【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#46】道標のない旅をする修行者

2021年7月10日土曜日

修行者列伝

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このシリーズでは、各地の瞑想センターで実際に出会った特筆すべき修行者たちを紹介しています。一人一人の修行者から学ばせていただいたことも多く、敬意をもってここに綴らせていただきました。




Kさん 日本人 20代 女性





 さんが日本の北の果て、礼文島からミャンマーまでやってきたのが2015年の1月。


彼女はこの国に来てからまず、ゴエンカ式の瞑想センターで修行した。しかし、そちらの方では最長10日間のリトリートしかやっていないため、せっかく仕事を辞めてまで来たのにもの足りなく感じ、日本大使館に行って尋ねた。



「どこか他に日本人が修行できる瞑想センターはありませんか?」



というのもヤンゴンにある日本大使館は、ゴエンカ師の瞑想センター「DJ」の直ぐ近くにあるからだ。


そしたら大使館の職員はKさんに、瞑想センターの住所と電話番号が書いてあるリストを渡した。そこには日本人たちの間で有名なマハーシ式の瞑想センターが、いくつか書かれてあった。そしてその瞑想センターを片っ端から訪れていったKさん。





ヤンゴンの日本大使館




それにしてもKさんは無謀な事をする人だ。ミャンマーまで行って修行する場合、普通ならそういう情報は日本で確保し、入念に計画を立てておいてからにするものだが、何も知らないまま訪れて、行き当たりばったりの行動をするのだから驚く。


実際、日本のゴエンカ式の瞑想センターの職員からは、ちゃんと準備をしてから行くようにアドバイスされていたという。



「でも、直ぐ修行したかったから」



Kさんは日本で一度10日間リトリートに出て以来、瞑想で心を鎮める気持ちよさにハマるようになった。


そして何度もリトリートに参加しているうち、しばらく瞑想に専念したくなった。


そして居ても立っても居られなくなり、準備もそこそこに日本を飛び出した。


彼女はそんな無鉄砲で怖いもの知らずな性格だから、ミャンマーに着いてから散々辛い思いをする事になる。





ゴエンカ師




まずリスト最初に書かれてあったのはマハーシ式の総本山のM瞑想センター。


しかしここは他の流派から来た人というのはあまり入れたがらないので、正直に他所から来た事を話してしまったKさんは断られてしまう。


しかしマハーシ式であれば、M瞑想センターに隣接して直ぐ裏にもSMW瞑想センターという新しい瞑想センターがある。だがここは現在は外国語のできる指導者がいないという事でまたしても断られてしまった。


そのため次に行ったのが同じマハーシ式のPS瞑想センターだった。だがここはM瞑想センターよりもっと厳しく、他の流派どころか同じマハーシ式でも他所から来た人は受け入れないという事で、追い返されてしまう。


更にまた訪れたのは、またしてもマハーシ式のC瞑想センターで、ここでもまたPSセンター同様に、他所から来た人は受け入れないという事で、門前払いを喰らった。


このようにマハーシ式の瞑想センターは、かなり修行者を選り好みし、基本的にその瞑想センターだけで修行する人しか入れないという偏狭な態度で接してくる。


これは背後に他流派との宗教戦争や、同門同士の勢力争いがあるためであり、行動する際はその辺りの事情を考慮しなければ、直ぐ断られたり追い出されたりという目に遭ってしまうので、修行させて貰いたければ、その点に十分注意して他の瞑想センターの話を慎むようにしなければならない。



「何でどこも入れてくれないのだろう?」



そんな事情があるとも知らず、どこへ行ってもバカ正直にゴエンカ式をやった事を告げて断られ続けるKさん。ここまで来ると心も折れそうになってくる。



「あ〜あ、やっぱりちゃんと準備してから来た方がよかったかな・・・・・」



実はそんな偏狭なマハーシ式の瞑想センターの中にも、CM瞑想センターという、他流派にも寛容な所があった。


しかし残念な事にここは、小さな所なので大使館で配布しているリストには載っていなかったのだ。



http://www.meditation-in-burma.com/en/index.php



そして断り続けられたKさんは、とうとうリストの最後に書かれてあった瞑想センターを訪れる。


リストの最後というのは、これが最後という意味だ。




ここで断られたらお終いなのだ。




だが今までの様子からすると、ここも受け入れて貰える可能性は低いような気がする。


とにかくミャンマーの瞑想センターというのは、他所で修行してきた人は入れたがらない傾向が強いからだ。




「いらっしゃい。あなたはどこから来たの?どれぐらい修行していくつもり?」




だが、あきらめ半分に寺務所を覗いたKさんに対して、その瞑想センターの寺務職員の女性は、それまでとは違った対応でKさんに笑顔を向けた。



「えっ!OKなの!」



それもそのはず彼女が最後に訪れたのは、マハーシ式の百分の一以下の勢力しかなく、どこからも相手にされていないため宗教戦争とも無縁で、来る者は拒まずどころか大歓迎状態のS瞑想センターだったからだ。





S瞑想センターの寺務所と職員たち




外人担当の尼さん 









「2か月ぐらい修行させて下さい」



やっと入れて貰える瞑想センターを見つけて喜びに心躍るKさん。


だが、ひとつ問題があった。彼女のビザはひと月で切れる観光ビザだった事だ。


ひと月以上滞在するつもりなら10週間の宗教ビザを取得しなければならない。


ビザを取得するには一旦国外に出る必要がある。さもなくば、長期滞在はあきらめなければならない。せっかくのチャンスにも暗雲が立ち込めてきた。



「判りました。ではスポンサーシップレターを下さい。早速タイへ出国してビザを取得してきます。2〜3日待っていて下さい」





バンコクのドンムアン空港





面倒だがやるしかない。



全然準備してこなかったのだから仕方ないのだ。こうなる事は判っていた。


だからKさんは、そうやって一旦タイに渡ってビザの手続きを済ませてから、再びヤンゴンに戻ってきた。そこにはとにかく、しばらくの間瞑想修行に打ち込んでみたいという、必死の思いだけがあった。



「それで、私も尼さんになってみたいのですが、大丈夫ですか?」



Kさんはあちこちの瞑想センターを回る間、どこへ行っても尼さんたちがいて、熱心に修行している姿を見てきた。


そして世俗の煩わしいものを全て脱ぎ捨てて、サッパリした顔をしている事に好感が持てた。だから自分も尼さんになりたくなったのだという。



「面倒な事を一切やらずスッキリできるのってこういう所しかない。見ているだけで清々しい。素の自分で伸びのび過ごしたい」



テーラワーダ仏教界ではミャンマーの尼さんは、実は正式な比丘尼ではなく、戒律も8つしかない仮の尼さんという扱いになっている。袈裟衣も比丘尼の赤や茶色のものではなく、ピンクや黒のものを着用する。







その袈裟衣の色は統一されておらず、お寺ごとに違っていて、例えばマハーシ式の瞑想センターではピンク衣を着用するが、パオ式やタバワ式では黒衣を着用するといった具合にユニフォームの役割を果たしている。


だがミャンマー人たちは、そんな尼さんたちを正式な比丘尼同様に扱い、尊敬の念を込めて「サヤレー(先生)」と呼ぶ。



「サヤレーになりたいのでしたら、剃髪してから長老の部屋へ行って八戒を授けて貰う事になります。後で長老の都合のいい日をお知らせしますので2〜3日お待ち下さい。衣はその時こちらでお渡しします。一着10ドル(約1100円)です」



そして尼さんになるための儀式は比丘になるのと比べて簡単だ。10分でできる。


寺務所でそんな話をしていたら、そこに外人の世話係だという、Cさんというベトナム人の尼さんが来た。









「じゃあ宿舎に案内するから」



そう言ってKさんを女性用宿舎の方へ連れて行った。その時ベトナム人の尼さんは



「あなた日本人?サヤレーになるの?それじゃあ衣を買いに行かなきゃね。明日の朝タクシーでダウンタウンまで行きましょう。私が一緒に付いて行ってあげる」



と言った。しかしさっき寺務職員の女性は、衣は寺務所で10ドルと引き換えに渡すと言っていたので何だかおかしいと思った。



「寺務所で売っている奴はあまりよくないからダウンタウンまで行きましょう!」



だが、Kさんが理由を聞くとベトナムの尼さんは、そう言って質問を突っぱね、強引にKさんをダウンタウンまで連れ出そうとした。



「どうなってんの?」



そんな感じでKさんは、瞑想センターに着くなりよく判らないおかしな人に会ってしまい、すっかり頭を混乱させられた。



「もしかしたら言葉が上手く通じていなくて誤解されてるのかもしれない」



だからKさんは、その時はそう思うしかなかった。



ベトナム尼の言い訳に笑う 







「ダウンタウンの袈裟専門店の方がいいのが売ってるから、そこで買った方がいいって」



ベトナム人の尼さんの誘いは、宿舎に着いてからも執拗に続けられた。


しかし尼さんの衣にいいも悪いもあるのだろうか?それにあまり長く続ける訳ではないから、寺務所にある10ドルので十分なのだが?Kさんはなぜそんなにダウンタウンまで行かなければならないのか理解に苦しんだ。



「判りました。じゃあ明日・・・・・」



それでもベトナムの尼さんのあまりのしつこさに負けて、納得できないままとうとう言う事を聞く事になってしまった。だが、そんな時だった。



「あなたは日本人ですか?」



と、Kさんに日本語で話かけてくる人がいるではないか。







その時宿舎にはタイミングよく、このシリーズの第34話に登場する日本語ペラペラのマカオ系中国人Hさんがいて、Kさんを見かけて直ぐ日本人だと判り、挨拶をしに寄ってきたのだ。



https://somjapan.blogspot.com/2021/04/34.html



「えっ!日本語できるんですか?ちょうどよかった。今この人に誤解されているんです」



そしてHさんにもう一度、なぜわざわざダウンタウンまで衣を買いに行かなければならないのか聞いて貰った。


Hさんは毎年正月休みにS瞑想センターを訪れるのが恒例になっていて、今年でもう10回以上になる。ベトナム人の尼さんの事もよく知っている。



「あっ、Hさん!いやあの、別に深い理由はなくて・・・あの、その、外人は身体が大きいから寺務所にある衣じゃサイズが小さいと思って・・・私、急いでるんで、じゃあね」



そしたらベトナム人の尼さんは、突然しどろもどろになって下手な言い訳のようなものをして、脱兎のごとく去って行ってしまった。



「何で普通サイズの私が?」



Kさんが呆気にとられているとHさんは、あの外人担当係は曲者だから気をつけろという話をしてくれた。


何も知らない外人を騙してはダウンタウンまで連れて行き、レストランや喫茶店に誘い込んでは食事やケーキなどを奢らせるのだという。Kさんはもう少しで引っかかるところだったのだ。



「信じられない、尼さんがそんな事するなんて。瞑想センターってこういう所だったんですか?」



何というラッキーな。Kさんは先程に続いてピンチに陥った時、またしても誰かに救いの手を差し伸べられてしまったではないか。またしても危ないところを助けられたのだ。


どういう巡り合わせなのかは判らないが、これで安心して修行に打ち込む事ができるようになった。しかし彼女は本当に強運の持ち主だ。


実はこういうトラブルは、何もS瞑想センターに限った事ではない。ミャンマーの外人を入れている瞑想センターでは、外人担当の職員や尼さんは、先進国の人々にはこういう調子で接してくる人が多いのだ。


こんな時はチップやお布施は本人の気持ち次第だが、要求されても別に渡す必要はないので何かあったら直ぐ長老に言った方がいい。


特にこのベトナム人の尼さん「クーミン」(実名)は質が悪いので、S瞑想センターに行かれる方は気をつけなければならない。


だが修行者の中には「そんなにスイーツを食べたいのなら、人を騙すような事をしなくても私が連れてってあげますから」と、尼さんたち全員をレストランに招待するような太っ腹の人もいる。







奢って貰って上機嫌のクーミン。だからたかりは止められない。



尼さんになって修行する 



「しかし無茶苦茶やってますね。無計画にも程があるってぐらいじゃないですか?」



私が最初Kさんに会った時、彼女はそうやって命からがら何とかS瞑想センターにたどり着いた話をしてくれた。だから私は思わずそんな驚きの声をあげてしまった。



「そうなんですよヒロさん。だからここまで来れた事が奇跡のように思えて、今感動してるんです」



修行に入る前に既にそれだけ苦労をしていたら、彼女はこれから先どうなるのだろう?


私はそれを聞いてつい心配せざるを得なくなった。だが、この時のKさんは呑気に、やっと目的地にたどり着けたという感動で喜びに浸っていた。







しかしそうやって安心したのも束の間、案の定またしても困難が降りかかってきた。今度は瞑想法の問題だ。


というのもKさんは、今まではずっとゴエンカ式の方法でまず集中力を磨き、それから身体感覚を凝視するような事をしてきた訳だが、S瞑想センターでは何と!心に対象を選ばせ、心が行った先々の対象に気づくという、全く正反対の方法をとっていたからだ。



「まったくなんていう事?本当にスンナリとは行かせてくれない道なんだからこの道は」



一難去ってまた一難、本当に次々と困難が降りかかってくるKさんのミャンマーでの瞑想修行だ。こんな人は今まで見た事がない。というか、こういう事は本来事前に知っておくべき事なのだが、そういう準備もせずに来たものだから、困難が次々と降りかかってくるのも当然というもの。







「自分でジーッと何かを凝視した時と、逆に向こうから視界に飛び込んできたものを受け入れた時とでは、何が違うか判るか?」


ヴィパッサナー瞑想には様々な流派があるが、目指すものはどれも同じだ。通常、人は何かを見る時「私が見ている」と思っている。私がいて対象となるもの、スマホやらパソコンやらを見ていると思っているのだ。しかし仏教ではそれは実際には錯覚で「私なるものはどこにもおらず、ただ目の前にスマホやらパソコンやらがあるだけなのだ」と言う。


その「私」なるものは心が創った幻想、妄想の類で、実際には存在せず、人は皆、身体と感覚と概念を当てはめる機能と意志と認識機能とが、それぞれの条件の組み合わせだけで働いていると言うのだ。


つまりヴィパッサナー瞑想とは、人間とは単なるそれら五つの機能の集合体であり、心身を操作する主体は存在しないという事を実体験し、確認していく作業な訳だ。


 



つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。


これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。


     (大念処経より)


http://www.ne.jp/asahi/fogbound/journal/satitextbreath.html





その「目の前にはスマホしかない」という事を実体験する方法は2つある。ひとつは目の前のスマホに集中し、没頭して一体化してしまう方法だ。


もうひとつは集中するのではなく、物事を思考や概念に囚われないように見ていく事で「自分とか他のもの」などというものは思考や概念に過ぎず、実際には存在しないと理解していく方法だ。


つまりKさんがそれまでやってきたのは前者の方法であり、S瞑想センターでこれからやらなければならないのは後者の方法であるという訳だ。



「物事を見ようとしてジーッと凝視した時と、向こうから視界に飛び込んできたものを受け入れた時とでは『自分がいる』という感覚はどう違うか?」



だからそんな感じでKさんは、S瞑想センターで修行する上で、まずそのような点に注意しながらやっていくように指導された。



慣れない方法  



「本当は私がやりたかったのは、これまでずっとやってきた集中して一体化する方法だったんですが」



KさんはSセンターの方法を説明されているうちに、そんな考えが頭をよぎったりもしたが、やっと受け入れて貰えた瞑想センターなのだから、そんな勝手な事など言っていられない。


たとえ正反対の方法であっても、今はこれを精一杯やるしかない。


そんなことが数日続いたある日の事だった。Kさんの心に突然変化が訪れた。



「あれ?こっちの方法の方がいいかも」



何と!不慣れだった方法が、慣れてみると自分の性格に合っていた事が判ってきたのだ。


というのも、心の行き先を決めずにさすらうがままにさせておいてから、行った先々のものを受け入れていくSセンターの方法は、何でも行き当たりばったりのKさんの性格とピッタリ一致したからだ。


本当に彼女そのままだった。



「こっちのやり方の方がいい。私の性格に合っているから凄くやり易いし、直ぐにハマれる。だから探求に夢中になれて、心の中がよく見えてくるし、自分がどういう奴なのかもよく判ってくる」



怪我の功名と言うのだろうか?ここにきてKさんは、本当に本当の自分が求めていたものを見つけてしまったではないか。


そこで私は思った。修行者は性格によって適した修行法と適さない修行法とがあるのではないかという事を。


つまりKさんのように無計画で行き当たりばったりのタイプは、心を自由にさせておくS瞑想センターの方法が合っているが、そうではない、しっかり情報を集めて、予算から交通手段まで入念に計画を立てて行動するタイプにはゴエンカ式が合っているといった具合に。


人間というのは色んなタイプに分かれるが、皆が皆、同じ方法でやっても上手くいくはずがない。


人それぞれ自分に合った方法が違うのだ。修行者は、性格と瞑想法とが一致していなければ、決して上手くいく事はないのかもしれない。


そんな訳でKさんは、それ以降Sセンターのやり方に従って修行を進めていく事になる。



求めていたものを見つけたKさん 



「私はいつもはヤンゴン郊外にあるTP森林瞑想センターというところをホームグラウンドにしているの。でも今は、そこの指導者が海外に指導に出かけているので、代わりにこっちに来たの」



S瞑想センターの方法で修行を続け、ひと月ほどたったある日、突然Kさんと同じ部屋にイギリス人女性がやって来た。そしてKさんにそのような話をしたのだ。


TP森林瞑想センターとはミャンマー伝統式の修行方法をとる瞑想センターだ。


ミャンマー伝統式とは、最初一点集中の瞑想で集中力を磨いておいてから、次にボディースキャンという方法で身体感覚を観察していくスタイルだ。


つまりゴエンカ式と同じと言うか、ゴエンカ式がミャンマーの伝統式な訳だ。


しかしゴエンカ式の瞑想センターと違うところは、長期に渡って修行できるところだ。


「そうよ、ゴエンカ式と同じよ。私ずっとゴエンカでやっていたから、本当はあちらの方がいいの」



https://insightmyanmar.org/burmadhammablog/2013/09/the-phyu-taw-ya.html



「えっ!そんなところがあったんですか?それなら私そっちに行きたい!」



何と!そのイギリス人女性はKさんが本来探し求めていた瞑想センターの情報を持っているではないか!


性格に合っているSセンターの方法であったが、やっぱり長年親しんできた慣れた方法にはどうしても惹かれしまう。



「でも今は、教える人が誰もいないの。だから私はこっちに来たの。今あっちに行っても誰も入れて貰えないよ」



別にそれでも構わない。そこの指導者が戻って来るまではSセンターで修行しながら待っている。それよりもその話を聞けた事がまるで奇跡のように思えるKさん。



「そんな瞑想センターがあったなんてちっとも知らなかった。こんな事だったらよく調べてから来るんだった。そしたら最初からそこへ行って、こんな面倒な事にはならなくて済んだのに」



やっと求めていたものを探し当てたKさんであったが、またしても何の準備もせずにミャンマーまで来た事を悔やむハメに陥った。


それでもそれが判っただけマシだ。判らないままだったら本当に後で後悔しただろう。


とにかく今はTP森林センターに移るまで、Sセンターの方法で修行するしかない。


Kさんはそんな事を思いながら、不慣れな、心が行った先々のものを受け入れていくタイプのヴィパッサナー瞑想をやっていた。



本来の道に戻る 




ゴエンカ師とシュエウーミン長老は生前に親交があった。



それから更にひと月が過ぎると、海外に行っていたそのTP森林瞑想センターの長老がミャンマーに戻ってきた。するとあちらの瞑想センターも、また修行者を受け入れ始めた。


そしたらそれを聞いたKさんは、早速S瞑想センターでの修行を切り上げ、向こうに移る事にした。



「ヒロさん、色々お世話になりました。私は次はイギリス人女性に教えて貰ったTP森林瞑想センターに移る事にしました。やっぱりゴエンカの方に戻ります」



Kさんは自分の性格に合っていると言っていたはずのSセンターの方法から、元々やっていた方法に戻るという。


私もTP森林瞑想センターの事は知らなかったが、その時彼女から聞いて初めて知った。


どうやら新しい瞑想センターらしい。



「せっかく慣れたのにあっちに行くの?」



そしてそれはSセンターの方に定着している私には少し残念な話だった。


彼女はSセンターのやり方を気に入っていたのではなかったか?そもそもSセンター式の方が彼女の性格に合っていたはずではなかったか?


彼女を引き留める事はできないが、その辺りの話を少し聞いてみたいような気もした。



「いえ、もう私は性格を改めます。だからこちらの方法も、これからはもう向かない事になります。今まで散々失敗したので、徹底的にこの性格を直したいのです。もう向いているって言わないで下さい」



するとKさんは瞑想法を変え、性格も改めるつもりだと答えた。


本当に瞑想中に飛び回る心のように行き当たりばったりの人だったのに、今度はそれを改めるという。



「はい!これから私は絶対にゴエンカ式が似合うタイプになります!」



もうそこまで言われてしまっては仕方ない。私はそれですっかりKさんの門出を見送らなければならないような気持ちにさせられてしまった。


確かにあれだけ無駄な時間と労力とを使ったら、性格を改めようと思うのも当然。


それならKさんの場合は、修行で性格が改善されたのではなく、散々な目に遭って性格が改善されたという事になる。


変わったパターンのエピソードだが、これも一応は修行者の話になるか?







それにしても色々遠回りしたとはいえ、Kさんはしっかりと探し求めていたものを手に入れたのだから大したものだ。


それを思うと、要領よく効率のいい道を行く事だけが旅ではないような気もしてくる。


もしかしたら彼女のような道標のない旅も、ロマンがあっていいかもしれない。


そうだ、行き当たりばったりなどと言っては失礼だ。Kさんは道標のない旅をした人なのだ。必ず行く先々で失敗するものの、必ず素敵な出逢いによって助けられたではないか。


こんなカッコイイ旅は、道標に沿ってばかりでは絶対体験できない。まったくオヤジになると、ついそんなロマンを忘れて、要領のよさだけを求めてしまう



彼女もきっと私の事を「つまんねーオヤジ」と思っていたに違いない。



と、いう事は私が今やっている心をコントロールせずに自由にさせ、心の行った先々を観察する方法は「道標なき瞑想」になるのか?それはカッコイイな。これからそう呼ぶか?


まあ、そんな事はどうでもいいとして、そう言えばKさんは、去る直前に性格を変えると言っていたが、私はどうしてもそんな事が出来るとは思えない。彼女はどこに行っても成り行き任せの道標のない旅を続けるに違いないのだ。そして素敵な出逢いをたくさんする。


そんな風に思えてならなかった。


次回はウ・テジャニヤ長老名言集になります


出典 : 礼文島の写真 mac02quackey



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  最終更新日 2023.12.31

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