出すかのように、そうやって疑問をぶちまけてきたのだ。


そこにはビーチにたむろする日本人と違って、瞑想センターにいるぐらいの奴だから、少しは禅についても知っているだろうという期待があったと思う。



「日本には一般人に長期に渡って修行させてくれる禅寺なんかあるのかな?せいぜい五日間の接心ぐらいじゃないの?だって日本では僧堂というのは、お坊さんの息子たちが住職の資格をとるために行く所なんだからさ」



だが、彼の期待の事など知らない私は、知っている限りの知識を振り絞っても、そのような答えしか出てこなかった。それは奇しくもビーチにいた日本人たちと全く同じ答えであった!




「何だこれは?一体どうなっているんだ?」




日本人なら誰に聞いてもそのように答えるので、思っていた事とのあまりのギャップにとうとうV氏は頭を抱えて悩んでしまった。




「だから何で坊さんに息子がいるんだ!?」




しかし、そう言われてもそれが事実なのだからしかたない。


では他に何と言えばいいのだろう?そもそも彼は誤解している。彼の頭の中にはアメリカの禅センターのイメージがあって「アメリカでさえあんなに壮大なのがたくさんあるのだから、本場の日本にはもっと凄いのがたくさんあって、もっといい先生がたくさんいるに違いない」という思い込みがあるのだ。


盲信と言っても過言ではない。




サンフランシスコ禅センタータサハラ支部

https://www.sfzc.org/practice-centers/tassajara/about-tassajara

 



だが、彼の期待を裏切るようで申し訳ないのだが、日本にはそのような禅センターなど存在しない。


そもそも禅の事を知っている日本人はごく僅かだし、禅の修行者の数はアメリカの十分の一にも満たない


だから修行に行くのなら、日本よりもアメリカに行った方がいいのではないか?


しかし、もしそんな事を言ったらもっと驚くか?何しろ相手は盲信に陥っているのだから。



「じゃあちょっと待ってて。禅の本あるからあげるよ」



そこで私は以前イギリス人から貰った禅の本を持っていたので、それを彼にプレゼントする事にした。ちょうどこんな英文の固い本は難しくて読めないから、持っていてもしょうがないと思っていたところだ。


何とかこれで勘弁して貰おうと思って、速攻で部屋へ取りに戻って彼に渡した。



「まあ、これでも読んで」




 



「おお!これはコーアンの本じゃないか!」 



それは、禅の公案集「無門関」を山田耕雲老師が解説した本の英語版だった。


私がこの本を持っていた事で、V氏は少しは救われたようで、予想以上に喜ばれてしまった。


コーアンなんて言葉を知っているところを見ると、だいぶ禅について勉強していたようだ。よっぽど禅の話をしたかったのだろう。


「しかしまあ、禅が素晴らしいのどうの言ったところで、修行が上手くいくかどうかは本人次第だ。しかも瞑想修行なんてものは苦しみを抱えた人々がそこから脱却しようとして必死にやるものだから、果たして幸せで一杯の国の人がどれだけ真剣になれるものやら」


私はその時はV氏について、まだそんな事を思っていた。

 


クイズを出されたV氏 



中庭を歩くSUT

 



それから10日ぐらい経った頃だろうか?


あとひと座りで本日の修行も終わりといった気分の夜の7時頃、私は中庭で眠気覚ましを兼ねて歩く瞑想をしていた。するとそこに歩数を数えながらアチコチ行ったり来たりしているV氏に出くわしたのだ。

 


「何やってんの?」



とてもではないが修行をしている姿には見えない。しかも必死に何やら考えているところを見ると何らかのトラブルに巻き込まれたようでもある。一体どうしたというのだ?



「いやあ、先日貰った禅の本の中に判らない事があったんで、その事について面接指導の時にSUTに質問したんだ。そしたら今度は彼からクイズを出されてしまってさ。今ちょっとその答えを考えていたんだよ」



クイズ?SUTが?公案か?何だそりゃあ?



「SUTから出されたのは『私がこの部屋から瞑想ホールまで行くのに何歩かかるか?』っていう問題なんだ。だから歩数を数えていたんだが、判るか?」



何歩か?って、SUTの部屋は瞑想ホールの斜向いにあるから、着くまでにそんなにはかからないだろう。


一番前まで行くのにさえ70〜80歩ぐらいではないだろうか?


でもそれは文字通りに答えるべき問題なのか?





瞑想ホールの中




「俺もそう思う。確かにこれは『80歩』と答えて済む問題じゃない。このクイズを通して何かに気づけと言っているのだと思う。何しろ公案なんだから」



うん、そう思うのならよかった。盲信に走りがちな彼の事だから、言われた事をそのまま額面通り受け取るのではないかと一瞬心配してしまった。


盲信に走るというのは、心の中の五つの要素五根)のうちの「信」が強くて「智慧」が弱い状態だと言われている。


こういうタイプは智慧がつき難いと言われているから、彼は修行者としては苦労するタイプだ。しかもそれで幸せ一杯ときたら前途多難かもしれない。

 

それはいいとして、では何に気づけと言うのだろう?まったくSUTも変な事を始めたものだ。こんな修行を与えられた修行者は初めて見る。そういう訳でV氏は、それ以来そのクイズにひたすら取り組むようになった。 

 


様々なスタイルの歩く瞑想 

 


「そもそも歩く時というのは一体何を観察するものなんだ?キミは歩く瞑想はどうやってる?」


そのクイズが歩く瞑想について探求しろという意味なのかどうかは判らない。しかしV氏は「歩く」という行為について探求しているようで、今度は私にそのように聞いてきた。


歩く瞑想と言っても瞑想流派によってやり方が違う。例えばマハーシ式はラベリングをしながらゆっくり歩くが、このシュエウーミン式では普通の速さでただ気づきながら歩く。


だからマハーシ式をやると嫌でも足の感覚に集中してしまう事になり、始めると直ぐ頭痛がしてくる。


ラベリングは瞑想センターによって違い、ある所では「上げる、運ぶ、下ろす」の3ポイントだけする。しかしある所では「上げたい、上げる、運びたい、運ぶ、下ろしたい、下ろす、触れる、踏みたい、踏む」と9ポイントも入れる。ではこういう事をやっていると一体どうなるというのか?


このやり方だと数日やって集中力がついてくると「歩いていて足だけになった」とか「足が勝手に動いて止まらなくなった」などと言い出す人が出てくる。


これはどういう事かと言うと、観察で足の感覚に入り込むと足だけになった体験をするし、足の感覚一点に集中すると足が止まらなくなる体験をすると言われている。しかしそれは、そのような言い伝えがあるというだけの事で、本当かどうかは判らない。




歩く瞑想をする修行者たち




一方のシュエウーミン式では、ゆっくり歩いて集中する事はないので、そのような体験はしない。


こちらはただ歩いている時の足の状態についての発見があるだけだ。


例えば感情とステップの関係、嬉しい時のステップと気が重い時のステップとはどう違うか?というのが見えてきて、心理状態が身体に及ぼす影響というのが判ってくる。


あるいは足を上げる前と上げた後との足の重さの違いや硬さの違いが見えてくるし、足を下ろす前と下ろした後との足の重さや硬さの違いが見えてくる。


それによって一歩進むにもずいぶんと身体の緊張感が違うものだという事が判ってくる。そして生き物というものはその緊張感を使って起き上がったり、動いたりしている事が判ってくる。

 

更にその足の状態は、重いとか軽いとか硬いとか軟らかいとか、また動いたりもするという事で、四大要素のうちの地の要素と風の要素を観察している事になると言われている。


つまり身体の現象、物理現象を観察している事になる訳だ。一歩歩くごとに実はそのような物質の変化する様子を見ている事になる。




「そしたら、それに合わせて歩数をカウントしていくというのは心理現象だね?概念を当てはめて認識していく作業だから」




まあ、そういう事になるな。そんな感じで物理現象を細かいところまで気づいていくと、心理現象の方まで細かく見えてくる。ひとつの事を掘り下げると、全体が掘り下げられるのが瞑想だ。


V氏は歩く事について探求しているうちに、心の働きの方まで見えてきたようだ。この調子ならクイズを解ける日も近いのではないか?


だが、そうやって安心したのも束の間、それから数日後、V氏はまたしても夜の7時になると、SUTの住む部屋から瞑想ホールまでを、歩数を数えながら行ったり来たりし始めたのだ。

 


歩数の謎  





「SUTに歩く瞑想の時に観察するポイントと、概念を当てはめている事についてレポートをしたんだ。そしたら『その通り』とだけ言われて、あとはそれについては何も言われなかった。でもその後に『私はキミに何歩で行くか?って言ったんだけどね。歩数を言ってないじゃないか。何歩かかった?』って言われたんだ。やっぱり答えなきゃならなかったのは歩数だったんだよ」



歩数?何だ、やっぱりそうだったのか。



困ったな、一体どういう事なのだろう?



私は別に問題を出された本人ではないが、先日知ったかぶりでアドバイスしてしまったので、一応は間違えた事に責任を感じている。



「いや、ヒロが責任を感じる事はないよ。俺が聞いた事に答えただけなんだから。何にせよ、これは考えて判る問題じゃないな。実際にやってみるよ。キートス(ありがとう)」



そう言ってV氏はまた歩く瞑想を始めた。何だか少し熱くなって燃えているようだが、ムキになってしまったのだろうか?


確かにクイズというものは、答えが判らないと腹が立ってくるものだ。


しかしそのようにハマって探求している彼を見ると、SUTも中々いい問題を出したと思う。


もしかしたら幸せで一杯のフィンランド人を必死にさせるためにわざわざ考えたのだろうか?


普通はマインドフルネス瞑想で公案を使ったりなどしないのだから。







だが、それから2日、3日経ってもV氏は一向にクイズの答えが判らなかった。


何だかいつ見ても歩く瞑想ばかりやっているのだが、果たして坐る瞑想の方はやっているのだろうか?


とにかく必死でクイズの答えを探しているものの、難航している事は一目瞭然。



「足ってワンステップのうちに色々緊張感が変わるって知ってた?足がガッチリ硬くなったりフニャリと軟らかくなったり、ズッシリ重くなったりフワリと軽くなったり、こんなに目まぐるしく変わってるなんて思わなかったよ」



しかし、別に苦しんでいる様子はない。新しい発見に喜んですらいる。そして必死に探求しているのは歩いている時ばかりではなく、食事の時もそうだった。



「好きなものを食べてる時と、嫌いなものを食べてる時とでは身体の躍動感も変わってくるね。好きなものだとリラックスして凄い躍動感が増すんだよ。でも嫌いなものだと途端に固くなって勢いが落ちるんだよ。これは歩いている時のステップと同じだ。ウキウキしている時と、滅入っている時、腹が立っている時とでは、やっぱり全然身体の躍動感が違うもんな、ガハハハハ」



もう食べながらそんな事を言っている。完全に心理状態と身体の動きや緊張との相関関係を観察する事にハマっているようだ。




スウェーデン人とフィンランド人たち




「洗濯物を干すにも思いっきり全身を緊張させて手を広げて服を吊るしてさ、その後思いっきり力を抜いて緊張を緩めるんだ。そしてまた全身を緊張させて手を広げて干す。緊張と弛緩の連続だ。いちいちこんな事やってたなんて全然気がつかなかったよ」




何と!V氏は坐る瞑想を全然やらなくなったと思ったら、歩く瞑想と日常生活における気づきに専念し、そこまで気づけるようになっていたのだ!




話はそれるが、ここでまた少し瞑想体験について説明させて頂きたい。


このV氏のような心身の相関関係が見えてくるような体験は、普通の速度で動き、ラベリングせず、一挙手一投足の気づきに専念した結果として起こってくるものだ。


しかしマハーシ式のように一挙手一投足にラベリングしながら集中すると、このような体験にはならない。こちらのやり方で日常生活の動きを見つめると「食べていて口だけになった」とか「ドアノブを掴む時に冷たい感触だけになった」などという体験をする事になる。


だからもし「いつもラベリングしながら日常生活をおくっているのに、ちっともV氏のような体験をしない」という方がおられたら、そういう訳でどうか誤解のないように。



クイズの解答 


「クイズの答えはサッパリ判らない。でもいいよ、別に締め切りがある訳じゃない。もうちょっと時間をかけてやろう。それよりも何よりも、しばらくこのテーマで瞑想したいんだ。色んな事に気づけて面白いよ、これは」



SUTにクイズを出されてからというもの、ステップの観察から始まって、今や全ての日常生活における心身の相関関係の観察をするまでに至ったV氏は、もう歩数がどうのこうのといった問題など、どうでもよくなってしまったようで、もはや眼中にないといった様子だった。



「心身の相関関係を見ていると全然概念や妄想に引っかからないんだ。これが気持ちよくてやめられなくなるね。概念や妄想の世界にいると、どれだけ心が重くなるのかがよく判ったよ」



なるほど。あのクイズからそういう方向に流れてしまったか。何だかよく判らないが、まあ修行が進んでいるのであれば別に何だって構わないのではないだろうか?


しかし「何歩かかる?」という問題からそういう探求に入るというのも面白い。ではもう歩数の事はどうでもよくなってしまったのか?


「だからさ、現実の世界にいるといつでも今なんだよ。今ここしかない。何歩歩くかと言われても『一歩』と言うしかないね。今ここの『一歩』だけ。いつでもその時の『一歩』しかない。もう数えられないんだよ。数えると概念の世界に入ってしまうんだ」 


なるほど。そういう訳でV氏は、今はもう複数を数える世界にはいなくなってしまったという事で、このクイズに答える事は不可能らしい。正解を楽しみにお読み頂いた方々には期待を裏切ってしまって申し訳ないが、そういう訳でこの辺りの事情をご理解頂きたい。


そしてその後もV氏は心身の相関関係を探求し続け、概念のない現実世界の道をまっしぐらに突き進んで行ったのであった。

 


マイナス30℃の世界へ帰る 








 一時は前途多難とまで思えるほどだったV氏の状態であったが、蓋を開けてみれば何のその。


そんな感じで誰よりも立派に修行をしてみせたのだから恐れ入る。


そうやって多くの智慧を土産に持ったV氏は、ミャンマーでのひと月ほどの修行を終えて、また厳寒のフィンランドへ帰る事となった。



「もう暑いとか寒いとか言いたくないよね。概念だからさ、そういうのは。そう思った途端に嫌悪感が出てきて尚更不快になってしまう。でも実際に感じている事だけを見ていれば、身体感覚だけを感じて、余計な不快感を感じずに済む。余計なというのは心理現象という事。不快感は心理現象だ」



全く見事な智慧だ。必死で歩く瞑想の探求を続けた挙げ句には、その辺りの感受の発生のしかたまでをも理解するほどになっていた。



幸福度数世界一の国から来た、幸せ一杯のフィンランド人がここまでやるとは誰も思わなかったよ。最初にキミが来た時は真剣に修行出来るかどうか心配だったけど、そこまでやったなんて凄いじゃないか」




だから私も、思わずそんな言葉が口をついてしまった。「一時はどうなるかと思ったが、中々やるものだ」と本当に感心して。


だがその時だった。V氏は私が言ったその言葉を聞いて驚いたような顔をし「ちょっと待てよ」とばかりに反論してきたのだ。




「何?その幸福度数って?フィンランド人は幸福な人ばかりじゃないよ。恵まれない人もたくさんいるよ。他の国と同じだよ。何でみんなそういう目で見るのかね?キミはあまり変な情報操作に惑わされないでありのままに見てくれよ。それ変だよ



と、日頃の温厚な表情とは打って変わったシリアスな顔で、そのように力説したではないか。



誤解だ!と。



何だそれは?聞いていた話とずいぶん違うのだが。


だから私もそんな事を言われてもスンナリとは受け入れられず、唖然としていた。それでも彼は私の戸惑いの気持ちなど構わずに話を続けた。



「キミ、本当にフィンランドって幸福な人ばっかりの国だって信じてるの?」



い、いや、しかしマスコミやネット上でさんざんあのように書かれているから、つい誰もが幸せ一杯な国のように思っていたのだが。



違うのか?



「何それ?キミ行った事あるの実際に?見てきて言ってるの?違うでしょう?知らないでしょう?それって思い込みだけで言ってる訳だよね?そうでしょう?キミね、それって盲信だよ!」



ガ~ン!も、盲信って・・・・・



そういう訳で私はもうそれ以上、彼には何も言えなくなってしまったのであった。

 


「ダメだ俺、思い込みばっかりで全然何も見えてねー。彼の事を盲信家とか幸せ一杯とかすっかりおめでたい奴みたいに思ってた」



V氏の実際の境遇は、どのようなものかは判らない。しかし私が思っているような生活など絶対にしていないという事だけは、きっぱりと言っていた。


そういう事からも、彼は実際に元々ハングリー精神旺盛な努力家だったのだ。


今更ながら納得した。「中々やるな」ではなくて、そういう人だったのだ。まったくこの思い込みはどこから来たものなのか?


しかし、V氏がいる間にその事に気づけたのは不幸中の幸いだった。もう少しで彼の事をずっと誤解したままでいるところだったのだから。



「いや、V氏、キミは本当に幸福な修行者だよ。なんて運がいいんだ」


だから、最後に私がそう言って見送ると、V氏は不思議そうな顔をして去って行った





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  最終更新日 2023.12.31

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